04.追懐の行方

「いやそれ普通に飲み会やん。誘えよ、銀。直接聞いた方が楽しいに決まってるやんか」

 石田の思い出話が終わったところで、当たり前のように忍足が呟いた。この男にしては、全うな文句のつけ方だと一氏は思った。
 そうか、と鷹揚に笑う石田を見ていると、恐らく自分や忍足のような冷やかし担当の人間はお呼びでなかっただろう。しかし、珍しく白石の話にまで言及されていた(むしろ金色にとってはそちらが本題だったのではないかと思うほど)のであれば、このテニス部仲間は聞き捨てならないと感じてしまう因果である。

「あれはもう、白石のトラウマやと思うねん」
「あれ? 高校の時の、あの無茶ぶり爆発させとった女子か」
「せや。あいつほんま女難の相でもあるんやろな、言い寄ってくる女子にまともなやつなんか誰一人おらんかったやないか。しかもあいつもあいつで付き合うし。いやいや待て、白石、そこは断ってもええんとちゃうかってぐらい来るもの拒まずで。そら色んな女子が一か八かで告白しにくるわ」
「ケンヤは白石はんの彼女には厳しいからのう」
「伝言係ばっかり任される俺の身にもなれや、銀。ここだけの話、白石に言う前に何人かふるいにかけたったからな、俺。優しいやろ」
「お前が嫉妬しただけやん、それ」
「アホ、白石が適当な女と付き合うとええことなんか一つもないの、ユウジかて知っとるやろ」

 中学高校と、白石の一番近くで彼の学生生活を送ってきた男が半ば憤慨しながら呟く。普段であればそれはからかいの対象となりえる怒りっぷりだったが、確かに、と納得してしまうだけの前科が白石にはありすぎた。
 もう少し自分の意思を貫けばいいのに、と白石に対して誰もが思っていたことは公然の秘密である。だが面と向かって彼の恋愛遍歴に文句を言えたのは、忍足と金色くらいだった。白石のような整った面容を備えた男には一般人には分からぬ悩みがあるのだろう、という程度にしか一氏は見ていなかった。そんな男を慕う女子は数えきれないほどいたし、また慕われる以上白石には選択権がある。それは自分たちには分からぬ権限だ、と一氏は薄くなり始めたアイスカフェラテの氷を揺らしながら思い出す。

「まあ、小春の助言を受けて、白石はんが自分から何かを求めるようになれば話も変わってくるやろう。部長をしとる時は、求められるものばかり気になって仕方なかったやろうからなあ。たまには手前勝手に動いても、誰も咎めはせん」
「いやむしろ、好き勝手してみろっちゅう話やで。あの財前より引き出しが少ないとか、意味分からんやろ。勝てるもの言うたら数だけとか。来るもの拒まずは弊害が多すぎやって、俺何回注意したか分からんで」

 ありえへん、とぶつぶつ文句を言う男の頭では、きっと金色の恋人の話など片隅よりも向こうへと押しやられている。石田の話を聞いている限りでは、一氏も口を挟みたくなるような問題のある恋人には思えなかったため、それも仕方のないことかもしれない。そもそも金色は、他人に批判されるような失態は簡単には演じない。
 対して優柔不断の嫌いがある我らが部長は、というのが忍足の本音なのだろう。それにしても白石にこだわりすぎだった。どこか高校の頃を思い起こさせるような忍足の憤慨っぷりに石田が笑い出すまで、そう時間はかからなかった。

「白石はんはさておき、二人は特に変わったことはないのか?」

 その時、石田がふと一氏と忍足に尋ね返した。二人は揃って目を丸くし、しばらくの沈黙の後に互いを見つめる。
 本来は忍足の、中途半端で実りが少なくて長続きしない恋愛を格好の題材にしようと考えていた一氏だったが、白石の話を聞いた後ではインパクトに欠けた。それは忍足も同じ思いだったのだろうか、いやここぞとばかりに仕返しをするつもりなのか。一氏の視線の訴えに気づかないふりをしてカップを口に運んだあと、わざとらしく「そういえば」と語りだした。

「女難言うたら、ユウジもやな。お前大学でもあんなんになってんのか」
「……は?」
「やから、彼女の話。お前のこと好きな子って、白石以上に強烈っちゅうか。忘れられへんっちゅうか。……ああ、思い出した! 銀、覚えとるか? 高3の時のあの子」
「うん?」

 はて、と首を傾げたものの、般若心経を暗記できる頭の持ち主はすぐに「ああ」と頷き、そして笑った。なあ、と忍足も笑い声をあげる。

「どんだけユウジに彼女ができても片想いやめへんかった子な。お前が傷つけるようなことばっかするから、どこの大学行ったか誰も知らへんねんで」
「ワシは進学はせず上京したと聞いたがのう」
「は、東京? 銀、お前それ傷心旅行の長期コースやないか。罪作りやなー、一氏くんは」
「知らんがな、そんな話。ちゅうかそれ、お前らいっつもネタにしてくるけどな、俺向こうからきちんと告白されたわけやないで。全部俺のせいにするのはおかしいやろ」

 憎まれ口を叩くように、つまらなさそうにため息を一つ添える。その態度だから、と忍足はもっと大げさなため息をつくが、おかげでこちらの心の内は読まれていないだろうと一氏は思う。
 それは、いつも心のどこかを抉り、傷を覗こうとしてくる話題。傷になっていたことに気づいたのは高校を卒業してからという、惨めで情けない話の中心に据えなければならない人の話題。
 忍足が軽く自分を罵る言葉を口にしているのを適当に聞き流し、一氏は薄くなったアイスカフェラテを飲み干す。その様子を石田が全て見つめたいたことに気づいたのは、飲み終わってから小さく鼻を鳴らした時だった。

「心当たりがありすぎて、重荷になってしまったかのう」
「……は? なに、師範。いきなり」
「そういうことは、話してしまった方が楽やと思うぞ。ケンヤ、場所変えるか」

 ええで、と気軽に快諾するのは、隣に座る男の美点だ。口に出したことはなかったが、好きなことは好きと簡単に口に出すことができる忍足は、石田の誘いを特に戸惑いもせず受け入れる。石田の言葉に間違いはないという経験が、素直に従うという選択肢しか用意させていない。
 昔であれば、それは「もっと自分の頭で考えろ」と若干苦手に感じる行動だった。金色との関係やテニスコートでの自分のプレイスタイルなど、偽るとまではいかないが演じることを是とする生活を送っていた一氏からすれば、あまり躊躇せずに他人の意見に流される忍足は、見ていて情けないと思うことも多い同級生だった。後輩の財前にいいようにあしらわれているのを見て、それ見たことかと思ったことも一度や二度ではない。
 しかしそんな忍足が一番の親友であると、白石の普段の行動は語っていた。金色も石田も、絶対に見捨てるような真似はしなかった。千歳と馬鹿馬鹿しいほどの高校生男子の会話に花を咲かせていたのは間違いなくこの男だったし、常に白石に一歩遠慮する小石川が全力で怒ったり泣いたりしていたのも、この男が一番多かった。

(嫌われへん男は、何しても得点になるんやろな。トップやなくても確実な大学行って、家の病院は継がんと公務員になるとか訳分からんこと言っても、当たり前みたいにしとる。弟も反対すればええのに、なんで小春と同じ大学行って満足げやねん。この兄弟はほんま訳分からん)

 二人が自分たちのカップを持って立ち上がるのを見て、一氏も慌ててそれに倣う。大柄な石田の横に並べば相対的に小柄に見えるが、忍足も長身で一氏よりも断然背が高い。彼を慕う女子も決して少なくなかったと記憶している。ただ彼の場合は平気で白石を優先させる癖があったので、いつでもどこでも同じ文句で同じ結末を、全て自分で招いていただけだ。それを白石もたしなめればいいものを、「また振られた」「お前もか」と笑って二人で傷をなめ合う高校生活を送っていたのだから、彼らにとって失恋というのは一体何なのだろうと不可解で仕方がなかった。
 失恋とは、きっともっと、生活から色味がなくなってしまうことだ。立ち去ることすら勇気と称えられてしまうほど、前に進むことができなくなってしまうものだ。

(俺かて、傷つけたくてああなったわけやないのに)

 久しぶりに会って積もる話でもあったのか、結局先頭を忍足と石田が率いる形で、一氏はその後ろをついていくようにして地上へと出た。観光客でごった返す京都駅の夕方は、天王寺駅のそれとはまた違った雰囲気がある。少し歩いてもいいかと石田が尋ねるので忍足とともに頷けば、北へ上ること15分ほどで見知ったチェーン店の居酒屋にたどり着いた。

「同じ席とは、何かの縁かのう」
「なんやねん、同じ席って」
「ここで白石はんは、小春に言い負かされておったわ。しっかりせえとばかり言われておったな」
「なんや、ここは小春の説教部屋か」

 笑いながら座敷に腰かける忍足に、石田も満足げに頷き、笑った。そうなると今日説教されるのは誰やねん、と一氏が心の中で呟いていたことは、このお気楽な男には絶対に気づかれていないだろう。
 馴染みの店のように石田がドリンクを尋ねてきたので、一氏はとりあえず忍足とともにビールを注文する。意外にも忍足はアルコールに強く、一氏はこの男に杯数で勝てたためしがない。石田は悪酔いすることもあるがそれは大抵説教へと発展するだけで、となると必然、この宴席の自分の役割が決められていくようで一氏はため息の一つもつきたくなった。

「ため息つくっちゅうことは、後悔してんのか? ユウジ」
「え?」
「あの子、お前には従順やったもんな。何してもにこにこ笑って。お前が他の女子と付き合うても当たり前みたいな顔して。目立たへんけど、一番お前のこと見とるような子やったな」
「ほう。そこまではワシも知らなんだ。ケンヤ、よう見とるやないか」
「俺は仲間の恋愛事情には詳しいで。小春の次にな」

 それは白石の恋愛(とも呼べない多々一方的なものであったが)遍歴を間近で見てきた男の、自負にも近い思いなのだろう。自分の恋愛話よりも仲間の話を優先させる癖は、大学生になっても相変わらずだった。そんな忍足を陰ながら見つめていた女子数人の顔を一氏も覚えているが、本人が気にしていないようなので今でも伝えたことはない。これが忍足の言う「ふるいにかける」であれば、自分もこの男と同様の配慮を、しかもこの男にしてしまっていた事実に、いつのまにか眉根が寄ってしまっていた。

「基本的に、白石はんにしろケンヤにしろ、好意を寄せられたら拒むということを嫌うからな。ユウジもそうやったんか?」
「いや、それなりに選んで拒否ったり……」
「お前のあれは、拒否やなくて小春の許可制っちゅうんやで」

 母親みたいに眼鏡光らせとったやないか、と笑う忍足に、石田も懐かしそうに頷く。本当に他人のどうでもいい点ばかりを覚えている男だ、と心底軽蔑の目で忍足を見つめたが、ビールを勢いよく飲む男にそんな嫌がらせはまるで通じなかった。
 しかし、この男は一つだけ勘違いしている。まるで中学と高校の6年間、ずっと金色が一氏の背後に控えていたような言い方をしているが、それは事実ではない。そのようになったのは高校3年の時だけで、それまではむしろ奔放にさせてもらってきた。浮気をするのかと口癖のように言うのは自分の役割だったが、その陰で金色が一氏を監視するのではなく、あくまで見守っていただけという事実を見落とされている。

「せやけど、あの女子に関して小春が何も言わへんのが不思議やったな。あいつの眼鏡にかなわへんかったんやろか」
「成り行きに任せた方がええと思ったのかもしれんのう。小春はただのお節介とはちゃうからな」
「で、成り行きに任せて。結果、あっちが傷ついて終わったんか。結局真相はどうなってんねん、あの時白石ですら話聞こうとせえへんかったから、誰もお前の心の傷みたいなもんは知らへんのやで」

 石田が注文していた料理を口に運びながら、忍足なりの遠慮を含む聞き方で一氏に尋ねる。心の傷と勝手に決めつけられていたことは面倒だったが、否定できる材料も一氏にはない。むしろ詳細を知らせずとも、ある程度の雰囲気だけで傷だと断定していた身内の視線には、今更ながら恥ずかしさがこみ上げる。
 けれど、それももはや2年以上昔の出来事だ。高校を卒業してから、彼女について噂の一つも聞いていない。それならばむしろ、石田の言う通り重荷となって心が淀み続けるよりも、話してしまった方が楽になるのかもしれない。一氏はしばらくビールジョッキの沸き上がるような水泡を見つめたあと、両手を後ろにおいて天井を仰いだ。

「正確には、俺もよく分からへん。いつから好きでいてくれたのかも教えてもらえへんかった。……あ、ちゃうで告白されてたわけやないからな! 流れでそういう話になっただけで!」
「流れってなんやねん、流れって。ただのええ雰囲気やないか」
「ケンヤ、茶茶はまだ早いぞ」
「心温まる声援やで」
「世間はそれをガヤと言う」
「人の話聞く気あるんかお前らは」

 すみませんと二人同時に頭を下げられ、一氏は鼻を鳴らして大きく息を吐いた。冷やかしの言葉を入れてくれるのは忍足の配慮だと気づいていたが、この男に礼を述べるのは癪である。気づいていないふりをしながらビールを飲み干し、再び天を仰いだ。

「ただ、付き合ってほしいとは一回も言われんかったからな。どうしたいんか俺にもよく分からんかった。で、気づいたら卒業や。音信不通や」
「……それは、付き合うてほしいってユウジから言われたかったんとちゃうのか?」
「うむ、待っておったのかもしれんのう」
「無理やで、それは。こっちはそういう目で見たことなかったのに。向こうかてそんなんで言われても困るだけやろ」
「そうか? 向こうがユウジのこと好きなんやったら、どんな状態でもOK出すもんとちゃうんか」
「好きでなくとも了承する者もおるがのう。白石はんとか」
「あいつは規格外や。ステージちゃうねん、一歩間違えば人でなしやで」
「まあ、白石はんとは比べようがないとしても。どんな状態でも近づきたいと思う心の者は、言われるのを待つことはない。あさましい手を使ってでもユウジを自分の近くに呼び寄せたり、結び付けたりしようとするやろうしな。つまり何も言わへんかったということは、何を思っていたかまでは知る由もないが、少なくとも心が欲にまみれて自分本位で動いていたわけではない、という証拠ではあるかもしれんなあ」

 そうやな、とあっさりと納得して、忍足は料理を食べ続ける。昔から大食漢だったが、テニスをやめた大学生になってもその癖は変わっていない。しかし今日のような話題のと時には、変わらない彼の雰囲気が一つの救いになっていることも事実だった。それは石田の言葉も同様である。

(自分本位やない、か)

 それこそまさに、あのという同級生を象徴するような言葉だと一氏は思った。申し訳なさを感じてしまうほど、こちらを優先させて義理立ててくれるあの性格の女子は、後にも先にも一人である。それが恋愛感情という、ある種個人的な感情から生まれた行為だったとしても、それを押し付けることは決してされなかった。配慮を求められることも見返りを要求されることもなかった。それはまるで、忍足が問答無用に白石との仲を優先させるのと同じだった。その好意を受ける側としては甘んじてよいものか悩んだことも、一度や二度ではない。
 白石と忍足を羨ましく思うのは、そのような感情から来ていることを一氏は自覚していた。同性同士であれば、遠慮はいらなかった。きっと思い切り好意に甘え倒しただろうし、相手が嫌がるほどの見返りを過剰なほど用意することが楽しかっただろう。金色との関係がそうであったし、だからこそその有難みも理解できていた。
 だが、相手は異性だった。恋愛感情を伴う、一線の先の答えを用意しなければならない感情のやり取りを行わなければならなかった。いくら答えはいらないと、本人が態度で示していたとしてもこちらはそうはいかない。の心が澄んでいると分かっているからこそ、無下にすることも、妥協することもできなかった。それが高校3年の、あの時の記憶なのだ。答えを出さなかった自分を周囲は失恋させたと理解し、本人もそのように受け取ったのだろう。だから2年経った今もからの連絡はないし、また一氏も心のどこかにしこりとしてしがみついているその記憶を無視できない。

「しかし、こちらが忘れようとしなければ、話はまだ続くことができるかもしれん。感情がそこに宿るのであれば、宿主の一歩次第でいくらでも話は進むし、転がるし、戻ることもあるやろう。全ては自分次第やがな」

 ほっけを美しく食しながら、淡々と石田が呟く。そうやな、と忍足はまたあっさりと納得する。そこで満足できたのか、話の流れはすぐに方向転換して大学の話題になっていた。石田の卒業論文のテーマである機械工学について、忍足が訳が分からないという顔で聞いている。
 続けられる可能性を、どうすればいいのか一氏にはやはり分からなかった。傷として残っているのは申し訳なさゆえか、それとも未練なのか。感情の根源はいまだ靄がかかった状態で、自分の体をどちらに振ればいいのかも分からない。

(もうちょい時間が経ったら、なんとかなるんやろか)

 行きつく先は再会なのか、消滅なのか。どちらにしても時間がある程度解決してくれるだろうと、大学3年の自分の立場を考えて一氏はとりあえずの結論を出した。
 待ち合わせがあると石田がほろ酔いの中で呟いたのは、それから2時間ほど飲んで食べてを楽しんだ後だった。一氏や忍足よりは京都に知人が多い生活になっている石田が、どのような縁で友人を増やしているのか気になった二人は、思わずついて行ってもいいか尋ねる。鷹揚な石田は断ることもなく、大きな体で立ち上がって京都駅へと戻ることを告げた。
 割り勘にするには端数となってしまった十円を一氏が出して、相談料だとぶっきらぼうに言うと二人に笑われた。ご縁があるようにと忍足に五円を渡されたことには彼なりの優しさが相変わらず詰めこまれていて、けれどお礼を口にするのはやはり癪だったので、とりあえず鼻で笑っておいた。

「せやけど、こんな時間に待ち合わせってなんやねん。まだ飲み会行くんか、銀」
「うん? いや、アルバイトが終わった後の送り迎えや」
「……は?」

 煌々と明かりが零れる京都駅中央口。帰路を辿っているだけのように見える途中で石田が呟いた一言に、一氏と忍足は目を合わせる。誰を、と尋ねようとした瞬間、石田が手を上げるのと忍足が目を丸くして立ち止まるのと、そのどちらよりも早かったのは、改札付近で携帯電話を触っていた美女が顔を上げる瞬間だった。

「石田くん」
「待たせたな」

 ううん、と首を横に振ると黒髪が美しく揺れた。石田にも彼女がいるのか、という程度に眺めていると、その顔立ちはどこか見覚えがある美しさだった。うん? と一氏が記憶を探っていると、忍足が慌てて石田の背中を遠慮なく叩く。

「銀! お前、知らんとか嘘ついとったんか! さっきコーヒー一緒に飲んどった子やろ!」
「うん? コーヒー? はて」

 茫洋とした雰囲気で話を誤魔化そうとしているのか、それとも本当に思い当たらないのか。一氏でも忍足の言葉だけですぐに思い出せた、それは確かにカフェの入り口ですれ違った京都美人だったのだが、忍足の素っ頓狂な声に石田は本気で訳が分からないという顔をしている。
 やがて、店の中で聞いたやろと忍足が苛々しながら問いかければ、しばらくの沈黙の後でようやく石田は合点がいった顔になった。そして自分の隣に並ぶ、忍足の喧騒に物怖じ一つせず笑みを浮かべている恋人らしき人を見つめて、ううむと小さく唸る。

「美人というよりは、心根が清らかと言うと思うのだが」
「なんの嫌味やねんお前は! お前が一番煩悩の塊やないか!」
「うん? ワシは得度はしとらんのだがのう」

 なあ、ねえ。二人で笑う姿を見て、ここしばらく恋人がいない忍足は心底疲れ果てた顔をする。哀れやな、とその腕を引っ張って、下宿先へと彼女を送り届けるという石田に黙って手を振って一氏は改札を抜け、大阪へと戻るホームへ向かう。生き神がわざわざ京都駅で途中下車するのは俗にまみれた理由だったな、と心の中で呟いた。
 京都でも名の知れた女子大に通う、実は東京時代の幼馴染だという羨ましいことこの上ないエピソードは後日飲み会で聞かされることになるのだが、それを聞いた忍足がますます怒り狂うのを見て、白石と金色は腹を抱えて笑った。
 時間が経って変わるものもあれば、変わらないものもある。千歳に電話しろとまだ怒っている忍足を小石川が宥めている姿を見つめながら、一氏は最近飲めるようになった日本酒をちびちびと楽しんだ。



21/08/26