童心 01

 気づくと、乗り越えるべき壁が増えていた。
 天を仰ぐ。コートの中を自由気ままに流れていく秋の風が心地よい。中間テストが終わったという解放感も手伝っているのだろう、見上げた空の色は抜けるように青くて流れる雲は眩しいほどに白くて、浮かぶ太陽は微笑ましいほどに暖かい。自分以外のものがすべて輝いて見える感覚だった。
 止まるな、行け。乗り越えるべきものに真っ直ぐに取り掛かれと言われているようだった。
 去年、自分はこの空をどのような気持ちで見上げていたのだろう。ふと財前は考える。
 今と同じジャージを着ていた。初めて見た時こそ奇抜な色の組み合わせに一瞬我が目を疑ったものだが、レギュラー陣が着ている姿を見るだけで四天宝寺のカラーとして勝手に定着した。そのジャージを去年も、そして今も着ている。手首のあたりが少し破けているのが同じジャージを着て時間を流した証拠だった。
 だが、去年と同じものをそれ以外になかなか思い浮かべることができない。過去を振り返る余裕がないのか、そもそも振り返る時間もないほど目の前にあるものが大きいのか。
 乗り越えるべき壁が、増えていた。

「ざいぜーん、今日紅白戦するってほんまか?!」

 コート脇のベンチに腰かけていた財前は、自分を呼ぶ声にそっと顔を上げる。
 目の前にはヒョウ柄のタンクトップにジャージを羽織るだけという、まさに解放感という言葉を体現させたような1年生がいた。財前は苦笑の入り交じったため息をこぼす。

「まだみんなに伝えてへんのに、お前が叫んでしもたら全部台無しやないか。もうちょっと静かに聞くことできへんのか、金太郎」
「なんでや、紅白戦言うたら試合やろ?! そんなむっちゃ楽しいこと隠すなんて殺生なこと、ワイできへんわ。それに試合するだけやったら、別に隠すこともないやんか」

 立ち上がらない財前の目の前にしゃがみこみ、金太郎は興奮を握りしめた両拳に露わにする。部室を出てから真っ直ぐここにやってきたのだろう、彼の背中には紐で縛られただけのラケットがあった。

「試合は試合やけど、ただ普通に試合するだけとちゃうんやって。特に俺と金太郎は」
「……え?」

 立ち上がり、しゃがんだままの金太郎を見下ろす。赤い髪がコートによく映える。陽の光も味方につけて、無邪気さにより一層拍車をかけているように見えた。

「来年の団体戦のメンバー選びも兼ねるって監督が言うとった。今年はじっくり考えたいんやって。つまり俺もお前も、また一からやり直しっちゅうこと」

 渡邊から昨日言われたとおりの言葉で伝える。財前は去年経験していることだったので、聞かされた当初はさほど意外には思わなかった。だが金太郎の返事はしばらく待ってもこなかった。おやと思って財前は視線を戻す。

「嫌か?」

 問いかけに、金太郎は慌てて首を横に振る。そしてすぐに、その大きな双眸に興奮の色を宿して財前を見上げた。

「試合ばっか、っちゅうことやろ? ずーっとずーっと試合するってことやろ? そんな楽しいこと、大好きに決まってるやんか!」

 金太郎の様子を見て、周囲の部員たちが今日なにが起きるかを察知する。本当は全員の前で平等に伝えたかったのだが、致し方ない。金太郎はその一挙手一投足、良くも悪くも注目を浴びざるをえないのだ。分かっていたはずなのにまだ自覚が足りなかったか、と財前は今度は自分にため息をつきたくなる。

「ほな、始めるか。金太郎、並び」
「わかった」

 だが今は、ため息をかまってくれる人はもういない。
 金太郎に指示を出す。彼は素直に従う。去年とは違うことの、ひとつだ。
 金太郎の背中を見送りながら、財前は自分のジャージを見つめる。去年とまるで変わっていないのに、それをまとう中身が変わってしまった現実を、金太郎が教えてくれている。
 財前がテニス部の部長になって、既に2ヶ月近くが経とうとしていた。
 部長、という肩書きに、役職に、慣れたかどうかは定かではない。

(元々むいとるとも思えへんし、まあそもそもどこまで期待されとるんかも分かってへんし)

 それでも、テニスに関することはたとえ試合でなくとも相応の結果を残してやり抜きたい。小さなプライドに過ぎないが、テニスと名のつくものに疎かに取り組むことはしたくないのだ。それは自分の頑固さだと財前は気づいている。
 ただ、今回は疎かにできない理由が確実にもうひとつ、自分の意識とは無関係のところでどうしても発生していることに気づかないわけにはいかなかった。

「全員集合」

 財前の一声で、それまで準備をしていた部員たちが一斉に整列する。
 最初こそ声の大きさや高さの具合に戸惑いながらの毎日だったが、10月にもなると落ち着いてできるようになっている。周りも財前の声に慣れ親しみ始めたのか、対面するこの場に流れる空気に違和感はない。
 気づいたことと言えば、部長になるまで他の部員たちがあまり自分の声をはっきりと認識していなかったということぐらいだ。それが乗り越えなければならないと思った最初のひとつだったかもしれない。

「今日は基礎練習のあと、紅白戦をする。対戦相手はあらかじめ決めてあるから、基礎練終了後あそこのフェンスのところに貼るんで確認してほしい」

 部員たちは途端神妙な面持ちになって財前を見つめる。誰もがレギュラーの座を獲得したくてたまらないのだ、自分の実力を発揮できる場所に貪欲になるのは当たり前だった。空気が急に殺伐としたものになる。財前は、それをどこか遠巻きに見つめる。
 去年の自分は、その空気を感じることもできていなかったし、ましてや作ることもできていなかった気がする。部長になって傍観する立場に立って気づいたことの、ふたつめだ。

(……きちんとすればレギュラーにはなれたしな、落ちたこともないしな。せやけど部長になったら適当なことは言ってられへん。部長が控えとか、そんなん意味分からへん言われるわ)

 基礎練習の指示を出し、ランニングに向かう列を見送る。手元には自分で考えろと渡邊に指示されていた対戦表がある。一度レギュラーのみで作成したそのパズルのようなものを、今度は部員全員のピースで作成しろと言われた時は目がくらみそうだったが、かろうじて昨晩までに完成することができた。自分には向かないな、とため息をついたのが午前0時を回っていたことに、他の誰でもない家族が驚いていた。義姉にいたっては夜食まで準備していた。弱音も愚痴も言葉になる機会を奪われてしまった。
 違う。言い訳だ。財前は情けない自分に自嘲気味な笑みを零し、対戦表を見つめる。
 作っていて気づいたひとつのことが、愚痴を殺しにかかっていたのだ。
 秋風がふわりと流れ去っていくコート脇で、財前は校舎を見つめる。コートの南に位置する2号館、3階。そこは3年生の教室が並ぶ場所だ。

(こういうことも、あの人は全部器用にやってしまってたんやろな。どんだけすごいねん、あの人。全然追いつけへんわ)

 その教室は、外から見てもどの位置にあるか覚えてしまっていた。
 3年2組、東から2つ目。開け放たれた窓からカーテンが外に出てきて風に吹かれているだけで、そこには人の姿はない。だがあの教室にいる元部長が、どのような表情で今の自分を見つめてくるかは少しだけ想像できる。対戦表を見て、もしかしたら難色を示すかもしれない。
紅白戦の勝敗は二の次、互いを客観的に観察するための時間だと断言した数週間前の彼の姿を財前は鮮明に覚えていた。姿ではなく、言葉と意思と、強さとを肌で思い知っていた。
 財前はしばらく校舎を見つめたあと、対戦表をフェンスに貼ってランニングの後を追ってコートの外に出る。

「財前、ワイもう5周終わったで」

 グラウンドに向かったところで、金太郎がわずかの汗も流さない平然とした顔で駆け寄ってきた。他の部員たちはまだ走っているところを見ると、金太郎だけ先に飛び出して走り終わったのだろう。財前はため息をついてその背中をグラウンドに戻す。

「せやったらあと5周追加。俺に付き合え」
「ちょ、待て! なんやねん、それ。財前が遅れただけやんか!」
「あーそういえば、ランニングは大事やって白石部長言うてたなあ」
「う、白石……」

 しばらくすると、金太郎は財前とともに走り出した。
 ほら、と財前は心の中で呟く。

(対戦表の作成に、金太郎のお守りに、……乗り越えなあかんもんがほんまに多い、あの人はもっと自分のことを知るべきや、自分が思てるよりもっとずっと色んなことこなしてきてるわ)

 白石という存在がいかに稀有なものだったのか、最近はそれを自覚させるためだけに毎日という時間があるのではないかと思えるほどだった。
 10周走るとさすがの金太郎も汗が出るらしい。少し息を切らしながらコートに戻る後ろ姿にわずかに罪悪感を覚え、財前は肩を叩いた。

「金太郎、さすがやな。試合、金太郎の順番は後ろの方やから。それまで休憩するか?」

 汗を光らせたまま、金太郎が振り返る。恨みの一言ぐらいであれば聞いてやろう、そのつもりで置いた手だったが、金太郎の表情にその手は一瞬硬直した。

「なに言うてんねん財前、ワイ試合やったらなんぼでもできるで。それに」
「……なんや、それ?」

 金太郎の指が真っ直ぐに自分を指す。財前が目を丸くすると、その素直そうな口元が一瞬で凛然とした笑みを浮かべた。

「ワイ、試合は楽しくやれたら絶対勝てる自信があるし。それにな、そうなったら財前にも負ける気がせえへんからな」

 好戦的になるその一瞬の空気のすさまじさを、一体どれだけの人間が知っていることだろう。そしてその一瞬、自分の身体は妙な緊張に包まれることを、自分以外の一体誰が理解してくれるだろう。
 財前は金太郎を見つめ、しばらくしてから苦笑をこぼす。

「お前が来年もおってくれると思うと、頼もしいな」
「来年とか遠いわ、財前。まずは今日やろ、よっしゃー! やってやるー!」

 金太郎は拳を握り締めた両腕を上げると、コートに向かって走り去っていった。
 四天宝寺の文字が揺れる金太郎の後ろ姿を見つめる。瞬きが少し重かったかもしれない。
 すぐに動かない足の理由は、考えないことにした。
 紅白戦が始まってしまえば、考えなくてもよくなった。ひとつのものにこだわるとひとつのことしかできない、自分の長所なのか短所なのかよく分からない性格も今日ばかりは役に立つ。
 ラインの前に足がある時。それが最も高揚に近づく瞬間だ。黄色いボールがとん、とん、と軽い音を立てて幾度か飛び跳ねる。左手にいつものラケットの感覚をなじませる。そして、顔を上げる。
 ネットの向こうに構えるのは同級生だ。ただし実力では単なるラリーでも紅白戦でも、一度も負けたことがない。この1年半で財前が負ける相手といえばレギュラー陣だと相場が決まっていた。金太郎とは五分五分である。その代わり引退した3年生の一部とも五分五分だった。絶対に勝てなかったといえば、それは白石しかいない。

(……今度は、俺がその立場にならなあかんのや。弱い部長なんか俺やったらついていきたくないし。……せやからほんまは金太郎にも負けたらあかんのや、もうこれ以上)

 決して口にしたことはない本音を心の中で呟く。
 戒めだった。負けるなという自分への命令だった。
 勢いよくラケットを振り切る。空を切るようにしてボールが真っ直ぐ相手コートに突き刺さる。相手は打ち返そうとラケットを握りしめたし、ガットにもぶつけた。ただボールは財前の意思に従って、あらぬ方向へと飛んでいった。
 負けない。もう一度自分に言い聞かせる。負けてはいけない、部員には。部長として。
 サービス権は最大限に利用した。なんてことはない、いつも通りに冷静に打ち込めばよいだけである。白石ほどではないにしても、基本を疎かにしてきたつもりはない。実力を裏付けるのは日々の努力の積み重ねであることは承知している、あとはその実力をいつ、どのような場所で発揮するのかを自分で見計らうだけでよいのだ。

「お前はほんま不器用なやっちゃな、生意気なんかぐうたらなんかよう分からんわ。汗水たらすっちゅう図が想像できひんもんなあ。そういうとこ、無駄に白石みたいやで。まあ、あいつの場合は見せへんだけやけど。お前はどっちやねん。それすら分からんわ、ああ難しい難しい」

 いつだったか、忍足が呟いたことがある。それは半分本当で、半分嘘だと思った。自分が不器用の類に入ることは否定しないしそう思われることに別段不快感はない。ただ白石とは同じではない、とは思った。彼は器用だ、少なくとも財前から見て。部長の責務を丁寧に確実にこなしていた、それは財前は不器用で白石は器用という意味だ。逆だ。

(あかんわ、乗り越えなあかんものが多すぎる)

 力の入った最後の一球を相手コートに一寸の狂いもなく打ち落とすと、歓声が起きた。
 いつの間にか息を切らし、本気で打ち込んでいた自分に、財前はその時になってようやく気づいた。



 テニスをしたくて入った学校だった。
 私立から、他府県から誘いがなかったわけではない。小学校卒業という区切りを迎えようとしていた自分に、次に進むべき道は本当はいくつか分かれて用意されていた。いわゆる放任主義だった両親は、テニスをしたいという気持ちを認めてくれていたのと同時に背中を押すことをあまりしなかった。自分で選ぶ、その自由を許されていたのだと今となっては思うが、小学校6年生の頭で考えられることは多くはない。

「テニスが強くて、あんま遠くない方がええ」

 そう呟いた自分を、誰が遠い私立や他府県の学校に入れようと勧めるだろうか。答えは既に決まっていたようなものだった。

「財前くんは私立に行くもんやとばっかり思っとった」

 同じ道頓堀第一小学校出身の人は、目を丸くしながらよくそう呟いた。

「別に、私立に興味ないし。ここが一番近いやんか」

 そう答えることもいつのまにか慣れていた。いや、慣らされていったという方が正しいのか。
 まさかここまで、個性の強い強豪ばかりが揃っているなどと予想もしていなかった。テニスが強いというのはある意味正解であり、他のどの学校にも真似できない空気がここには流れている。テニスコート自体はどこにでもあるありふれたものなのに、その上に立つ人間が違うだけでここまで空気というものは変わるのだろうかと、幾度目を丸くしたことか分からない。
 それでも、楽しかった。それが楽しかった。率いてくれる人間がいる場で、自分はテニスに随分と集中することができたと今でも思う。
 自分に、その率いる立場が回ってこなければ、今でも同じ気持ちでいたのかもしれないと思うこともある。

「日曜はここで練習試合することになったで、いつもどおり9時から部活な」

 部活の始まる前、もしくは終わった後。次の予定を伝えるのが自分の役割になって久しい。自分の都合のいいことや好きなことを好きな時にすることに馴染みきっていた身体には、まずその癖を改めることから始めなければならなかった。ここ最近は、ようやく自分の習慣のひとつとして頭も身体も認識するようになってきた頃だ。
 テニスコートに居並ぶ同級生、後輩を一度見渡す。全員が財前を見つめている。視線の向きとしては、だ。

「試合はレギュラーがでるんとちゃうから。全員がシングルなりダブルスなりでコートにたてるよう、今監督と打ち合わせ中や。今日の紅白戦の結果もふまえて、どっちになるかだけは決めさせてもらうけどな、でも全員試合をする予定で今週の練習時間を使うてほしい」

 金太郎は嬉々としてこちらを見ている。彼ほど感情を露骨に表してくれると、それが喜怒哀楽どの部類であったとしてもこちらとしてはやりやすくて助かる。
 問題は、ほかの部員たちだった。財前はもう一度、部員たちを見渡す。
 金太郎のように嬉しそうにしているのは1年生が多い。思案にふけっている2年生は今は財前の言葉は届かないだろう、視線すらコートに落ちてしまっている。表情が変わらないものもいくつか見受けられたが、彼らの性格を思えば珍しいことでははい。それらをひとつひとつ確認して、財前はそっとひとつの顔に目を向ける。
 決して財前を見つめようとしない視線が、そこにあった。
 1年生の男子だった。同級生とはいっても金太郎とは接点はあまりなく、ふたりが一緒にいるところを財前は見たことがない。それは彼らの出身小学校やクラスが異なるからではなく、性格そのものが異なるからだった。白石や忍足、そして自分といった旧レギュラーメンバーと一緒にいる金太郎を、つまらなさそうに見ていた姿を財前は覚えている。

「芦原(あしはら)、分からんとこないか」

 昔であれば、それは見ているだけでよかった。だが部長という異なる立場になると、同じ視点で見るわけにもいかない。
 解散の号令をかけた後、コートを去ろうとする芦原に声をかける。芦原はちらりと振り返ると、財前の顔を確認して少しだけ驚いた顔をした。細身の体躯に大きな瞳が目立つ、黒髪の端整な顔立ちの少年だった。

「別に、なんもないですけど」
「それならええけど」
「なんかありましたか。今度の日曜は練習試合、これでええんですよね?」

 ああ、と相槌のような返事をすると、芦原はわずかに首を傾げて部室へと戻っていった。なぜわざわざ引き留めるのか、みんなに遅れてしまったではないかとその背中に書いてあるようだった。

「今のは褒め称えてやってもええ気がするなあ。ようやったな、財前」

 芦原の背中を見送っていると、背後から唐突に拍手が響いた。
 慌てて振り返ると、そこには満足げに口角を緩めた渡邊の姿があった。

「褒めるって……なんですか、いきなり。俺別になにもしてませんけど」

 渡邊の意図するものが分からず、財前は顎をひいてしまう。警戒心をむき出しにする態度に、渡邊は今度は腹を抱えて笑った。

「自覚があるんかないんかよう分からんが、とりあえず芦原にお前から声をかけたんはよかった。……しっかしその態度、さっきの芦原とうり二つやったりもするんやけどな。まあええわ、今の俺は機嫌がええ」

 渡邊の大きな手が伸びてきたと思って目をつむったのは一瞬、秋の風に吹かれっぱなしだった髪を、大人の手が乱雑に扱う。

「うわ、なにすんですか!」
「青少年の成長を温かく見守ったろうっちゅう大人の優しさをもっと喜んで受けなさい」

 逃げるように後ずさる。さほどこだわりはないが見目を気にする年相応の心は持ち合わせているので、慌てて髪を直すとこれもまた渡邊に笑われる一因となった。
 ひとしきり笑ったあと、駄々をこねる子どもを見つめるような視線を渡邊が向ける。

「芦原やな。お前にとってのひとつめの壁は」
「……え?」
「お前が白石になろう思て努力してるのに気づかんとでも思うか? 残念、これでも何百人と生徒を見てきた教師なんだな、俺も。せやから、精一杯応援はしたるから。ただ無理はせんとき、お前はお前や。今は口うるさいようにしか聞こえへんかもしれへんけど、それだけは忘れるんやないで」

 渡邊の真意は分からなかった。実は口うるさいと感じるまでにも至っていないとも、言えなかった。

「……まあ、しゃあないっすわ。部長やし」

 口にすることができたのは、去年から変わらないその口癖だけだった。久々に呟いた感覚に財前の方が驚く。気づけばそれはいつも、誰かレギュラーを相手にしか言えなかった。
 白石たちはいない。だが渡邊はまだ、見守ってくれている。
 1日中テニスのことを考えて部長としての責務を果たして、それ以外のことはあまり重要ではないから適当に流れていく。そんな毎日を秋空が見守っていたが、それは別に悪いことではないと思う自分がいたことだけは、真っ直ぐに見つめることで理解してもらえればと思った。
 渡邊は困ったような、けれど少し嬉しそうな、子どもにはよく分からない笑みを浮かべた。



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10/07/16〜10/08/02