童心 05

 過去これほどまでに財前の姿を目で追ったことがあったかと、考えることが多くなった。白石はその都度否定するのだが、つまりはそれだけ最近の自分は財前に思考の一部を明け渡しているということになるのであって、それでは一体夏までの自分は、部長として本当に彼の面倒を見ることができていたのかという自問にも直面しなければならなくなるのだが、その反省は高校生になるまでに解決することにする。先送りで構わない。
 なぜなら現実問題、過去に浸ってみたり自分をたかめようと努力したりすることを後回しにしなければならないほどに、

「は? 財前がを無視した?」

 どうしてなのか、あの後輩は部活を引退した後になった今一番世話を焼かせたくなる出来事を引き起こしてしまったのだ。
 忍足は最近覚えたらしい「天邪鬼」という言葉を頻繁に使いたがる。しかし千歳はそれを「厄介」という言葉で表すようになった。財前が厄介なのではない、白石たち3年の言動が厄介極まりないのだそうだ。ただしそう呟く彼の顔に笑みが浮かんでいたり、耳だけはしっかりこちらの会話を聞いていたりするのだから(そもそも1組の彼がどうして2組によく来るようになったのか、厄介という言葉に反応するより先にその意味を考えるべきだと忍足謙也に言いたくて仕方ない)、結局これは3年生の習性なのだと片付けると誰も反論をしないので、いまさらなにが起きても驚かなくなっていた。

「ように、見えた……のよね、銀さん」

 文化祭の最終準備に追われる午後の時間は、どのクラスも活気づいている。仕事に奔走する者もいればここぞとばかりに他のクラスに偵察に行ったり、または偵察という名前を借りた休憩に突入したりと、3年ともなると時間の使い方は様々である。制服ではなく体操服を着ているという身軽さも手伝っているのだろう。
 しかし、石田が教室を離れるとは少々予想外だった。それは目を丸くして金槌を握る手を止めてしまった忍足の顔にも書いてある。

「うむ、たまたま多目的教室に材料を取りに行こうとしておったのだが、忘れ物に気づいてな。その時1階と2階の階段の踊り場で、財前とぶつかってしもうた」
「銀に? それは、また。財前無事やったんか」
「無事というよりも、少々慌てておったな。ワシの顔を見て。あれはそう、先日2組の前で結局教室に入らへんと戻ろうとした時にワシに会うてしまった時と同じ顔……白石はん、しかし無事とは一体全体」
「ええっ、つっこみ最後?! 無視された思て俺気抜いとったやないか、銀!」
「もう、蔵リン! 今はそんなこと言うてる場合とちゃうでしょう! それに光くんがここまで来て入らへんかったって、それなに! ためらうようななにかがあったってことやないの」
「いや、あいつよう相談に来てたんやけど……そういえば最近は来てへんかったな」

 何が起きているのかまるで分からない、と呆然とする忍足に自分の金槌を渡し、白石は休憩を告げて教室の外へと小春と石田を連れ出す。そのような時に限ってなのか、いや本能で察知しているからなのか、千歳は必ず目の届くところにいる。今日も白石と目が合うとにやりと笑い、やはり傍に寄ってきた。
 
「なんがあっと? また財前ね?」
「……お前の思考回路はどうしてそう財前一色なんや、そんでしかも正解なんや」
「簡単ばい。白石の顔に書いてあったい」

 確かに、と小春と石田が頷く。自分たちが情報を持ってきておいてその反応はなんだ、と一瞥すれば、小春はすぐに口元を手で押さえて軽く咳払いをした。

「……それで、銀さんが確かめてみたら。光くんがやってきた廊下には」
がおった、ちゅうわけか。せやけどそれだけで無視したとは決められへんのとちゃうか」
「簡単ばい。そん時の財前の顔に書いてあったい」

 廊下を流れる窓からの風に髪をなびかせながら、飄然とした態度で千歳が呟く。そうなのか、と石田に視線を向けると、複雑そうに石田は頷いた。

「正確には、相手の顔に、やな。ワシとは面識がないからのう、取り繕う理由がない。まあ向こうはテニス部の人間やと知っておったのかもしれんがな、あれはなんというのだ、小春」
「なに? なにかしら、銀さん」
「こう、下を向いて、その……」
「ええっ、なにそれ。難しいわね、えーっと」
「……下唇かんで、泣くのでも我慢しよったとや?」

 おお、と石田が感動の声を千歳にあげる。白石は石田の妙な動きのどこをどう見ればそのような可愛らしい解釈に繋がるのか、この男の底は見えないと改めて舌を巻く。

「財前は公衆の面前ではそう自分の本音は口にはせえへん」
「つまり、無言でをそうさせた……」
「せやから、無視。どう、この推理。間違うてへんでしょ?」

 多目的教室で石田からその旨を聞かされた小春が、生徒会役員の手伝いを抜けてわざわざ2組にそれを伝えにきた。始まりはそのようなことだった。
 白石は千歳に視線を向ける。千歳も似たようなことを考えているのか、ふむ、と手を顎に添えて考え込む。
 石田と小春の解釈に、恐らく狂いはないだろうと白石も思った。それでもすぐに納得できない理由があるのが、白石は少し情けないとも思う。しかし、財前がにそのような態度を取ることはないなどという、過信と言われようともそう信じていたい部分がある自分はそう簡単には捨てきれないのだ。
 昨日食堂でたきつけた張本人がなにを言う、と誰かに怒られそうでもあったが、たきつけた結果が今の展開であればなおさら他人のふりをするわけにもいかないだろう。正論を味方につけたつもりで、白石はひとつ息を吐いて3人を見つめた。

「考えること、3つ。千歳、ええか?」

 話し始める許可を取ると、千歳は頷く。まだ自分は考えてみたいという顔だった。

「ひとつめ、なんで銀に見られて慌ててたんかっちゅうこと。身内に見られてまずいこと、言うたらここ最近のあいつはテニスに関することしかないはずやねん。せやけどがおったんやったらそれはないわ、に関することで決まりや。しかも慌てる、いうんは自分に負い目があるからやろ。あいつがしもたと思うような、まずどんな行動を取ったんかっちゅうこと」

 石田と小春は、神妙に頷く。千歳は黙っている。同じ意見、という意味らしい。

「ふたつめ。財前がそんな行動を取った理由。……まあこれは8割ぐらいな、俺の責任やろうから俺が調べるわ。それで傷つけてしもたら元も子もあらへんし」
「なにしたの、蔵リン」
「……それはまだ秘密」
「いやらしいわ」
「はてしなく」
「銀までなに言うてんねん! そんでみっつめ、これが一番大事や。手助けがいるのか、いらんのか」

 はしゃいでいた小春が、すっと冷静な表情に戻る。ちらりと石田を見上げ、納得し合う。
 以前にもこのようなことがあった、と白石は思い出していた。2週間ほど前の出来事だ。財前とがうまくいっていないかもしれないという噂があったのだが、あの時は結局小春の杞憂で話は終わっていた。当時図書室で自分が見た財前との姿も、それが噂に過ぎないことを裏付けてくれていた。
 だが、と白石は廊下から見えるテニスコートを見つめ、まわりに見えないようにわずかに拳を握り締める。

(あいつらは、俺よりは長い時間一緒に過ごしてきたんや。俺の物差しだけで安心しとったらあかんかったんとちゃうんか)

 訝る視線を用意して記憶を辿れば、いくらでも財前やの異変に気づくことができたように思う。あの時、甘味処で何事もなく楽しそうに話す姿にもなにか意味があるのかも知れないと気づくことができたのかもしれないのだ。
 今なら確実に分かることがひとつあった。白石は昨日財前に向けた言葉を思い出す。
 あの時、ふたりの間には会話があった。この目で、耳でその姿を見てきたし聞いてきた。にしてもなにかを確かめる方法として、言葉のやり取りがあったからこそ表にすべてを出さずに済んでいたに違いない。図書室で聞いたふたりの会話に、それこそ異変のようなものはなにひとつなくて、だからこそ自分も斜に構えた見方をする必要などなかったのだ。
 それが今ではどうだ。石田の見たものと小春の解釈が正しければ、本当にふたりの間に会話がなくなってしまっているように思えてならない。

「つけたし」

 千歳が笑みを消して小さく呟いた。3人は顔を上げ、千歳を見つめる。

「彼女のこと気にしだしたら、財前、絶対なんか忘れるけん。ひとつのことに集中すっと、あいつは必ず視野からはみ出るもんがあっとよ」

 不器用を専売しているようなものだと呟いた千歳の視線の先には、テニスコートがあった。



「……なんやねん、お前。持ち場は2組やろ。なんで8組きて……って、おい! そこ俺の席やんけ! 泣くなら勝手に教室で泣かんかい、アホケンヤ!」
「うるさい、泣いてへんわ! ちょっとむかついただけやないか、アホユウジ!」
「人の教室きてむかついたとかなんやねん、お前! はよ2組に戻れや!」
「アホ、もともとはお前のせいでもあんねんで! 小春が白石白石言うから俺がこないな目におうてるんやないか!」
「……なんや、それ。小春は生徒会の手伝いに行っとるんとちゃうんか」
「銀と手繋いで2組におるわ、ドアホ」
「なんやて! おのれ、師範……!」
「ちょ、嘘、嘘や! またんかいユウジ!」
「……なにしてんねん、お前らは。ほんまに」

 開け放たれた廊下の窓から小石川が声をかけてくれなければ、一氏は本当に教室から飛び出して2組へと直行しかねない勢いだった。自分でふりまいた種ながら、ここで2組に行かれてしまってはわざわざ8組に来た意味がない。
 忍足は小石川を手招きし、こちらに来るように促す。足りない材料を取りに行った帰りなのだろう、彼はガムテープや絵の具やらを抱きしめるような形で腕の中に収めていた。

「いや、あんな。財前がな、彼女となんかあったらしくてな」

 睨みつけてくる一氏をとりあえず宥め、3人揃ったところで忍足はそっと呟く。ここが8組で、まわりに唖然とした目があることはこの際気にしないことにした。
 小石川が息を飲む。一氏はつまらなさそうな視線をちらりと向ける。が、席を離れようとはしない。その反応を見届けて、一度小さく頷いたあと忍足は言葉を続ける。

「詳しくは知らへんねんけどな、とりあえず財前がなんややらかして、彼女が泣きそうになってたらしいっちゅうところまでは聞こえたんや。その後はあいつら秘密の相談みたいにしよって、なんや企らんでんのは分かったんやけどな、それ以上は俺も分からへんかった」

 今思い出しても、複雑極まりない光景だった。違うクラスの千歳は呼び寄せたのに、自分には金槌を押し付けて両刀裁きを強要した白石に、小さな怒りすらこみ上げる。休憩をしたいのはこちらも同じではないか、とドアを開けて文句のひとつでも言おうとした時、4人の神妙な面持ちに出るはずの文句もあっさりと姿を消してしまった。行き場のなくなった手と足は、仕方ない、どこかへと向かった先が8組だったのだ。
 一氏は忍足の話を聞いただけである程度を察知したのか、首を傾げて腕を組んだ。考え込むと途端いつもの姿が嘘のように寡黙になる。反対に小石川は心配に表情が負けて忙しくなる。幾度か首を横に振り、ため息をついているのが見えた。

「財前が喧嘩ねえ、あいつなにで喧嘩するんや。あいつのこだわりってなんや。ぜんざいになんか混ぜられたんか。わさびとか」
「いや、そんなことをする彼女には見えへんけどなあ」

 一氏の呟きに、忍足は小声で返事をする。まわりの視線が思った以上に自分たちに向いていて、小石川が至極申し訳なさそうに頭を下げるので罪悪感がむくむくと大きくなっていく。だが、席を立つ気はまるで起きなかった。考え込む一氏がいる限り、それは許されているはずだ。

「お前、そんなん見た目で女子のこと考えたらあかんやろ。分からへんで、女子っちゅうもんは表と裏の顔が絶対にある。表で笑てても絶対裏ではなんか考えてんねん、絶対そうや」
「……そういうことをクラスで平気で言うお前の度胸に感服や、俺は。なあ小石川」
「いや、俺は文化祭の準備中に堂々とさぼるお前らに感服する」
「そんなかたいこと言うなや。まあでもな、ユウジ。それはちょっとばかし見込み違いやわ。悪いけど俺、あいつの彼女結構見てるけどそんなもんあらへんで、絶対。財前に惚れて仕方ありませんっちゅう顔しかしてへんわ」

 俺かて見たことあるけどな、と呟いてもう一度黙る。やがて一氏の思考が止まった。考えていた腕をほどき、真っ直ぐに忍足を見つめる。

「……なあ、あいつ。最近他の女となんかあったか?」

 まるで想像していない質問だった。忍足はまた目を丸くし、何度も瞬きをする。小石川が不安を拭えない表情で一氏を見つめる。

「他の女? あいつにそんなんあるか? あの無愛想に」
「いや、ケンヤ。財前は案外可愛げがあると3年の女子からは人気だぞ」
「なんでお前がそんなこと知ってんねん、小石川」
「アホ、部員の情報管理はほんまは副部長の仕事やで。小春に手伝うてもろてばかりやったけどな」

 なるほど、とまた一氏は考え込む。小石川によると最近表情が柔らかくなったらしい財前は、よく校舎内で誰かと話すことが多くなったのだそうだ。言われてみればそうかもしれない、と忍足も納得する。確かに以前に比べれば、随分と付き合いやすくなった気がする。棘がある物言いは相変わらずだったが、しかし抜き方が分かるというか抜かれるのを待っているような棘ばかりだ。それがなにをきっかけにして変化したのかは知らないが、少なくとも忍足が目にしてきたに対する態度は、その類のものばかりだった。
 だから他の女子の存在など、考えたこともなかった。しかし一氏は着々と考えを進める。
 
「……あんなあ、俺この前小春に聞いたんやけどな。財前、去年同じクラスやった女子に誘われてるらしいで。いろいろと」
「ほんまか!」
「そんでな、俺見てしもうたんや。この前、コートで」
「……コートで?」
「あいつが誰かから電話もろたとこ! そんでもって、気まずそうに電話に出えへんと相手が切るんを待っとったとこ! あれはな、話すとこ俺に見られたくなかったんや。絶対そうや。つまり、まだその女と縁が切れてへん……三角関係なんとちゃうんか、あいつ!」
「なんやて!」

 小石川とともに絶叫をすれば、教室中の誰もが何事かと視線を再び向けてくる。だが構っている暇はない、疑問点が一致した一氏は感動に似た興奮に負けて財前が三角関係にあることを熱弁し始め、話術巧みに(しかも全て財前の物真似をまじえて)語り始めてしまった。そんな一氏の想像に興味をひかれないはずがない。気づけば8組に居座ることに躊躇していた小石川ですら、ガムテープを握り締めたまま聞き入っている。

「こらあかん、あかんで。後輩が三角関係とか、そんな話聞いたら黙ってられへん!」

 忍足は金槌片手に立ち上がる。ここが3階であることがもはや恨めしい、2階であれば財前の教室などすぐに覗きにいけるというのに。だがそのもどかしさが逆に原動力となって、財前の秘密に困惑している小石川を急かして立ち上がらせることにためらわない。
 生意気な真面目、それが財前だと思っていた。部長職に精一杯取り組んでいるとばかり思っていた。ところがどうだ、人のことは鼻で笑うのを常としているくせに今回の行動は決して褒めるにも見守るにも値しない。
 ひとつの推理を導いたことで満足した一氏はそれ以上の関与を面倒そうにしていたが、忍足は俄然鼓動が高鳴って仕方ない。4組に小石川を見送り、慌てて2組へと戻ると白石は既に自分の持ち場についていた。

「謙也、どこ行っとったんや。はよ金槌返してくれ」
「なに言うてんねん、お前が俺に押し付けたんやないか。しかもまた仲間外れにしよって」

 なんのことだ、と狐につままれた顔をする白石にほくそ笑み、忍足は一氏の推理を口にする。手柄は独り占めして悦に入るのではなく堂々と自慢する、それが同い年の従兄弟との鉄則であった忍足は、後に一氏に「アホとちゃうかお前」と真顔で呆れられるほど懸命に、すべてを説明した。
 これで白石が悔しがれば、すべて丸く収まり、全員で協力して財前に対応できる。そう確信していたのだが、

「……はあ、なるほど。それはそれで一因ではあるな。確かにええ気はせんわ、どれだけ平気や言うても。ああつまり、そういう我慢の積み重ねやったんやな、。よう分かったわ、お手柄やったな謙也。お前ほんま財前のことよう知ってるわ、俺はまだまだやった」

 白石は心から納得した表情を浮かべた後、忍足の肩を二、三度叩いて労う。だがすぐに考え込み、それ以上口を開かなくなった。
 沈黙の中で作業を進めること数十分。

「悪い、謙也。俺今日寄るとこあるから。ほなな」

 片付けが終了したと同時に、白石はあっさりと帰路につく。ように見えた。

「……体操服のまんま、帰れるはずないやろ! アホ、また抜け駆けかい!」

 絶叫がこだまする2組の誰もが、またかという表情を浮かべるだけでそれ以上忍足の努力を労ってはくれないのだった。



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10/07/16〜10/08/02