| 童心 03 |
ふと目を開いて、ぼんやりと時計を見つめた時に思う言葉は最近は決まっていた。もう朝か。カーテンに進入を阻まれた朝の日差しは、部屋の中を重いのか軽いのかよく分からない色に変えている。 財前は寝癖に小さな苛立ちを抱きながら、カーテンを開ける。窓も小さく開ければ秋のひんやりとした朝の空気に触れられて、ようやく瞼もその居場所を退こうと幾度かの瞬きを許してくれた。 「……あれ」 ベッドから抜け出した時、枕元においてあった携帯電話が着信を告げる光を発していたことに気づく。階下へと移動しながら内容を確認すると、それは白石からのメールだった。 『会議お疲れさん。 たまには息抜きせえよ。ぜんざいぐらいならおごったるから。』 母と義姉が朝食の準備をしていたリビングで、寝癖をからかわれながら水を一気に飲み干す。珍しいな、と考えていると横槍も気にならない。今日はつまらないと判断して、ふたりも自分の仕事へと戻る。しばらくひとりでソファに座って、ぼんやりとテレビを見ているとようやく頭の回転も元通りになっていった。 返事をしようとして、手を止めた。白石はまだ寝ているかもしれない。数ヶ月前まで彼の起床時刻であったこの時間は、今は自分の起床時刻になっている。 「光くん、今日何時ぐらいになる? また遅いの?」 「あー、うん。今日は監督と打ち合わせがある」 そう、と呟く義姉の言葉に返事をするのを忘れていると、白石への返事をいつ送信しようかと考えるのも忘れてしまっていた。早朝練習に行かなければならない。 乗り越えるべき壁が増えたことに気づいたら、今度は意識をすべきことが増えた。 コートに立った時に考えるべきことが、増えた。持つべき視点が増えた。声に出すべき指示が増えた。自分はひとりでいるのではないという認識をしなければならない瞬間が、増えた。それは自分の性格を考えれば苦痛でもあったが、目の前に部長の責務をかざされると反論する気持ちの方が先に失せる。 (俺、負けず嫌いでよかったんかもしれへん) 朝からコートを好き勝手に飛び跳ねている金太郎の首根っこを捕まえ、コートに脇に連れ出す。至極不機嫌そうな視線を向けられたのもつかの間、隣のコートで同じ1年がどのような気持ちでコートに立っているのかを冷静に説くと、金太郎はあっさりと納得した。 小さくても、ひとつの仕事を確実にこなす達成感が妙な刺激を呼んでいた。 「財前」 「なんや。もう別に言うことないで」 コートに戻そうとした金太郎が、振り返って財前の名前を呼ぶ。今日はコート外で部員の様子を観察する役にまわっていた財前は、金太郎がコートに呼んでいるのかと思って素っ気ない返事をする。 「なんか、ちょっと、白石っぽいわ最近。全然似てへんけど、せやけどなんか似とる。なんでやろな」 金太郎はそれだけを言うと、いつもどおりの満面の笑みを浮かべてコートに走り去っていった。右手を大きく上げれば、すぐにボールが飛んでくる。嬉しそうに打ち返す様は、夏までに見てきた姿とまるで同じだった。 しばらく金太郎の様子を見届けた後、財前はそっと笑ってベンチに戻る。今日は練習後に渡邊と部員の今後の課題について話し合う予定になっていた。それまでに必要な情報は極力集めなければならない、今日の左手はラケットではなくシャープペンシルを握るためだけにあると言い聞かせていた。 去年と違うものは、増えていた。最初こそ戸惑った。抵抗もした。だが、負けず嫌いなのだ自分は。簡単に誰かに対して敗北を認められるほど、無気力なのではないのだ。このコートに立っている以上、そしてこのジャージを着ている以上、テニスに関することだけには気を抜くつもりは毛頭ないのだ。 「ざいぜーん。はりきっとるやないか」 「……ああ、先輩。朝からどうしたんすか、珍しいっすね」 「お前がコートにおらんなんて珍しいっちゅう、俺の考えの方が先やけどな」 ベンチの背もたれに急に力が入ったと思った時、一氏の声が飛んできた。財前はちらりと視線を向けるだけで、すぐにコートに顔を向ける。勝手知ったる上級生のひとりである、慇懃無礼がむしろ常なるものであることを一氏も心得ている。 「今日、監督と打ち合わせなんですわ。部長って忙しいですね、よう白石部長ひとりで全部やっとったなあと最近よう思います」 「そうか? そうか」 ふむ、と一氏も財前と同じ方向に視線を向ける。金太郎が一氏の存在に気づいて試合を無視して両手を振っていたが、財前の一言で慌ててボールを打ち返す姿勢に戻った。 彼の場合、打ち返す姿勢そのものが人とは異なるのでたしなめる一言も実はいらなかったのかもしれない。だが視野を広く、と思う心は、そこに金太郎以外の視線も感じ取るようにできている。 (金太郎だけ特別扱いしとるわけでもないことは、細かいかもしれへんけどきちんと見せとかなあかんはず) 金太郎が楽しく打ち合う姿を見届けて、財前はそっと視線を隣のコートに向ける。 芦原は、財前と目が合った後冷静に試合に戻っていた。 「ああいうことは、小春と銀が上手かったからなあ」 ぽつりと一氏が呟く。意味が分からなくて財前はその時になってようやく顔をきちんと上げて、一氏を見つめる。 一氏の視線の先には、表情を変えず淡々とラリーを続ける芦原の姿があった。 「後輩の扱いや。で、そういう情報集めは小春と小石川が上手かった」 「……え?」 「金太郎のお守りは、小春と白石が上手かった。後輩相手の試合は小春とケンヤが上手かった。まあ小春はなんでも上手かったんやけどな!」 芦原を見つめた後、一氏は財前の手元を見つめて呟いた。すべてに小春の名前が組み込まれているのはいつも通りのようでしかし事実でもあって、財前は返答に困る。そんな財前を見て、一氏は最後に大げさなため息をついた。 「そんで、お前みたいなやつの操り方は……誰やねん、俺か? いや俺ちゃうな、謙也でもないな。まあとりあえず全員にしとこか、唯一の2年レギュラーやったんやから」 「操り方って」 「しゃあないやろ。なんでも白石がひとりで全部やっとったわけやないんや、分担制やでこんなもん。お前が目標にするのは構わへんけどな。まあ、ほどほどにせえよ」 財前の意図するものに気づいているのかいないのか、ぽつりと呟くと一氏はベンチから離れる。離れ際、一瞬目が合った気がしたが、一氏はそれ以上なにも言おうとはしなかった。別れの言葉もなくそのまま3年の教室へと向かう、その背中を財前も引き止める言葉を持っていなかった。 引きとめようと思ったことが初めてだったことに、その時気づいた。 「そろそろ馬刺しが出てもいい頃たい」 「千歳、そろそろ諦めた方がええで。悪いけどここ、公立やから。しかも大阪の」 「馬鹿言え、白石。馬刺しの魅力ば伝えるこつ、校長先生も理解してくれちょったけん」 「お前、アホちゃうか。千歳のくせにアホちゃうか。馬刺し出すぐらいやったら生粋の大阪っ子の俺の希望を先に通すやろ! せやから今日はおくら定食やねん!」 「アホ! 誰がユウジのための定食なんか用意するか! おばちゃん、今日の定食……って、おくらかい!」 「ケンヤに俺の魅力が分からへん理由がよう分かったわ、おくらの魅力が分からへんお前はほんま、おこちゃまやねケンヤくん」 「うるさいわ、ユウジ!」 レギュラーは引退した後、週に1回決まって食堂で全員が昼食を取ることになっていた。強制ではなく、最初こそ白石と忍足の2組のふたりが食べていたことから始まったらしいが(そもそもふたりは週に1回と限らず毎日共に昼食を取っている)、そこに8組のふたりが加わればあとは定例化するのを待つばかりであった。最近にいたっては千歳までもが加わり、食堂の賑やかさは増す一方である。全員が揃うのも時間の問題とまで言われていた。 「……先輩ら、ひとつ質問してもええですか」 「なんねやん、財前。俺は今ユウジに腹立って仕方な……」 「なんで、こう、俺を囲むような座席になっとるんですか」 ただ、自分には学年が違うという免罪符の利用を許されていたはずだった。 それなのに今日、4時間目の授業終了のチャイムが鳴り響いてようやく国語の眠気から解放されたと思ったら、突然教室の後ろのドアが開いた。 「光くん! さあ、行くわよアタシとスウィートなランチタイムに!」 「スウィートは余計や、小春!」 小春と一氏が現れて、2年7組のクラスメイトはおろか教師までもが苦言を呈さないところがこの学校の末恐ろしいところだと、財前は改めて思い知る。 「な、ちょっと……!」 「ええやないの、たまにはアタシとふたりっきりの時間を過ごしても」 「財前、そうはさせへんからな! 監視役なら山ほどおるんやで!」 「いや、ほんま俺小春先輩とふたりっきりとかそんな怖……うわあ!」 まるで連行される犯人のように両脇をしっかりと固められて強引に教室を連れ出され、前後を挟まれるように食券の販売機前に並び、 「ええ気分やろ? 色男に囲まれて食事するっちゅうのは」 「いや、部長がそれ言うたらほんまシャレにならへんのでやめてください」 目の前を白石に座られたのを筆頭に、左右両脇には旧レギュラーメンバーの3年全員が集まって昼食を取るという、彼らの引退前でもそうそうありえなかった光景に対峙しなくてはならなくなった。 しかも、なぜだろう居心地が悪い。囲まれているからなのかと最初は思った。左利きの自分の隣に右利きの忍足がいて、箸を動かす度に肘が当たることを気にしなければならないからなのかとも思った。3年生と一緒の時間を過ごすことは今までの生活を考えれば当たり前のことだったので、理由を探すのも一苦労である。 やがて、原因は外にないことに気づいた。 (……ああ、俺か。俺が見方が変わったからか) たとえば白石、それはもう言葉に出して確認するまでもない。千歳や石田の落ち着き、そしてなにより小石川の配慮。夏までは小春、一氏、そして忍足に意識を奪われる瞬間が多かったが、言葉少なである彼らが一体レギュラーの中でどのような存在であったのかを考えるようになった時から、この空間は違う意味を持ってしまったのだと、財前は納得する。 (それだけ、俺も周りが見られるようになったって……ことなんか、これは。まあそう外れてもないやろ、多分) ひとつ、確実に。そうすればひとつ小さくも必ず階段は上ることができる。 相変わらず静かに食べることができない旧レギュラーメンバーの中にいながら、自分だけは違うレールを用意されていて、それに対して少なくとも今の自分はきちんとそのレールに乗ることができている。それに気づくことができた時、ふっと肩の荷が下りた気がした。 やがて、千歳がたこ焼きをせがむ金太郎から逃げるように去った。小石川と石田は文化祭に向けてクラスで仕事があると次に立った。小春と一氏は、3年生の盛り上げる声に負けて漫才をしに窓際へと向かった。忍足は観客として強引につれていかれた。 残ったのは、向かい合って食事をする白石と財前だった。 「財前、お前メールぐらい返してもええんとちゃうか」 「……あ、そういえば」 しばらくの沈黙の後、白石が呟いた。 財前は目の前のトレイからサラダの入った皿が奪われたからではなく、素直に白石のその言葉に唖然とする。その瞬間ようやく朝に見た白石のメールを思い出した。白石の顔を見た直後には思い出せなかったことに自分でも驚いた。 心の内を読み取ることなど白石にとってはたやすいことなのだろう、白石は肩をすくめた後皿を見つめながら呟く。 「生意気な真面目、ねえ。謙也もうまいこと言うわ。そら千歳も口癖みたいに使いよるわけやな、納得した」 「……なんのことっすか?」 「いやあ、もう、お前が予想通りのコースを進みすぎて俺らもどうしたらええんかよう分からんくなっとるっちゅうこっちゃ」 珍しく、白石が困惑を隠さない。ため息をつくことを厭わない。弱いことは弱いと認めても、それに打ちのめされる姿だけは絶対に見せようとしなかった部長姿の彼の印象が強い財前は、突然の展開に返す言葉を持たない。 「部長を真面目にやろうとしてくれるんは嬉しいんやけどなあ……なんでやろうなあ」 包帯の巻かれた細長い指先が、グラスの縁をなぞる。自分には真似できないな、とテニスのこと以外でも白石と比べようとしている自分に財前はもう驚かない。 壁が増えた。意識することも増えた。つまりそれは、白石を知ることが増えたということだ。 そうだ、と心の中で頷く。何度も頷く代わりに両手の拳に力をこめる。自分の仕事が分かっているというのは、思いのほか心地よいものだと白石も知っているはずだった。 その姿を見て、白石はしばらく考え込んでいた。やがて頬杖をついて財前を見つめる。 「ぜんざいでも食べに行くか、とりあえず。俺ももしかしたらお前にきちんと伝えるもん伝えてへんのかもしれへんし。お前、どこか練習の後空いてないか」 「あ、はい。えっと」 予定を確認しようと開いた携帯電話に、着信があった。メールだった。 「来週やったらええと思うんです、……けど」 白石への返答と同時に左手を動かしていて、財前は一瞬動きを止める。メールの相手はだった。部長になってからは携帯電話に触れる時間そのものが短くなっていて、相対的にとのメールのやり取りもすっかり激減している。 久しぶりだ、と思ったのが最初の印象で、 「……えーと」 白石への返答が止まってしまうほど、メールの内容に戸惑うが次の印象だった。 白石の視線がちらりとこちらを向く。しまった、と思っても遅かった。 「か? ええで、はよ返し。その後でええから」 会話が進む一言を用意した後、白石は自分の食事を進める。財前は携帯電話の画面を見つめたまま、頷くも詫びるもできない。 メールの受信時刻は、昨夜11時を過ぎた頃だった。 (センターにでも留まってたんかな。気づかへんかった。……せやけど) たとえ昨晩受信できていたとしても、なんと返事をしていただろうか。今白石の許可を得ながらも動かない左手に、財前は困惑を隠せなくなる。 『部活、お疲れ様。 忙しそうだけど、身体大丈夫?気をつけてね。』 質問をするでもない、けれど日課になっていて定例文が決まっているわけでもない。かつて見覚えが全くないわけではなかったが、それは全国大会前を最後に徐々に減少していった類のものだった。 あの時はどう返していたのだろう、と首を傾げてみるが、しかし頭の中はここ最近の部長職に対する責務に凝り固まっていて、個人的なことはまるで思い出せない。 いや、と財前は心の中で首を振る。個人的なことは思い出せる。自分の習性だ、頭は覚えるつもりがなくても身体はそのように動くことしか考えていない。たとえそのとおりに動かなくとも、自分ひとりのことなのだから誰も困らない。困ったら直せばいいのだ、自分が。その瞬間がいつになろうと後悔するのは自分だけで、誰に詫びることもない。 思い出せないのは、とのことだった。 「……なあ、財前。俺ひとつ質問してもええか」 水の入ったグラスを両手で包み、その様子を見つめながら白石が呟く。 「悪いな、変な質問かもしれへんけど。お前ここ最近、のこと思い出したことあるか?」 答えさせようとしているのか。言葉に出させて確認しようとしているのか。一番分かることは、白石に逆らう術を自分は持っていないということだ。 「……そら、あんま遊びに行ったりとかはしてませんけど。平日かて俺部活あるし、あいつ塾行ってるから夜遅いことあるし」 かみ合わない。その言葉は誰に用意すればいいだろう、自分と白石にだろうか、それとも、自分ととにだろうか。 自分ひとりのことならばいくらでも融通が利くというのに、誰かひとりが自分の世界に入ってくることで途端自分という生き物は手心の加え方が分からなくなる。 「悪いな、財前。試すような真似して。せやけどな、俺そんな答え求めてないねん」 「……え?」 「思い出す、なんて言葉使うてることにつっこんでほしかったんやけどな。悪い、横槍やな。俺が言うことなんかないわ。恋愛に関しては俺より先輩やろ、お前の方が」 そんな自分に、白石が気づかないはずもない。 白石はそれ以上なにも付け加えず、淡々と食事を終えた後トレイを持ってそのまま教室へと戻っていく。財前に呼び止める方法はない。呼び止めてくれるのはいつも、白石たちの方だったからだ。仕方ないという口癖を言うことができるのは、聞いてくれる相手がいたからだ。 「心配症も度が過ぎると怖いな。白石だけは怒らせるような真似せんとき、財前。あいつお前のこと心配しすぎて、なに言うか分からへんで」 忍足が戻ってきてくれたことが、彼と白石の違いで、白石にあって忍足にないものを教えてくれているような気がして、財前は浅く頷くこうにも躊躇いにあっさり負けた。 |
| >>04 10/07/16〜10/08/02 |