02.前触れの雨音

 おもろいもん見せたるから、と白石が財前を誘ったのは練習試合が終わってすぐのことだった。正確に言えば、試合が終わってものの一分も経たない頃だった。
 ネットの向こうで唐突に誘いをかけてくる元部長に、財前は目を丸くする。通う大学こそ異なってしまったが、テニスという共通項のもと、今でもよく顔を合わせる白石に誘われること自体はよくあることだった。中学以来の四天宝寺の仲間との食事会でも顔を合わせる仲だから、少なくとも月に一度程彼と時間を共にする習慣が身について久しい。そんな白石から試合が終わった直後、しかも自分が惨敗した後に半ば強引に連れ出されるのは珍しかった。

「おもろいもんて」
「まあ、気晴らしにええやろ。せっかく京都まで来とるんやし」

 慰めようとしているのだろうか、こめかみを容赦なく滑り落ちる汗もそのままに財前は考える。お世辞にもまともな試合とは言えなかった。白石のテニスの腕前に磨きがかかっていることを差し引いたとしても、もう少しまともなスコアにするべきだったと財前自身が分かっている。だから返す言葉も見つからない。
 そんな財前の反応は予想済みだったのだろう、白石は昔を思い出す柔らかい笑みを浮かべて「呼んどるで、部長が」と沈黙を押し流すように教えてくれた。慌てて振り返れば、今のテニス部の部長が早く帰ってこいと手招きをしている。白石と離される形になることになぜか少しだけ寂寞とした思いを感じながら、財前はコートを出た。
 そして連れ出されたのは、自宅のある天王寺へと戻る方向とは真逆の京都へと向かうホーム。現地解散を許してくれた部長に断りを入れて元の部長と連れ立つ財前に、今年から入った一つ年下のマネージャーは目を輝かせていた。四天宝寺というくくりは、自分が思っているよりもずっと知名度のあるものらしい。

「なんでわざわざ京都駅に出るんすか? 帰るのめっちゃしんどくないすか」
「若いくせに何言うてんねん、京都から天王寺ぐらいすぐやろ」
「そら特急使えば」
「……いや、おごらへんで。そこまで俺の財布も優しくないで」

 無理だったか、とちらりと白石を横目で見上げながら普通電車と急行電車を乗り継ぎ、観光客でごった返す夕方の京都駅へと出る。改札を出た向かいが新幹線改札口なのだから、その人混みは並大抵のものではない。混雑が好きではない財前は無言でしかめ面をしていたのだろう、白石に笑われた。

「まあ、わざわざ出てきてまで見るもんて何やねんとは思うわな、普通」
「そらまあ」
「縁起物らしいからな、ちょっと覗くぐらいやったらええんとちゃうかな」
「……縁起物?」

 白石に促されるがまま、構内を抜けて地下街へと向かう。キャリーケースのキャスターが盛大な音を立て合う地下街のさらに奥、少しこじんまりとしたチェーン店のカフェに案内された時、財前の眉根は確実に寄っていた。大阪にもあるような店に、どうしてわざわざ京都にまで出てきて入らなければならないのか。そう思う心も当然見透かされていただろう、白石は相変わらず笑っていた。それが怪しさに拍車をかけるのだと不快な表情を浮かべるものの、白石は全く気にすることなく店内へと促す。
 説教をするにしてももっと違う店があっただろう、あと1ヶ月もすれば20歳になるのだから、お祝いも兼ねて違う店にでも連れて行ってくれたらよかっただろう。口にはしなかったが心の中で文句を言っていたら、さすがに機嫌の悪さに気づいたのか、笑いながら白石がアイスコーヒーを奢ってくれた。
 そして導かれるがままに向かった店の奥、壁際の席にその男の姿はあった。

「白石はんやないか。お、財前。なんや、今日練習やったんか」
「……」
「練習試合な。一応ちゃう大学やで、俺ら」

 そうか、と鷹揚な声で笑う石田の向かい側に、白石は当たり前のようにトレイを置いて腰かける。状況が分からず立ち尽くすこちらの驚きなど、まるで気にしないといった素振りだ。どうして石田がここにいる、という問いかけは用意するのも野暮のようだった。
 そんな財前に優しい配慮をする石田は、中学の頃から変わっていなかった。口元に悠然とした笑みを浮かべたまま軽々と空席の隣の机を近づけ、石田の斜め向かいに財前が座ることができるように用意する。するとすぐにアイスコーヒーは白石の手によってその机の上に置かれ、椅子だけ自分で寄せろと暗黙のうちに伝えられていた。
 二人から若干の距離を取りつつ、訝しむ視線もそのままにとりあえず財前は腰を下ろす。警戒心むき出しの後輩に、白石と石田は揃って笑い声を上げた。

「銀な、ここに通ううちに御利益があるとか縁起物やとか言われ始めてしまって。ここで人生相談するとなんとなく運気が向いてくるて評判なんやで」
「……どうしてまた」
「さあなあ、人に相談されるうちにそれが当たり前のようになってしもうて。まあ、ワシは人の話を聞くんは嫌いやないからな、構わへんのや」
「……そんなコーヒー好きでしたっけ」
「大学に入ってからな。家では豆から挽いてたしなむようになったぞ。最近のお気に入りはインドネシアのマンデリンでな、希少なものらしく味わって飲むとこれがまたうまい」

 その後延々とコーヒーに関する見解を述べ続ける石田を、白石が笑いながら止めたのは数分後のこと。あの石田が説法以外でひたすら話し続けるのを見るのは初めてで、財前はアイスコーヒーを口に運ぶ暇もなかった。
 京都にある大学に通っているとは聞いていたが、確か石田の通う学部そのものは滋賀県にあったはずである。とするとわざわざ途中下車をしてまでこの店に通って、その店で縁起物扱いされているというのは確かに出来すぎた話だ。見せたかったのはこれか、とちらりと白石に視線を送れば頷く代わりに笑われた。
 そうだとしても、別に今日という日に限らなくてもよかっただろうに。その呟きは言葉にはしないまま、財前は黙ってアイスコーヒーを飲む。白石と石田は同級生で互いに京都の大学に通う身であるから、会えば話もあるだろう。しかし自分は今日、白石に情けない負け方をしたばかりだ。そのような時にかつてのテニス部の上級生の元に連れてこられると、まるで自分の不甲斐なさを説教されているような気分になってくる。

「最近は元気にしとるか?」

 その時だった。突然話の舵がこちらに向き、唐突にこの場にそぐわない名前を白石の口から聞かされる。上級生二人の世間話を聞き過ごそうとしていた財前は、その突然の方向転換に思わず言葉に詰まった。

「……元気やと思いますけど」
「そうか。ならええねん。先月会うた時に少し元気ないように見えたって小春が言うからな」

 白石はそれだけを言うと、静かにカップを口に運んだ。それだけだったが、その中に金色の名前が入る時点で普通ではなかった。確信できる何かがあったからこそ金色が伝え、同意できる何かを感じていたからこそ白石が今尋ねている。つまり、元気ではないだろうと言われているのも同然だった。
 原因を尋ねられているのか、それとも原因を自分で探せと言われているのか。しかし思いつく点がない財前はそれ以上白石に返す言葉を持たず、また白石と石田も深く追及してこなかった。ただ財前が押し黙る気まずさを感じていることはすぐに気づいたのか、白石は無理なく話を続けてくれた。

「お前の今度の誕生日で、丸5年か? すごいもんやな、謙也には真似できひんて小春が笑てたで」
「いや、ケンヤ先輩の引き合いに出されても」
「ああ、悪い。素直にみんな羨ましがっとるだけや。許したってくれ」

 素直に謝られては、それ以上の反論も見つからない。もちろんそれを見越して謝罪の言葉を口にしているのだろうが、嫌味の一つも感じさせないこの男はさすがだった。いつまでも自分は白石に従順なままなのだろうと、財前は改めて思う。

「5年も付き合うって、どうなん? そこまで長い時間付き合うた人間は俺らの仲間にはおらんからな、素直に聞いてみたかったんやけど」

 ただのブレンドコーヒーですら絵になるような飲み方をする白石に、財前はただ黙って視線を送る。唐突な質問に驚いたのもあるが、咄嗟に返す言葉が見つからなかったのもまた事実だ。アイスコーヒーの氷がかしゃんと音を立てて沈んでいく。机を挟んだ向かい側では、石田が何も言わずに財前を見つめていた。
 与えられた沈黙の中、強引にではあったが中学以来の恋人を思い起こす。
 どうなのか、と問われたらどうとも言えない。ただ自分の納得するまま、時には欲情的なものに流されながら時を見送っているうちに、いつしか自分たちは大学2年生になっていた。高校も大学も同じ学び舎を選択したおかげで、部活やサークル、学部は違えど根底で繋がっている安心感のようなものはあった。特別に何かを伝えなくても、用意しなくても成り立ってしまっている感覚。それが良いことなのか悪いことなのか考えたことはあまりなかったが、5年という時間を支えてきたのはまさにその感覚だった。

「別に、数えながら付き合うてたわけやないんであれですけど。普通にしとったら普通にこうなっただけで」
「普通?」
「普通です」

 それ以外の答えは財前にも分からなかった。だからそれが正解なのか、白石が求めていた答えなのかも見当がつかない。
 ただ、頭ごなしに否定することは滅多にない白石が曖昧な相槌を打ち、腕を組んで天井を見上げる横顔は若干の不安を財前に抱かせた。ちらりと石田を見てもその表情は変わらない。どう答えてほしかったのか、聞いてしまえば簡単なのだろうがそれ以外の答えがあることを知るのをどこか知りたくなくて、財前も黙ってしまった。

「まあ、こういうもんは本人たちにしか分からん何かがあるんやろう。その点に関してはワシと白石はんはまだまだ未熟やのう」
「せやけど銀、ここで色んな人間の悩み相談みたいなん受けとるんやろ? 恋愛話の一つや二つぐらいあったんとちゃうんか?」
「恋愛? ああ、そういえば先月は小春とここで話したぞ」
「は?」
「小春の恋愛相談ならしかと受け止めたぞ」
「なんやねんそれ! 知らんで俺!」

 珍しく白石が慌てていた。石田がどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべていた気もするが、財前はそれ以上二人の会話に耳を傾けなかった。かしゃんと氷がまた落ちる。少しだけ入れたガムシロップが鈍く揺れている。財前はじっとその様子を見つめながら、ふと先月の出来事を思い出していた。
 それは、初夏の陽気が活気づいてきた頃だった。旅行で家族が全員出かけ、金曜の夜から恋人のを家に泊まらせた。夜には雷雨に変わっていただろうか。翌日の土曜は朝からテニスの練習があったから、二人で夕食をとって早めに寝なければと思っていた。けれど夜、突然の携帯電話に金色からの着信があり、それを当たり前のように取ろうとしたに一瞬腹を立てたのだ。

(いやでも、それは普通やろ。俺のおらんところでも電話しとるんかと思うと気分ええはずがない)

 小さな苛立ちはすぐに支配欲に取って代わり、半ば強引にを抱いた。
 昔は、自分が勝手に恋心を抱いて追いかける立場だった。だが付き合ってからはその差も縮まり、最近ではがこちらの反応を窺うような素振りがある。それは自分を意識してくれている、かつて他人に向けていた視線を自分だけに注いでくれるという認識でしかなかった財前は、深く意味を考えなかった。自分だけの人にすることができたという喜びしか感じていなかったとも言えるだろう。
 ストローを幾度か揺らし、氷がグラスに当たる小さな音を聞きながら考える。相変わらず隣の席では、白石が動揺を隠せないまま石田に事の詳細を尋ねていたが、守秘義務だと言い張る石田は頑として譲らなかった。

(そんで、部長との練習試合になって。で、無駄にこの人が綺麗に相手をするから。それもむかついたんだ)

 そうは思うものの、白石という人間を財前は心から尊敬していた。口に出して言うことは滅多になかったが、この人の言動に逆らったことは今までほとんどなかったように思う。それは白石も気づいているだろう、勉強にしてもテニスにしても、中学時代から白石に勝てるものなど数える方が空しかったのだ。
 唯一彼より自分が経験を積んでいると言えるのは、恋愛に関してだけだった。外見も中身も見事に整っているはずなのに、白石という人間はなぜか人と付き合っても長続きしない。大抵告白されて付き合うのに、大抵その人に振られて終わっている。しかも当の本人もそれを気にしている素振りがない。金色の恋愛事情などより自分の心配をしたらいいのに、とアイスコーヒーを飲みながら黙って白石の横顔を見つめると、まだ金色の話を石田から聞き出そうと必死になっていた。
 だからこそ分かる。彼がと話すのは、5年間もを笑わせてくれるのは恋愛感情がないからだと。そこに嫉妬する自分は、蚊帳の外にされていることが気に入らない子供なだけなのだと。
 けれど実際目の前でその光景を見せられて大人しく納得できるほど、まだ自分も成長できているわけではない。かつて、こちらの勝手な恋情に全く気付いていなかったを無理やり振り向かせ、片想いの渦に引きずり込んで他の男を好きになる可能性をむしり取った。それが自分たちの始まりだったという、負い目にも似た感覚はまだ心のどこかでくすぶっている。だからこそ、普通にしていれば5年も共にいることができたは、本当に心から安心できる人であったし、失くせない。それに甘え、縋りたい自分は隠しきれない。
 だからあの日は、練習試合が終わった後でが弱いと分かっている表情で誘いをかけ、また家に泊まらせた。帰らせなかった。夕食も取らず、逃げないと分かっている体を腕の中に閉じ込める感覚はひどく独占欲を刺激したし満たしもした。

(……あれ。そういえば)

 そこまで思い出して、財前はグラスの中でストローを回していた手を止める。
 その後のの態度がいつもと違っていたような気がすることに、今更ながら気づいた。

「……光くん、起きて。光くん」

 その声で、深く寝入っていた自分は起こされた。

「ね、もう一回」

 耳元に囁かれた言葉に重たい瞼をそっと動かせば、珍しく唇を求めらた。
 何がもう一回なのか最初はよく分からなかったが、まだ高く昇っている月を確認して夜であることを確認して求められるまま唇を重ねて抱き寄せた。そして、もう一度ベッドに組み敷いた。白いシーツに広がる黒髪はいつも綺麗で、自分しか口づけたことのない鎖骨は怖くなるほど繊細だった。
 今となっては名前も思い出せない、中学2年当時が先に付き合っていた男との関係は、本当に上辺だけのものだった。それに気づいたのは、初めて唇を重ねた時だっただろうか。自分だけが初めてなのかと思っていたらが意外なほど顔を赤らめていたのを見て、ああ自分が全てを手に入れてよいのだと勝手に嬉しく思っていたことを、は気づいていただろうか。

「珍しい」
「……だめ?」
「全然」

 会話はたったそれだけで終わった。唇を重ねてしまえばは言葉など発せなかったし、その後自分だけが触れたことのある肌に指を這わせれば、言葉にならない声しか口をついて出てこなかった。
 珍しくから誘ってきたかと思ったら、珍しく声を押し殺すこともなく、珍しく何度も縋るように背中に手をまわしてきた。このような時、その小さな手は髪や腕、背中を撫でてばかりだった。ところがあの日は、微かな痛みを覚えるほど強く抱きつかれた。背中に口づけて覆いかぶさった時には、手の甲の青筋が目につくほどシーツを強く握りしめていた。眠りにつかせるまで何度抱いたのか、財前でも覚えていない。
 石田と白石の戦いはまだ続いていたが、唐突にそのようなことを思い出して財前はじっとアイスコーヒーを見つめる。思い返せば違和感しかない。自分に都合のいいように溺れた時間は、向こうにとっても同じ時間であっただろうか。確証はどこにもない。むしろ珍しさはそれを否定する材料とならないか。

「せやから言うたやろう、この手の話に疎いんはワシと白石はんやと。それが答えになっとるやないか」
「……! ま、待て銀。俺は今聞かんかったことにする」
「うん? なんや、それやったら教えてやろう。小春から実は許可をもらっておるからな。実はのう」
「聞かへん! 聞かへんで!」
「医学部の女子がのう」
「医者繋がりか……って、ちゃう。聞かへん言うとるやろ!」
「医学科やなくて保健学科の女子がのう」
「……看護師か」

 攻守交替で白石が慌てているが、助ける余裕はない。もはや二人で遊んでいるかのように見える白石と石田には目もくれず、財前は携帯電話を取り出してとりあえず当たり障りのない言葉をメッセージに流す。練習終わったと伝えたらお疲れ様とすぐに返ってくる。白石と京都にいると続けたら羨ましいと添えられる。なんてことはない、当たり障りのない会話はすぐに始めることができるし延々と続けることもできる。もうすぐ帰ると親指で手早くメッセージを送った後、ほっとしている自分に気づいて財前は思わず目を見張った。

(……なんで緊張してんねん。別になんもおかしなとこなんか)

 ない、と言い切りたくて携帯電話の画面を見つめる。自分の言葉には必ず返事を、しかも短い時間で用意してくれるとのやり取りは当たり前になっていて、この流れのどこかにおかしな点があっても自分ではよく分からない。
 ただ心の中にいきなり居座った憂いのようなものに、鼓動が一瞬だけ速くなったような気がした。それは試合中敗北が近づいている時に感じる動揺にも似ていて、財前は思わずメッセージを送り続けてしまった。
 今から帰る。ご飯食べに行こう。無粋な自分には飾った言葉は作れないし送れない。けれどたったそれだけの言葉にもはきちんと返事をしてくれて、そして大抵の場合断らなかった。
 大学の図書館にいたことを教えてもらい、財前は頭の中で計算しながら大阪駅に向かうおおよその時間を伝える。天王寺まで一緒に戻って、向こうで落ち着いて夕食を取ろうと端的に伝えたら、すぐに許諾の旨の返信が届いた。

「部長、俺用事できたんで帰ってもええですか」

 携帯電話をしまい、急いで飲みきったグラス片手に立ち上がろうとすると白石と石田はあっさり許してくれた。そして当たり前のように財布から千円札を取り出し、財前に渡す。何のお金だと目を丸くすると、特急代やと付け加えられた。

「わざわざ来させてしもたからな。天王寺までやったらこれで足りるやろ?」

 まだ座ったままの白石に、財前はテニスバッグを肩にかけながら慌てて首を横に振って押し返す。

「いや、大阪で一度降りるんでええです。すみません」

 それだけで予定が伝わる白石の聡明さには、感謝すればいいのか恥ずかしがればいいのか。そうかとだけ呟く白石の顔には笑みが浮かんでいて、石田があの大きな手を上げて見送る。それは何度も目にしたことのある光景で、思わず頭を下げてしまう癖も昔のままだった。
 何を慌てているのか、自分でもよく分からない。それでも列車が到着するホームで待つ時間はもどかしく、車内で携帯電話を触って時間を潰そうと考える余裕もなかった。大阪まで最速で到着する列車はもちろん混んでいて、ドアに寄りかかって外を眺めていた時に雨粒が一つ二つと打ち付けられ始めた。
 そういえば、梅雨の真っ最中だった。今朝練習試合をしている時にはすっかり忘れるほどの青空が広がっていた空は、夜を間近に控えていることもあってどんよりと暗い。ようやく到着した大阪駅の照明はただひたすら眩しかった。
 雪崩のような人の流れそのままに列車を降りた後、急いでエスカレーターを上り、環状線のホームへと向かう。そしてたどり着いた先、ホーム中央辺りの壁にもたれて空を見上げていた横顔を見つけた時、自分は少しほっとしていた。その事実を、財前はどのように受け止めればいいのか分からないまま近づいて、そっと手を握る。

「びっくりした。早かったね、お帰りなさい」

 呼気が荒れるほど駆け足でここまでやってきていたことに気づいたのは、に上手く言葉を返せなかった時だった。
 環状線の電車がやってきては乗客を降ろし、喧騒を生み、そして去る。その繰り返しの中で聞こえる雨音は小さく、鈍色の空は駅の照明に負けて霞んで見える。
 手の中にあるの手は、ひどく冷たい。思わず五指を絡めるように握り直せば、目の前の恋人は不思議そうに困ったように笑った。



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1ヶ月前の出来事   21/08/04