03.躊躇と潜考

「ぎりぎり及第点、ちゅうとこかしら」

 足早に店を出て行った後輩を見送ったのは、二人だけではなかった。
 にゅっと店の奥から顔を出して呟いたのは、帽子を目深にかぶった金色だった。昔であればそこはウィッグを利用していただろうが、さすがに20歳も超えると面白さだけを追い求める生活もできないという。だが大阪の大学で医学を勉強している彼が、わざわざ京都のこの店に足を運んでいる段階で、世話焼きの精神だけは如才なく発揮されていると白石は思った。

「ようばれへんかったな、案外近くの席に座っとるからひやひやしたで」
「光くんにとってアタシは坊主が目印なんやろね。それも銀さんの前ではかすんじゃうってことよ」
「うん? ワシの頭は特別目立つもんでもないやろう」
「……」

 石田への相槌もなあなあに、先ほどまで財前が腰かけていた場所に座った金色は、小さなため息をついた。彼の目の前に置かれたカップの中身は既に飲み尽くされていて、たった一人の後輩のためにどれほどの時間をこの店で費やしてくれていたかが分かる。口直しがいるわと呟いてもう一度注文をしに行ったのは、それから間もなくのことだった。

「で、どうやった? 小春の疑念は」
「聞かなくても分かってるでしょ、蔵リン。嫌やわー、なによ『普通』って。誰の普通よ。そもそもそれは普通なのかっちゅうところからよ、ほんまにもう」

 アイスカフェラテの氷をがしがしとストローでかき混ぜながら、金色は怒っているのか呆れているのか分からない口調で呟く。石田が腕を組んで、少しばかり諦めの色のにじむため息をついたのはそれから間もなくのことだった。
 財前の恋人の様子がおかしいと、金色が白石と石田にだけ連絡を寄越してきたのは2週間ほど前のことだった。唐突な懸念ではあったが、彼がその懸念を言葉として発する段階で、ある程度の確証があったことは言わずとも知れている。ほんまか、と驚くより先に、白石はどのような点が気になるのかすぐに詳細を求めた。二人にはつい先月、財前の大学で会ったばかりだった。しかし白石にはそれ以上に気になる点が他にあったため、財前の恋人であるにまで意識を向けきれていなかったことが今更になって悔やまれた。

「気取らないし無理しないのが光くんの美点だとは思うけどね、せやけどそれは相手がおったら話は別でしょう。そうさせてくれる相手が負担を感じ始めてしまったら危険信号よ、どこが普通よほんまに」
がそこまで無理しとるようには見えへんかったけどな、先月会うた時は。それより俺は財前の周りによくおったマネージャーの方が気になったで」
「光くんにその気がなければ放っておいてええんよ、それは。アタシもあの日観察してみたけど、案外一線を越えようとしないしね、あの女の子も。まあ、それをちゃんがどう見るかとなると、話はまた変わってくるんやけど」
「財前が女子に遠巻きに見られとるのは、いつものことやったしのう」
「銀さん、よく背中で守ってあげてたもんね。あれ格好よかったわあ」
「まあ今は、銀のお守りがないからな。財前が自分で自分を守らなあかんのやけど、それに気づいとる様子は……」
「ないわよ」
「ないなあ」
「……そうやなあ」

 一同あっさりと納得して、沈黙の中でそれぞれのタイミングでため息をつく。
 財前という男は、自分たちが必死になって入部に誘った天才肌の後輩だった。中学1年当時の彼は今よりももっと無表情で、金色や一氏が笑いをとりにいっても眉一つ動かさなかった。忍足にいたっては見事なまでの玉砕ぶりで、あれほど大阪人らしからぬ男に初めて出会った白石たち当時の2年生は、衝撃のあまり財前光という男に対してどれほどの考察を重ねたことだろう。おかげで金色や石田に限らず、一氏や忍足といった他人の情愛に興味がなかったり疎そうだったりする面々にまでその変化を悟られるようになってしまっている。心から心配しているのは小石川だけで、千歳にいたってはそのような後輩を取り巻く白石たちも含めて「過保護たい」の一言で終わらせていた。
 そのような中学以来の習性は、大学生になった今でもなかなか変わらないし消えてもくれない。むしろそれをよしとする、そのような雰囲気が全員の中にあるからこそ、金色の一言で今日この場が設定された。財前はいつまでもこの配慮に気づくことはないだろうが、彼が何かを手に入れることができたのであればそれでよかった。

「何かしら思うところはあったんやろう。珍しく慌てて帰ったなあ」
「携帯触ってたものね。まあ十中八九、ちゃんでしょう。気がかりに気づいたのはええことやけど、そうするとやっぱり気がかりになるような点があったっちゅうことでもあって……複雑ねえ」
「随分慌てとったな。今から会うことにでもなったんか、まあ会えるならええんとちゃうか。断られるより」
「蔵リン、何言うてんの。いきなり誘ってきた光くんと会えるように、ちゃんが自分の予定を変更していたら話は別よ」

 金色の言葉に、白石も石田も続く言葉が見つからない。金色の指摘が間違っていたことは、これまでに数えるほどしかない。その的確さを財前よりも理解している同級生同士だからこそ、金色の懸念が何を意味しているのかに気づいて言葉に詰まる。

「ほんまは試合、見たかったはずなんよ」

 その時ぽつりと、氷をゆっくりと揺らしながら金色が呟く。白石は石田と目を合わせる。

「蔵リンと光くんの練習試合の日よ。ちゃん、勉強せなあかん言うて試合見いひんと図書館に行ってしまって。あれは多分、前の日から光くんと一緒におったから、色々と自分のことを後回しにしてたんとちゃうかしら」
「そういえば、途中おらんかったな」
「ほう。それはまた、財前も気がきかんのう」
「代わりに光くんの近くにおったのが、あのマネージャーの子ね」
「ああ……」

 財前の言葉に従えば自分の予定はままならず、自分の予定をこなそうと思えば財前の意を酌むことができない。しかも本人の意図せぬところで彼は人の恋情にさらされる。それを広い心で見守ることができるほど、果たして19歳の彼女は冷静でいられるだろうか。本人に尋ねなくとも、金色の心配が全てを物語っているようだった。

「嫉妬して苦しいのか、それともそんな自分を隠したくて苦しいのか。ちゃんも結構光くんに似てるところがあるのが厄介よね、沈黙をよしとしちゃって。言わなあかんことやってあるのに。せやから『普通』なんて思っちゃうのよあの子が。それをウチらに言っちゃうのよ、まったくもう」

 今日何度目になるのか分からないほど、もう、もうと繰り返して、金色は勢いよくアイスカフェラテを飲み干した。財前の心配をしているのか怒っているのか、よく分からない。ただ怒るにしても、それは憂いの感情から生まれていることは容易に想像できる。
 財前という男は、大学生になった今でも相変わらず白石たち上級生が気を揉む後輩だった。来月成人の誕生日を迎えると言われて驚きそうになったのは、今でも彼が幼い後輩の印象のままゆえだろう。
 空になったコーヒーカップを見つめながら、白石は財前とを思い出す。ずっと似合いの二人だと思っていたが、言葉に出てこない部分で複雑な感情をため込むだけの時間を費やしてしまったのもまた事実だ。5年という、まだ20歳にもなっていない財前にとっては長すぎる時間を共に過ごしてきた相手なのだから、これからも大切にしていけばいいのにと単純に思うのは第三者ゆえなのだろう。恋愛ごとは、他人が思うほど本人にとっては簡単ではない。それは白石もよく分かっているつもりだった。

「小春から見て、大丈夫やと思うか?」
「何が?」
「あの二人は、まだ続くと思うか?」

 けれど、自分はどこかであの二人が付き合い続けることを期待しているし祈っているし、そうでなければならないとも思っている。好意の方向が互いを向いているのであれば、無理せず付き合えばいい。第三者だからこそ単純にそう考えてしまうのは、勝手が過ぎる話なのか。
 白石の問いかけに、金色は一度口を閉ざした。かしゃりと音を立てて氷をストローで揺らし、見つめる。やがて小さく息を吐いた。

「1年ぐらい同じことしてたら、もうそれがあの二人なんやって納得してあげられるけど。それこそ光くんの言う『普通』なんやから、口出すもんでもないでしょう。けど1年もたなかったら、ほらやっぱりって話になるでしょうよ」

 石田は何も言わなかった。それは同意である。白石もそれ以上尋ねなかった。その通りだと思ったからである。
 今から季節が一巡していく中で、どれほどの不安や憂いを互いが伝えることができるのか。財前が普通だと言い張る関係の中でそれはイレギュラーなことかもしれなかったが、不安が膿となる前に出し切ることができれば、それは安堵へと取って代わることができるはずである。今日の財前の様子を見て、そのように変わってほしいと思うのはもはや親心に近い。そしてそんな憂う白石を見つめて、石田と金色はわざとらしいため息をついた。

「やだやだ、ほんま他人のことになると優しいし的確なくせに、自分の恋愛は適当なんやから。嫌になっちゃうわ、ねえ銀さん」
「白石はんが落ち着いて伴侶の話をしてくれるようになるのは、いつの日のことかのう」

 唐突に話の流れを自分に向けられ、白石は思わず目を丸くする。なんでやねん、と普段の会話のように返そうとすると、「これはお酒とともに語り尽くさないと」と呟いた金色が、お役御免となった帽子を鞄の中に丁寧にしまった。テーブルの向こう側に視線を向けると石田も頷いておもむろに席を立ち、白石も慌ててそれに倣った。
 夜の色が濃くなっていく夕方の京都駅を、改札口とは反対の北へと上がる。バスターミナルから一本道路を挟むだけでそこには飲食店街が広がり、大学生でも入りやすい居酒屋が立ち並ぶ。だがさすがに土曜の夕方ともなると予約なしに入るのは困難で、結局五条辺りまで歩いて座席数が多めのチェーン店の居酒屋に落ち着くまで、それなりに時間を要した。

「光くんのことでおしまいやと思ったら大間違いよ、蔵リン。未成年は帰らせたことやし、さあ飲んで話しましょうよ」

 てきぱきとドリンクと料理を注文した後、向かいの座敷に座った金色がとんとんと机を指で叩いた。突然の会話の流れに白石はまた目を丸くしてしまったが、隣に座った石田が鷹揚な笑みを浮かべているのを見て、彼らの今日の計画を初めて悟る。財前という後輩は一つの駒に過ぎなかった。

「いや、話すて。何を。別に俺は報告するようなことは何もないで」

 それを言うなら金色の方だろう、と白石は心の中で呟いたが、それを言葉にするよりも早く目の前に運ばれてきた生ビールを飲めと強引に勧められる。酔った勢いを利用する気をさらさら隠そうとしない金色に、白石は笑うしかなかった。

「光くんも光くんやけどね、蔵リンは蔵リンで問題大アリよ。ここまで美形のくせして、どうして落ち着いた付き合い方ができひんもんかしらって、ここ最近のアタシと銀さんの会話はそればっかりよ。責任とってよ、まったくもう」
「それやと俺が片っ端から手出しとるみたいやないか」
「似たようなもんよ。来るもの拒まず、片っ端から付き合って、そして片っ端から振られるの。白石くんって優しくしてくれへん、特別扱いしてくれへん、大切にしてくれへん。アタシ何回恋愛相談されたと思う?」

 それは、今更言われなくともすぐに思い出せる類の言葉だった。中学でも高校でも、最近の大学生活でもお決まりのように聞かされてきた言葉たちである。あまりに皆が同じように白石に突き付けてくるものだから、白石自身も妙に言われ慣れてしまって、あっさりと身を引く対応ですら磨きがかかってしまった。そのような淡白な態度がますます彼女たちを怒らせたり悲しませたりするのだが、別れを切り出されているのにそれ以上の優しさをどのように示せばいいのか、白石は計りかねるばかりだった。
 そこで沈黙してしまう白石に対し、金色のため息は深みと長さを増していくばかり。

「しまいには、ケンヤとおる方が楽しそうやもんって。はあ? って。ほんまアタシ、はああ? って。あの時ばかりは耳を疑ったし、もう悲しくて涙出そうやったわ。それ言われておいしいんはケンヤくんで、蔵リンが言われてどうすんのよって。色男が台無しやないの」
「いや、それは謙也が可哀そう……」
「今は人のことはどうでもええのよ、いざとなったら蔵リンがお姉さんでもユカリちゃんでもケンヤくんの前に連れて行ったらそれで万事解決よ。ケンヤくんとも仲良く過ごせて一石二鳥でしょ!」
「なんであいつと義兄弟にならなあかんねん!」
「うん? 姉妹でえらいケンヤを気にいっとるいう話はほんまやったんか、侮れんなあ」
「話を広げんでもええ、銀!」

 唐突に自分の姉妹を話題に出され、しかもそれを実現可能にする能力に長けた二人に納得されてしまっては、慌てるなという方が無理な話だ。このような時にも話のオチに使われる忍足を憐れむよりも、その万能性に今は頭を抱えたくなる。
 そんな白石を見て、金色は頬杖をつきながらため息まじりに生ビールを飲み続けた。財前に構い続ける理由は、恐らくこのような自分の恋愛遍歴が影響しているのは彼の目にも明らかだった。告白されてそれなりに付き合うものの、長続きしない自分と比べて、財前は既に恋人がいたクラスメイトを長く想い続け、待ち続け、そしてその気持ちを自分に向けさせた後は曲がりなりにも5年の月日を共に過ごしている。自分とは全ての点において比較にならない。それは素直に素晴らしいと思えるもので、できることなら自分とは全て真逆の結果になってほしいと世話を焼いてしまうのは間違っているのだろうか。

「これはもう、蔵リンから好きになった子と付き合わへんと駄目やと思うのよね。どうなのよ、気になる子はいないわけ?」
「おったような、おらんような……」
「慕う前に慕われてしまうからのう、白石はんは。自分の自由に時間を使えへんのは、もどかしいかもしれんなあ」

 姿勢正しく生ビールと枝豆を食しながら、石田は責めるでもなく呟く。今日の役割分担は見事なもので、金色になじられたり詰め寄られたりする合間に、このように石田に同情を寄せてもらうことで話を進めていこうという魂胆なのがすぐに分かった。そこまで心配されている自分もどうなのだと白石は思ったが、テニスの練習をした後のアルコールは心地よい開放感で、それでも構わないだろうと笑うまでさして時間はかからなかったように思う。

「別に、告白されたからって全員と付き合うてきたわけやないし。それなりに、自分の好みのような子は選んできたつもりやったけど。まあ、向こうには向こうの事情があるんやろ。そんなふうやと思わんかったって言われてしまったら、もうどうしようもない」
「蔵リン、それは事情やなくて、あっちの勝手な理想っちゅうもんよ」
「際限のない欲は、卑しい本人の問題や。白石はんが気に病むことでもない」
「そうよ、そうよ。忘れへんわよ、アタシ。あの高校の時の子。ウチらの白石蔵ノ介に向かって、なんちゅう我がままっぷりやったことか! ケンヤくんがどれだけ怒ってたと思ってるの、大変やったんやからね」

 アルコールの力を借りているのは金色たちも同じようで、突然昔の話を持ち出してはつい昨日のことのように怒り出す。石田も深く頷いているところを見ると、自分の恋愛は仲間に心配されるほどひどいものだということが如実に分かる。それは申し訳なく思うと同時に、おかしくもあった。
 高校時代に付き合った一人は、学校でも一、二を争う美人だったと忍足たちは言っていた。有名ですよ、と財前の彼女も当たり前のように言った。白石はその存在を知っているだけだったが、容貌は整っていて友人も多く、快活な性格の女子に付き合ってほしいと懇願されて、断る理由は思いつかなかった。しかし付き合い出すと、彼女の要求には際限がなかった。まるでそれは自分が白石の恋人であると、白石に選ばれたのは自分だけであると周囲に見せつけるかのような行動ばかりを求められ、波風の立たない程度にその頻度を抑えたかった白石とはあっさりと衝突した。テニスや勉学にまで影響が出そうで白石が困り果てていたところ、「優しくない」というレッテルをすぐに用意されて二人の関係は終わった。それを見て、忍足は一人怒り狂っていた。

「あんな経験はもう御免よ。となるとやっぱり蔵リン、ここは男の本能を働かせないと。追われるのは性に合わんのよ、きっと。蔵リンが追いかける側にいかへんと」

 久しぶりに思い出した高校時代の記憶を押し流すよう、ビールを口にした瞬間金色が呟く。
 相手に気づかれないようにのう、と石田が笑う。気づかれたら勝手に寄ってこられるからね、と金色が念を押す。
 中学高校とテニスを通じて出会った知り合いの中には、自分より異性の好意にさらされている者が数多くいた。東京は違うなと、忍足たちと笑っていたことは鮮明に覚えている。だから自分がそこまで好意を寄せられる人間だとは思っていなかったが、それを口にすると嫌味だと笑われた。

「好かれるより前に好きになって、それでぐいぐいと、よ。大概の子は、蔵リンに優しくされたらときめくんやから。ちゃんですら何回も顔赤くしとったの、アタシは見逃さなかったわよ。光くんがむかついとったのも、しっかりと見てきたわよ。まあちゃんは単に言われ慣れてないだけやと思うけど。うん、あら? そしたらちゃんが照れるんは、耳まで赤くなるような言葉を光くんが伝えてないからってこと? 光くんの自業自得やないの」

 仲間の恋愛事情に精通している金色は、話の流れの中でいくつも世話焼きの対象を思いついては一人で怒っている。だが怒りっぱなしにしないのが彼の最大の魅力で、相手が負担に感じない(感じさせない)程度に助言をしたり手助けをしたりする、その力は見事なものだった。
 その金色に叱られている自分は、激励としてそれを素直に受け止めなければならないのだろうと白石は思う。いい加減落ち着いて付き合ってよと、口を酸っぱくする姉と妹を見返してやることもできるかもしれない。

「蔵リンが肩肘張らずに付き合える子がええわね。探してみなさいよ、そういう子。案外その辺りにいるかも」

 高校までビジネスのように一氏と恋人関係を演じきり(途中で一氏は何度か女難に巻き込まれていたが)、勉学に勤しんだ男から出される言葉とは思えないほど、それは説得力があるものだった。白石が目を丸くしていると、石田が鷹揚に笑って料理を白石の前に差し出す。空になったビールの交換も忘れない。白石はそんな彼らの好意に甘えながら、先ほどの金色の言葉を何度も反芻する。

(好きになれる気楽な子、ねえ)

 楽をすることは、よくないことだと思っていた。相手が求めるものがあるのであれば、それに応える力と余裕があるのであれば、応じてあげるべきだとも思っていた。
 だがそれを真っ向から否定する金色の言葉は、耳障りなどころか心地よくすとんと胸の中に落ちてくる。それは誠意をもって対応することが常だった白石にはハードルの高い、自分勝手にも見える行動だったが、羨ましいと思う心も密かにこちらの様子を窺っている気がした。

「未来の看護師は、小春にとって肩肘張らんと付き合えるような子か?」
「看護師? なんのこと?」
「彼女できたんやろ? やけに説得力があるのはその子のおかげか?」

 知識だけでは含むことのできない説得力に、白石は少しだけからかうように金色に笑いかける。顔色一つ変えずビールを飲み続けていた金色は、一度箸を止めた後で首を傾げた。なんのこと、と石田を見つめる。どういうことや、と白石も石田を見つめる。ほっけを美しく食していた石田は自分に集まる視線にようやく気づいた後、ああと納得して、

「ワシは保健学科としか言うておらんが。看護師とは言うてはおらんぞ、白石はん」
「ええっ、なに。蔵リン、アタシが看護学の子と付き合うてると思ったの? 安直……! 素敵よ、その安直さ、素敵!」

 感動する金色の意味も分からなければ、巧みな誘導をしかけていた石田の真意も分からない。けれどなぜか褒められているようで怒るに怒れず、ただ笑い転げる金色に唖然としていると、涙を拭きながら金色は落ち着くための一口を美味しそうに味わった。

「素直な蔵リンは、早く幸せにならないと。こんなにええ男なのに、どうしてみんな分かってくれへんのかしら。あ、ちなみにアタシの彼女さんは放射線技師になる予定ですから。お間違えなく」
「あ、そう……」
「どうしてその子を選んだんや?」
「話聞いてたらおもしろかったのよ。しかも楽やったのよ。一緒にいて楽しくておもろくて気楽な子と付き合っちゃダメかしら?」

 ちなみに彼女の前では僕ですから。アタシやありませんから。眼鏡のテンプルを美しく揺らして宣言する金色に、酔いのまわった白石と石田はただ笑うばかり。

「それでええやないの、蔵リン。告白してきた子の理想に合わせて無謀な行動をしないなんて、アタシたちから言わせれば蔵リンらしさがまるでないわ。真面目で格好よくて頭もよくてテニスも上手いけど、仲間と一緒にアホなことするんがウチらの部長さんやったはずよ。ねえ、銀さん」
「ワシらは手塚はんや跡部はんの下では、府大会も勝ち進めんかったかもしれんのう」
「相性よねえ。青学の子も氷帝の子もあの部長やからこそ、ってね。せやからウチの部長も大したもんでしょうって、ほら、蔵リン。言わせるまでが部長ってもんよ」

 梅雨の細い雨が降り続けていたことに気づいたのは、全員が程よく酔って店を後にした時だった。そういえば梅雨だった、財前は傘を持っていただろうかとふと気にしながらも、そんなことを気にしない酔っ払いの二人は白石を置いて横断歩道を先に行く。
 楽しそうに笑いながら駅に向かう金色と石田の後ろで、白石は街中の照明に照らされて少し灰色がかった夜空を見上げて考え続ける。

「白石はん。悩むなら寄っていくか?」
「寺に誘導するな、銀。ちゅうか門しまっとるやないか」

 世界遺産の寺院の前で堂々と立ち止まるほろ酔いの石田を、金色と笑いながら押して駅のホームへと向かう。
 気楽さを求める関係は理想だが、それを手に入れるまでの時間は自分にはまだまだ必要だとも思う。だがいつかそのような関係を築くことができる人と出会えたならば、この二人に一番に報告しようと考えたら、頭の片隅で忍足が怒っている気がした。



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財前 1年後の出来事   21/08/14