05.五感の心理

 後ずさりをしたのは、忍足の方だった。
 それほど大げさな動きではなかったが、目が合った瞬間たじろいだのは事実だ。人の心の感情に敏感とは言えない財前でも分かるほど、廊下で立ち止まった互いの間には珍妙すぎるほどの沈黙と距離があった。
 移動教室からの帰りの渡り廊下、向こうは体育だったのだろう体操服姿でクラスメイトと笑い声をあげていた。あ、と気づいて頭を下げようかと思った瞬間の出来事だった。

「なにしとんのや、謙也……お、財前」

 立ち止まってしまった忍足の後ろから眩しい銀髪が覗く。この人は本当に何を着ても自分の色に染めてしまう人だ、とたわいない体操服姿を見ても感じてしまう自分に、一体どれほど白石という人間を偶像化しようとしているのかと呆れそうになる。
 だからあの日、あの小春と一氏の言葉なのだろうか。
 忍足と白石を見上げ、軽く頭を下げてその横を通り過ぎようとする。

「財前」

 呼び止める声は何気ない。日常どおりだ。だから振り返る。部長の呼び声に振り返ってその顔を仰ぐのは部員の日常だ。なにもおかしなことはない。

「今日部活がないっちゅう話は聞いとるな?」
「……さっき、師範に教えてもらいました。テスト勉強せえって」
「せや。お前はまだしも、金ちゃんの中間テスト再来だけは避けなあかんからな。ほな、そういうことで」

 ただその目だけは、いつもとどこかが異なるような印象を受けた。
 見上げた白石の顔にはいつもの笑み。それを見つめる忍足の顔には最近の定番となっている複雑そうな表情。ただ白石の笑みの中にある瞳だけが、どこか寂寞に似た色をしている。
 なぜ、と問いかけることはできなかった。気づけば白石はいつものように左手を上げて会話の終了とともに背中を向け、忍足も言葉を繋げないままただ財前を一瞥して踵を返す。
 肩を並べるふたりの後ろ姿は、いつもコートの中で見つめる姿とどこか異なって見えた。
 期末テストの近い6月下旬を迎えていた。
 珍しく今の時間は晴れているが、今夜は雨になると予報が伝えている。はずれるかもしれないと疑うよりも出された情報をそのまま鵜呑みにした方が楽だと思っているので、別に雨が降ることに抵抗はない。ただ従うことで自分の行動を変えるのはどこか面倒になるので、傘を持ってはこなかった。

「ホンマもんのアホや、お前。なんでわざわざ反抗すんねん。傘ごときで」

 昇降口、見計らったかのように降り始めた雨をぼんやりと見上げていると、3年の下駄箱から出てきた一氏に唖然とされた。その手にはしっかりと傘がある。しかしそれは購買部で販売しているビニール傘で、隣に並ぶ小春の品のいいベージュ色の傘とは対照的だ。
 それぐらいなら自分でも買える、と沈黙の視線で反抗すると、簡単に頭を叩かれた。

「いって、なにすんですか」
「傘代300円はドーナツ6個分やねん。300円をバカにすな」
「そうよ、ユウくんは今日のおやつを泣く泣く我慢して傘に投資してるんやからね。買ってない光くんに文句言う権利はあらへんで」
「……なんで300円ごときで怒られなあかんのですか」
「それはー、お前がそういう時期やから」

 困ったように笑う小春の視線が財前を通り抜ける。一氏はいつものようにつまらなさそうに視線をはずす。
 そこには、赤い傘を持ったが目を丸くしてこちらを見つめる姿があった。
 つられて目が丸くなってしまうのを止められない。約束はしていなかった。付き合うようになった時間は相応に流れたし、その時間につりあうような中身になるように努力してきたつもりだ。だが毎日会う関係というものには理解が及ばず、相変わらず学校で会わない日があることもざらだった。だが昔ほどそれに罪悪感を感じないのは、目に見えない距離が近くなっている感覚があるのと、そう信じていい心をにもらっているからだと財前は思っている。
 だから今日、会う予定はなかった。家に帰ったらのんびりと音楽でも聴いていようと思っていた。

「一緒に帰るん? ちゃん」
「え、あ……そんな約束は」
「あら、そうなん? まあ光くん、それやったらアタシらがちゃんお借り……」
「せんでもええです、一緒に帰りますから」

 会ってしまったら最後、絶対に自分はこの人と一緒に家に帰りたくなることを知らされる距離になってしまっていた。
 の前に立って、小春たちの視線から遠ざける。この流れは小春たちの用意したレールに違いないと分かりながらも、のことになると頭よりも先に手や言葉が出るようになってしまっている。

「ほな、お先に」
「勉強せえよ、財前。頭ようないと色々と説得力あらへんからな。ケンヤみたいに」
「あら、ケンヤくんはそこそこよ。蔵リンは無敵やけど」
「小春に敵う無敵なんかあるかいな、あいつはしたたかっちゅうんや」
「あらやだ、ユウくんったら優しい!」

 しまった、という表情などふたりにとっては最高の反応だろう。笑みを残して、そしてこちらの会話の続きなど聞くに及ばずといった空気で満足げに岐路につく。
 周囲は喧騒に包まれ、自分の周りだけが妙な沈黙に包まれている。そっとに視線を向ければ、驚きと嬉しさの入り混じった見上げる瞳があるばかり。
 しまった、と本当にため息をつく。会ってはいけなかった。

「……来るか? うち」
「……行ってもええの?」
「勉強したら文句言われんやろ」

 会ってしまったら最後、離す時を迎える苦痛を味わってしまう。
 分かっていても、それでも校門を抜けて生徒の波から離れて、人目を避けられる場所まで歩いてきた時、

「よかった、あの時下駄箱に行って」

 がいつものように嬉しそうにはにかんで呟いてしまえば、傘を持たない右手は勝手に自分の仕事を見つけてしまっていた。
 手を繋いでしまえば最後、それを簡単には離すことができなくなる距離にまで自分が近寄せられていることを再確認させられる。
 それは正しくないことだと、小春は言った。
 溺れるなと小春と一氏は忠告した。
 白石と同じ道を歩むな、白石のようになるなと呟かれてからしばらく経つ。白石を見る目は変わらない、変わらないが白石がこちらを見る目は若干異なってきているように思う。

「さき上行っとって、飲み物探してくる」
「ええの? 手伝うよ」
「ええから」

 誰もいない家に到着したあと、手すりに近寄り、覗き込むようにしてこちらを見つめる階段上のの手を軽く叩く。それだけで合図になって、は渋る言葉を用意せず財前の部屋へと向かった。
 6月最初の実力テストの時、リビングで勉強をしていた姿を義姉に見られたのもつい最近の出来事だった。
 両親はおろか、兄にも伝えていなかった彼女の存在をまさかこの人に一番最初に見つかるとは予想もしておらず、ともども絶句するしかなかった。なぜ予定を変えて帰ってくるのだと怒るのも見当違いで、なにをもって沈黙を埋めるべきか皆目分からなかった。
 怒られるか、と瞬きをした瞬間、

「光くん、なんでここなん? 自分の部屋あるんやから、そっちでゆっくりしたらええのに」

 義姉は淡々と、さも当然かのような口調でそう「手助け」をしてくれたのだった。
 以来、部活が休みになることは滅多になかったがこのようにふたりで会える時間ができれば財前の部屋でともに過ごすようになった。いつ誰が訪れるかもしれないリビングよりも確かに部屋の方がくつろぐことはできる、だからこそあの時は義姉に感謝のような気持ちも抱いた、抱きはした。
 しかし、財前は今となっては後悔していた。

(あの人は絶対、小春先輩タイプや。忘れたらあかん、あの兄貴の嫁やで)

 冷蔵庫からお気に入りのペットボトルを取り出し、背中で扉を閉める。誰もいないリビングは雨のおかげで薄暗く、徐々に視界が冴えてくると頭の中身も道連れにされる。
 自分の世界が誰にも邪魔されない形で広がると、心の中も頭の中も我がままという言葉しか知らなくなる。
 一度冷静になるよう、頭を振って自分自身を戒める。
 手にしたトレイの上で、グラスがふたつ並んで綺麗に自分を見つめていた。

「あんまり遅いから、気になって。どうしたん? 光くん。具合悪いん?」

 それなのに、冷静になりたいと思う心はいつも打ち破られてしまう。
 開け放ったままだったリビングのドアの前に、が心配という言葉を純粋すぎるほどに表現したような表情を浮かべてこちらを見つめていた。
 ここしばらくは距離を置いていた。毎日話したり帰ったりするのは自分の性格ではないというもっともらしい言葉を用意して、白石たちの前で携帯電話を触ることもしなかった。周りからのからかいはいつもどおりだったが、白石だけはまるで本心を見透かしたかのような困った笑みを浮かべていたのを覚えている。
 部長もこんなんでしたか。頭の中で問いかける。
 答えを聞くことなど恐ろしくてできない、けれど今だけは白石に教えてもらいたかった。

「……光くん?」
「なんもない。なんもないから」
「具合悪いなら、私帰るけど……」
「帰らんでええって。おればええやん、一緒に」

 言葉と裏腹な行動に出てしまった時は、もう覚悟をした方がいいですかと。
 相変わらず言葉に熱はこめられない。語彙力もない、相手の心に落とし込むような言葉の使い方などできはしない。いつもどおりの低さの声で、たったそれだけの言葉数しかない。
 それでも、その細い手首を握り締めてしまったら。もはや最後だと覚悟をしなくてはいけないのか。
 が目を見張る。いつのまにこれほどまでに自分の目を奪ってやまない表情を作るようになったのだろう、いい加減にしてほしいと思う。すると手はそのまま身体を引き寄せ、抱きしめてしまう。キスをするために顎をあげさせるのも時間の問題だった。

「誰か帰ってきたら……光くん、あの」
「なら、部屋行こ」

 会話がかみ合っていないことなど承知の上だった。かみ合わせることが第一ではなかった。
 用意した飲み物もそのままに2階の部屋に行き、扉を閉めてもう一度抱き寄せて、自分よりも高い体温に包まれてしまえば本当にこれが最後の瞬間だと悟る。
 会ってはいけなかった、と誰かが言う。溺れすぎるといけないと頭は分かっている。
 こうなってしまうことが見えていたから、白石は笑っていたのだと痛いほど分かっている。

「……早すぎやって、それは分かってんねんけど。でも、無理みたいや」
「……」
「なあ、あかんかな。俺もうよう分からんのや」

 その白石は別れた。溺れすぎた挙句振られたと小春は言った。そうなってはいけないと忠告されていた、そうなるなと白石の目は暗に伝えていた。
 抱きしめた香りにうずまるように瞳も閉じて、体温と香りだけの中に自分を落とし込めて呟く。自分が落ち着く方法は音楽を聴くことだとばかり思っていたのが遠い昔のようだ、今はこの感覚から離れられる自信がまるでない。
 溺れた弱みか、縋る心が問いかけの言葉ばかり用意する。抱きしめたまま離すことのできない腕ばかり用意する。
 しばらく雨の音を聞いたあと、が弱々しく財前の胸に両手をあてて距離を作った。電気をつけていない雨の夕方の色が、の黒髪をますます深みのあるものに見せる。

「私も分からへん。全然分からへん」

 言葉はどこか震えていた。胸に当てられた小さな手の温もりはいつもより高かった。

「……でも、私は」
「……うん」
「私は、……私は、光くんがどうしようもないくらい好きだよ」

 言葉数はいらないと、言葉の技巧などいらないとが証明してしまえば自分の示す道はひとつしかなかった。
 言葉で説明するものはもはやない。言葉で上手く説明できるのであれば最初からそうしている、無駄に距離をおく時間など作る必要もなかった。だから今この場で、必要なのは言葉ではない。の目が確かにそう言っていた。

「ごめんな」

 なぜ謝ったのかは、後になっても分からない。
 一度抱き寄せて唇を重ね、その小さな身体をベッドへと招く。どこに座ればいいのか分からない、なにをすればいいのかも分からないという不安一色の中でが浮かべるのは自分を縋る瞳だという、この状況下ではもはや振り返ったり立ち止まったりする暇はない。

「ええよ、俺に任せといて。……多分」
「……多分?」
「あ、嘘。絶対。……うん、絶対」

 悲嘆の色すら混じりそうになったを落ち着かせるため、一度軽く触れるだけのキスをする。そうすることで自分も落ち着かせようとしているのだということに、ベッドの上にあがってようやく財前も気づく。
 見よう見まねが一体どこまで通じるのか、皆目見当がつかない。つかないが、緊張はあっても不安はない。心配は大きくない。
 目を合わせてしまえば最後、を愛おしむ感情に負けることしかできなくなる。
 カーテンを閉めた暗闇の中でも分かることがたくさんあった。一度好きだと思ってしまうと人間の頭は都合よい欲情ばかりを受け入れるようになっているのか、なにもかもが心の奥深くや芯を揺さぶってくる。
 涙の混じった恥じらいというものを初めて見た。漏れる声が学校では聞いたこともないほど鼻にかかった高さで、こちらの心を遠慮なくかき乱すものだということを初めて知った。肌が柔らかいこと、白いこと、自分とは異なるつくりをしていることを改めて知らされた。

「や、恥ずかしいよ……!」

 その言葉を何度聞いたことだろう。鎖骨に唇を押し付けた時、興味本位でそのすぐ下――制服に隠れるか隠れないかの際のところに跡を残した時、制服を徐々に脱がせて胸の膨らみを見た時触れた時、口づけた時。そのどれもには泣きそうになりながら訴え、けれど決して自分の手を振り払わないその愛情がますます財前の理性を殺す。

「ほんま卑怯や。なにしたらそうなるんや」
「……え?」
「本気で溺れるわ、知らんでもう」

 交わした口づけは、触れるだけで我慢などできるはずがなかった。
 からめとるというよりはなにもかも交じり合う、相手の中に自分の存在を落とし込む。人との接点を必要最低限に抑えてきた財前からすれば、ありえないことだった。
 落ちるのが分かる。溺れて救われなくなるのが分かる。その後どうなるのかは分からないが、でも沈むことに抵抗がない。熱がそうさせると言えばそうだが、だがそれだけではないことを財前は自分の身体で体験することでようやく気づく。

「……こんな時に言うても絶対意味ないんやろけど」

 中途半端にはだけた制服の姿。それは自分も同じだった。息が上がってに返す言葉はない。それは財前も同じだった。
 それでも、癖のようになってしまったキスのあとで口は開いてくれた。

「俺、のこと好きになったんは絶対間違いやなかったって、絶対に言える」
「……光くん?」
「絶対。が、俺の傍にきてくれたから」

 始まりは図書館だった。何も関係のない、ただの同じ小学校出身の同級生だった。
 それでもが自分を好きになってくれて、特別な感情を持ってくれて、傍に来てくれた。
 そして始まったふたりの関係。増える上級生との会話、増える新しい発見、馴染む新しい自分、学ぶ新しい感情。天気予報には逆らっても、それらに逆らうことは絶対になかった。
 が来てくれたおかげで様々なことを体験してしまった、気づいてしまった。
 その経験を大切にしたいと思う心まで、この相手は残してしまった。

「もう離せんわ。無理。諦めて」
「……え?」
「俺の傍から離れんといて」

 祈りにも似た口づけを交わし、左手をそっとの足にまわす。
 言葉はそこで途切れた。ただ雨の音だけが、最後まで静かに見守ってくれているようだった。



「ついに光くんが大人の階段上っちゃったのよ」

 小春の呟きから期末テスト明けの部室は始まった。

「は? なんやて、小春。大人の階段ってなんや、子どもの階段もあるんか? ワイは……大人の階段がええ! って、なんやねん、こら、銀!」
「金太郎はんは聞いたらあかん」
「なんやて? 聞こえへん! 放せ!」

 石田の大きな手で両耳を塞がれた金太郎が暴れるが、誰もそちらに目を向けなかった。
 制服のボタンに手をかけていた白石が動きを止め、行儀の悪い座り方でイグアナの本を読んでいた忍足が作り話のように本を床に落とす。小石川にいたってはそんなふたりを心配して挙動不審になる。
 小春の言葉に驚かなかったのは一氏と千歳だけで、ユニフォームの袖に腕を通し終わった財前はちらりと千歳に目を向けた。

「未来ば大体読めるたい、いまさら慌てるもんでもなかとよ」

 財前の質問の意味を理解し、さらりと答える。だから今まで会話に混じってこなかったのかと小春に問いただされても笑うばかりだった。
 自分でも慣れてしまっているのが恐ろしくもあったが、結局はレギュラーメンバー全員がとの仲を知っていることになってしまっている。最後の砦は今石田に耳を塞がれている金太郎だが、付き合っているという事実だけならば金太郎ですら知っている。しかし終生金太郎と恋愛話をすることなどないだろうと断言できるので、さほど気にする対象にはならない。
 気にするとすれば、それはただひとり。

「そうか。お前、そこまでのめりこんでしもたか」

 嬉しさと悲しさをない交ぜにした表情を浮かべる、白石ただひとりだった。
 白石の過去をすべて知っているわけではない。小春から聞いたものだとしても多分に他人の感情が含まれていることを知っている、白石の本当の言葉として聞かない限りは真実は知ることはできないだろうと分かっている。
 だが、その表情は絶対に浮かべてはいけないと心が言っている。
 財前はピアスを付け直し、真正面から白石を見つめる。
 浮かべてはいけない。自分がではない、白石が浮かべてはいけないと理解している。

「俺、やっぱ白石部長とちゃいましたわ。全然ちゃう、絶対ちゃう」

 その心ひとつが、あっさりと言葉を用意してくれた。
 小春が一度目を大きく瞬かせる。財前が口角だけをあげて笑う時の意味を知っているのだろう、一氏は一瞬言葉を飲んだがすぐに笑い声をあげた。
 部室の中で、千歳は悠然と状況を見守る。すべてを計算して未来を形作ることのできる男は、結局いつまでも慌てない。慌てるとすればそれは、今日という日も白石との間に入ってこようとする忍足と、金太郎の耳を塞ぐ石田のみ。
 ならば一対一、白石とのこの勝負。負けるわけにはいかないと、財前は顎を上げてうっすらと笑った。

「俺、溺れたら余計手離せなくなりましたわ。それぐらいにさせた子、簡単には離せません。せやから振らせたりなんか、絶対させません」
 
 宣言のように飛び出した言葉が部室に響く。
 小春たちは言葉を飲み、一氏が視線を外に向ける。忍足だけが白石と財前の間で視線を動かす。
 やがて沈黙を破るために笑い出したのは、白石だった。

「余裕やな、財前。ええで、証明してみせえ。お前が証明できたら、なんでも言うこと聞いたるわ」
「ほんまですか」
「ああ、ええで。俺の負けっちゅうことやろ。なんでもええで」

 自虐的な言葉すら武器にしてしまう、この部長の器用さを呪う。
 本当の意味では不器用な人だということに気づくのは、この頃だった。自分よりも絶対に異性から好かれるべき存在である憧れの白石が、打ちひしがれたような表情を作る意味を知るのもこの頃だった。
 テニスで負けるつもりは絶対にない。いずれは追い抜くと決めている。
 しかし、団体戦を導く部長の中ではどの学校よりも強くなくてはならない。強くあるべきだ、それが白石であるべきだと思う心を譲るつもりも全くない。
 財前は笑い、小春に目を向ける。幾度か瞬きをしたあと、小春は笑って親指と人差し指をくっつけてみせた。

「先輩が彼女に告白し直してください。で、付き合い直す。これでどうですか」
「……は?」
「おいこら、財前! お前なに言うてんねん! 白石はなあ、」

 白石が絶句したのを守るかのように、忍足が立ち上がる。しかし。

「よかね、それ。のった」

 千歳の一言がすべてを決めて、部長の権限はその瞬間だけ剥奪された。
 忌々しさと気恥ずかしさと、その他諸々の感情をこめた瞳で白石が見つめてくる。しかし財前は動じない。白石お得意の悠然とした笑みを浮かべ、テニスボールを放って渡す。

「忘れもんは、取りにいかんと。ねえ、部長」

 愛すべき部と愛すべき部長に、精一杯の愛情表現を。
 言葉の技巧はなくとも感情があれば伝わると、そう信じて生意気に呟いた言葉に、白石は最後には困った後輩をあやすいつもの表情で笑ってくれたのだった。



09/05/06