| 恋しき帰路 04 |
卑怯だと何度呟いたか分からない。ただし、心の中で。 そもそも卑怯という言葉を彼に当てはめるのは、自分だけだろう。親友は絶対に認めない。そのような聡い部分はないと。計算などしないと。ただ単に、面倒という言葉を自分で勝手に定義して好きなように使っているだけだと、誰よりも強く説明しはじめるに決まっている。 (……その方がええかも。みんながみんな光くんのええとこ知ってもらっても、困る) 湯船からそっと指を出す。お世辞にも綺麗とも整っているとも言えないこの手を、財前は握ってくれる。それも財前だけが知ってくれればいいことだと思っている、それと同じではないのかと天井を見上げて問いかける。 そうだ、と同意しているかのように湯気が静かに揺れていた。 唇には、まだわずかに感触が残っている。濡れた手でそっとなぞると、自分の手なのに妙に緊張してはそのまま口元まで湯船の中につかった。義姉の好みだというにごり湯のおかげで、白く穏やかな波が自分の緊張を優しくほぐしてくれているようだった。 (……卑怯や、私だけが覚えてるなんて) のぼせるのに任せて、生意気なことを考えてみる。 財前以外と付き合ったことのない身では、すべての経験は財前が基準となってしまっている。それを親友は難儀という言葉で表し、難しく考えていない時の白石や忍足は平然と物好きという言葉を口にする。そんな後輩を一番可愛がっているのは誰ですかと半ば怒りながら反論すれば、 「だってあいつ、そういうやつやもん。可愛がってくださいって背中に書いてないか?」 「あるある」 「ほんまは先輩らと遊びたいんですー、せやけど自分から声かけるんは苦手なんですー。せやから悪態ついてみますかまってくださいって、いろんなとこに書いてないか?」 「あるあるあるある」 「生意気ぶってますけど結構心根はええ人間なんですって書いてないか?」 「……いや、それは反論するわ、白石。あいつはええ人間なんかやな」 「アホ、謙也! お前そこは話合わせるとこやろ!」 ふたりの漫才に話の流れが乗っ取られてしまったので、は怒る気力ももぎ取られる。この先輩を見ればあのような後輩も育つだろうと誰かに言われてしまえば納得してしまいそうな気にもなってくる。しかしそれでは彼女としてなにをしてあげられるのか、と自己嫌悪に陥りかねないので、早々に引き上げようとした、あの日、 「別に俺らになに言われても、財前の彼女やめるつもりないんやろ? せやったら物好きのまんま通せばええやんか。他の誰にも味あわせたらんと、自分だけで独り占めしたらええやんか。まわりのやつらなんか言わせとけ、あいつの良さはお前だけが知っとればええ話や」 物好きなんて他人の評価、気にしていたらなにひとついい記憶が残らない。喧嘩を買った忍足が騒いでいるのをよそに、白石は平然とそう付け加えて先に教室へと戻っていった。 最後に必ず正論を、心を救ってくれる一言を用意することを忘れない白石の存在はありがたい。財前の尊敬する元部長だからではなく、ひとりの人間として教わるべきことがたくさんあるような気がして、いつもその声には耳を傾けてしまう。 しかし、今日は傾けていいものか。は湯船から顔を出し、天井を仰ぐ。 初めて見る景色。家のものとは違うシャンプーの香り。バスルームに入る直前に渡されたバスタオルからは、財前のにおいがした。 (光くん、分かってるんかな。覚えてるんかな) タオルが恋しくなったように湯船から出る。 無愛想、気難しい、生意気、茫洋、いやそもそも何も考えていない。財前を形容する言葉はたくさんあって、付き合ってきたでもそのどれが正しいのか判断はまだしかねるというのが現実で、心の中の問いに対する正解は絶対に見つからない。 だが財前だけで埋まってしまったこの半年近くの記憶は、の中からは簡単に消え去ったりはしない。ひとつひとつの表情や言葉、態度、そのすべては覚えていなくとも、身体の芯や心の底、頭の奥へと触れてきた財前の記憶はまるで色あせない。 「……こういう時は目瞑るんがルールちゃうん? よう知らんけど」 頭は、その声を覚えている。 髪をふいていたタオルの動きを一度止める。じっと目の前の鏡を見つめ、何度も頭の中で反芻する声に次第に赤くなる頬を見たくなくて、タオルで顔を覆った。 それは初めて財前とキスを交わした日の、財前が呟いた言葉だった。空気の流れなど読めるはずもないに、まるで財前が痺れをきらしたかのように唐突に呟いた印象があった。だがそれは緊張の裏返しだったと、その後すぐに抱きしめられたことで分かった。財前の身体はその時だけ、低温という性格を忘れていた。 「目閉じてくれんと、キスできへんのやけど」 数十分前の記憶が重なる。心は、その声に今も支配されている。 自分は財前の記憶にすべての感情も、五感も左右されている。だが同じ時間を費やしているはずなのに、財前は余裕ばかりが追加されていっている気がする。いや、実際はそうではないはずだった。先日までのことを思えば彼には彼なりの苦悩なり葛藤なりがあることは重々承知している。 しかしには、どうしてもこちらが追いつけない、いや絶対に追いつかせないようにしている成長がひとつ。存在しているような気がしてならなかった。 それをも独り占めしろという白石の言葉が何度も巡る。 「おかえり」 ソファに腰かけ、テレビを見ながら問題集を解いていた財前が振り返る。机を使うのではなくソファの上に載せた脚を机代わりに解いていた。その横着な姿勢でありながら、しかし左手はほぼ止まることなく答えを導き続けるのだから困る。 「風呂、熱くなかったか?」 「平気」 「やけに遅いからなにしとんのかと思った」 「あ、ごめん。ちょっと考え事」 「考え事?」 「……考え事」 なにを、とその視線が問いかける。先に風呂に入っていた財前の耳からは、ピアスがはずされている。ドライヤーの熱が好きではないという性格が、その黒髪に雫が光るのを許している。素顔という言葉が妙にしっくりくる、自然体の姿だった。 (卑怯やなあ。ひとりでどんどん格好よくなっていかれたら、私はどうしたらええんか分からんくなってしまう) 白石の言葉を受け入れてしまうと、この追いつかない成長に自分はただ溺れることしかできなくなるというのに。 首にかけていたハンドタオルで口元を隠す。頬が緩みそうになるのを堪える。 時間が経てば経つほど、好きで好きでたまらなくなってその手に触れたくなってくる、そんな心を育ててしまう財前に、いつまでも追いつくことなどできない気がした。 一度シャープペンシルの芯を折ったことは、ばれなかった。 洗い物を先に終わらせたいとが頑として譲らなかったので、不本意ながら財前は先に風呂に入った。入浴時間にこだわりはないのですぐに上がり、濡れた髪もそのままにキッチンへと戻るとちょうどの洗い物も終わったところだった。客人が世話を焼いてどうすると、小さな苛立ちとともにバスタオルを押し付けてバスルームへ送り出した。 手首は、握るたびにその細さを訴えて仕方なかった。 左手を見つめる。髪から雫がひとつ、丁寧に真ん中に落ちてくる。 閉められたドアの向こうで、かすかに音がした。財前は慌ててリビングへと戻り、妙に緊張している身体にため息をついてテレビをつけた。タオルを椅子の背にかけた。鞄の中からテスト範囲に指定されている問題集を取り出し、母親が見たら絶対に叱る姿勢で解き始めた。とにかく周りを、今の状況を当たり前のものに満たす。テレビの音量だけがやや大きかった。 「……なんでこういう時に電話かけてくんねん」 家族の縁というものは恐ろしいと感じた瞬間だった。問題集の1ページも解くと心は随分と落ち着いてきて、ようやくの手首のことも思い出さずにすむかという絶妙のタイミングで、あの家族は携帯電話を鳴らしてきた。 不機嫌を全開にして応答した弟に、電話の向こうで義姉はまず笑い声をあげた。 「は? 別に、普通やし。いや、せやから今勉強しとったんやって。邪魔。ほんま邪魔」 は、と当たり前のように問いかける。泊まりに来させていることを当然のように思っていながらあえて電話をかけてくるこの義姉を、なぜ兄が選んだのか時々悩むことがある。 途中になった数学の証明を放り出し、旅先の出来事を話し出す義姉の会話に適当に相槌を打つものの、それも最初の3分が限界だった。そんなん家帰ってからでええやんか、と切る合図を送った瞬間、しかし、 『お前、彼女泊まらせとるってほんまか?』 財前は眉間に皺を寄せる。舌打ちとため息が同時に襲ってきて、でも同時などという器用なこともできなくて、結局沈黙を返す。 違和感を覚える沈黙の長さに、電話の向こうの兄は小さく口を鳴らしていた。 『ちゅうかな、俺に紹介せんとなんで勝手に泊まらせとるんや。お袋とあいつだけ知っとって、俺と親父は知らんってどないやねん、え?』 「……いや、だから。それは別に話すつもりはないとかではなくて話すタイミングが」 『なに標準語でしゃべっとんねん、動揺すんな格好悪い』 「……別に兄貴の前で格好ええ必要なんかないやろ」 『は? は? お前なに言うてんの? 彼女とふたりで家におって、格好よくなんかなくてもええとか言うんかその口は? アホか、アホちゃうかお前!』 前言撤回だ、と財前は理不尽な叱責を受けながらぼんやりとテレビを見つめる。兄が義姉を選んだことを不思議に思う必要などないのだ、これほど似た者同士であるならば。 もうひとつ付け加えるならば、この勝手に自分の考えばかりを正しいと思い込んで話しはじめる性格の人間は、不必要なほど自分の周りには溢れすぎている。猪突猛進という言葉を書いた紙でもその背中に貼り付けてやりたいと、14年共に生きてきた兄と、つい先日も勝手に電話をかけてきて勝手に怒り出した3年生を思い出す。 だから自分はこんな性格になってしまったのだ、と思うと、妙に正論のようで逆に寂しくなった。財前は重苦しいため息をひとつ零す。 『ええな、光。お前ちゃんと男らしくせえよ。彼女泊まらせといてなんもありませんでしたとかそんなオチ俺聞きたないからな。そら最初はうまくいかへんかもしれへんけどな、』 ため息を聞き取った兄は、話を強引に進めだした。露骨すぎる話に財前はついに頭を抱える。笑い声こそ聞こえないが、電話の向こうでは義姉が面白おかしそうに話を聞いているに決まっているのだ。 14歳の弟に今年一番真面目に話しかけてきた内容がそれか、と愚痴も零れる。 しかし、この兄はひとつ大事なことを忘れている。切々と彼女との夜の過ごし方を話し続ける兄の言葉を聞きながら、財前はそれを確信する。 兄は、弟がひどく負けず嫌いであることを絶対に忘れている。 財前はひとつ大きく、わざとらしいほどの深呼吸をした。 「なに勝手に話進めてんねん、きしょいわ兄貴」 『きしょいとはなんやねん、俺が先輩として教えてやるっちゅうことを……』 「教えてもらわんでも、もう終わっとるからええっちゅうの。話題が古すぎやで、兄貴」 え、と途端静かになった兄が大声で追及しそうになるその直前、財前は電話を切る。もう一度着信があるかと思ったが、携帯電話はその後母からの戸締りの確認をしろというメールを受信しただけだった。 気づけば兄夫婦はおろか、あの3年生たちからも連絡がなかった。 (無理やり意識させるとか、ほんま悪趣味。俺より絶対兄貴の方が母さん似やんか) そつがないというか、狡猾というか。すべてを見透かす母の性格をもっと直球にして受け継いだのが兄だと、財前の身体が訴えてやまない。 電話を放り出した左手が、少し汗ばんでいる。見つめればすぐにさきほどの、最近のの細さや温もりを思い出せて、身体は簡単に低温体質であることを放棄したがる。いや、体温自体は変化していないのかもしれない。だが誰にどのように伝えていいか分からない身体の奥底は、と付き合い始めてから確実に別の熱をともすようになってしまっているのだ。 そのつもりはないと言えば、嘘になる。 けれどそのつもりだったと素直に認めるのは、癪に障る。 (アホばっかや、みんな。もう俺の好きにさせてくれ、ほんま) 少し落ち着こうと、放り出したままだった問題集をもう一度解き始める。国語や古文のような解答がひとつに定まらない科目はもやが晴れないようで好きではないが、英語や数学のようにパターンさえ理解してしまえば答えまでの道のりが理路整然としている科目は得意だ。好きな科目に埋もれていればやがて落ち着くだろう、そう思って左手を動かしていた。 「おかえり」 その時にドアを開けてリビングに戻ってきたに、その言葉を用意するのが限界だった。 シャープペンシルは、思わず妙な力を受けて一度芯を折った。はそれに気づかず、小さく頷いてそっとタオルで髪をふく。考え事をしていた、と呟いてそのタオルで口元を隠された時、財前はシャープペンシルの芯を出すことを忘れていた。 自分のジャージを貸していた。大きすぎるそれに苦戦した跡が、肘までまくられた袖やつま先の手前まで覆っている丈に表れている。着せられている様子が一目見て分かるのに、その身体の持ち主がまるで嫌がっていないのがいけない。普段見慣れた服が、味方だったはずの光景がまるで違う一面を見せていた。 居場所に困ったのか、はリビングを見渡したあと申し訳なさそうに財前に視線を向ける。腰を下ろしている財前と立ったでは当然目の高さはの方が高いはずなのに、その見下ろす視線はいつものように縋る色を隠せていない。 財前は無言でソファの片隅に移動する。がその隣に座る。香るシャンプーがいつものものと違う。乾ききっていない髪がわずかに水滴の艶を残している。 「テスト勉強、する?」 が問いかける。視線は財前の手元にある数学の問題集に注がれていた。 「……まあ、ある程度はせえへんと、言い訳できひんし」 「言い訳?」 「あ」 思わず口を覆うと、静かにが笑った。 最近、自分は誰かに怒られるか笑われるかのどちらかばかりのように思う。癖でもついていたのか、思わずを向いてしかめ面をすると、視界からふっとの笑い顔が消えた。 低温の腕に、が寄り添う。頬が腕にあたる感覚が、ジャージ越しでもはっきりと伝わってくる。視線を向ければはにかむことと嬉しがることのどちらを優先していいのか分からないというような表情で、がまた笑った。 「勉強、ちゃんとするから。今はちょっとこうさせて」 利き手に寄り添われては、なにもすることができない。自分が左利きだということを忘れていないか、そちらに寄られては自分も勉強などできなくなるというのに。 そんな愚痴は、以外なら簡単に口をついて出てくるだろう。いやそもそも傍に寄らせることもないのだが。そこまで思って、そして簡単にそこまで思える自分に気づいて、財前は天井を仰ぐ。 (話さなあかん、っちゅうのも変な話か。そんな義務みたいにせえへんでも、別にいつでも話せるし。後回しにするとかやなくて、きちんと同じこと思ってそうするんやったら、それだけで全然前と違うし) 先月の記憶はまだ新しい。予定のない、経験のない付き合い方に初めて味わった苦痛とも言うべきものだった。だがその原因を作っていたのは半分以上は自分で、その反省もこめてこの時間を作った。話す時間を増やそう、それが最初の考えだった。 だが結局、言葉の力だけですべてを理解できるほど自分たちは大人ではない。 温もりの前に甘えずにいられないほど、子どもの域を卒業してもいない。 じわりと移ってくるの熱に、身体の中に住み着いていた別の熱が反応した。 「ちょっとですむ自信、あるん?」 右手で抱き寄せる。小さな身体が腕の中にあっさりと収まる。 小さな笑い声とともに、首が横に揺れた。 「光くん次第」 「なんで俺やねん。誘っといてよう言うわ」 「光くんが格好ええから仕方ない」 「……なんやねん、それ」 顔を上げさせる。湯気に負けたのかそれとも高揚に負けたのか、触れた頬はいつもより熱い。誰に教えられたのか、少し近づいただけでその瞳はあっさりと閉じる。俺か、と苦笑しながら触れたキスは一度では終わらない。 扱い慣れたジャージに戸惑う理由も、手間取る愚かさも持ち合わせていない。 少しだけ前を開けて触れた鎖骨のか弱さに、眩暈にも似た感覚が全身を駆け巡る。低温の財前の指にが息を飲む。それでも拒まない。言葉がなくとも、その低温はやがての熱に負けて同じほどの熱さを伴うことをふたりは経験で知っている。そして今は、その経験に従うことをふたりがともに思っている。決めている。 「こんな場所、趣味やないんやけど。明るいし。ええの?」 「え、や、やだ」 「どっちやねん、近づいてきたくせに」 「それは光くんが」 「はいはい、そうでした。光くんがでした。……ちゅうかたまにはちゃんと名前呼べよ」 「……え?」 細くなったと思うほど、自分は背が伸びた。身体も少し大きくなった。 素直になったと思うほど、は可愛くなった。扇情的な表情を浮かべるようになった。 そして自分は、それに飲み込まれることが当たり前になった。 「なんでいまだにくん付けやねん。まどろっこしい」 ジャージのチャックにかけていた手を、左手をの口元に寄せる。下唇の線をなぞるようにして、わずかに口を開かせる。小さい口から覗く白い歯は、まるで甥の相手をしている時のような情愛を沸き起こさせる。ただし、こちらは支配欲まで掻き起こすことを忘れずに。 「」 小さく、ただひとりにだけ聞こえるようにそっと囁く。広いリビングでの視線がどこにも向かないように、思考回路が誰にも向かないように、頬が赤くなるまで見つめる。 言われたことの意味は理解しているに違いない。だが何の種類の恥ずかしさか、はその口を動かさない。財前はやがて痺れをきらし、むすっとしかめ面をしてみせての動揺を誘ったあと、強引に口づけた。右手を、ジャージの中に入れた。 「……っ、光くん、」 「知らん、そんなん」 もう一度呼吸を奪う。涙に似た潤みが瞳に満ちる。目が合って、無言で財前が促す。 が口を、「ひ」の形に開きかけた。 そして、家のチャイムが激しく鳴った。 「……え」 ふたり、どちらともなく同じ言葉をもらす。が目を丸くして財前を見上げてくるが、財前こそ用意できる言葉がない。家のチャイムはそんなふたりの動揺など知ったことではないというように、何度という回数を数えるのが不可能なほどひとつのメロディのように鳴り続ける。 やがて携帯電話に、見覚えのある名前からの着信が届けば、すべてはひとつに繋がらざるをえなかった。 「ごめんなさいね、光くん。遅くなっちゃったわね」 「いや、遅いってなにが」 「なに言うとんねん、今日からテニス部恒例金太郎の勉強会やないか。1次会は白石の家で、そんで2次会はお前ん家。なあ白石」 「……そうみたいやで、財前。悪いな、寛ぎ中」 財前の格好を見て、白石が少しばかり申し訳なさそうに言う。小春と一氏はそんなやり取りなど気にもせず、あっさりと家の中に入り込み、リビングに席を陣取った。上級生にとって勝手知ったる財前の家では、もはや遠慮という言葉は死語になる。 「え、ちょっと待った。金太郎おらんやないですか、部長」 ふたりの侵入は止められなかったものの、状況をなんとか把握しようとする心だけはまだ残っている。玄関先で周囲を見渡して、名前だけ連呼されながらその姿が見当たらない金太郎を探す心は、やがてひとつの不安を呼び寄せる。 「あ? ああ、金ちゃんな。さっきまで根つめて勉強しすぎて、明後日の試合に影響が出るわって話になって。そんでもう帰したんや」 「帰した……って、それやったらなんで俺ん家で勉強会とか」 申し訳なさそうにしつつも、しかししっかりと靴を脱いであがっていく白石の背中に慌てて問いかける。私服になってもそつがないこの3年生は、振り返って満面の笑みを浮かべた。 「謙也に聞いた方が早いんとちゃうか? それとも、お前の家族喧嘩の声の大きさを責めるべき、かな」 白石の笑みと言葉とに硬直した身体の肩に、ぽんと気安く触れてくる男がひとり。 恐る恐る振り返れば、そこには猪突猛進のように生きる男の最上級の笑顔があった。 「あかんわ財前、健全な中学2年生が彼女とお泊りとか。お前が金太郎の勉強引き受ける言うたら見逃すつもりやったんやけどな、お前が嘘言うから。隠すから! そらお前、先輩としては見逃すことできひんやろ。せっかくの土曜日、お前ん家で過ごそういうことになるやないか」 「アホちゃいますか、先輩! ちゅうかなに盗み聞きしとるんですか!」 それだけを叫ぶのが精一杯だったことを、恐らくここにいる全員が気づいている。千歳がいたら慰めでもしてくれただろうが、そんな時に限って飄然とした性格が災いする。テスト勉強よりも妹の練習を優先した男は、今日は後輩にはまるで優しくない。 「あら、ちゃん。ちゃんもテスト勉強?」 わざとらしい声がリビングから飛ぶ。財前ははっと気づいて慌ててリビングに戻る。部屋に隠れているように言ったはずだったが、状況を察知して逃げられないと理解したのだろう。しかし状態によってはこの3年生の格好の餌食となる、それだけは阻止しなければと財前はリビングのドアを開ける。 「光くん、先輩たちの飲み物準備してもええ?」 だが部屋の中のは、ジャージではなくここまで着てきた自分の私服に身を包んでいた。目を丸くする財前に冷静に問いかけ、頷くタイミングを逃すとその目が「頷いて」と切羽詰った表情で訴える。返事もなくただ頷くと、はほっとしたようにキッチンへと「逃げ込んだ」。 よくやった、と生意気ながらもその背中に思う。さすがにただ半年近くこの3年生たちの傍で生活してきたわけではないらしい、その経験がいいことなのか悪いことなのかは判断しかねるが、とりあえず説明に困る状況はひとつだけは突破できたと、妙な汗が教えてくれている。 「まあ、の髪が濡れてへんかったら成功やったやろうけどな」 白石がそっと呟く。振り返ることももはや億劫だ、この人を騙しとおすことなど考えていない。 小春と一氏、そして忍足が自分たちの勉強道具を広げながら、そして泊り込みの予定であることを叫びながらリビングを占拠する。すべての予定が壊れたことに対する怒りや、追及を逃れられた安堵感、すべてがないまぜになったため息をひとつ零すと、白石がまた申し訳なさそうに笑う。 「ほんまは、明後日の練習試合のための自制心係やねん。まあ許したってくれ」 「……俺、そんなに自制心ない男に見えますか」 「男やったらそんなもんやろ。いや、逆にこの状況である方が嫌やな、俺は」 「そうやなくて。部活に影響及ぼすぐらいに思われる方が」 むっと白石を見上げて反論する。白石は子どもをあやすような目で財前の頭を軽く叩いた。 「お前のここまでの態度見とったらな、そら心配もするわ。どんだけ好きやねん、のこと。どこの新婚の帰り道かと思うで」 一枚の封筒を渡す。訝る後輩に苦笑して、「自覚するチャンスやで」と白石は呟いて忍足たちの元へと向かう。 途端賑やかさを取り戻したリビングの前で立ち尽くす財前に、が気づいてトレイを持ったままそっと横から手元を覗き込む。 ふたりで買い物をしている瞬間を、しかも自分たちでは想像もしていなかった柔らかい表情で笑い合っている姿をしっかりと写し出したその写真に、絶句することのなんと簡単なことか。 は今日一番の紅潮に負け、キッチンへと戻る。その背中を追いかけて慰める気力も奪うほどの威力がその写真にはあって、財前はただ呆然とリビングで笑い声をあげる3年生を見つめるしかなかった。 「しゃあないっす……とか、言えるか、このアホ先輩ら!」 |
| 10/08/26 |