04.四つ葉の海

 戯れに近い、と思って途中でやめた。
 言葉に出すことに抵抗がなくなったと素直に認めれば、大方の人間は許してくれるだろうと思う。戯れと言ってしまうとなけなしの罪悪感が勝手に頭をもたげてきて居心地が悪くなり、悪くなると眉間に皺が寄る。しかめ面をすると相手は言葉にはしないが今なにを思っているのかを考える表情になってしまうので、無駄に他ごとを考えさせるぐらいならばそのような言葉は使わない方がいい。
 神経を自分以外のなにかに向けられてしまうぐらいであれば、そんな道は自分で断ち切ってしまえばいい。
 抱きしめたあの夕方以来、財前の胸に去来する考えはいつの間にか滞在する時間の方が延び、やがて当たり前の感覚になっていった。
 雨の日だった。
 特別な屋内施設を持たない公立中学校の四天宝寺中では、天候に逆らうことのできる運動部など存在しない。唯一の屋内施設である体育館をバレー部などに頼み込んで借りようとも、「大会前」という言葉をサッカー部に使われてしまえばそれで終わりだった。同じ大会前だとしても彼らより1週間練習に余裕がある、そんなテニス部に抵抗権は最初からなかったし、また渡邊も白石も無駄に逆らって無駄に体力を削るぐらいならばと今日という休日を本当の休日に変えてくれた。

「よっしゃ、じゃー青少年たち。雨にこけずに気をつけてお帰りなさい」
「一番心配なんはオサムちゃんや、絶対」
「アホ、なんで俺がこけなあかんねん」
「ちゃう、変なお店に金注ぎ込むんちゃうかって」
「……なんやそれ。はっ、白石! お前!」
「なんも言うとりません、俺は、ええ。そんな、立派な監督のことについてなんてそりゃもう」

 どうせ崩れるならば昨夜から崩れてくれればよかったものを、と天を仰ぐ部員たちを横目に、財前は何の違和感もなくあるひとりの人物に連絡をとる。
 電話の向こうの相手はさしたる驚きもなく、さしたる戸惑いもなく財前の誘いを二つ返事で受け入れた。聞かれないようにと思い部室の外に出てきていたのに、そこについてこられていたことに気づいたのは電話がすべて終了してからだった。

「……ほんま悪趣味っすわ、先輩ら……」
「なに言うてんの、光くんの行動は全部チェックして当たり前よ!」
「せやせや」

 絶対に興味ないだろう、と視線をこちらに向けない一氏の無関心っぷりに逆に感心してしまいそうになりつつも、財前はじっと小春を見つめる。

「なにかしら? 光くん」
「いや、なんも」
「そう? じゃあ、気をつけて帰ってね」

 このような時の小春の笑い方は、千歳や白石に通じるものがあると最近知った。相変わらずなにもかもを見透かしてきて遠慮なく不躾なほどにこちらの心中を言い当てることは勘弁してほしいと思うことが多々あるが、しかしそれが不思議なほどに言葉を投げかけない時もあることに気づくきっかけでもあった。
 小春の言葉に嘘はない。それは、他の誰でもない自分自身の身体が知っている。
 それ以上の追及をしてこないと見てとって、財前は部室に一度戻ったあとテニスバッグを右肩にかけ、傘を差して岐路につく。
 扉の外で白石と忍足が普段の喧騒とはまるで異なる落ち着いた雰囲気で話し合っていたが、財前は軽く頭を下げるだけでなにも言葉を向けなかった。
 そして家にたどり着き、ものの10分もしないうちに携帯電話が着信を告げた。

「はい」
『あ、着いたよ。どうすればええかな』
「ああ、ええ。そのままで。今出る」

 脱ぎかけた運動靴にもう一度足を入れ、玄関を開ける。そこには赤い傘の下、携帯電話をまだ耳にあてていたの姿があった。

「ええよ、入って。悪いな、急に呼び出して」
「ううん、全然。大変やったね、学校まで出て部活中止やなんて」

 お邪魔しますという小さな呟きと同時に、玄関の扉が閉まる。途端雨の音が遠くになり、家の中の静けさが際立って聞こえた。
 まだ幼い孫を可愛がることしか知らない母親は、義姉との仲の良さも手伝って休日には大抵3人で出かけてしまう。ここぞとばかりに父と兄は解放感に浸りにこちらも揃って出かけてしまう。休日といえばほぼ部活がある財前は、土日に家族と行動をともにすることが皆無だった。

「……お家の人、みんな出かけとるん?」
「そう。雨なら雨で遊ぶところがあるんやろ、ああいう人らは。俺にはよう分からへんけど」
「そっか。今日、部活中止になったこと言うてないの?」
「面倒やし。言うたとしても絶対帰ってきたりせえへんし、あの人ら」

 ソファに腰かけるように指示してダイニングキッチンへと向かった時、背後から苦笑が零れた。お気に入りのジュースがないことに眉間に皺を寄せると、その姿にもまた笑われた。

「なんやねん」
「なんも」
「嘘つけ」
「なんもやって」

 言葉とは裏腹に、の顔から笑みが消えることはない。半信半疑にも満たない、疑惑の目だけでじっと見つめるとしまいには両手で顔を覆われてしまった。

「あかんて、財前くん。もう私今日ずっと笑ってしまうかもしれへん。ごめんね」
「なんでやねん」
「だって全然学校で見ないとこばっかりやから。ずーっと見てしまいそうや」

 の笑いはしばらくおさまりそうになかった。このような時、固執する性格をもたない財前はさっさと見切りをつけて会話を終わらせる。時にはそれが冷たい印象をもたれるひとつの要因となってしまうのだが、今この場でその心配をする必要はまるでなかった。
 の前にグラスをひとつ、わずかな音をたてて置く。以前白石たちが訪れた際にペットボトルのまま差し出そうとしたのを義姉に止められた経験があってよかったと、こんな時ばかりは思わなくもない。
 そんな似つかわしくない(と言われることに慣れている)心配りだが、果たして意味があるものなのかどうなのか。
 疑わしいものだ、と笑いを堪えるに視線を向け、無言でその隣に腰かける。
 ありがとうという小さな言葉のあとに訪れる妙な沈黙。左手でキャップをひねり、注ごうとしたその姿勢のまま財前はちらりとに視線を向ける。

「予定、入れてへんくてよかった」

 ペットボトルを奪われる。奪われるという言い方は強引だったが、手のひらからどのようにしてなくなったのか一瞬分からなかったほど、身体は動きを止めていた。

「今日一緒におれるだけで嬉しい。あかんね、私」
「……なんで?」
「恵まれすぎやと思う、最近。いつか罰が当たりそうで怖い」

 口元の笑みは消えない。グラスに注がれるジュースはいつもと変わらないものなのに、注ぐ人間が違うだけで随分と品のよいものに見えてくる。
 自分と違うものを数え切れないほど持っていると、改めてぼんやりとそんなことを思う余裕はある。いつも自分の思考回路はどこかその場の空気に馴染めないところがある、会話の中身が分からなくなることなどざらだ。それで不都合が起きたとしても大抵の場合はさほど大きな出来事ではなかったので、今まで気にもとめなかったしこの癖を直そうと思ったこともなかった。
 その時がこちらを見つめ、目が合った瞬間に恥ずかしそうに笑うまでは、その考え方で間違いはないと思っていた。

「嬉しい、って言うたら怒られるかな」

 外は雨だ。初夏の雨のもと、頬がかすかに赤く染まる理由はひとつ以外考えられない。

「こういう時、なにすればええのかな、とか、なに言えばええんかな、って、分からへんことばっかりで、いっつもこれしか言えんようになって、なんか財前くんに悪いなあ……までは思てるんやけど、いつになっても無理みたいやわ」
「……なにが?」

 一瞬の瞳が困ったように揺れる。元来自分の目が大きくない自覚はあったが、そうだとしても女子の目はどうしてここまで大きくなっているのか不思議だ。目が逸らせなくなってしまう。卑怯だ。

「一緒におれるだけで嬉しくなる気持ちは、よう伝えられへん。そう言う以外には」

 卑怯だ、といっそのことこちらも言葉に出してしまってもよかったかもしれない。
 手のひらからペットボトルがなくなった理由。今までの自分の癖を悔いそうになる理由。目が、逸らせなくなってしまう理由。
 それらすべてを雨が見透かしているような、そんな静けさの中の雨音。
 目の前にいる人物が、一体自分にとってどんな存在なのかを改めて突きつけられている感覚を前に、沈黙を破る言葉は見つからなかった。
 戯れに近い、と思う心を捨てる。
 だから言葉に出すことに抵抗がなくなったと自分自身が素直に認めれば、大方の人間どころかなにもかもが許してくれるだろうと思う。戯れと言ってしまうとなけなしの罪悪感と、そして自分の小さすぎる心が勝手に頭をもたげてきて居心地が悪くなり、悪くなると眉間に皺が寄る。実体もなにもない見栄を守るための、なんの効果もないしかめ面だ。そしてそのしかめ面をすると、は言葉にはしないが今なにを思っているのかを考える表情になってしまうので、無駄に他ごとを考えさせるぐらいならばそのような言葉は使わない方がいい。
 神経を自分以外のなにかに向けられてしまうぐらいであれば、そんな道は自分で断ち切ってしまえばいい。

「……財前くん?」

 手が伸びる。雨音が響く。の瞳が一瞬揺れる。

「お前の言葉はいっつも攻撃的すぎるんや。俺のこと、なんも考えてへんやろ絶対」
「え?」
「俺、が思てるほど余裕なんかないで、絶対」

 こんな予定はなかったと誰かが呟く。それは自分かもしれないし、付き合っていることを知っているテニス部の誰かの思いだったのかもしれない。
 それでも伸びた手は、の手を掴み取ることになんの躊躇もしなかった。



「実は、アタシら光くんに嘘ついとってん」

 4月に満開の桜を咲かせた大樹の下、若葉が雨の重みに耐えかねて揺れる。小さな音を立ててそれが頬に、肩に雫となって落ちてきても、振り払う余裕はなかった。
 携帯電話を耳から離した直後の来襲に不機嫌になりそうだったのも束の間、小春の突然の切り返しに一瞬呼吸の仕方を忘れそうになった。

「蔵リンの真似はせんでもええ。……って、この前言うたの覚えてる? 光くん」

 神妙な面持ちで小春が尋ねる。一氏は話に割り込まないように視線を部室の扉に向けている。それは部室から出てきた白石と忍足がこちらに気づかないように、近寄らないようにしているためだと気づいたのは帰る時、白石に頭を下げた瞬間だった。
 話がどのように転ぶか全く想像がつかず、抵抗することを考えるよりも先に首が勝手に縦に揺れる。沈黙のままの肯定を会話の継続の了承ととらえ、小春も一度頷いた。

「あれな、実はな。蔵リン……白石さん、彼女ともう付き合うてへんのや。ずっと彼女がおって、ずっと大切にしとるんは実はケンヤくんの方」
「……は?」
「まあ、いろいろあって。白石さんもケンヤくんもあんま自分のこと話したがらへんもんで噂が真実みたいになっとるだけで、本当はそういうこと。……知っとるのはアタシにユウくん、ケン坊に……あと、銀さん?」
「千歳も気づいとるやろ、口にせえへんだけで。知らんのは財前と金太郎ぐらいや」

 問いかけられた一氏が淡々と呟く。視線は依然部室へ向けられたままだった。
 話の意味も、中身も全く理解できず、財前はただ目を丸くすることしかできない。それならばこの前白石とともに帰った3年は誰だったのか、小春自身が彼女と呼んだあの女子は誰なのか、そしてからかわれむきになる忍足の行動の意味はなんだったのか。今までテニスコートと部室で繰り広げられてきた光景がすべて嘘だと言うのならば、なぜそのようなことをする必要があるのか。
 怒りややるせなさよりも、純粋に疑問が勝って言葉も出ないし足も動かない。
 小春は小さくため息をつき、よどんだ空を見上げる。

「白石さん、振られてん。今彼女みたいになっとるんは別の子。それもあれやで、白石さんがまだあの子のこと引きずっとること承知でその子がどうしても言うから仲良くなる前提みたいなことしとるだけで、白石さんにそのつもりはまったくないで。生産性もなんもない、むなしいだけの光景やけど」
「せやけど、先輩ら『彼女』て」
「ああ、あれは戒め。はよ気持ち入れ替えてっちゅう意味と、あと」

 小春の視線が戻ってくる。わずかに小春の方が高い身長であることを、彼が上級生であることを見上げる角度と見つめた瞳の色に再確認させられる。

「光くんへのちょっかいの出し方は考えてや、っちゅう意味。自分が失敗してるから、光くんも同じ道を歩まへんか心配で仕方ないんやって」

 浮かんだ笑みはどこか寂しげで、哀れみをしまいこんでいることに気づかされる。

「ケンヤがむきになってお前と白石の会話に割り込んだりするんは、白石がなに考えとるか分かっとるからや。白石の暴走を止めたがっとるからな。ま、あんま期待はせえへん方がええけどな」
「ケンヤくんは不器用やから。まあ、せやからあの彼女なんやけどね」
「やから俺らがわざわざお前と白石の間にいっつも入っとるんやで、ありがたく思え」

 一氏の言葉にため息で相槌を打ったあと、せやから、と小春は静かに呟く。雨の音にかき消えそうな、部室前のふたりには決して聞こえることのないような大きさで、ただ財前にだけ聞こえるように呟く。

「光くん。アンタは絶対、狂ったらあかん。溺れたらあかん」
「……狂うて、なにが」
「白石さんみたいになったらあかん。ちゃんがどんだけええ子でも、あんたが溺れすぎたらあかん。溺れてええのは、一度溺れて失敗しとる白石さんみたいな人だけや」

 眼鏡の奥からすべてを見透かされる感覚だった。身体が一瞬で硬直する。

「お前ら、いろいろと似とんねん。小春の心配も分かったれや」

 濡れる前髪を鬱陶しそうに払いのけて、一氏が呟く。言葉に棘があると気づいた時、白石たちがこちらに視線を向けていた。

「……俺、部長と全然似てないっすよ。顔とか。髪とか。口癖とか」
「アホ、誰が見た目の話しとんねん。中身や中身。無駄に真っ直ぐすぎるんや。1回汚れてまえばええのにっちゅーぐらい綺麗すぎんねん。せやから、折れてしもたらどうなるかぐらいは簡単に想像できる……っちゅー話や!」
「あらやだユウくん、ケンヤくんになってるで」
「あいつの本音の代弁や。せやろ?」

 雨が降り続ける外の空気は、いつもより澄んでいた。真っ直ぐ絹糸のように地面に吸い込まれていく細々とした雨はいつまでもやむ気配がなく、濡れた髪から零れ落ちる雫は暇をもらっていなかった。

「なにかしら? 光くん」
「いや、なんも」
「そう? じゃあ、気をつけて帰ってね」

 白石たちの視線に気づいた小春が、平静を装った声でいつもどおりに振舞う。
 小春の笑みの深さと沈黙の意味を知る。そして荷物を持って部室から帰ろうとした時、視線を向けた白石と忍足にはただ頭を下げることしかできなかった。



 小春の言葉を忘れたわけではない、と誰かが頭の中で言っていた。
 手のひらに自分よりも熱い人の温もりが伝わった瞬間、小春と一氏の顔が浮かんだことは確かだ。あの大樹が雨に濡れる匂いを思い出したことも事実だ。だがそれでも、手はの手を離そうとはしなかった

「……こういう時は目瞑るんがルールちゃうん? よう知らんけど」

 もう名前を呼ぶこともできなくなっていたに、ただそれだけを伝える。一瞬手のひらの中に震える肌の感触が伝わる。それでも離さない。覗き込むように、やや首を傾いで。動揺の欠片も見せないように、まるでいつも学校にいる時となんら変わらないようにして呟くだけではこちらの言うことを聞く。その感覚にいつも震えそうになるのは、実は自分の方だとは伝えることができない。
 溺れるという言葉が本来指し示す意味どおりのことを、経験したことはない。
 好きな相手などいなかった。彼女もいなかった。溺れる理由がなかったから意味が分からなかった。それが今、まさしく過去の感覚になろうとしていることに心臓が痛い。
 の見上げる視線が震えた後、閉じられる。手のひらの中の小さな指たちは固まり、ただ熱ばかりを伝えてくる。

「光くん。アンタは絶対、狂ったらあかん。溺れたらあかん」

 小春の声は、もはや遠くにしか響かなかった。
 見よう見まねだ。絶対に上手くなどない、これが正しい方法なのかも分からない。
 それでも首を傾ぎ、そっとの唇に自分の唇を重ねてしまえば、誰にも文句を言わせる気にはならなくなった。が自分を想ってくれる気持ちが技巧の問題など簡単に吹き飛ばしてくれる。
 戯れにしたくないという自分の感情が、そんなものを気にする余裕などなくしてしまう。
 一度離したあと、そっと目を開けるとも同じタイミングで目を開けた。気まずさと恥ずかしさがないまぜになった瞳は潤むことしか知らないようで、その瞳に見上げられてはなけなしの余裕などもう存在価値もない。
 繋いでいた手を引き寄せ、身体を腕の中に閉じ込める。の体温が自分より高いのは、自分が溺れていくのを誘っているようにしかもはや思えなかった。

「ごめん」
「……なに?」
「多分、俺、……めっちゃ好きなんやと思う」

 呟く。気恥ずかしさを隠すため、そして溺れるため。
 これではまるで免罪符だ、と思わず息を飲む。だが腕の中の身体は離れなかった。代わりに恐る恐る、ゆっくりと細い指が制服のシャツを掴む。
 それがの嬉しさの意味であることを、誰にも否定させるつもりはない。
 顔を上げさせ、何度も触れようとする唇は絶対に拒絶されることなかった。



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09/05/06