| 恋しき帰路 03 |
部活を終えて帰宅した家は、薄暗く肌寒かった。 当たり前か、と鍵をテーブルの上に放って財前は小さく息をひとつ零す。いつもであれば一番に迎えてくれる義姉も、愛想と丁寧さがない行動に呆れる母も今日はいない。今朝財前が部活に出かける前までは全員揃っていたはずのリビングに、今は財前ひとりだけだった。 出迎えてくれたのは、夕陽も落ちた冬の夕方の景色。 テーブルの上には、書き置きらしきものもない。朝出かける前に「いってらっしゃい」という言葉と笑顔とだけを向けてくれた義姉の表情が最後になっていた。 いつもの癖でマフラーと鞄をソファに預ける。だが照明をつけたあと、その光景をしばらく見つめてから財前は両方とも自分の部屋へと移動させる。整理整頓は苦手ではない部屋は、とりあえず人を迎えられるだけの準備は整っていた。 (……せやけど、俺結構すごいこと言うたんかも) 珍しく帰宅早々ハンガーに手を伸ばす自分の行動に驚いて、一度動きを止める。止めると、その違和感の原因が勝手に頭の中で何度も再生される。 ふたりっきりの昼休み、素直に言うことにしたがって口を開けたの姿が一番によみがえる。その姿を当然のように受け入れていた自分。しかし改めて思い出してみると、そして今同じことをしてみろと言われると、まるでできる自信がない。ため息も零れるというものだ。 (……いや、いやいやいや。ちゃう。ちゃうねん、別におかしなこととかないねんって俺。この前あんなことあったばっかしやから、これは、その、真面目にあいつのこと考えるっちゅうかなんちゅうか) クローゼットに強引に制服を押し込む。ふいに、名札が目に入った。 なによりも一番この左手で書いてきた自分の名字は、もはや書きすぎてこれといった印象はない。あまり多くはない名字だと思うだけで、アイデンティティとして確立はしているが誇りとはまた別のものだと思っている。自分のことをこの名字で呼ぶ人間が多いからかもしれない。それらに自分というものを勝手に決められたくないという天邪鬼な考え方は、恐らく母の遺伝だろう。 その心情は、誰にも伝えたことはなかった。伝える理由も相手もいなかった。 財前くん、と最初は呼ばれた。呼び捨てにすることが珍しくない女子が多い中、は最初にそう呼んだ。そして今は決してその呼び方をしない。 『あ、光くん? 今家出たよ』 携帯電話には、メールではなく電話の着信が訪れた。私服に着替えながら電話を耳にあてると、少し弾んだ声が飛んできた。 「分かった。駅前でええ? そう、3番出口。俺も今から出るわ」 鍵を取り、無造作に靴を履く。邪魔にならないようにマフラーを結び、ドアを開ければ既に夕方という言葉は似つかわしくない空が広がっていた。 部活が終わった後の身体は、ひどく空腹を訴えていたことにその時気づく。夕飯をどうするかと考えはするものの、鍵をかける前に振り返った部屋の中に当然何の準備もない。 『光くん、ご飯食べた?』 「まだ」 電話なのにどうして思っていることが伝わるのだろう、と少し驚いた。 『あ、せやったら買い物行ってもええ? 私晩御飯作るよ』 「……あ、そう」 無愛想な返事なのにどうして笑ってくれるのだろう、と驚きを通り越して言葉をなくした。 誰もいないことを今更ながらに確認をし、財前は鍵をかけて家を出る。冷静を装うことがおかしいのかと思うほど、心に波打つ熱が身体を支配しているような気がした。 冬の寒さなど気にならない。手袋を忘れたことを悔やむのもひどく情けないとしか思えない。自分は今ただ、自転車とともに待ち合わせ場所に向かえばいい。誰かがそう言っていて、それに従うことが全くおかしくない。正しい。 たった1駅分の地下鉄を乗らせたのは自分だった。は歩いて行くと渋ったが、この時間帯にひとりで出歩かせる理由はない。ただし迎えに行けるほどの度胸もない。夜を照らす駅の明かりの下、大きめのバッグとともに待っていたに財前は近づくことで返事とし、手を差し伸べることで荷物を持つことを伝える。はただ笑っていた。 「光くんの家、お鍋ある? よね?」 「え? ああ……あるけど、どこにあるかは知らんで」 「ううん、ええよ。使わせてもらえるんやったら、私探す。ちょっと台所触らせてもらうけど」 「それはかまへん、多分」 なにを作るのだろう、と聞くことはできたがあえて尋ねなかった。 近くの大型スーパーに出向き、夜7時前の混雑する時間帯の売り場をは存外器用に歩いた。買い物などコンビニで済ませられればいいという考えが基本の財前は、カゴを持つと言うこととその後ろをついていくことだけで精一杯だ。 周囲を見渡せば、仕事帰りの大人が慣れた手つき、足取りで買い物を済ませていく。料理の結果しか見る機会がない財前は、その仕草に妙に感心して視線を向けていたら若い女性に訝しげに見つめ返されて慌てての傍に行った。 (……今気づいた。俺ら、どう見られとるんや?) マフラーの中に口元まで隠れるようにして、はたと気づいて考える。振り返ってみたがあの女性は既に違う売り場へと向かっていて、自分たちを見つめている大人は誰ひとりとしていなかった。 誰も咎めない。誰も、不思議に思わない。 財前はカゴを持つ手に少しだけ力を込め、少しばかり心もとない目で野菜を選ぶの隣に並んだ。 「なに作るん」 「んー? お鍋。あんま私も料理できひんのやけど、野菜取ったらってお母さんが。お鍋やったら結構簡単にできるし」 「……そういえば、よう許してくれたな家の人。嘘ついたんか」 「嘘つくつもりやったけどばれた。で、どうせやったらちゃんと彼女らしくせえ言うてお母さんが3000円くれた」 「なんなん、それ」 「ご飯代。ちゃんと作ったりって」 せやからお鍋、とははにかみながら答えた。 鍋を食べたことはあるが母や義姉はそんな笑顔を浮かべながら作っていたことはない。ある時鍋物が続いて兄とふたりでそれとなく理由を尋ねてみたら、抵抗もなくふたりはあっさりと「楽やから」と答えるだけだった。それがあのふたりでもあり、料理を作ってもらう側の立場としては何の言葉も返せなかったのだが、しかし次からは文句を言ってしまいそうで財前は考え込む。 「あ、光くんきのことか駄目? うちの家結構なんでもいれてしまうんやけど」 「え? あ、ちゃうちゃう。そういう意味やなくて……別に、食べれるし」 「ほんま? よかった」 その笑顔の作り方を、母と義姉に伝えてくれと思いかけてやめる。あのふたりに微笑まれても、自分の身体は今のような反応はしないだろうとすぐに分かった。思わず手を取ってしまいたくなるような、こんな衝動には絶対にかられることがないのだからそんな笑顔であれば別に多数の人間にもってもらわなくてもいい、とあっさり判断する、そんな身体がいる。 不思議だと、改めて思った。今更ながらに思った。見つめるだけで、そう思えた。 (なんでこんな特別になったんやろ) 財前のカゴの中に材料を入れていくを見つめながら、ふと思う。不自由を感じるから原因を探そうとしてそう思うのではなく、ただ単純にこのような関係でいることを以外の誰かと築くことができる自信がまるでないからこそ思う。 が自分を特別に思ってくれているからだろうか。いや、それであれば他の女子がいないわけでもない。自惚れではないがそれが自分を取り巻く環境の事実であることを、財前は最近になって知っている。 それでは、と考え込んだ時、またが振り返ってこちらを見つめていた。 「光くん? なにか食べたいもの、あった?」 「……え? あ、ちゃう。ほんまにちゃう。ちょっと考えとっただけ」 「食べたいもの?」 「アホ、ちゃう言うてるやろ。なんでもええし、俺」 「せやったら、木綿と絹とどっちがええ? お豆腐」 「……木綿」 ほら、とに笑われる。好みがあるではないかと笑われたが、しかしその手には既に木綿の豆腐があったことに財前は気づいていた。 自分では気づかない、いや気づけない日常の些細なことは、の目にはすべて見えているのかもしれない。もしかしたら特別な力を持っているのかもしれない、最初はそんなことを思った記憶がある。 (ちゃうねんな。ほんま、俺のためにしてくれてることほんまにめっちゃあって、……俺のために言うこともあって言わへんこともあって、俺はそれに気づかなあかんくて) それが苦ではない。それが、当たり前だと思う。それだけだった。 他の女子のためにしてあげたいと思うことはないことが、相手だと当たり前のように出てくる。他の女子と一緒に昼食を取ろうとするだろうか、卵焼きを食べさせようとするだろうか、泊まりにこないかと尋ねるだろうか一緒に夜を過ごそうとするだろうか。いや、ない。 「……光くん?」 うまく説明できないのは相変わらずだった。ただひとつだけ、確実にできるようになったことは、この感情を特別なものとしてもっと素直に受け止められるようになったことだ。 振り返って立ち尽くすの隣を通り抜け、財前は飲料が並ぶ売り場へと足を向ける。慌てて追いかけてきたの前で、紙パックのジュースをひとつカゴの中に入れた。 学校でいつも自分が飲んでいるそれを見て、は嬉しそうに笑う前に頬を赤くしてはにかんだ。 「キッチン、借りるね」 「いや、手伝うし」 「ええ?」 「なんやねん、その顔」 「光くん、この前の調理実習で味噌汁失敗したって小春先輩が」 「失敗やなくて邪魔されたって言うんや、あれは。匙取られてどうやって計量すんねん。俺結構器用やで」 笑われるかと思いきや、知っていると微笑まれてはそれ以上の文句も出なかった。 学校の調理実習は苦手だ。7組の女子は基本的に強気な人間が多く、男子が率先してなにかをしなくとも大抵のことは女子先導で片付いてしまう空気がある。それを男女ともに嫌がっていないし財前も興味がないからいいのだが、理科の実験や調理実習など少人数の班に分けられてしまうと話は別だ。分担がはっきり分かれてしまって、女子の先導という言葉は女子の命令に変わる。それは少し面白くない。だから調理実習は好きではない。だから、料理も好きではない。 だが、人の感情など適当なものだとつくづく思う。 「……なに、その目」 「いや、ほんま大丈夫なんかなと思て」 「なにが」 「いや、お前結構危なっかしい……」 「それは知ってるから言わんといて! 余計緊張する!」 思わず野菜を洗う手を止めて呟けば、は緊張に負けて叫んだ。これがクラスの女子であればもっと罵詈雑言が飛んできそうなものだが、自分という存在をまるで排除しようとしないの基本的な考え方が妙に居心地をよくしてたまらない。 笑いを堪えながら手伝っていると、やがてが泣きそうな顔で抗議をする。ピアスを揺らし、首を傾いで財前は考えると、手を拭いて頭を撫でた。子どもじゃないと反論されるかと思いきや顔を赤らめられてしまったので結局笑ってしまった。 頭を撫でるのが不自然ではないほどに、いつしか自分の身長は伸びていた。 の身体が小さく思うこともあったが、本人に言わせれば自分も伸びているらしい。だが鍋を持つ手はやはり細く見えるし、調味料を取ろうと手を伸ばす姿は小さく見えるし、すべて自分が先回りをした方がよほど落ち着く。 ふたりきりの、誰にも邪魔をされない空間は心から自分の思うとおりに過ごすことができる。 「……どう? 味」 だし加減を尋ねられて口にしたそれは、確かに母や義姉の作るものとは違う味だ。だが違和感はない。違うはずなのに、納得できる味だった。そう伝えるとは嬉しそうに笑った。 テレビの音が遠かった。いつも見ているはずの番組が始まっていたことにも気づかないまま、とともに食事をした。 「あ、うまい」 「ほんま? よかった」 「すごいな、ようこんなん作れるな」 「お鍋やもん、材料とコンロがよかったら誰でも作れるよ」 外は闇。部屋の中には煌々と明かりが灯っている。身体にとっては学校やテニスの練習、部長の責務から解き放たれて一番寛ぎを手に入れられる時間帯だった。それは大抵、部屋で音楽を聴いたり雑誌を読む時間にあてられる。幼い甥の世話で賑やかな家の中で、自分ひとりだけの空間を持つ時間だと、身体はそのように覚えているはずだった。 「あ、せや。光くん、このあと雑炊でもよかった?」 「なんでもええけど……米あったかな」 「もう炊いて持ってきたよ。雑炊に使わんくても明日のご飯に回せるからええかなと思って」 は鍋を持つと、そのままキッチンへと戻っていった。 「お前、なんだかんだと好みのレベル高いよな。そういうの『家庭的』っちゅうやつなんとちゃうんか。なかなか難しいで、今日日」 箸を持ったまま、後ろ姿を見つめるような姿勢のままふと頭の中に忍足の言葉がよみがえる。春の合宿の時だっただろうか、真面目を謳われる小石川でも参加してしまう恋愛の話題の時、好みのタイプを聞かれて咄嗟に答えは出てこなかった。だが自分の生活に欠かせない、家での居心地の良さという条件を口にしたら、忍足はそのように表現をしてくれた。 白石が笑っていた。そのとおりだという合図だった。 (……こういうことかな) 抜群に手際がいいわけでもない。お世辞にも器用とも言えない。何度包丁を取り上げようと思ったことか分からない、ただそのひたむきさだけは自分は真似できない。だから、作ってもらったし食べさせてもらったし、それでよかったと思っている自分がいる。 付き合い始めて、半年近くが過ぎていた。予定と違うこともあった、そもそも予定もうまく立てられていなかった。違和感という言葉はひっそりと傍までやってきていて、幾度となく自分の心もの心も責め立てた。 それでも、この時間をとともに過ごすことを、自分はためらわなかった。 財前はしばらく無言で座って待っていたが、卵のにおいに誘われるようにして立ち上がる。冬の寒さに鍋の温かさは絶対に負けないのではないかと思うほど、足は簡単にまたの隣に立った。 溶き卵と米をまぜていたは財前に気づいて顔を上げると、笑って箸を鍋の中に入れた。 「この前のお返し」 雑炊をすくった箸を、がそっと差し出す。ただし箸の持つところではなく、その先を。 一瞬財前は言葉につまるが、ためらいもほんのわずかな時間しか生きなかった。素直に口を開けば、上目遣いのが少し緊張の面持ちで箸を運んだ。 「合格?」 「……まあまあ」 気のきいた言葉など言えない。白石のように滑らかに、相手が喜ぶ一言など咄嗟に出てくるような人間ではない。だがそれを、が一番よく分かってくれている。だからこのような時も、いやいつもどのような時も自分の反応に嬉しそうな笑みを返してくれる。 それで十分じゃないのかと、誰かが囁いているようだった。頷くことは簡単だった。 「……光くん?」 納得するという心の仕組みが、少し分かった気がした。 自分のものなのにまるで見えない読めない分からない、そんな心だからこそ作るのではない。作られるのだ。納得するのではない、納得してしまうなにかをもらっているのだ。与えられて、受け止められるものに従える瞬間が納得ということではないのかと、そう思ってしまう。 テニスでは自分で勝ち取りたいのに。恋愛ではいいのか、と問いかける気持ちもある。 それならば、と付け加える言葉を用意する。手を伸ばす。 今手を伸ばした相手にしか納得させられるつもりはない、心の中で呟いたら波風は去った。 の包丁の使い方を笑えなかった。このような時に自分は器用ではないとつくづく思う。伸ばした手がの髪に触れ、が一瞬目をつぶる。撫でられる感覚にやがて目が開かれ、見上げる視線それは与えるものだ。与えられたらあとは従うしかない。 「目閉じてくれんと、キスできへんのやけど」 この相手にだけ溺れることに、心から納得したという合図を。 一度触れてしまえばあとの自重はきかない、そんなことは分かっている。それでも今キスをしたいという思いを口にすればは素直に目を閉じる。 自制という言葉と無縁でいいのだと、他の誰でもない唇を離した瞬間のの表情が教えてくれていた。 |
| >>04 10/08/15 |