| 身勝手な楔 25歳 |
もう財前とは遊べへんのやな、とポツリと金太郎が呟いたのはいつのことだっただろうか。 秒単位で勤務体制が整えられた職場では、金太郎のような時間に対する大らかさは持ち合わせられない。就職してすぐのころ、新人教育の基礎として教え込まれた時間厳守の考え。遅刻の常習犯である金太郎の前でついうっかり口をついて出たその言葉に、金太郎はしみじみと年月の経過というものを感じて呟いたのだった。 「誰も予想せえへんわ。なんでお前が鉄道やねん。お前のどこにサービス精神が根付いとんねんっちゅう話やで」 「公務員が無駄にサービス精神出すのもどうかと思いますよ、俺は」 「そういう意味ではケンヤの仕事の方が誰も予想せえへんかったわな。お前のどこに公僕精神が身についとんねんっちゅう話やで」 「なんやねんこの前賞金取ったからて偉そうに! お前は逆にみんなの予想を裏切ってサラリーマンでもせえよユウジ!」 「は。何言うてんねん、僕が芸人になることで喜んだり幸せになったりする人がいらっしゃいますから僕は厳しくも長い芸人としての人生を切磋琢磨しながら歩んでいこうと決意したというのにその思いを踏みにじるようなそんな物言いはどうかと思いますよ忍足謙也くん!」 「きもいねんお前の長文は! 標準語やめえや!」 たまに集まった時ぐらい、静かに近況報告などできないものなのだろうか。それとも世の中の腐れ縁からくる上下関係の世界の中では、この漫才を見届けることは後輩の義務なのだろうか。芸能人ながら存在をまるで隠そうとしない一氏に、職場からこの居酒屋に直行してきたスーツ姿の忍足が喧嘩を売る姿は、もはや漫才の様相を呈している。 「ま、社会人テニスができて関西地区で戦えたらどこでもええとは言うてたけど。確かに他にもあったでしょうよ、光くん。結構スカウト来たって聞いてたんやけど?」 「まあそれなりには。先輩かて医者以外にもなれたんとちゃいますか、逆に新鮮味に欠けますよ」 生涯の仕事に新鮮味もなにもないわ、と明るく笑い飛ばして金色は財前の前に生ビールを置いた。いつの間にか勝手に注文されていたこの3杯目の中ジョッキは、既に5杯飲み干して平然としている金色からの挑戦状のようで財前はため息をつく。 「俺、明日早いんすけど。しかも先輩らと違うて酒量検査出勤のたびにやってるんすけど」 「アルコールをコントロールできひんようじゃ四天宝寺出身とは言えないわあ、ねえユウくん!」 「そうやでえ! 飲むなら飲まれて飲まれて飲まれてやで!」 「負けとるやないか酒に」 師範に介抱してもらうからええねん、と一氏は忍足に笑って石田の横で鼻歌まじりに再び飲み始める。相変わらず表情に一切アルコールの影響が出ない石田は、もたれかかる一氏を気にすることなく杯を交わしていた。 「なんやねん、26歳にもなって誰も浮ついた話がないんかい。寂しい飲み会やなあ」 白石がテニスの練習で来られなくなったという連絡が入った時、一氏はポツリと呟いた。 数か月に一度の割合で開かれるこの飲み会で、ここ最近妙に頭をもたげてくる話題。芸能人をしている一氏が明け透けに口にしてよい話題とはあまり思えなかったが、上級生のこの手の話題を面白く感じるようになってしまった自分に、財前は年月を感じる。 「まあ、新しく作るもよし。引きずった恋を取り戻しに行くもよし。人それぞれよ、ユウくん」 「なんやねん俺は引きずってなんかないでえ!」 「グラビアアイドルとの逢瀬はほんまやったんか。色欲やのう」 「悪いことみたいに言わんといてや師範、俺告白された側やからな」 「告白されて尊大に座すも、告白をして自分に酔うも、どちらも自己満足よユウくん。気持ちは伝え続けてなんぼ。誠意があってなんぼ。ねえ、光くん」 明日の出勤時刻を気にして携帯電話を触ったその瞬間、金色が懐かしい笑い方で自分を見つめる。 中学時代に何度向けられたか分からないその笑みは、大抵の場合自分でも気づかない感情の奥底も裏側も、全て見透かされている時に向けられるものだった。 関西で社会人テニスを続けられる場所は案外多く、社員として属することでテニスをする環境を整えてもらえるのは、就職活動に難航するだろうと言われていた自分にとっては恵まれた話だった。 その中でも今の鉄道会社を選んだ当時、あの金色でさえも目を丸くしたのが忘れられない。白石が日本リーグ常連の強豪に引き抜かれたのに対し、忙しさや厳しさでは随分と違う道を辿ってしまったように見えたのだろう。結局大学を卒業してもテニスと関わりのある道を選んだのは白石と財前だけだったが、テニスのかたわらでもスーツをあっさりと着こなしてしまう白石に対して、財前は制服を着用する毎日を送っていた。 「今年の実業団テニス対抗、光くんの会社関西代表になったんやって?」 「はあ、まあ」 「よかったわねえ、みんなで応援に行ってあげようかしら!」 「久々の休みの日にわざわざそれ言いに来たんですか。もう発車するからおいていきますよ」 車掌室の窓から乗り込むばかりの角度でこちらに声をかけてくる金色をホームに置き去りにするのは、もはや何度目だったか分からない。日々担当する行路は異なるというのに、上級生たちはなぜか匂いを嗅ぎつける犬のように突如として財前の前に現れる。それは夜勤明けの金色だったり、定刻通りに仕事を終えた忍足だったり、劇場帰りで若干ほろ酔いの一氏だったり。勤務時間が常に変化する財前は、なぜか大阪を離れようとしない昔の仲間たちの20代に寄り添うような毎日を送っていた。 仕事をしながらテニスを続け、時に仲間たちとアルコールではしゃぐ。大学を卒業して4年目、車掌の経験も季節を一巡した。慣れてきた仕事の中でテニスを続けられるのは思ったよりも楽しく、財前はそれで構わないと思っていた。 母親と義姉はそろそろ彼女を、結婚をと口を酸っぱくして何度も言っていたが、どうにも気持ちがのらない。大きくなってきた甥にテニスを教えていればそれで面白かったし、恋愛に関しては一氏や忍足の悲喜こもごもな話を聞いていれば事足りた。 「引きずっとるからそうとしか答えられへんわな、財前。大切にしとったつもりやったのに、泣かせて終わりとか。怠慢やったなあ」 「アタシたち何度も忠告してあげたでしょ。自分の近くに来てくれたらそれで終わりちゃうよって。指輪かてもっと理由をちゃんと言うて渡せばよかったのに。ああ、じれったい」 その日も車掌室に乗り込みそうな乗客2名を、列車の発車時刻に合わせてきちんとホームに残してきた。大阪を離れる神戸行路に配属されていたというのに、この人たちは一体どのような情報収集能力を持って発車時刻に現れるのか甚だ不思議でならない。そして仕事をしているのかと本気で思うのだが、白石という男はテニスも仕事もそつなくこなして色男ぶりを発揮しているのだというから、ますますもってつまらない。 夏の夕暮れ前の神戸は大阪とは違った空気がある。生まれ育った街はもちろん大切だったが、こうして違う空気に触れることは気持ちを落ち着かせる力を持っていた。 (最近やけに思い出すな。なんやろ、もう片付けたつもりやったのに) その日3度目の神戸で、折り返しからの発車待ちの合間に財前はぼんやりと記憶の糸を辿った。忘れられない初恋と、忘れたい失恋と。どちらも同じ人に与えられた愉悦と辛苦は、心の奥底からこの年になっても離れようとしない。自分では大切にしているつもりだったのに、いつのまにか追いつめていた5年間という記憶は、財前が自分の性格を見直す大きなきっかけとなった。 (まあ、今更俺の性格が変わったって、誰が気にしてくれるわけでもないんやけど) 心苦しい記憶ではあるものの、そこから5年という月日が流れている。さすがに傷心に浸って身動きがとれなくなる時期は過ぎていた。こうして過去の話として、いつか思い出しもしなくなるのだろう。その時、自分が大切にしていた初恋も一緒に葬り去らなければならない事実を受け止められるか、折り合いをつけるとしたらそこだろうと思い直しながら、財前は車掌室の窓から顔を出してホームの様子を眺めた。 そして、言葉を失ったのだった。あの中学の時の、肌寒い3月の教室の時のように。 上りのエスカレーターから電話をしながら現れたその姿は、5年経った今でもすぐに分かった。正確には大学卒業まで見つめていたのだから、会っていない期間は3年ほどか。しかし中学の頃からの面影がしっかりと残るその姿に、財前は見間違いはないと確信する。だった。 、と声に出しそうになって財前は一度口を閉じる。自分とは距離を取った人だ。自分の不甲斐なさに涙して特別な距離を断ち切った人だ。特別な呼び方は金色のような人間でない限り許されない。しかし財前がためらって言葉を探しているうちに、は電話を終えてホームの先へと向かっていく。財前は深呼吸を一度した後、いつもより少しだけ大きな声を出した。 「」 改めて口にして、他人行儀を響かせるその呼び方に自分で驚く。振り返ったはどこから自分を呼ぶ声が届いたのか分からずきょろきょろとしていたが、やがて一点からの視線に気づいて目を丸くした。それはまるで、財前が告白をしたあの時のようだった。 「……光くん?」 「なにしてんの、こんなとこで」 発車時刻を確認しながら一度乗務員室から出る。まだが信じられないという顔をしていたので、また時計を確認しつつ制帽を取ると、余計に信じられないという顔をされてしまった。 「……光くん、今車掌してるの?」 「まあ、いろいろあって。なんや、大阪以外でも電車乗れるようになったんか。どこ行くん」 もともとメイクに時間を割くような人ではなかった。大学生になってそれなりに化粧はしていたが、25歳になったには財前が見たことのない艶がある。2年7組で見続け、高校と大学では触れることを許された髪は、随分と伸びていた。 「うん、ちょっと。百貨店の中に店舗があって、そこの様子見て、それで今から次の店舗に……」 「……百貨店? うちの?」 「あ」 は咄嗟に口元を手で押さえると、迷惑だったのだろうかと財前が心配るすのをよそに笑いだした。その意外な反応に財前の方が目を丸くし、「そら電車乗れなあかんわ」と苦し紛れな言葉を呟くと、笑いながら頷いてくれた。 自分を見上げる視線の高さが昔と違うのは、自分の背が伸びたせいか。との距離があるせいか。ぎこちなさを感じつつも、それでもが5年ぶりの接触を笑ってくれる事実に財前は喜んでいる自分に気づいてしまった。 「どこまで乗る?」 制帽をかぶり直し、名残惜しさを感じつつも習癖となっていた時計の確認をする。まもなく発車時刻である。梅田まで、と呟くに妙な懐かしさを感じて「ホームやん」と伝えたら少し怒られた。返してもらえる言葉や笑みが、この5年の心の隙間をきちんと満たしていく事実にどうしようもなく嬉しくなる。 発車前には手を振り、気遣いなのか財前の乗務員室から見える一番後ろの車両に乗り込んだ。白手袋をした手を上げて挨拶をして、車内放送の準備をし始めようとしたその時、財前はふと思い出して手が止まる。 の左手には、光る指輪が飾られていた。 ああ、と言葉が完全に喉の奥に引っ込む。伝えたい言葉が形を成さないまま胸の奥、心の下に嫌な感情とともに溜まりだす。笑ってくれたのは懐かしがってくれたからではない、気持ちを昇華させてしまっていたからなのだ。 車内放送の一部が自動音声でよかったと今日ほど思ったことはないかもしれない。大阪までの30分ほどを、行路表通りに淡々と業務をこなしていけば一応は成り立つこの仕事を、今日ほどありがたいと思ったことはない。 大阪に着く手前で乗務員の交代があることは伝えていなった。数駅手前で乗務員室から降りる自分には気づいてくれていたような気がしたが、財前に確認する余裕はない。ただ去っていく電車を見つめるのは、5年前の試合会場のあの時の気分に似ていた。 「アホやな、財前。悪いけどはっきり言わせてもらうで。なんでそこで引き留めて、きちんと自分の気持ちを伝えへんかったんや」 スーツを当然のように着こなすこの男には、結局10年経っても説教を与えられる。いや、昔の方がもっと諭す言い方をしてくれていたかもしれない。 テニスや仕事の都合で神戸に来ることの多い白石は、なぜか財前が乗務する列車に乗り込んでくることが当たり前になっていた。この駅が折り返し地点になっているのが悪い、そんな列車ばかり載っている自分の行路が悪い、と心の中でぶつぶつと文句を言っていたら、すぐに見透かされてしまうのも面倒だった。 「大体指輪なんて、ただの飾りかもしれへん。結婚したなんて聞いてへんのやろ。お前かて高校の時にあげとったやないか、あれは結婚指輪のつもりやったんか? ちゃうやろ」 「やけにつっかかりますね。仕事でトラブルでもありましたか」 「財前。俺が仕事で失敗すると思うか?」 「なら彼女さんですね」 秒単位でも沈黙を生んでしまった事実を、白石はもっと深刻に受け止めるべきだと思う。発車前の車掌に文句を言う図はただのクレーマーのはずなのに、誰も同情の目を向けないあたり、白石のしたたかさを今日も思い知らされる。 「5年経っても引きずるぐらいなら、そうせえって合図やと俺は思うけどな。奪い方は勉強済みなんやろ?」 財前の腕を軽く叩いて、白石はさっさと改札口へと向かっていった。この列車に乗るのではなく、出かける前に財前を待ち伏せしていたと気づいたのはその時だ。どのような善意を育てればここまで他人に優しい人間になれるのか、自分に優しくしてくれるのか、この年になった今でも不思議だった。 ただ、白石の言葉は相変わらず自分の背中を押す強大な力を持っている。 そしてこの意思は間違った道を選んでいないことを、その時再び目の前に現れたが認めてくれているようだった。 「また光くんの電車やね」 柔らかく笑いながら、今日は駆け寄ってきたに財前は小さく笑う。その笑い方はどこか懐かしく、どうしてここまでほっとするのかと考えたら、自分が片想いをしていた頃の笑い方だと気づかされた。5年前の苦々しさがじわりと胸の奥に広がる。 付き合っていた時には、心から笑わせてあげることがどれほどできていただろう。改めて痛感させられるその事実に、財前は制帽を深くかぶり直した。 「」 「うん?」 「俺、お前に言わなあかんことがあると思う」 見上げる瞳が丸くなるのはの癖だ。しかしその瞳の奥の色に翳りを生み出させてしまうのは自分のせいだ。笑わせたくて泣かせたくなくて付き合ったはずなのに、その双眸には随分と無理を強いていたのだと、分かってはいたが改めて見せつけられることで心は痛む。 は話を急がせることはしなかった。ただ静かに財前の言葉の続きを待っている。そうだ、思えばいつもこうして自分の話を聞いてくれていた。こちらの用事を優先してくれていた。それをがどう思っていたか考えたこともなかったくせに、金色と仲良くするに嫉妬する気持ちだけは憮然として伝えてしまっていた。そんな過去がとてつもないスピードで頭と心の中を駆け去っていく。 「携帯、番号も全部変わってへんから。……って、ああ、ちゃう。そうしろって意味やなくて、」 発車が近づき、秒単位で刻まれた時刻表を白手袋の指先で辿りながら呟く。あと1分弱。その限られた時間で何を言えばに一番理解してもらえるのか、言葉を選んで伝えるという技術に関しては未熟すぎる自分の性格をとことん恨めしく思った時、視界の片隅でが笑った。 「私も変わってへんよ。メッセージ送ったら、読んでくれるん?」 それは自分の台詞だと、慌てて言い返そうとしたらは電車に乗り込んでしまった。車掌室と車内を隔てるガラス越しに、10年前を彷彿とさせる笑みを向けて。 自分がその笑い方に弱いことを知ってくれているのだろうか、財前は懐かしい動揺に思わず制帽を深く被って顔を隠した。の笑い声が聞こえたような気がした。 やがて、車内放送を少しだけ行いながら心の中に宿ったのは、悔しさだった。 (あの時追いかければよかった。止めるんやった。そしたら、あの指輪は) あの左手に飾られることはなかったのかもしれない。かつて自分が贈ったものだけを大切にしてくれていたのかもしれない。そんな後悔が言葉にできない分胸の中で膨れ上がる。ただし別離の痛みに満ちたこの5年がなければ自分の失敗には気づくことができなかったし、が再び柔らかく笑いかけてくれることもなかったかもしれない。どちらが正しいのか分からないまま、ただ列車はの目的地に向かって粛々と仕事をこなしていく。 梅田駅の手前で乗務員を交代して、今日の行路は終了だった。だからといってそのままについていくわけにもいかず、今日も自分は見送ることしかできないのだろうかと苛立ちながら乗務員室を降りる。引継ぎを簡単に済ませてそっと列車を見送った視線の先、ホームにはの姿があった。 「……梅田まで行くんとちゃうん」 「最近仕事頑張ったから、今日はもう直帰してええって言われてるの。……あ、降りたら駄目やった?」 許可を取るような問いかけは若干トラウマにも似た空気がある。財前は慌てて首を横に振り、乗務鞄を持ってに一歩一歩近づいた。 どうして降りてくれたのか、自惚れのような問いかけが喉元まで出かける。しかし肝心なところで言葉がうまくでてこない。そんな財前を見て、は今日もただ笑うのだ。 「光くん、この前声かけてくれたやん。名前、呼んでくれたやろ? 光くんから声をかけてくれたんやったら、それはすごい大事なことがあるって意味やから、せやからまた今度会ったら絶対降りるって決めてた」 「え?」 「5年も彼女するとね、たぶん私光くんよりも光くんのこと詳しくなったと思う。ああ、小春先輩には負けるけど」 どうしようもなくなった時にしか、自分から言葉を発しないでしょうと。懐かしさの中に少しだけ寂しさを織り交ぜて呟いたの表情は、この先も忘れることはないだろう。忘れてはいけないだろうと思った。 理解はしていたはずの、自分の口下手な性格。それは問題を引き寄せない代わりに不安を産み落としていく、諸刃の剣だ。その性格を知っていてそれでもなお自分と接する時間を持ってくれるを、自分は諦められるのだろうか。償う時間を持たないまま、再び別れることができるのだろうか。 「指輪」 問いかける心は勝手に言葉を出させていた。財前から始まる会話に、は驚きながらも静かに次を待つ。 「俺、指輪渡した理由きちんと伝てへんかったよな。もしかしてあれ、先輩らに言われたから買った思て……」 「……」 「……思っとったんやな、その顔は」 「小春先輩、にやにやしてたし。めっちゃ、すっごいにやにや。白石先輩も」 「ちゃうんやって、あれは」 「これ?」 その時、は初めて左手の指に光るものを正面から見せてくれた。 プレゼントした当時こそ輝いていたシルバーの指輪は、大学生になった頃には傷やくすみで随分と大人しい存在になっていたように記憶していた。それは自分が注意して見ていなかったせいだと今になったら分かるが、当時は物があるかないかでしか見ていなかった。彼女の左手に自分のものを飾ることができた、そこで満足してしまっていたのだ。 の左薬指に飾る指輪を用意していいのは自分だけだと、あの頃は手前勝手にそう思っていた。それは白石や金色に唆されたからではない、自宅で自分にお節介を焼く義姉が、結婚という一つの壁を乗り越えている人が大切に扱っている姿を日々見続けてきたからこそのプレゼントだったのだ。 その指輪が今、の左手薬指にはめられていた。緊張しながら購入した高校生の時となんら変わらない、小さな光りとともに。 「ごめんね、これだけは捨てられんくて。まだ大事に持ってた。つけてた。ごめんね」 いろんなこと言えない代わりにくれたんだよね、とは笑った。別れてからきちんと手入れし直して、昔のように光らせたと自慢げに言った。 「おかげで今でも光くんどまりだよ、私の彼氏。どうしよう。もう25なのに」 は自分を言葉で表現しない人間だという。確かにそう思う。だからこんなにもくねくねとした面倒な道を歩いてしまった。おかげで自分の性格に気づけただろうと言われたらそれまでだが、しかしにも責任があるだろうと財前は心から思う。 「」 「うん?」 「そういう言葉はな、気軽に言うもんちゃうで。言える方が偉いわけちゃうで。ちゅうか、そういうのは俺が言わなあかんねん。これ以上俺を駄目なやつにしたらあかんって」 「そういう言葉って」 「今から責任取ったる。今決めた。そうさせたのはやからな、もう嫌や言うても聞かへんで」 まくしたてた勢いそのままに、財前は乗務員区に戻って終了点呼を終えると、駅の改札口で待たせていたのもとに走った。「梅田心斎橋三宮」と矢継ぎ早に問いかけると、「光くんの電車に乗ろうよ。たくさん」とあっさりと神戸方面へ戻るホームを選ばれた。 場所はどこでもよかった。そのあたりに行けば大抵大きな百貨店があることぐらい、財前でも知っている。そうしてを連れ込んだのは照明の眩いジュエリー店。あまりに安直な行動には目を丸くするだけでなく絶句して立ち尽くしていたが、財前は持ち前の遠慮のなさでカウンターへと近寄り、話しかけられた店員に指輪を求めた。 20代の男女が若干緊張しながら、しかし漂う空気に初々しさがないことを瞬時に見て取るプロの店員はあっさりと、 「ブライダル用ですか?」 さも当然のように尋ねるものだから、男の矜持として財前は即答するしかなかった。 「はい」 勢いで口にする。しばらくしてから振り返った先には、中学3年の誕生日のあの日、頬を赤らめながら自分の想いを受け入れてくれた初恋の人と同じ人が、笑っていてくれた。 「まさかあいつに最初に御祝儀を用意することになるとは思わんかったで、俺は」 「ユウジ、結局あのグラビアの子とは別れたんか。勿体なかったな」 「世知辛い世の中やのう。しかし煩悩があるがゆえの人間でもある、気落ちせんとな」 「銀、今日仏前式とちゃうで。一応神前式やで。俺ら見られへんかったけど」 「光くんの紋付袴、ええわあ、よすぎるわあ!」 新郎友人席のにぎやかさはかつてないほどだったと式場のスタッフに笑われた。方や芸能人、方やテニスの有名人。そしてどこの住職かと尋ねたくなる圧倒的な存在感の男に、体調不良となった新婦友人の妊婦対応に適切な指示を出す男。それらを温かく見守る好青年がいるかと思えば熊本弁が豪快な笑い声をあげ、挙句の果てには細身の青年が瞬時に料理を平らげてしまうという、どのような組み合わせでこのテーブルが作られたのかとスタッフが興味津々になっていたというのだから、四天宝寺という括りは卒業しても侮れない。 財前のおかげでテニスに詳しくなった母親と義姉は、息子と義弟の晴れ姿そっちのけで新婦となるをもてはやした後、白石にこれでもかとビールを注ぎに来た。その飲まされっぷりはまるで新郎のようで、財前が親族席に二人を追いやるまで続けられた。 やはり招待すべきではなかったかもしれないと、高砂席に満面の笑みで現れた先輩二人にため息をつきたくなったその時、 「、よかったなあ」 「ちゃん、今幸せ? 幸せ?」 ビールとワインを持った二人に問いかけられたがはにかみながら頷き、財前と繋いだ手をそっと見せる。その温もりの前では、どうしても自分は口下手にならざるをえなかった。 |
| 21/06/15再録 |