童心 07

 メールの内容の真意を問う、時間と、言葉と、相手の姿がなかった。
 7組の誰かに尋ねる勇気もなく、は困惑する。泣きたいのか叫びたいのか分からない。
 文化祭の今日の分の準備が終わり、部活へ向かおうと鞄を手にした時にそのメールの受信はあった。画面に表示された財前の名前に、動揺して確認ボタンを押すことができなかった。いや、違う。受信があった瞬間にそれは財前かもしれないと、この2日間ずっと同じことを考えていた。
 だが、願った時に訪れる待ち人はえてして図に乗るなという忠告のような攻撃的な部分を必ず持っている。それは経験上知っている。だから、すぐにはメールを見ることができなかった。しかし財前光という名前に冷静でいられる時間などそう長くもない。黒板、空、親友。せく心はどれを見てももはや手元にあるメールの中身を知りたがっていた。

『ごめん』

 あの一瞬、肌が震えてその下の血が逆流するような感覚はどのような仕組みなのだろう。さっと身体の温もりすべてを奪って小さな痺れだけを味わわせるこの感覚は、一体いつになったら経験しないですむようになるのだろう。
 たったの3文字に、は携帯電話を持つ手を硬直させる。しばらくして目が泳ぎだしたが、止める方法は知らない。いくら期待するなと前置きしていても、今日もそれは正しい判断をする経験として機能しなかった。誰に笑われても文句は言えなかった。

(……どういう意味)

 どれほどの時間を費やしたかは分からないが、まだ周囲が騒がしさを保っていたうちにははっと気づいて必死に頭を働かせる。メールの返事をしなかったことへなのか、それとも、と考えたところで喉元を押さえつけられるような圧迫感からは逃れられない。
 、と名前を呼んだ親友を振り返っても、ドアまで駆け寄った身体は止められなかった。
 なぜこの動きを今まですることができなかったのかというほど迷いなく7組の入り口で財前の姿を探す。のクラスよりも奔放なところがある7組は、まだ文化祭の準備をしていた。誰もの視線に気づかない。の視線を拾ってくれる唯一の人も、いない。
 メールとの内容と結びつけてもよいと頭が言っているのは、さきほどの目そらした財前の姿だけになっていた。
 ようやく身体が震える。言葉は相変わらず出ない、出せない。だが分かった、今自分はなにかを恐れている。なにかを知ることを恐れている。

(なんでメールなんかしたんやろ。意味ないメールなんかして怒らせるぐらいやったら、するんやなかった)

 やがてたどり着いた答えは、教室に戻って鞄を手にして、定められた部活にはきちんと参加して、その間、財前に会いたい聞きたいと願うよりも自分の愚かさを嘆き蔑むことだった。
 メールの続きは、やってこなかった。

、あんた今日塾やろ。ご飯食べてはよ行き」
「……分かってる」

 リビングでテレビを見ながら時間を流してみた。塾に向かう時間をいつもより5分延ばしてみた。それでも、携帯電話はメールの受信を告げてはくれなかった。
 ソファの上に両脚を抱えるようにして座り込み、携帯電話を見つめていたに、母親はついに痺れをきらして怒声をあげた。娘の事情のひとつぐらい理解してくれ、と思うものの、まさか財前と喧嘩どころか先行き不透明になっていることなど言えたものではない。財前と付き合っていると、彼の誕生日にどうしても夜の外出をしたかったが諦めて現状を伝えて許しを請おうとした時の、母親のあの興味関心一色になった表情にはもうつかまりたくない。
 空は既に秋の夕空の記憶なく、藍色を散りばめて塗りつぶしてさらに星すら追いやった、すっきりしない夜空を広げている。さすがに陽が落ちると寒さを実感せずにはいられない。ストールをマフラーのように何重にも巻いて、は塾へと向かう。
 途中、地下鉄の駅前を通る。いつもであればただ通り過ぎるだけのその場所に、見知った人の姿があった。
 白石だった。

(……あれ、誰かと一緒?)

 駅前のファーストフード店だった。ただし学校からは離れていて、大きな交差点の前であることもあって滅多に四天宝寺中の生徒も通ることはない場所だ。加えて夜7時を過ぎようとしている今の時間帯に、外出している生徒の姿もない。
 なぜそんな時間に白石がいるのか、それは隣にいる人物を見ればすぐに答えが出た。白石の表情を見ればその相手が誰なのかなど、一目瞭然だった。
 足が止まる。遅刻ぎりぎりだ。だが、は目の前の光景から視線をずらせない。
 その視線に白石が気づくのも、時間の問題だった。
 窓越しにの存在を見つけた時は一瞬驚いた顔をしたが、白石は相手に一言なにかを告げた後店から出てきた。いつも学校で見かける制服姿だが、夜という時間のせいかどこか知らない上級生のような雰囲気がある。言葉が出にくい。

「お前、ほんまにあいつと色々ちゃうなあ。あいつは塾なんか行かへんやろ、部活はよ終わっても家で音楽聴くか寝るかどっちかみたいなタイプやからな。ちゅうか集団自体が無理か」

 第一声をどうすればいいのか分からなかったに、白石はいつもどおりの笑みを浮かべながらそう言った。

「……ほんまやったら、俺、今日な。お前に聞きたいことあったんやけど」

 驚きに負けて返事ができないを、そっと見守るような視線で白石は呟く。

「聞く理由奪われてしもうた。せやからそんな目で見てもなんも出へんで、今は。お前もつっこまれたくないやろ、今の状態で」

 やんわりと突き放されている。それが分かったのは、白石がそれ以上なにも言おうとしなくなった時だった。
 呆れられたのか、それとも違うなにかがあったのか、白石の表情は簡単には読めない。
 だがあのメールを見た後では、縋る言葉を用意するのも躊躇われた。そんなに、今度は白石が沈黙を気にして様子をうかがうように覗き込む。

「俺な、ひとつ思うんやけどな」
「……え?」
「たまにはな、好きな相手のことで悩むっちゅうやつをな。お前ばっか悩むんやなくて、財前にもやらせたれ。いつまでもお前だけが好いとるみたいな関係はつまらんやろ。ちゅうわけで、今回はお前は、待機」
「あ、先輩!」
「これ命令やから。逆らうなよ」

 それだけを言い残し、白石は手を振って店の中へと戻っていった。白石になにかを聞かされたのか、それまで店内で待っていた相手の人はをちらりと見ると少し笑って頭を下げる。3年生だと気づいたのは彼女の着ている制服が自分と同じものだったからではない、その笑い方がまるで真似できないものだと思った時だった。
 は慌てて頭を下げ、ゆっくりと上げる。最後に目が合った白石は、「塾、塾」と口を動かしていた。

、遅かったね。よかったなあ、先生まだ来てへんくて」

 慌てて向かった塾は、白石のおかげか怒られずに教室内に入ることができた。
 暇を持て余した挙句頬杖をつくことしかすることがなくなった、そんなことを思っている姿勢で隣の席の親友は教えてくれた。始業時刻は既に5分ほど過ぎていたが、の教室だけが休憩時間の延長のように騒がしい。こんなところだけは恵まれている、と胸を撫で下ろしながらテキストを取り出していると、隣でガタガタと音が鳴った。

「いたっ、え、ちょっと。なんなん」
「私、に言いたいことあってん。ちゅうか聞いてほしいこと」

 椅子ごと傍に寄ってきた親友がそっとささやく。何事かと目を丸くすれば、まるでいたずらを計画する子どものような目で口を開いた。

「桃谷さんの話。覚えとる?」
「……ああ、あの、白石先輩のこと好きな子」

 そうそう、と嬉しそうに頷く。しかしの頭の中には桃谷という同級生よりも今その白石の隣にいる3年生の姿しか浮かんでこない。あのふたりの様子を見た後では、嬉しそうに話を聞くのはどこか不謹慎だ。
 白石の顔が、頭から離れない。廊下や食堂では絶対に見ることのない、財前に見せるものとはまた種類の異なるあの柔らかい表情。どれほど好きなのかと問わずとも知れたあの表情こそが、白石が彼女を選んだ理由そのもののような気もする。

「これもまだ噂なんやけどな、どうやら白石先輩彼女おるらしくて。それとなく桃谷さんにだけ言わはったらしいわ。そんで桃谷さんもええ子やで、迷惑かけてすみません言うて引き下がったて」
「……それ、もう広まってんの?」
「桃谷さんが諦めた、っちゅうところはね。彼女の話はほんまかどうか知らんで、そこはあの子も口割らんらしいわ」

 白石は、どのような気持ちで真実を伝えたのだろう。まるで数週間前の財前と同じような状況下にありながらやり取りを無事に終えた白石に話を聞きたくなったが、聞かずともよいとさきほどの光景がすべて答えを用意してくれているような気もした。
 白石のことは分かる。だが財前のことは、やはり分からない。

(先輩、勘違いしてる。私が悩むことやめたら、そんなん絶対図々しい。私みたいな子どもっぽいの、ほんまは光くんのタイプと全然ちゃう気もするし。せやから、私の方が考えなあかん)

 図に乗るな、白石の言葉を都合よく捉えるなと、今であれば冷静に言い聞かせられた。代わりに目の奥が熱く痛くなったが、塾にいたおかげで涙を出さずに済んだ。
 我慢はできる。自分が堪えることで物事は先に進む。それが努力のひとつならば、自分は進んで選び取らなければならない時間の使い方のはずなのだ。先に進んでいるのか停滞しているのか後退しているのか、まるで分からないが答えは答えだ。すべての出来事に通用する万能の免罪符だ。それで少しでも関係が良好になるならば、とは思う。気づけば授業はすべて終了していた。
 テキストを片付け、校舎の外に出る。家に帰って、ひとつ返事としてのメールを用意しよう。心はぼんやりとでもそう思えるようになっていた、その時だった。
 携帯電話が鞄の中で震えていた。
 財前か、続きか、いやでもと戸惑った後、携帯電話を探り当てては言葉をなくす。
 メールがくるかもしれないとは思っても、電話がくるとは想像もしていなかった。

「……もしもし」

 出てはいけなかったのかもしれない、という不安を吹き飛ばすために、一点だけを見つめて口を開く。目を泳がせればそれだけで後悔に負けてしまいそうになる。

『俺』

 その声は少し掠れていた。風邪か、と急に心臓が違う動揺に飲み込まれる。
 それだけで十分だった。結局、声を聞くだけで、声が自分にだけ向けられているただそれだけで、この心はあっさりと不安も恐怖も捨て去って、ただ財前を好きでいたい気持ちだけに満たされてしまう。そう思うだけで、目の奥が熱くなった。

『そこにおって』

 気づいてくれているのか。気づいてくれていないのか。いや、どちらでもよかった。声が聞こえた、それだけで自分の返事を待たず財前が急に電話を切っても、放心してすぐには動けない自分がいた。素直に言葉に従ったように見えたかもしれないが、それは違う。
 いくつもの車のヘッドライトが照らし、通り過ぎる。秋の肌寒い風が道路を通り過ぎていく。
 声を聞かせるだけのその力を、財前はもっと理解すべきだった。

「……あれ、財前や。なんでおるんやろ、こんなとこに」

 そうしなければ、今この時、目の前に姿を見せられた自分は放心どころでは済まなくなってしまうのだと、叫んで伝えなくてはならないのに、声などとうに奪われてしまっているのだ。
 親友の声に振り返った先、財前が秋に似合わぬうっすらとした汗を額に浮かべてこちらを見つめていた。自転車で通っている生徒たちとは逆を向いた、その自転車。駐輪場の手前で片足だけで自転車を支え、わずかに息をきらした財前は、真っ直ぐにを見つめる。



 声はなかった。ただその口は確かに、自分の名前を呼んだ。
 口元まで埋まったストールがはたはたと秋の風に吹かれる。返す言葉はない。出ない、見つからない。つられて足も動かない。それは声を聞かされたからだ、目の前に姿を見せ付けられたからだ、その理由など愚かなほど分かっているのに、どうすることもできない。
 親友は目を丸くしていた。財前を知っている四天宝寺中の2年生も彼の姿に驚いていた。テニス部なのだろう、他の中学の女子が財前を見て囁きあっている。



 今度ははっきりと、声にして聞こえた。嘘ではない、その時親友の顔が唖然と自分を見つめてきた。
 財前が小さく手招きをする。戸惑ったのはほんの一瞬。なにかが外れたというよりも弾けたように、は小走りに財前のもとに駆け寄って泣きそうになるのを堪えながら見上げる。
 澄んだ漆黒の瞳は、今日の曇った空よりも綺麗に見えた。

「どうしたん、こんな遅い時間に。怒られるよ」
「それは、別にええ。ちゅうか怒られへん、義姉さんがなんとかしてくれてる」
「でも、なんで。しかもなんでそんな急いで」
「……いや、ぎりぎりまで説教くらっとって。ほんまは余裕もって出てどっかで待っとるはずやったのに、しかももっと目立たんところで。あの人絶対全部計算済みや、もう口出さへん言うてたくせに」

 一度話し出すと、不思議なことに会話は途切れ方を探すことの方が難しかった。財前の表情を見ていれば誰のことを話しているのかも理解できる、それほどまでに落ち着いている自分に自身も驚く。
 財前が傍にいるということの力を、今身体も頭も心もすべてが理解しているようだった。

「財前、お前なにしてんの」
「……ちょっと、ちょっと

 財前の知り合いが呼びかけ、の親友がこそりと声をかける。聞きたいことはその顔にありありと出ていて、は返答に困って財前を見つめる。財前はどこまでも自分の思い通りにいかない展開にやや顔をしかめ、の鞄を取り上げた。

「帰ろ。そこで話すわ」
「え、ちょっと。光くん!」

 自分はさっさと知り合いに別れの挨拶を済ませ、そしての鞄を肩にかけると自転車の方向を変え、元来た道を戻り始めた。が唖然としていると、「はよ」の一言で一緒に来ることを促す。
 説明もなにもなく、ただごめんねと手を振るだけのに、親友はもうかける言葉をもっていなかった。

「……最初からばらしておけばよかった、なんやねんあの目。変に緊張するし」

 人通りが少なく、塾生の姿の見えない小道に入ったところでようやく財前は呟いた。掠れていると感じた声はただ発生の仕方の問題だけだったらしく、その格好は明らかに防寒を意図しているようには見えない。よりも薄着ではないかという私服姿は、実は久しぶりに見たものだということをはその時になってようやく実感する。

「……光くん」
「なに」
「いや、なにって。……なに、って、私が聞きたい」

 そうか、と財前は自転車を一度止めてを見つめる。なぜだろう、その姿はほぼ毎日見かけてはいたはずなのに、随分と背が伸びたような気がしてしまう。一瞬知らない人のようにも思えてしまう。言葉を繋げなくなるのはこれほど簡単だったか、と疑いたくなってしまう。
 財前はしばらく沈黙したまま自転車を押していたが、やがてマンションの立ち並ぶ中にあった公園の中にを誘った。

「ちょっと付き合うて。話、せんとあかんやろ」

 マンションに住む子ども向けの公園は、数種類の遊具しかなく、またベンチの数も数えるほどしかない。がちらりと見つめることで同意を示せば、財前は自転車を押して公園脇のベンチへと向かった。
 木々が夜風に吹かれる音はこれほどに大きいのかと、初めて知った。

「……なんちゅうか、その。うん、言わなあかんことはむっちゃある気がすんねんけど」

 隣に腰かけた財前は、しばらくの沈黙の後ようやく口を開いた。言葉を生み出そうと髪を乱す。やがて寝癖のようになった髪型に、はそっと手を伸ばして整えた。
 嫌がるでも振り払うでもなく、財前は顔を上げてを見つめた。

「……ほんま、そういうことよう普通にできるな」
「え? あ、ごめん。つい」
「いや、別に。嫌とかやなくて。俺なんかによう普通に触ることできるな、っちゅう意味」

 髪に触れていた手を、一瞬止める。確かに違和感のない行動だった。なにかに追われていたかのように関係ばかりが先に進んでしまって、実は本音をかわすことよりも触れることの方が簡単になっていたなどとは、情けなくて気づきたくなかったのかもしれない。
 財前ではなくとも他の誰かにたしなめられているような気がして、はそっと手を戻す。だが財前はしばらくその手を見つめたあと、自分の右手のひらを差し出す。
 のせて、という意味に気づくには、その目を見なければならなかった。

「……俺もこういうことはできるようになったくせに、話すことは全然得意やないな。ほら」
「……え?」
「のせろ、言う前に先に手が出る。アホらし、俺子どもか」

 預けた手は、そっと財前の右手に握り締められた。低温の財前の肌は秋の風に負けず劣らずひやりとしていて、握り締められても包み込まれたという感覚はない。むしろ冷たいなにかに触れられた、というのが最初の感覚だ。
 けれど、不思議だった。時間が経てば、願わずともその手は温かくなる。まるでの熱を分け与えるようなその感触を、財前は今までに一度も厭うことはなかった。

「……悪い。俺ほんま、言葉とかよう知らんねん。全然大したこと言えへん」

 少しだけ握る手に力が入る。は顔を上げる。
 財前はの視線を受けて、申し訳なさそうに笑った。

「ごめん、って言えばええんか悪かったって言えばええんか。それとももっと違う言葉なんか。よう分からへん。せやけど、俺がむちゃくちゃやったことは分かった。から、謝りたかった」

 照れ隠しではない、自嘲の意味だ。笑うことの意味がその時になってようやく分かり、は慌てて首を横に振る。

「ちゃうよ、私があかんかったんやって。うまく伝えてなかったんは私の方やし、なんかもういろいろ。考えるばっかで全然言葉に出してへんし、変なメールしか送らへんし」
「……うーん、それはそうかも」
「せやから」
「そう、せやから。俺、今日は絶対話さなあかんって思った」

 本当は、それだけでも今までの財前を思えば随分と言葉数が多かった。いつもと異なることをされると夕方までの自分であったら怖くて逃げ出そうとしたかもしれない。まるでそれが分かっているかのように財前の手は緩むことはない。
 そんなことをしなくとも、目の前におられると逃げることはできない。目でそう伝えれば、安心したのだろうか少しだけ笑った。

「俺さ、最近部活のことばっかりで。結構必死になりすぎとったらしくて、部長から怒られるわ金太郎にも変な顔されるわで、もうなんやねんみたいなところも正直あって。あ、ええ、ええ。なんも言わんでええ。お前今絶対『そんなことない』とか言おうとしたやろ。それとかな、もうな、ほんま俺自分のことしか考えてへんやんか。がどんな気持ちでいろんな言葉用意したかとか、俺全然考えられへんまんまここまできてしもうて。そんで都合悪くなったら逃げたやろ? ああもう最悪やな、って思ったら、ほんまに最悪すぎて正直こうやって話しとってええんかも分からんくなってくるんやけどな、でもな」

 さらりと黒髪が風に吹かれた。ピアスが街灯のほのかな光だけで反射してみせた。
 片想いの頃から見つめることが当たり前の横顔は、気づけば少しだけ大人になっていた。

「それでも俺、面倒とか思わんくなっとった。しゃあない、やめる、どうでもええって思わんかった。……今日、お前にメールした時、俺どこにおったと思う」
「……教室?」
「屋上。ひとりでへこんどった。情けないわ、へこむぐらいやったら最初からちゃんとせえよって。なあ。そう思わへん?」

 困った笑みが浮かんでいた。自分を真っ直ぐに見つめている目だと思った。

「……そんな、自分のこときちんと考えられる方が絶対すごいのに」
「アホ、考えれるんやったら今日廊下であんな顔せえへんし」
「それは」
「そうかも、って思うんやったら今日ぐらい付き合えよ、俺の弱音に」

 財前を見つめる。座っていてもそれは見上げるという角度になる。自分の見上げる顔はどのようなものかは知らないが、見上げた財前の顔がひどく優しい表情になることは他の誰よりも知っている。
 なにを心配していたのだろう。今となってはよく思い出せない。財前の表情が、その手の温もりが考えることを許してくれない。

「せやけどな。これ正直な話、俺、が彼女で多分すごい正解やったんやと思う」
「……なんで?」
「この俺に諦めるより先に反省させるなんて、テニスと部長とお前しかおらんのとちゃうかって本気で思うから」

 やがて笑い出してしまったことは、少しばかり財前のプライドを傷つけたらしい。自分は最大限の弱みに近づいた言葉を口にしたのに、それを笑われるとはまるで予想していなかったのだと、後日本人ではなく笑いを堪えた白石に聞かされたあたりが財前のプライドの高さを物語っている。
 だが、それすらも含めて財前光という同級生を好きになった身だ。
 今手を握り締めてくれる人を嫌いになることの方が分からない身なのだ。

「せやから、適当にすんのはもうやめよ。堅苦しくするっちゅう意味やなくて、なんちゅうか」
「うん、分かった」
「……ほんまに分かったんか」
「え? 分かったよ?」
「……いまいち信じられへん」
「言いたいことは我慢せずちゃんと言う、ってことやないの? ちゃう?」

 間違っていたら今ここで聞いて、ここで直せばいいではないか。その気持ちで素直に問いかけると、財前は一瞬面食らった顔をしたものの、やがて笑い声を上げた。
 そのとおりだという答えが言葉ではなく不意に訪れたキスだったりしたことは、子どもじみているからではなく好き合っているからこその許された方法だと、抱きつくことで伝える。
 子どもや、と財前が優しく笑う声がした。



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10/07/16〜10/08/02