童心 02

 秋になった、と気づくことは簡単だった。簡単だから意味もなかった。
 だが今年は違う。見上げる空の高さを見ても、早朝や夕暮れに頬を撫でる風を感じても、まず出てくる思いは「時間」だった。
 時間が流れた。時間が経った。綺麗な表現などできないから心に思った言葉をそのまま思うだけになってしまうが、それでも空が、風が、あの日とは異なる日々であることを当然のように教えてくれている。それらからすればただ当たり前のことをしているだけなのだから、そのように解釈するのはおこがましい話でもある。もしかしたら中学2年というこの年が、決してそれまでと同じではなかったということを確認したいだけだったのかもしれない。
 始まりは春であって、すべてはそこから繋がっていた。春のあの出来事がなければ、今日という日は特別なものでは絶対になかった。

「財前さあ、ちょっと見方が分かってきた気がするわ」

 西日が教室に入ってくる時間が早くなった。時折それは強すぎて、昼下がりの時間ともなると教室から逃げ出したくなる。
 北側に設置された廊下の窓辺では、することがなくて暇で仕方ないとでもいうような気だるさで親友が呟く。連れ立っていたは、視線の先を追う。教室のある2号館から北を望めば、そこには四天宝寺中学自慢のテニスコートが広がっていた。

「自慢もなんも、結構ぼろいであれ。ちゅうか普通のコートすぎて、逆にあの先輩らが目立ってしまうんや」

  3面設置されたコートを見つめながらそう呟いた人がいる。ふと思い出した言葉に、は思わず苦笑する。親友はその変化にも気づかないほど何をするにも億劫だという雰囲気だ。そっと口元を隠して苦笑を堪えると、やがてため息が零れた。

「相変わらずやる気あるのかないんかよう分からんけどな、まあでも少し私も見る目変えてみたら、ちょっとちゃうなあって」
「見る目?」
「そう。あいつが誰かの彼氏になるとか、そんな目で見たことあらへんかったから。そこは改めよう思て。まあまさかここまで近い人と付き合うとは、っちゅう感じやけど」

 秋の昼下がりは窓を開け放つと存外な爽快感が得られる。日差しの中に含まれる夏の記憶と、風に運ばれる秋の空気が混ざり合ったこの時間は窓際を恋しくさせて仕方ない。だから本当は、日差しが強いなどというのは言い訳に過ぎないのだ。この学校は古いが、いたるところに居心地のいい場所が隠れている。
 教室を出て、視線を他の場所に向ける。それが面倒ではないと思える理由が、もうひとつあった。それは去年まではありえなかったことだ。
 は視線を向けたその先の光景に、頬を緩める。

「テニスしとる時は、さすがにちょっと格好ええかもしれへんって思うようになったわ」
「テニスの時限定なん?」
「限定でええわ、十分やろ。財前マニアやないし私」

 6時間目の体育ほど微妙なものはない、と呟いていた人が、秋風に吹かれるテニスコートにいた。勝手知ったる自分の庭なのだろう、7組の生徒はテニスコート脇に立って談笑しているのに、彼だけベンチに腰かけている。最近大きくなったと言われるのを裏付けるかのように、浅く腰かけた姿勢では伸ばした足の長さが目立って見えた。
 昼下がりの日差しに負けたのか、あくびをして目をこすっている姿にはたまらず笑ってしまった。

「それに、彼女の前で格好ええ言うのもなんか複雑やんか。私それは嫌やで」

 今みたいに笑えへんわ、と呟かれる。慌てて口元を隠そうとしても、今回ばかりは時既に遅し、だ。にやりと親友は笑い、テニスコートに向けていた視線をに真正面からぶつける。

「なあなあ、最近どうなん?」
「どうって……なにが」
「だから、財前と。あんたたち付き合い始めてもうそろそろ半年近いやろ。それが長いか短いんかはまだ判断できひんけどな、せやけどあんたらあんま問題とかあらへんかったなあって」

 チャイムが鳴り響いて、教室の中が元の空間に戻ろうとする。だが食事を終え、盛大に頭を働かせた数学の後の6時間目である。クラスメイトの誰もその動きを緩慢にさせ、親友にいたっては教室でもない廊下から動こうともしなかった。財前も立とうとしていなかったが。
 答えない限り教室の中には戻さない、とでも言っているような視線を受け、はちらりとコートを見つめる。

「うーん、喧嘩……みたいな喧嘩は確かにしたことない気がするけど」
「そうそう。正直、財前が怒るところとか見たことないやん」
「うん、そう。私もないかな、あんまり。照れ隠しで怒鳴るぐらい。普通やで、いつも」

 親友は大げさにため息をつく。続いてコートを見つめ、ぼんやりとベンチに座ったままの財前を見てさらに顔をしかめた。

「そんな答え方つまらんわ、あの財前やで? ちゅうかあいつの普通って多分うちらの普通とちゃうし、絶対」
「ええ? ちょっと、それはひどい」
「なに言うてんの、あんた自覚足らへんで。財前がええ男やったらもっと昔からもてとるんとちゃうの。せやけど浮いた話ひとつもなかったやんか、と付き合うまでは」

 ぐっと言葉につまる。そこでついに6時間目の英語の教師が登場してしまい、激しくつまらなさそうに親友はようやく窓から離れた。わずかの沈黙と教師によって救われた格好だったが、の頭の中は簡単には整理術を実行できない。
 財前の姿が視界から消えた心細さのせいか、それとも財前の得意な英語の授業だったからか。幾度か筆記用具を見つめる時間は覚えていても、授業の内容はうろ覚えという言葉を使うのも申し訳ないほどの集中力だった。

(光くんと、かあ。どうなんやろ、基準が分からへん)

 片想いから始まった恋は、相手に認めてもらえる想いに変わっていた。相手はそれを言葉や態度に頻繁に表してくれるような人ではなかったが、時折感じる視線なり言葉尻なりに変化があることを、傍にいるが一番知っている。言葉に出すと恥ずかしさのあまりもう財前の顔を見られなくなるようで誰にも打ち明けていないが、相応の関係にもなっている。親友が知らないだけで、実は半年の間に財前と自分は随分変わってきたのだと、なにやら自負めいた回想にいつしかとらわれていた。
 それに、とはっとは顔を上げる。教師と一瞬目があって、慌てて逸らして親友の背中を見つめる。

(光くん、もてるし。この前かて去年同じクラスの子から誘われてたんやから! ……って、これ自慢とちゃうか。難しいなあ、もう……!)

 落ち着けと言わんばかりに、南向きに開け放たれた窓から風が届く。コートは見えないが代わりに胸のすくような青い秋空が広がっている。
 秋になるまで、時間を費やしてきた。そのことを、深く考えなければならないのだろうか。
 親友の言葉に促されるばかりのその思考回路が、すべての始まりだった。



、あんた財前と一緒に帰ったりせえへんの?」
「え? 滅多にないよ、光くん部長になってから結構居残りしてるし、私も塾ある時はどうしても帰らなあかんし。約束もあんませえへんし」

 その時驚くというよりも、少し納得しがたいと訴えていたような親友の表情は、うまく理解できなかった。なぜそのような顔をするのか、と問いかけようにも生憎そのような時に限って急ぐ用事があるものだ。世の中には不都合が目立つ。
 ごめん、と先に教室に出ることを伝え、は7組へと向かう。7組のホームルームは長いことで有名だ。前後のクラスは既に部活へと向かう波ができているというのに、7組の生徒だけが我慢比べのように席についていることを強制されていた。
 既にテニス部のジャージに着替えていた財前が教室から出てくる姿を探すのは、造作もないことだった。このような時ばかりはあの派手なユニフォームに感謝する。
 財前はを見つけ、軽く首を横に振る。
 それが、合図だった。
 は小さく頷いてみせる。財前はそれを見届けると、それ以上の合図もなく背中を向けて階段の方へと向かっていった。は、少しの間だけ見送った。
 部活後に練習か部長の仕事をするから、遅くなる。今日はもう無理。首を振るのはそのような合図だと、いつしか決まっていた。そしてたった二、三度のその動作だけで、1日の接点が終わることも当たり前になっていた。

(まあ、一緒に帰りたいと思わんわけでもないんやけど……でもなあ、帰るのはなあ)

 なかなか勇気のいることなのだと、誰に伝えればいいのだろう。そういえば分からないな、と思いながら、は部活に定時まで参加した後、急いで帰宅して塾へと向かう。
 帰り道、いくつもの恋人同士の姿を見つけては視線を向けてしまう自分がいた。だが言葉に出せるようなものはない。ただ気になることといえば、その光景は自分には真似することが難しいということ。それをどう思っているのかは、自分でもまだ分からない。

(だって、光くんと私が付き合うてるの……知ってる人そんなにおらへんし。光くんも言うような人やないし、それやったらあんまり周りにばれへんようにするべき、やし)

 2週間ほど前、用事があったため一度一緒に帰る約束をした。久しぶりだった。
 思っていた以上に自分は財前と一緒に帰りたいと願っていたのだろうか、財前からそう告げられた時には思わず返事をするのを忘れてしまうほどで、慌てて頷いたら呆気にとられた後柔らかく苦笑された。
 だが、委員会の都合と部長の用事も重なって、結局その約束は守られなかった。仕方ない、と自分に言い聞かせることを癖にしなければ、単純に涙が出てきそうなほどその約束は本当に嬉しくて、ありがたくて、そして、自分が我がままであることに直面しなければならなかった。

(それで光くんが嫌やなとか思ったらほんま意味ないし。それぐらいやったら、私のしてほしいこととか最初から全部言わんとしまっておいた方がええと……思うんやけどなあ)

 塾にたどり着いても校舎の空間のどこかには、目を向けてしまう恋人同士の光景がある。だが目新しさは当然徐々に薄れていく。比例して、羨ましいという気持ちも弱まっていく。
 目的らしい目的がないと、毎日は勝手に流れていってくれるものだ。それはいいことなのか悪いことなのか、判断できる術もない。は席についた後しばらくぼんやりと黒板を見つめていたが、気を取り直して授業の準備を始める。

「あ、。ちょっと聞いてえな、私面白い噂聞いてしもて」

 授業の始まる数分前、学校でのクラスは違うが塾で隣同士の席になっている親友が、慌てて入ってきたかと思うと唐突に話を切り出した。

「噂? なに?」
「あんな、桃谷さんておるやん。1組の」
「桃谷……ああ、桃谷さん。めっちゃ可愛い子やろ、たしか」

 そうそう、と頷きと授業の準備を同時にしながら、親友はひとつ大きく息を吐いた。

「桃谷さん、今まで告白されても全部振ってきとったやんか。なんでやねんってみんな言うてたと思うんやけどな、その理由が分かったって。あの人な、ずっと片想いしとったらしいわ。しかも3年に」
「……3年? え、誰なん相手」

 2年になってから財前への思いを実らせるのに必死だったは、同じ学年の状況に疎かった。唐突ながらも知っている人の名前の恋愛事情に、やはり少なからず興味は出てしまう。
 同性から見ても整った顔立ちをしている、と思っていた同級生は一体どんな恋愛をするのか、と視線の中にその興味の色を含ませれば、親友もそれに気づいてにっと笑った。

「テニス部の、白石先輩」
「ええ!」
「うわっ! ちょ、。声大きいって」

 親友が慌てて人差し指を立てる。も思わず自分の口を押さえて周囲を見渡すが、授業が始まる前の時間に静かに席についている生徒の方が少ない。誰も自分たちの会話を聞いていなかったことを視線の向きで確認すると、は小声で尋ね返した。

「そ、それで……白石先輩、なんて返したん?」

 財前づての話ではあったが、白石には付き合っている人がいるはずだった。それがどのような人なのかまではの知るところではないが、白石があまり表に出している関係でないことだけは知っている。まるで自分たちのようだ、と思ったことは財前には伝えてはいなかったが。

「振られたらしいわ。せやから噂になってんやけど」
「……そう、そっか」
「せやけど、振られた理由が曖昧や言うてまだ諦めきれへんらしくてさあ、桃谷さん。結構食堂とかで見つけては話しかけにいってるらしいで。勇気あるよなあ、あの白石先輩に」
「曖昧? 曖昧って、白石先輩なに言うたん?」
「んー? 今は付き合うつもりはないって。まあ、あれちゃうの。多分本命の人がおるんやろ、あの人がもてへんはずがないし」

 何気なく呟かれた言葉で会話は終わった。始業時刻を少し過ぎたところで教師が教室内に入ってきて、授業の始まりを告げる。宿題箇所を確認する声に促されるようにしてテキストを開くが、の頭の中にはさきほどの親友の言葉が渦巻いていた。

(……それ、光くんが言うてもおかしくない言葉やんか)

 自分の買いかぶりすぎか。それならばむしろ誰かにそう言ってもらいたいぐらいだが、財前との関係を知っているのはクラスメイトの親友だけである。しかも彼女も財前の性格を知るようになった結果、これは広めるべき関係ではないと暗に察知して秘密を共に守り抜いてくれている。一度財前が伝えてしまったある男子もいたが、「プライドでもあるんとちゃうの」と財前がつまらなさそうに呟いていたのが答えかどうかは別として、彼も広めてはいないようだった。
 だから、が今なにを考えているのかは隣の親友には分からない。分かってもらってはいけない。だが、分かってもらわないと授業の声がなにも入ってこない。

(……こういう話も、私、光くんとしたことないなあ)

 ちくりと胸の中のどこかを刺されている。なにか忘れ物をしていないかとふと不安になる時と同じ感覚だ。気にしなくていい、大丈夫、と自分に言い聞かせればふっと消えてくれるような痛みなのに、気を抜くとすぐに心のどこかに居座っている。
 喧嘩はしたことがないが、本心で話し合ったこともない。
 それは仲良くしているということと同義なのか、そちらの考えだけでいいのか、財前以外に付き合った人がいないには、判断基準がなにもなかった。



 その存在は昔から知っていた。テニスの上手い同級生だった。だが深く知り合っていたわけでもない、財前にいたっては小学校時代のの記憶などほぼないに等しい(辛うじて存在だけは知っていてくれたらしいが)。だからも、私立中学に進学するとばかり思っていた彼の姿を四天宝寺中学の入学式で見つけた時は、驚いたというよりも不思議というよりも、そうなのかという印象だけだった。人の印象など、特別な感情がない限りさほど色づいたものとしては残らないらしい。
 それが色々なことがあって付き合うようになり、そろそろ半年が経とうとしている。

「半年は長いんやろか、短いんやろか」

 次の日、親友に問いかけてみた。親友は一瞬目を丸くして何事かという顔をしたが、少しだけ首を傾げ、視線をずらし、やがてを見つめた。

「人によるんとちゃう」
「……それはそうやけど。せやけど私さ、光くん以外に付き合うた人おらへんから比べ方が」
「いや、やなくて。財前次第っちゅう意味」
「え?」
「財前のこと考えれば長い気もするし、せやけど財前の本当のこと知ったら短いのかもしれへんし。それを私やなくてが見抜かなあかんのとちゃうの、っていう意味」

 納得していない、と表情で読みとった親友は、ため息まじりに的確な言葉を繋いできた。

「……光くんの、か。うーん、難しい。ほんま難しい。分かったような分かってへんような、そんな気がするし」
「まあ、そういう男を選んだ自分の責任をどう考えるかっちゅうだけの話やと思うで。別に責任でもないかもしれへんけど」

 帰りのホームルームを聞き流し、お互いに部活に行くために教室を出る。7組にちらりと視線を向けるが、財前の姿は見つけられなかった。
 そういえば、随分と話していない気がする。は思わずはたと足を止める。7組をのぞき込む勇気を出すよりも、親友に名前を呼ばれて急かされるのが先だったが。

「あ」

 しかしそこで足を動かされたのは、実は正解だった。
 階段の踊り場で、今度は当たり前のように足を止める。親友もその理由が分かって、名前を呼ばずに足を共に止める。顔を見合わせる瞬間が同じだったことが、同じ答えを持っていることを教えてくれていた。
 同じ黒髪でも、その後ろ姿を見間違えるはずがないのだ。

「財前、そろそろ部長会議の頃ちゃうか。なんか分からんことあらへんか」
「ああ、はい。ちょうど今からですわ。渡された書類の書くとこ書いて、全部持っていけばええんですよね。多分大丈夫です」

 3階へと繋がる階段の手すりから見下ろしていた白石の言葉に、財前が顔を上げて答えている。今日は新部長と生徒会役員との部費についての会議があったと、その時になっても思い出す。
 財前の名前を別の誰かが呼んだ。陸上部の新部長だと知ったのは後のこと。部長という肩書きを持つ人間は、の周りにはいない。

「会議室って3号館の会議室でええよな。もう行くんか? 俺も行くわ」
「ああ、行く。ほな、先輩。また」
「ああ、またな。頑張り」

 白石に軽く頭を下げて、財前は陸上部の部長と階段を降りていった。残されたのはと親友と、白石。

「おう、。この前はありがとうな」
「この前……ああ、そんなの! こっちの台詞です、ぜんざいごちそうさまでした」

 白石の視線を受けて、親友は先に部活に行くと目だけで合図を送った。ごめん、と手をそっと出して見送ると、白石がゆっくりと階段を降りてくる。

「財前、最近部長らしくなったなあって謙也と話しとったんや。あいつが会議で発言するとはまあ思えへんけど、ああして全部当たり前みたいにしてくれるんはありがたいな」

 1年の違いだけだというのに、白石には自分や財前にないものがたくさんあった。言葉をかわすようになってまだ半年の自分でもそう思わざるをえないのだ、入学当初から共に同じ時間を過ごしてきた財前であればなおさらなのだろうか、とふと思う。
 見上げる視線に思いが込められてしまっていたのか、一瞬白石が目を丸くした。

「なんや、悩み事でもあるんか?」
「え?」
「いや、俺見て黙るから。なんかあったんかと思て」
「なんか……なんか、ですか」

 自分は、言葉で表せないことが多すぎると改めて反省させられる視線だった。財前のこと、自分のこと、なにを伝えていいのか分からない。だが悩んでいませんなどと会話の流れを切断するためのような言葉を用意する度胸もない。

「……あ! 先輩、うちの学年の子に告白されたって!」
「……え?」
「……いう、噂を聞いて、その。なんとなく、もやもやしたものがある、ゆうか。ああ、もう、よう分からへんのですけど」
「……せやな、お前が混乱しとる様子だけはよう分かるわ」

 個人的な噂を不躾に尋ねるに、白石は最初沈黙した。気分を害したというよりは返答に困ったという様子で、は自分の会話能力のなさを情けなく思いながら謝ると、その綺麗な指が左右に揺れて、苦笑が渡された。

「どこまで噂になっとんのかは知らへんけど、なににもやもやするんや。答えられる程度で答えたるで」

 部活へ向かう波が強まってきた。を最も人通りの少ない廊下の脇へと手招きし、白石は小声で伝える。

「なんで先輩、付き合うてること言わへんのかなって。桃谷さんにも、周りの人にも」

 考えるよりも早く、その言葉がでてきた。失礼すぎると気づくのはいつも言葉にしてしまった後だ、白石は一瞬面食らった顔をしたが、すぐに冷静さを取り戻して幾度か頭をかいた。

「別に言うもんでもないと思うし。……という答えは、お前は求めてへんな。その顔やと」
「え」
「顔に全部出てんで。財前なんか好きになってしまったばっかりに、こんなことになってしもて。まあ外野やから言えることやけどな。そうやなあ……」

 俺の場合な、と何度も念を押して、白石はそっと呟いた。

「いつまで続くか分からへんし自分の力だけで全部解決できるもんでもない関係をな、大っぴらにするんは俺は勇気がいるんや。その後のこと考えてみい。気まずいのは自分たちだけで十分やろ、周りまで巻き込むんは俺は嫌や。まあ、考えすぎやて謙也には言われるけどな」

 自分に苦笑しているような、それをもどかしく思っているような、そんな表情を浮かべる。
 は一瞬息を飲む。心臓が妙に活発になっている。喉まで震える感覚だった。

「……それは、光くんは……いたっ!」
「やから。俺の場合、言うたやろ。なんでそこで財前に結びつけんねん、べたすぎるわ」

 白石の手が額を叩く。身体の熱が一瞬でひいてしまった。

「なに心配してるんか知らへんけどな、悩むぐらいやったらその気持ち丸ごと本人に伝え。思ってるだけやったら相手になにも伝わらへんのやで。俺かてこうは言うてるけどな、こう思てること全部相手に伝えてあるで。その上での俺の意見。納得してもらうんは別に構わへんけど、財前なしに考えを進めるのだけは絶対にあかんで。お前らはお前らや」

 最後には、笑みを浮かべて白石は階段を上っていった。補講があるという。
 白石の言葉は、白石にしか言えない言葉だと思った。自分にはまるで用意できない。考えもつかないから、理解まで時間がかかる。
 一番心に響いたことは、最初の言葉だとも言えない。

(……私、心配してるんやろか。なにに? なにを?)

 白石に言えない心の内を、財前は知るはずもないし伝えることもできていない。白石が周りのことを気にして自制する部分があるというなら、は財前のことを気にして自分の本音など言えるはずがない。告白した側は、いつだって選択権が向こうにある現実を忘れられることができない。

(光くん、今部長で忙しいし。私のことなんて言えるはずがない)

 白石の背中を見送る姿勢は、しばらく解くことができなかった。



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10/07/16〜10/08/02