| 童心 04 |
衝動に任せた行動がどれほど愚かなのか、知らないわけではない。過去に揃えた経験は痛みの伴うものとしか入力されていない。だが残念なことに、理解はできていてもその衝動を止める術そのものを知らない。だから、いつまでたっても情けない経験の仕方しかできない。 「……しまった、間違えた。絶対ちゃう、これ」 今手にしている携帯電話の画面など、まさに模範だ。嫌味なほど模範例だ。 画面には、昨夜悩みぬいて送った一通のメールの文面が表示されている。なぜこれを打ち込むのに30分近く悩んでいたのか、文字数だけを見ればあまりに情けない時間の使い方だったが、問題はそこではない。 『部活、お疲れ様。 忙しそうだけど、身体大丈夫?気をつけてね。』 はもう一度、ゆっくりと読み返す。そして、机に突っ伏した。 毎日送っているメールでもないのに、唐突に明確な答え方があるわけでもないメールを送るなど、財前相手にはルール違反に近い。 「なにしてんねん、」 「自分に腹が立ってきた」 親友の声にも顔を上げず、机に向かって呟く。しばらくの沈黙の後、するりと手の中から携帯電話が奪われた。 慌てて振り返るのと、親友が画面を見て目を丸くするのとが同時。 「なんなんこれ、……財前あて? なんでこんな他人行儀なメールしてんの」 「えっ、それは……なんか、言葉がよく出てこやんくて」 「……探りいれるようなメールやで、これ。ある意味。なんて返すか悩むんとちゃうの、財前」 「せやから今頭抱えてんの。ああもう、送るんやなかった。もう返して」 だが奪い返すことよりも、親友の爆笑が教室中に響き渡ることの方が早かった。 昼食を終え、いつものように廊下に出ずに自分の席でため息をついていたのが失敗だった。腹を抱えて笑い出す彼女からようやく携帯電話を取り返し、は慌てて画面を待機状態に戻す。まだ親友は笑っていた。 「なに難しい顔してるんか思たら……なにしてんの、あんたたち。付き合うてるんやったら悩む前に直接話したらええんとちゃうの。喧嘩したわけでもあるまいし」 その話題に関してはしっかりと小声で話してくれる親友には感謝を抱きたいが、だがその顔に浮かんだ笑みの前には素直に喜ぶ気にもなれない。ましてや、その口からついて出てきた言葉が白石と同じ、そして自分でも正解に近いと思っている内容であればなおさらだ。 「私、分かってきたわ。、あんた自分で自分追い込んでるで」 「……私もそんな気がする」 「……なに、やけに素直やん。財前になんか言われたん?」 ちらりと視線を戻す。興味の色は消えないが、親友の顔には若干の心配の色があった。情けないと思うと同時にありがたいとも思ってしまう、自分は現金だと思うと同時に、 (光くんと話すとき、私まだよそよそしいことあるなあ) 後悔の念までもが寄ってきて、なにを考えていいのか分からなくなってしまう。 チャイムが鳴り響いた。今日は午後の時間は全て文化祭の準備にあてられている。教師の指示内容を受けるまでは教室待機であるが、授業がないと分かっている身体にはもはややる気という名の気力はあまりない。言葉を繋げなくなったに親友は幾分か重いため息を残し、背中を一度叩いて席へと戻っていく。 いつのまにか、首を傾げている自分がいた。 (……おかしいなあ、なんでこんなことになってるんやろ) ただ普通に、付き合っているつもりだった。それが正解かどうかの判断はできなかったが、ずば抜けて不正解でもないと思っていた。これで財前に交際経験があれば話は別だったかもしれないが、向こうにとっても自分が初めての彼女である。そう思うと嬉しい反面、頼れるものがお互いにない心もとない心境になることは否めない。 「財前、はよこい!」 窓の開け放たれた廊下から、男子の声が飛んだ。教師がいないことを幸いに、は戸惑うことなく視線をそちらに向ける。教室の誰も同じ方向を向かない、の反応に気づかない。 「なんやねん、俺今職員室から戻ってきたばっかりやで」 「ちゃうねん、お前の机の上がすごいことになっとんねん。はよなんとかしてくれ、俺ら……」 「……は?」 「笑い死にしてしまうわ! 小春先輩らなんとかせえよ!」 原色のピアスが光るのと、艶のある黒髪が視界に入ってくるのと同時だった。 あ、と思うと背筋すら伸びる。だが財前は6組の中になど視線も向けず、そのままあっさりと通り過ぎる。やがて隣の7組から爆笑の渦が響き、その時になってようやく教室中の誰もが財前財前と連呼されている名前の持ち主になにかあったのだと理解した表情を浮かべる。 周りは誰も見ていない。財前も、見ていない。ただ自分だけが今でもひとり、財前を視線で追っている毎日になっている。 (……なにしてるんやろ、私。なんでいちいち勝手に辛く思うようなことしてるんやろ) 息づまる感覚に、身体が重い。準備が始まってもそれは変わらなかった。 ダンボールが寄せられていた壁際に、床に腰を下ろした姿勢のまま頭を預ける。財前の去った廊下には準備に奔走する他のクラスの生徒が声を上げながら通り過ぎていく様子だけがあって、財前の姿は記憶の中でしかよみがえってはきてくれない。手元の絵筆を動かすのも事務的になってきた。 話したい、会いたい。思いはある。願いにも近いそれらを、言葉には出していない。思えばいつもそうだった、どうしても自分の願いは直接口に出しかねてきた。告白をした側である。選択権を向こうに委ねている身なのである。誰が恋愛を対等と呼んだかは知らないが、そんなものは解釈のひとつでしかなくて、自分には程遠い言葉だとは常々思う。 (……他の人やったら、その人がどれぐらい相手のこと好きなんか分かるのに。白石先輩が彼女のことどれぐらい好きか分かるし、それ見てたら絶対彼女の人は素直に思うこと言うても絶対先輩に嫌われへんって思うのに) それが財前と自分とのことになると、とんと分からなくなる。いや、分からないのではない。怖くて触れられないのだ。線引きどころではない、その微妙なラインを一度でも超えてしまうことが恐ろしくて仕方なくて、そんな怖い思いをするぐらいならば本音のわがままなどしまってしまえばいいと思うのだ。 そう思わなければならない立場だと、は強く意識してきた。 テニス部部長という肩書きの重さを知らない。理解もしていない。そして、財前が理解してもらおうと思っているようには見えない。下手な手助けは嫌う、自分の誇りにかけたものは自分の力でやりぬきたいと思うのが財前であることを、付き合うことで実感したことが何度かある。 「財前か。ああ、よう質問しにくるで。まあ悩みを抱えるタイプやなくてよかったっちゅうのが俺の本音やったりするんやけどな。あ、これあいつには内緒やで」 嬉しそうに答えてくれた白石に、羨ましいと思う気持ちを抱いてしまったことは嘘ではない。おこがましい話だったが、それでも愚痴のひとつでもいいからはけ口になる存在でありたかったと、思ったことは誰にも伝えていない。 「、休憩やって。動ける?」 うん、と頷く代わりに立ち上がる。文化祭である木下藤吉郎祭が目前に迫っていた。準備にかける時間も日々長くなる。 今日から部活がなくなることを思い出し、はロッカーにある鞄の中から見つからないように携帯電話を取り出してみる。 財前からの連絡はない。昨夜の返事も、ない。 「……ああもう、情けない」 まともに作業ができていないことや結局携帯電話を頼りにしてしまう自分に、忌々しさすらわいてくる。深いため息をひとつ零してすべて吐き出してしまえればどれだけ楽かと、絵の具の匂いに占領された教室から廊下の窓辺へと逃げ出す。 話してしまえば楽なのに、と思った。 話す言葉が決められていないくせに、と野次る自分がいるとも思った。 人の頭に残るような声なり表情なり、言葉なり。それらをほぼ全てと言ってよいほど兼ね備えている白石という人は、自重という言葉を覚えてもいいのではないかと最近切に思う。 責任転嫁という言葉がちらつかないわけでもないが、しかし白石のせいにしておけば話は簡単にまとまる。自分より優れた人間に主導権を握られるのは当たり前だからだ。勝たなければ話にならない。 (……あんなこと言うから、まともに顔見られへんくなってしまったやないか。どないしてくれんねん、部長) 窓際の席に腰かけ、そよぐ風をあびながらぼんやりと頬杖をついてテニスコートを見つめる。頭はさきほど6組の前を通り過ぎた時、視界片隅に映ろうとしたものをはっきりと覚えていた。そして視線を向けられなかった身体の硬直を、肌が今でも覚えていた。 昨日、白石に向けられた言葉がしつこく自分を追いかけていた。 (……確かに、話してへんわ最近。別にだからどうってわけやないのに、部長があんなこと言うから。アホやあの人、意識させるだけさせてその後は知らんふりとか) 結局、メールの返事もできていない。そんな自分に反論されたくないと白石は鼻で笑うだろうが、それならば人の彼女のことに構いすぎるのはやめてくれと釘をさしたくもなる。そしてなぜ、自分よりものことについて心配しているのかと苛立ちそうになり、それが悔しい。 絵筆が、ずっと手の中でくるくると回っていた。 「財前、なにしとんねん。はよせんと女子に怒られるで」 「あー、うん。まあ適当に」 「適当とかなんやねん、財前。はよ塗って。遅れた仕事おしつけるで」 クラスの中でも一、二を争う勝ち気な女子に怒られ、財前は渋々窓際の席から離れる。その席も自分の席ではなかったのだが、どうしてその席に座ったのか覚えていないので気にしないことにした。 看板という模擬店にとって大切なものなど、もっと早くに作っておけばいいというのが財前の持論だった。喫茶店という文化祭王道の枠で勝負を挑むのであれば、衆人の目を引くなにかは必要不可欠である。勝ち負けにこだわりすぎだと女子には批判されたが、文化祭最終日に売り上げや装飾など数項目において上位が表彰されるのであれば、それはれっきとした勝負ではないかと思ったが、女子に逆らうのは面倒なので口にしていない。 (俺に塗らせても綺麗になんかできひんやろ……見る目ないな) 一番心の奥底に眠らせている本音はそれだったが、絵筆を持って動かしていればそれ以上の文句は飛んでこない。手伝いたくないというわけではないので、財前は今日も本音をそっと隠して作業に取り掛かる。 しかし黙々とひつの作業に取り掛かるということは、随分と優しくない行為だった。頭に。 (考え事せえって言うてるようなもんやな、これ) これがテニスであれば集中力という点で話は別になるのだが、単調な作業は隙が多すぎて困る。ただ、これも昨日までであれば困ることにも気づかなかったかもしれない。考えることといったらひとつ、今日の部活明日の部活来週の部活、来年の部活のことしかなかったからだ。考えるべきこととして用意されたものがあったからだ。 「……財前、手止まってんで。そんでもって見られてんで、女子に」 「あ」 こそっと親友の男子が呟き、財前は慌てて顔を上げる。学級委員の女子がじっと財前を見つめていたが、絵筆に新しく絵の具をつけて塗り始める姿を見せれば、その顔に綺麗な笑みが浮かんだ。 「あいつ、隙ないから困るわ。賢すぎる女って怖いな」 親友がぽつりと呟く。財前は学級委員の後ろ姿を見つめ、首を傾げた。 「……そうか? あれぐらい自分の主義主張はっきりしとる方が、分かりやすいやろ。俺別に困らへんけどな、好きでもないけど」 「全部聞こえてるんやけど、財前。悪口やったら私も言うてあげよか?」 「……いや、ええわ。遠慮する」 すみません、と頭を一度下げると、学級委員はため息をひとつついて他の仕事場へと足を向けた。指示をして回るだけではなく、自分の分担もきちんと取っている彼女はいつも視界のどこかに映るほどの存在感がある。今までであれば興味がないので意識したことがなかったが、似たような立場になって初めてそれが要領という言葉で言い表すだけでは申し訳ない気持ちになった。努力をしている人間に好き嫌いの反論をぶつけるものではない。 「頑張っとる人間相手にさぼっとるやつが文句言う権限なんかないしな。しゃあないやろ」 「そう言いながらすぐに手を止める、お前の口からそう言われてもなあ」 「ちゃう、これは休憩」 「……お前、始めて5分も経ってへんやないか」 確かに、と笑いあってもう一度仕事に取り掛かる。 親友とたわいない会話をしながら、手を動かしながら。財前はふと、さきほど自分が口にした言葉を思い出していた。 視線を学級委員に向ける。凛然ともしている彼女の姿は頼もしくもあるが、同時に自分などがなにか心配をしなくても大丈夫なのだろうと妙な安心感がある。同級生ではなくクラスメイト、その響きを最も実りあるものとして感じさせてくれる雰囲気の人間だと思った。 「……心配は、せえへんなあ確かに」 「は? なに?」 「あいつ。気強いし、俺らに心配とかされたら鳥肌が立つとか言いそうや」 財前の視線を追った親友が、しばらく沈黙した後すぐに爆笑した。学級委員がすぐさま鋭い視線をぶつけてくれたおかげでまわりに伝播せずに済んだが、財前はこそりと頭を叩くことを忘れなかった。 「いや、お前が女のこと言うとか珍しいと思て。そういえば、お前どんなんがタイプなんや」 「……タイプ? タイプ、ねえ」 が頭の中に浮かび、財前はしばらく考え込む。あぐらをかいた姿勢のまま筆を所在無く小さく振る。 「……別にないけどな、特に。特別これがないとあかんとか、そういうのは」 「嘘やろ。お前絶対そういう顔してこだわりがあるタイプやで、絶対。頑固者のくせしてなにすましたこと言うてんねん」 「せやかて、好きやったら好きでええやんか。好みなんか後からついてくるわ」 夏の空のような青を、一塗り。いくらかの力をこめてボードの上で筆を動かせば、濁りのない胸をすくような色が視界に広がった。金太郎の目のようだと思った。 そうだ、と財前は心の中で呟く。親友が目を丸くさせていて驚いていることは分かっていたが、彼に説明をする時間も内容も作らなかった。自分で言葉にしたことで、小さな確信が財前の心の中に確実に宿る。 (付き合う、言うて好きになって、そんで今も付き合うてるのになに遠慮なんかしとんねん。そんなん俺分からんし、それで悩む言われても、せやったら直接言葉に出せば済む話やんか。今までそうしてきたくせに、なにいまさら様子うかがうようなメールしたり、それに) 財前、と学級委員が呼ぶ。多目的教室に足りない材料を取りに行ってほしいと、入り口に一番近いという理由を明確にして伝えてきた。目的と使命を理解しているクラスメイトの指示に、財前は愛想なくではあるがきちんと頷き返して了承の意味を伝える。 (……部長に心配かけさすようなこと、なんで言わへんねん。俺はなんやねん) 続きを聞きたいのだけれど聞いていいものか、と悩み続ける親友をその場に残し、財前は教室を出る。動いていた方がやはり楽だった、この身体はおそらくテニスを選んだ時からそのような生き方を是としているに違いない。動いて考え事をしないようにする。だから、 「……あ」 立ち止まった時こそ、なにかを考えなければならないと頭が思っているのかもしれない。 廊下に出て数秒、すぐに財前の足は止まった。階段とは反対側に視線を向けて、6組の廊下にが立ち尽くしている光景を見ただけで足は、止まった。 そのように呟いたかどうかは、実際には聞こえていない。廊下の喧騒に勝てるほどの声量は、は持ち合わせていない。7組の学級委員と比べると、か細くすら思えるほどなのだ。 芯が弱いというわけではない。使命がないというのでもない。そもそも役割が違うだけなのだからそんなものは求めていない。 あるとすれば、ひとつだ。 その視線を受けて、自分が身体の自由を奪われるかどうか。それだけだ。 はどこか寂しげに財前を見つめていた。言葉をかけられないのは理由がある、今自分たちがいる場所が6組と7組の前だからだ。理由がなければ話す関係にない歴史を、去年までに作ってきてしまったからだ。だから財前も繋げる言葉がない。 白石の言葉がよみがえる。のメールもよみがえる。追いつめる感覚に瞬きが重くなる。 「財前、お前どこ行くねん。多目的教室か? それやったら俺も行くで、ひとりやと持てへんらしいわ」 廊下に響いた親友の声は、本来どのような意味を持っていたのかは分からない。 だが財前は、数秒とおかずにすぐに返事をして階段へと向かう。 に渡す言葉も表情も、なにも作れず下りていく階段は、下りであるはずなのに妙に心臓を刺激してやまなかった。 |
| >>05 10/07/16〜10/08/02 |