| 身勝手な楔 20歳 |
付き合い始めてから1年以上が過ぎた、四天宝寺高校1年生の頃の思い出だった。高校生としては小遣い程度ではすまされない金額の指輪を突然財前が用意してくれた。財前と指輪という関係があまりに結びつかなくて、もらった瞬間は何も言えなかったことをは鮮明に覚えている。 購入場所も購入金額も全く教えてくれなかったが、後日高校の廊下でばったりと出会った白石と金色が妙に浮ついていたのを見て、様々な後押しや圧力じみたようなものがあったことは容易に想像できた。 「元気か、」 「はい、元気です。先輩は?」 「見ての通りよ。光くんと一緒」 もらってもなかなか学校に指輪をつけていく勇気がなかったはそう答えるだけで精一杯だったが、二人は茶化すこともなくただ笑ってくれた。財前と関係を持つということは、普通の生活では縁のない人たちと繋がりができ、なおかつ妙に守られていることに気づく時期でもあった。 「何か困ったことがあったら、遠慮なく俺か小春に言うてくれてええからな」 「困ったことなんて」 「まあまあ。遠慮なく使ってくれてええんよ、年上のお節介なんて。ね、ちゃん」 高校生になっても上級生に見守られているほど、財前という男はとにかく自分から何かを表すことをしない人間だった。 白石づてに金色づてに、何かを教えられたというのは数知れず。確かに多弁な性格ではないと分かっていた。だが告白をしてきたあの日の財前を知っている立場としては、付き合い始めてから徐々に財前が自分の心情を表さなくなったようにも感じられる。本人はもちろん悪意などなかっただろう。しかしそれはが自分の努力不足ではないのかと疑うまで、さほど時間を必要としなかった。 だから今日も、久しぶりに会う約束をしていた今この時間も、ただ時間を費やすことにだけ集中されているような錯覚に陥っている。大学3年の夏の夕方だった。 「光くん、今度東京行くんやっけ?」 「そう」 「何日ぐらい?」 「あー、泊まりちゃうんやって。東京やのに。選手権前の気晴らしみたいなもんちゃうの」 予定を思い出すため、一度だけその視線が携帯電話から離れた。しかしには向けられない。 「東京に簡単に行けるとか、すごいなあ光くん。私やったら絶対迷子になりそうや」 「、梅田でも迷うもんな。金太郎ほどやないけど」 「笑いごとちゃうし。ていうか梅田よりもっと大きいやんか東京なんか」 「規模ちゃうでそれ」 「電車多すぎやん」 「御堂筋線しか乗らへんからそういうことになんねん。中央線怖いてなんやねん」 「またその話する! 東京に行き慣れてる人とはレベルがちゃうんやって」 お世辞でも何でもなく、滅多に東へと旅行にも出かけない身にはふらっと散歩に行く感覚で東京行きを告げてくる財前は、やはり自分と色々と異なる部分が多すぎると思う。これまで彼が培ってきたものは、四天宝寺中学や高校を背景とした、土台をテニスでしっかりと固めたものの上に成り立っている。テニスがなければ四天宝寺中学で白石たちと出会っていなかったし、東京に知り合いがいると当然の如く言うこともなかったのではないだろうか。そこには存在しているかと問われたら、本人の口からは教えてもらっていないので自身もうまく答えられる自信がない。 「も東京行ったらええんとちゃう。結構おもろいで、知り合いできたらそれなりに楽しいしな」 大きなビーズクッションに埋もれるようにしてくつろいでいる財前は、ちらりとを見て笑った。 それが今日、久しぶりにこちらを見つめてくれた瞬間だということを、この人は分かっているだろうか。少しばかりの距離をとって色違いのビーズクッションの上に腰かけるは、屈託なく笑うその表情に単純なほど嬉しくなる。本当はもっと伝えてほしいこと、向けてほしいことがあった気がするのに、たった一つの言葉や表情を自分だけに向けられた瞬間に不安があっさりと胸の奥に沈んでいく。ただしそれは消えたわけではないから、澱のように溜まっていくのだが。 「テニス部ちゃうし」 「別に同じホテル泊まればええやん。まあ、あんまり遊ばれへんかもしれんけどな」 「あんまりどころか。1回広島行った時あったけど、もう全然やったやん。文句言えることちゃうけど」 「マネージャーでもやればええんとちゃうの」 本人としては他愛ない一言だったのだろう。彼のテニス生活の中の単なる事実を口にしたに過ぎない。テニスに重きを置いた生活の中で、異性が財前に触れ合える事実をただ端的に述べたに過ぎない。 しかし、その一言がどのような響き方をしてに届けられているかまでは想像していないのだろう。テニスに関わらなければ関係を維持できないという響きを持っているとは、思わないだろう。ずっと見せつけられているようなスマートフォンの背中からは、今その画面が何を映しているのかは分からないのと同じだというのに。 「光くん」 「なに」 「私テニス下手やから、マネージャーなんかしたら迷惑かけるんとちゃうかな」 下手は関係ないけどな、と財前はまた笑った。しかしその先の言葉は用意されなかった。 財前が心も体も預けているビーズクッションと色違いのクッションに埋まりながら、は窓の向こうの夏空を見つめる。同じものなのに色が違うだけで、様々な距離を与えられている気分になる。財前と出会って何度も過ぎる夏の季節だが、ここ最近は爽快感よりもけだるさばかりが漂っている気がする。 左手の薬指に飾る指輪も、いつのまにかくすみかけていた。 それは、告白された側の強みと深く惚れてしまった側の弱みがない交ぜになってできる淀んだ感情だと思う。 「泣くぐらいやったら俺と付き合えばええやんか」 肌寒い3月の教室で伝えられた言葉は、今でも耳にはっきりと残っている。幼さの残る財前が振り絞って出した言葉は安直ゆえに誠意の塊で、縋る先を見失っていたには驚くほどの強さで胸の中に飛び込んできた。言葉を交わす間柄ではあったが、まさか一線を越えた感情を抱かれているとは露にも思わなかった2年生最後の思い出がそれだった。進級してクラス替えをしてようやく、彼が多くの女子から好意を寄せられる存在であったことに気づかされた。それは1年も2年も、校外でも。どうして気づかなかったのだろう、四天宝寺中学テニス部部長という肩書を持った彼が、女子からの好意を受けないはずがなかったのだ。 そんな財前に告白され、あまりに突然のことに最初は正式に付き合うことは遠慮した。他の人を見ていた後ろめたさ、申し訳なさもあった。しかし好意を直接伝えられて、その好意を理解したうえで彼と会話などの接点を持ってみると、財前は自分に対して驚くほどぶっきらぼうに優しい一面を見せてくれた。テニスをしている姿を改めて見つめてみれば目を奪われるのも時間の問題で、夏休み前に付き合いたいことを正式に彼に伝えた。その時の財前の様子はよく覚えている。普段あまり感情を表に出さない彼が、無関心な雰囲気をまとうのが得意な彼が、珍しく他人の言葉に動揺していた。 それは自分が単なる他人ではない何よりの証だった。自惚れたことを言ってもよいのであれば、テニス部の仲間や気心の知れた同性の親友に対してだけ見せる感情と同等のものを自分にだけ向けてくれている。その事実は単純に嬉しかったし、財前の彼女という肩書は自分が思っている以上に力のあるものだということをその後は嫌というほど思い知らされてきた。 「そらあの財前の彼女になるぐらいやからな、目立たへんわけないわな。誰やねんあの女、えっ財前彼女いてるてそれマジか! あいつ彼女持ちなんか! って、俺ら何回聞かされたことか」 「よう聞いたな、それ。白石なんか何も言うてへんかったけど明らかに目泳いどったしな。お前かて彼女もちのくせにと俺は心の中でどついたったで」 「それは振られた傷を癒せへんケンヤがあかんねん」 「小春の方が大事なんやろ言われて振られたユウジに言われたないねん」 四天宝寺高校に進学していたテニス部OBが自分の目の前で漫才を繰り広げた回数は、両手で数えきれない。 「、悪いんやけどこれ財前に渡しといてくれるか。欲しい言うて頼まれたやつやねん、渡せば分かるから」 絵に描いたような整った顔立ちで、実は親友が恋い慕っていた前部長に突然話しかけられるのもいつのまにか当たり前になった。 「なあ先輩、ワイ空腹で死にそうなんですわ。このぜんざいもろてもええですかー?」 滅多になかったが、それでも時折一緒の時間を過ごすことがあった中学校前の甘味処で後輩に食べ物をせがまれることも珍しくなかった。引退後も監視役もといお守り役を買って出てくれていた九州弁のOBや、高校生離れした立派な体躯のOBにその後後輩が連れ出されるまでがお約束の流れを、は中学卒業後、高校でも何度も同じ光景を目にしてきた。 財前を取り囲む環境というのは予想以上に忙しなかった。財前の彼女という立場は単に彼の優しさに甘えることができるという意味ではない。彼が基盤としているテニスに関わる全てと繋がりを持つことを意味し、またその務めをうまく果たさなくてはならないとはまるで責務のように考えるようになった。 だから、彼がどれほどテニスに忙しくても応援した。それは構わない。そうしたくとも公の立場でできない人間の方が圧倒的に多いことを思えば、自分が思い描いていたような彼氏彼女の関係で高校生活を楽しむことができなくとも、悲しんでいる暇はない。休日に休みたいと言われたら納得した、たとえそれがデートを約束した日であったとしても。そしてどれほど財前が異性に好かれようとも、平静を装うなり知らないふりを心がけた。告白されるたびに辟易していた彼の前では、それを自分がどのように思うかなど恐ろしくて言えなかったのだ。付き合っていることも自分からあまり言わなかった。 「しんどくないか、それ。別にがしてほしいこと素直に伝えたらええんとちゃうの。多分何も考えてないというか、気づいてへんだけやであいつ。むしろ教えたればええねん、あいつが告白したんはだけなんやから自信持ち」 一度だけ、白石にそのように伝えられたことがある。四天宝寺高校2年の、財前が最もテニスで忙しい時期のことだっただろうか。中学時代に全国大会に出場したメンバーでもう一度全国に挑戦できる、最後の夏の大会前だった。3年巡って再び部長として財前を導く立場にあった白石から告げられた言葉に、その時のは慌てて首を横に振って逃げるようにして帰ってきた。見透かされるわけにはいかなかった、呆れられるわけにはいかなかった。教えるなどおこがましいとすら思えた。 (先に好きになっておけばよかった。そしたらもっと努力も楽しかった。どうして気づかへんかったんやろ私。ずっと気にかけてくれとったのに) 無愛想ながら自分のことを気にしてくれていた、そんな中学時代の財前を時折羨ましいと思うようになった。後から好きになった方、しかも告白されてから相手より好きの重みが増してしまった立場としては、嫌われたくない気持ちが強くなりすぎる。向こうが思い描いていたであろう自分を壊してはいけない。理想に見合う彼女でいなければならないし、好きになりすぎた自分もそうありたいと強く願ってしまう。 その努力が実を結んだのか、は財前と恋人関係のまま高校も卒業して同じ大学に進学した。体育会でテニスを続ける財前は、高校までの実績もあって関西の大学テニスの世界では非常に名の知れた存在だ。大学という高校までとは比べ物ならない規模の人間関係が、をますます理想の彼女たらんとする努力に急き立てるのは誰の目にも明らかだったのだろう。 「相変わらず強いわねえ、光くん」 「うわ、小春先輩」 「ちゃん、『うわ』って言うんはアタシにとっては褒め言葉やから喜んでお供してあげるわよ。むしろ解説をご希望かしら。さあさあ、なんでも聞いてちょうだい」 春季トーナメント大会当日、応援席にいたの背後に突如現れた中学時代の上級生は、本来であれば舞台上で見つめるだけの遠い存在だった。財前のテニス部での活躍を中学最後の瞬間しか知らない当時のことを思えば、会話をすることすら想像できない。そんな負い目に近い感情に気づいているのかいないのか、金色はいつも優しくたくさんのことを教えてくれていた。 「先輩、今日のことも知ってたんですか? ええんですか、医学部大変そうやのに」 「最初の質問がそれ? 心配してくれてるのかしら。嫌よちゃん、アタシの心配なんかせえへんと光くんの心配でもしてちょうだい」 「……心配、って。なにを」 「あら、心配事というか悩み事というか。そんなんに支配されてますって横顔どころか背中にまで書いてあったからこそのアタシの登場なわけやけど、余計なお節介やったかしら」 四天宝寺中学時代、神童の名を欲しいままにした伝説の上級生である。全て疑問の形で言葉を紡いでくれているとはいえ、それは全て見透かされたうえでの、むしろこちらに認識させるための言葉選びであることをは金色と話すようになって気づいた。この人は無理に自分の意見を通すわけではなく、きちんと納得できる引き出し方を心得ている。配慮という一言で表されるその心遣いは、金色の性格がいかに相手を慮ることを是としているかを如実に表していてはいつも尊敬する。 ただし、今だけはその配慮が胸に刺さった。 「先輩みたいにいろんなことに気を遣える人間やったら、私も悩まんとすんだんでしょうか」 「うんうんそうねえ、アタシみたいに気を……って。あら。光くんの心配やなくてちゃんのこと?」 テニスコートにボールが打ち付けられる音。ラケットが少しだけ高い音を出してボールを弾き返す音。機械的な一定のリズム音は駆け引きの最中で、ただ手と足を動かしているわけではなく頭の中で何手も先のボール軌道を予測している時の音の繋がりだと、財前と知り合うまでは全く知らなかった。野球やサッカーとは異なり、静かにラリーを見つめることが礼儀であることも知らなかった。 普段は何を考えているのかよく分からない財前がコートに立つと、その理解できない部分が強烈な武器になる。それを支える運動神経も体力も備わっていて、試合ともなればその姿を見に異性が集まるのは自然な出来事だった。 それらが努力の元に成り立っていることは知っている。誰よりも知っている自負はある。そうでなければならないと自分に言い聞かせてきた。しかし、その意識を維持するために必要な力はどこに求めていいのかは、最近分からない。 「気を遣うことが下手なくせにできるふりをし続けたから、限界がきた時にどうるなるか自分でも分からんくなってるんです」 「あらまあ」 「ていうか私が心配りみたいなもんができる人間やったら、もっと早くから光くんに気づいとったと思うんです。気づけへんかったから、それぐらいしか心配りができひんから、今こうなってるんやと思います」 「うんうん」 「先に気づいて、先に好きになった方がもっと気楽だったんとちゃうかなって、最近よく思います。嫌われない努力って、好かれる努力より難しい」 「なるほどねえ」 関西の大学が競い合うテニス大会のシングルスの舞台だった。四天宝寺の紅白戦の方がもっとしんどかった、とぽつりと呟いていた記憶があるこの舞台は、財前にとってはさほど難しいものではないらしい。まだ2回戦とはいえ明らかに対戦相手との実力の違いが見て取れる。高校までの方が、気心の知れた仲間たちと一緒にしていたテニスの方がもっと白熱して辛くて楽しかったのだろう。今の隣に並ぶ金色のように、大学でテニスの道から離れた仲間たちは多い。千歳に至っては九州に帰ってしまっている。自分だけ取り残されている感覚が、時折財前のテニスを孤独なもののように見せていた。 無意識ながら、もしかしたら不本意ながら。あれほど他人に興味がないような素振りをしているくせに、共に高めあえる仲間と一緒でないと熱意を維持できない。それはが替わってこなせる役割では当然ない。強いけれど不安定さを残す今の財前にとって、役に立てそうにない自分の存在は価値があるのか。答えは聞きたいようで聞きたくなかった。 「聞く勇気もないんですけどね」 「なんのこと?」 「独り言です、すみません」 夏の日差しが容赦なく降り注ぐコートで、財前はほとんど表情も変えないままあっさりと2回戦の勝利を手にした。全日本学生テニス選手権への出場権の選考も兼ねているこの大会では、観戦に来る人間も様々で、むしろ見知らぬ人の方が多く財前に視線を送っている。同じ日程で女子のダブルスも行われるため、当然ながら観戦に来ている他大学の女子も多い。彼女たちはテニスウェアをこなれた感じで着こなし、ボールの軌道一つにも頭を使った話し方をしているように見える。財前に個人的に教えてもらう程度でしかテニスをたしなんだことがないには、越えられない壁だった。 「小春先輩」 「なあに?」 の愚痴を黙って聞いていてくれた金色が、何を尋ねるでもなくただの言葉の羅列に耳を傾けてくれている。愚痴を吐かせてくれているのだろうと誰もが分かる金色の気遣いと、毎日会っているわけでもないのに不満や不安をため込んでいることを一瞬で見破られてしまう自分の情けなさ、どちらが勝っているのかはよく分からない。 「私、光くんの彼女でおってええと思いますか」 唐突に呟いた言葉に、金色は即答しなかった。コートに立つ財前を見つめていたと思ったら、ふふと笑い声が聞こえてきた。 「ちゃん、それ考えてること? 悩んでること?」 「……悩み、やと思いますけど」 「ちゃん、覚えておくといいわよ。悩みっちゅうのは、実はもう答えが決まってるの。自分の中でだけぐるぐるして立ち止まってるの。せやけど考えてくれるんやったら話は別。考えるってことはね、他人の意見を取り入れて新しいものを作るもっと建設的な行動やから。せやからね、ちゃん。光くんのことで悩むんは不毛よ。考えるなら、アタシはいくらでもお手伝いしてあげられる。悩むちゃんなんて、光くんも望んでないと思うわよ」 理路整然とした金色らしい慰めのような、説教だった。この人は本当に諭すという行為が絵になる人で、金色に言われたことが間違っているとは思えないし当然これまでも一度もなかった。その金色がまだ自分に道が残されているような言い方をしている。これまでの自分を否定する言葉を一切使わずに前進の許可をくれている。それは、当人である財前に尋ねることに怖気づいていたにとっては何よりの激励の言葉のように思えた。 「なーんてことを自分から言わへんあの人にも困っちゃうわよ、先に気づいてたくせに。一番おいしくて格好ええところは自分がかっさらっていくんやから、えげつないのよあの男は」 「……誰の話ですか?」 「えげつないほど顔も性格も整った人よ」 悪口を滅多に口にしない金色が愚痴に似た言葉を向けられるのは、かつてのテニス仲間と相場が決まっている。は笑いながら金色も財前も頼りにしていた元部長を思い出す。彼が応援席に来られなかった理由は、金色が言うほど自分勝手な理由ではない、単に違う大学でテニスを続けている彼もこのコートに立っている日だからだ。そしてその種明かしをする金色も、自分だけの手柄ではないとしっかりと伝えてくれているあたりが彼らの信頼関係を如実に物語っている。 「小春先輩と白石先輩みたいになれたら、もっと楽しいのかもしれませんね」 「うんうん、そうよお。って、アタシそれやと蔵リンの彼女に怒られちゃうからもっと違う言い方してちょうだいちゃん」 が笑い声をあげたことを確認してから、金色は白石のコートに向かって去っていった。順当に行けば3回戦で白石と財前が当たることになっているらしい。違う大学に行くことは寂寞とした思いもあっただろうが、テニスで白石を追いかける立場にあった高校までを思えば、対等に挑戦できるこの大会は財前にとってかけがえのないものなのだろう。それを知っているから金色もきちんと応援の時間を割いてくる。 周りはみな、テニスをする財前に時間や身や、心を捧ぐ。 (当たり前なんやけど。それは当たり前やし、そのために考えるんやったら間違ってないって多分小春先輩は言うてくれたんやろうけど) 反対側の応援席から声をかける誰かと話す財前を、は漠然と見つめていた。女の自分から見ても艶のある財前の黒髪は、夏空にとても映える。四天宝寺中学の緑と黄色のユニフォームもよく似合っていた。眩い髪色が目立つあのテニス部の中で、黒髪は逆に目立つのだと伝えた時に財前は笑ってくれていただろうか。 (今みたいに) 応援席を立ち、財前の元へ行けるだろうかとテニスコートの会場から離れる。そして通路で、は立ち止まってしまった。 それは大学内で何度も目にした光景だった。見覚えのありすぎるジャージ、向けられる笑みの種類は誰に問わずとも分かる。高校時代まで、おそらく誰よりもあの頬の緩み方をしていいと許されていたのは自分のはずだった。中学の頃から付き合い始めた最初の頃こそ周りには秘密にしていた関係だったが、高校になって財前からもらった指輪を時折はめていれば、見つけた人間から徐々に事実を知られていった。 ただし大学は違う。全国から人が集まり、学部の異なる財前とは共に時間を過ごすことも少なくなった。ましてや、 (去年入ってきたマネージャーは、光くんが全国大会出た時に東京で見とったんやっけ) 自分よりも財前に心を寄せてきた時間が長い人間の前では、自分のプライドなど何の役に立つのだろう。 「先輩、関東の方はいつものメンバーみたいですね。千石さんとか不二さんとか」 「日吉は?」 「日吉さん? えっと……ああ、入ってます。あ、あと切原さんとか、海堂さんもだ。やっぱり3年の方が気になりますか?」 「腐れ縁やからな。ちゅうかあいつら全員地元離れへんから全日本行かな会われへんの、めんどいよな」 「財前先輩がそればっかり言うからこの前部長東京遠征組んでくれたじゃないですか」 「東京に日帰りで行って何が楽しいねん」 「先輩が東京来てくれてもよかったんですよ、そしたら私も家から通えたのに」 「なんで俺が東京出なあかんねん」 通路に響く笑い声に、は入り込む隙を見つけられなかった。東京の地下鉄にあの子は詳しいのだろうと思うだけでも足はすくんだ。 あ、とこちらに気がつくのが財前ではなくマネージャーの方だということも切なかった。財前に一礼して去っていく彼女の背中を見つめている自分は、今明らかに考えているのではなく悩んでいるのだろう。金色の笑顔が随分と昔のもののように感じられる。 「小春先輩来とったな。もう部長のところ行ったんか?」 そんなの心を見抜いているのか、全く気付いていないのか。挨拶の一つもなく財前は唐突に会話を始めた。頷くと小さなため息を零された。 「あの人、なんや勝手に理由つけていっつもの隣に来るよな。ええ加減女の真似しとった頃の癖も抜ければええのに」 「せやけど、一緒に応援してくれたよ。分からないことも教えてくれたし」 「教えるぐらいなら俺でもできるやんか」 「光くん、コートなのに?」 あの金色に妙な文句をつけている財前がおかしくて、は少しだけ頬を緩める。その態度がどこか気に入らなかったのか、財前はまた大きなため息をついた。 そのため息は、金色の激励の記憶をかき消すには十分な威力を持っていた。 財前の顔から先ほどの笑みが消える。整った顔立ちゆえ、少しでも眉間に皺を寄せられてしまうとは瞬時に体が硬直してしまう。金色の言葉はどこへやら、自分は何を間違ったのかとまた考えるでもなく悩み始めてしまう。その沈黙も財前には気に入らなかったようで、しばらくの沈黙のあとテニス部の元に戻ることだけ告げられた。 「光くん」 去ろうとする背中を、かつての財前はどのような気持ちで見つめてくれていたのだろう。少なくとも、今の自分のように苦しくて仕方ないものではなかっただろう。 その苦しさを自覚した瞬間、それまで限界を超えてでも必死に堰き止めようとしていた哀しい感情が、あっさりと胸を満たしてしまった。 「もっと早く、私から好きになっとくんやった。気づいとくんやった。ごめんね、私が遅すぎて」 振り返った財前は目を丸くしていた。珍しく自分の感情を露わにしてくれていような気がして、そうさせたのが自分の言葉だと思うと非常にやるせなかった。 そのやるせなさを、5年前の彼は感じていてくれたのかもしれない。好意に気づかず勝手に自分の失恋に酔いしれて、待ってくれる優しさに勝手なほど甘えていた自分は、財前の気持ちを慮る余裕も理由も見つけられなかった。だから15歳のあの夏まで待たせ、その後彼がどれほどテニスで忙しくなっても自分のために時間を割いてくれたことを特別だと感謝せず、挙句、今日という日を迎えた。 「ごめんね、光くん。私ばっかり我がままになってしんどい。私から好きになっとくんやったって、そればっかり考えてもうどうしたらええか分からんくなってしまって」 「……何が?」 「もっと一緒にいたいとか、もっと私とだけ話してほしいとか。ごめんね、勝手やね」 財前は何も言わなかった。沈黙は肯定のようで、自分で口にした言葉ながらはますます目の奥が痛くなる。唇がぴりぴりとして、手のひらが異様なまでに熱くなる。 もはや大切な人の顔を真正面から見つめる勇気はなくなっていた。 「もっと中学の時からちゃんと光くんのこと見とくんやった。テニス大変なこと、もっと知っとくんやった。そしたらこんな期待なんかせえへんし、勝手に他の子に嫉妬せんくても済むし、」 「……え? ちょ、ストップ。、何言うてんねん」 「もう無理やった。私ばっかり後から好きになって、置いてかれて。嫌われるの怖すぎて、もう無理」 その時財前が自分をどのように見てくれていたのか、は知らない。確認するよりも早く踵を返し、会場を後にした。翌日以降の試合も見に行かなかった。3回戦で白石に完敗して全日本選手権への出場を逃したことも、季節が変わるまで知らなかった。財前が21歳の誕生日を迎えたのはそのすぐ後のことで、それは本来であればにとっても記念日であるはずだったが、ただの平日に変わってしまったことに涙だけが零れた。 財前から連絡が来ないのが答えだと思い、からも連絡を取る努力をしなくなれば二人の関係はあっさりと終わってしまった。 ただ捨てられなかったシルバーの指輪だけが、終わってしまった財前との関係を見張り続けているようだった。 |
| >>25歳 21/06/15再録 |