03.三日月満ちて

 見上げた青空が際立って澄んでいる日は、時間の感覚を忘れる。
 頬から顎へと伝わる汗もそのままに天を仰ぐ。四天宝寺のユニフォームを着用するようになって2度目の夏がやってくる。吸汗性がいいような悪いような、しかし生地自体は肌触りが悪くないので日々身に着けることが習慣になってしまっている。それは自分が着ると至極普通だったが、白石が着れば品がよく、小春たちが着ればどこか近寄りがたい強さを見せ、また千歳が着れば見慣れなさのせいかまるで他の強豪校かのような印象になった。

「お前、私服やったら絶対こんな色着いひんやろ。全然イメージ沸かん」
「お互い様やないですか? 先輩、ユニフォーム着てもほんま普通っすね。オーラがない」
「なんやお前、最近生意気すぎやろ! ケンカ売っとんのか!」
「ケンヤくんが勝手にケンカ売っとるだけよー、ねえ光くん」
「買いもしませんけどね」
「ケンヤの負けや、負け」

 最近、上級生と言葉を交わす機会が増えているとつくづく思う。交わすというよりは誰かに先に言葉を振られ、それを自分では何の変哲もない言葉で返しているだけなのに、なぜか会話が続いてしまう。自分の周りには上級生がいることが多い。
 以前であれば同級生が不甲斐ないからだ、とそのテニスの実力のせいにすることで考えを止めることもできていたのだが、ここ最近を思い出すとどうもそれは正解ではないような気がしていた。

「なんや財前、最近調子ええなあ。顔が笑てるで」
「……俺だって笑うことぐらいできますけど」
「アホ、お前の『笑う』は難しいねん。せやけどぱっと見な、明るなったのがよう分かるわ」

 コート上で白石が声をかけてくれる機会も随分と増えていた。
 ただし、当たり障りのない笑顔を浮かべることで品行方正さを表すことに全く苦労していないこの部長が、実はとんでもないお節介であることを最近の財前は学んでいる。
 視線を向けられると、一瞬怯んでしまう癖がついたのは厄介なことだった。そして白石はそれを絶対に見透かしている。

「あの子のおかげか? おかげっちゅうかなんちゅうか、やけど。ええなあ、充実した毎日やないか」

 意地の悪い、と感じることも間々だ。悠然とした笑みを向ける白石には眉間に皺を寄せることしかできなくなる。
 と付き合いだしてから、ほぼ毎日がこのような状態だった。
 白石にはさりげなく(時には真正面から)探られ、小春が財前の知らない情報を持ってきて唖然としていれば必ず隣に一氏がやってきて財前の子供ぶりに呆れたような表情を浮かべる。忍足はその手の話題が得意でないらしく、いつも小春たちにからかわれている。そしていつのまに話を聞いていたのか副部長の小石川は、逆にそんな3年生を前にして労わる言葉をかけてくるようになっていた。

「ん? どうした、財前」
「……いや、なんもっす」

 石田の大きな背中を見つめていると、まるで背中に目があったかのように振り返り尋ねられる。慌てて首を横に振ったが、まさかこの俗物には興味のなさそうな石田まで関わってくるようになるとはさすがに思いたくなかった。
 日々の中にテニスがある。それは変わらない。しかしそこにが加わっただけで、テニスをする場所に途端自分の居場所ができてくる。

(不本意やな、少し)

 ラリーを続ける白石と忍足を横目に、スポーツドリンクを飲みながら考える。
 ただしその言葉の続きは、自分では用意することがいつもできない。の話ばかりになる毎日に眉間は休むことを許されていなかったが、それでも3年生たちを邪険に扱うことはしていない自分に驚くことの方が多かった。
 恋愛ひとつで、自分の周囲がこれほど変わる予定はまるでなかった。
 コート脇に腰を下ろし、かまってくる金太郎を適当に振り払ってため息をひとつつく。黒髪から汗が一粒、コートの上に落ちて太陽にさらされる様を見つめる。

(せやけど、なにが正しいのかなんて俺には全く分からへん。やろうやろう思ても、どれが正しいんかはやっぱり分からへん)

 自分の今の付き合い方が一体どのようなものか、財前は計りかねていた。
 好きか嫌いかと言われれば、好きなのだろう。付き合いたいか付き合いたくないかと言われれば、付き合いたいと答える心はあるだろう。だから実際付き合っているし、手も繋ぐ。デートもする。
 しかしそれらはすべて、誰かのお膳立てがあってのことだった。
 歓声があがり、顔を上げろと促される。見れば目の前のコートで白石があっさりと忍足を下し、小春たちの称賛を浴びているところだった。
 白石であれば、うまくやるのだろうと思う。欠点といえばここ最近のお節介しか思いつかない財前にとって、白石は何事においても手本だった。ここまで基本に忠実にテニスをすることができる、それをつまらないとか楽しくないと思うこともせずただひたすらその道だけを貫き通す白石の存在は、最初こそ好奇の目で見た稀有な存在だったが、彼の実力に一度とて勝てない自分の非力さを目の当たりにすればあらゆる意味で稀有であるべきだと思いたくなる、それが財前にとっての白石だ。
 だから白石であれば、テニスをここまで丁寧にすることができる白石であれば、恋愛ももっとうまく考え、自分自身の力ですべてをこなしていくに違いないだろうと思える。そんな白石に質問をすれば、どんな方法も教えてくれるのだろうと思う。
 ただ、それが正しいことなのかは分からない。

(……聞いて、真似してどうするんや? そんなんであいつは喜ぶんか?)

 自分の背後に白石たちがいることを、とて気づいている。だから自分の前に今日誰が来たか、なにを言われたかを包み隠さず報告してくれるのだろう。白石の指示にもあっさりと従って、先日駅前の約束の場所に来てくれたのだろう。
 だがそんな関係が最も正しいことではないと、財前も分かっている。

(あかんやろ、真似は。誰かの指図は。それやったら別に今俺らが付き合わんでもええやんか、金太郎でもええやんか。俺とが付き合う意味にはならへん)

 じりり、と肌の焼ける音が頭の中でして我に返る。コートの上だった。頭の中を見透かされることなどないのに、財前は慌てて周囲に目を向けてから立ち上がる。休みすぎだ。
 左手にラケットを持ち、空になったペットボトルを器用にも右手で渡邊の用意したゴミ箱の中に放り投げる。その様子を小春だけがじっと見つめていた。

「……なんすか、今から練習しますって」

 休んでいたことを咎められたのかと思い、うつむきがちに答えて通り過ぎようとする。

「蔵リンを真似しようなんて、そんなことは思わんでええんやで。光くん」

 前言撤回だった。この人と白石は、勝手に頭の中を読んでくる。
 振り返れば、にっと笑みを浮かべるいつもの小春。珍しく一氏が傍にいないのは、白石が相手をしているからか。小春が自分と話していることに一氏はさしたる視線も向けなかったが、白石だけは一度目が合ったような気がした。
 どこまで見透かすのか、と再び眉間に皺が寄る。小春は小さく首を横に振った。

「ほんまはな、こうしてアタシらが口出すことはいいことやないって分かってんねんけどな。せやけど最初の一歩ぐらいは手出させてって思わせてしまうんよ、光くんは」
「別に、それはもうええですけど。終わったことやし」
「そう言うてくれる光くんやから、まだ手出してしまいそうになるんやけどね。でもね」

 白石を見つめ、駄々をこねる子どもに苦笑するような表情を浮かべる。

「アタシの勘では、もうええんとちゃうかなあって。……ちゃう?」

 時折見せる、小春のこの何かを言い含んだような表情と言い方は得意ではない。自分は小春たちのように見えないものを万事見透す能力を持っていると財前は思っていない、だから返事に困る。
 沈黙の瞬間の居心地の悪さに負けると、勝手に眉根は寄ってしまうようになっている。それは自分の言葉数が少ないためであって、決して機嫌を損ねたからではない。その性格で損をしていないかと、心配性の義姉はよく気にしている。

「ユウくんの言うてたとおりなんよ。光くんやからこそ、適当には多分付き合わへん。手出すも出さんも、どのタイミングでもええやないのって」

 しかめ面の弁明は、レギュラーメンバーとの前ではしなくともよいことになっている。
 言葉を返さない財前になにを言うでもなく、小春は淡々と自分の思う言葉だけを述べて去っていった。言葉の真意を読み取ろうとするといつのまにかまた眉間に皺が寄り、その顔を見て白石に笑われた時にはコート内の時計が夕方6時を示していた。



 好きか嫌いかと聞かれれば好きだ。付き合いたいか付き合いたくないかと問われれば、付き合いたい。付き合う関係で今の日常ができてしまっている、そしてそれを自分で疎ましく思っていない。思わないということはこの関係が悪いものではないからだ、頭ではそのように理解できる。

「……あれ、どうしたん? 部活まだ終わってへんよね?」

 6時も過ぎれば教室内に残っている人間の方が少ない。音楽室や美術室など、文化部が使用する教室は異なるが各学年の各教室となると話は別だ。だから6組を覗くのに躊躇はない。開け放たれた後方のドアから中を覗けば、足音に気づいていたのだろうがあっさりと振り返った。

「ちょっと、抜けてきた」
「抜けて……? 白石先輩、許してくれるの?」
「それぐらいなら」

 の隣の席に腰かけ、汗にぬれた髪を乱す。教室の中は初夏の夕方の風が吹き抜けてくれるおかげで若干涼しく、首筋を撫でる冷たい風が心地よかった。
 後ろの机に肘をつき、乱した髪の毛を少しずつ直す。うつむきがちだった視線をその時ようやく上げれば、筆記用具を持ったままが心配そうな瞳でこちらを見つめていた。

「なんも悪いことはしてへん」
「せやけど、部活抜けるなんて滅多にないし」
「……ああ、抜けるっちゅー言い方がまずいわ。今日部活は6時までやねん、この後は自主練になるから今は30分休憩。まだ15分やろ、俺別に悪いことしてへんて」
 
 そこまで説明して、ようやくは安堵の表情を見せる。心配ごとが消えると途端いつも隠すことなく見せてくる表情しか残らなくなるのだから、この人の感情は恐ろしいほどに分かりやすいと最近よく思う。
 髪を触っていた指を止め、じっとを見つめる。
 始まりは小学校だった。ただし自分にはその記憶がない。正しくは、同じ小学校であることを知らないわけではなかったが自分の小学6年間の記憶の中にという人はまるで存在していない。そして今年偶然にも、初めてと断言してもいいだろう会話をし、そして告白をされて付き合うことになった。その過程に疑問はない。
 ただ、と財前はほんのわずかに目を伏せる。

「考え事? 珍しいなんて言うたら、怒られるかな。私の前で見せてくれるんは」

 睫毛が揺れる瞬間を、は見逃さない。それこそ白石や小春たちと同等のレベルで自分のことを見透かしてくる。
 どうしてそこまで分かるのだろう、と思う。どうしてそこまで分かってもらえているのだろうと思う。

「なんで?」
「なにが?」
「なんでお前、俺のことそない詳しいねん」

 の目はしばらく丸いままだった。唖然として言葉をなくすというよりは、まずその質問の意味が分からないという顔だった。
 財前にとっては不思議なことだらけだった。居心地は悪くないため今まで気づく瞬間を見逃していたが、冷静に考えればこれほどまでに自分に都合よい感情を一方的に受け取っているのはなにかが違うことに気づかなくてはいけない。それぐらいの分別はある。
 そして、それほどまでにの感情は素直すぎる。

「俺、確かにお前と付き合うとるけど、ほんまはなにが正しいことなんかっちゅうことは全然分からへんのや。今まで誰かと付き合うてきたわけやないし、努力しとるつもりでも……それが間違うてたらなんも意味ないし。やからお前が『そんなもんや』言えばそうなんやろな、って納得することはできるんやけど、せやけど」
「……なに?」
「そんな俺で大丈夫かって、思うことはある。……俺、部長やないし」

 その時、不安一色になっていたの顔がはたとその不安の色を追い出す。途端目が丸くなり、何度か瞬きをした後、「なんで白石さん……?」とか細い声で尋ねてきた。
 頬杖をついたまま、を見つめる。はただただ、疑問符の片付けを願っていた。

「……いや、ほらな。俺、部長みたいになんかうまくできへんし、……いろいろと」

 ぽつりと呟いた言葉に、笑い声が返ってきたのはしばらくしてからのこと。
 笑い声が起きるまでの沈黙は、言葉がない瞬間はやはり眉間に皺が寄ってしまうのだが、の笑い声が起きると必ず視線はそちらに向けるような身体になってしまっている。小さな手のひらで顔を隠しながら笑うに唖然とするのはこちらの番だった。

「なに言いだすかと思たら! なんで、なんでなん。財前くん、なに言われたん?」
「……別になんも」
「いや、うそや。絶対うそ。なんで財前くんが自分がどう思われてるかとか気にするん。そんなんちゃうし、財前くん。ちゃうよ、本当に」

 もしかしたら自分はひどいことを言われているのではないかと思う言葉にも、しかしがあまりに楽しそうに笑い声をあげるものだから反論する余地もない。自分に言葉はなくとも相手の笑い声が起きるとそれだけで沈黙が埋まるので、しかめ面をする理由もない。
 相手の言葉さえあれば沈黙も気にするものではないと、それが白石たちではなくに教えられる、その意味を知るにはもう少しの時間は必要だったけれど。
 けれどこの時は、が笑いながらも涙を必死にこらえながらも、そっと手を伸ばしてくれたおかげで他の雑念は一気に消え去ってしまった。

「おかしいなあ。私、財前くんが好きや言うたつもりやったんやけど」
「……なんやねん」
「そんなこと、知っとるよ。全部全部。私、財前くんがなんもせえへんからって悩むようなこと、一度もなかったよ今日まで。付き合うてくれるだけでほんまめっちゃ嬉しかったのに」

 頬杖には使わない利き手に、そっと温かい手が触れる。は自分の手を「温かい」とよく言うが、低音体質の財前からすれば部活後の今の身体からしてもの手の方が絶対に温もりを持っていると常々思っている。ただ、それはまだ伝えていない。
 温かいうえに、細い。それを大切にしなければという感情も、まだ伝えてはいない。

「なんでそんなもっと好きになるようなことばっかり言うんやろ。本当、どうしよう」

 自分は甘えているだけだと、誰かには言われるかもしれない。相手の好意を都合よく利用しているだけだと笑われるかもしれない。
 しかしその自分を、他の誰でもないがこうして認めてくれるのであれば、この付き合い方はまずは間違っていないのかもしれない。そう思うには十分な言葉と、温もりだった。
 タイムリミットは刻一刻と近づいてくる。気づけば時計の長針は25分の場所にさしかかり、先に気づいたが財前を立たせる。まだ顔には涙をこらえた笑い顔があったが、さきほどの不安の欠片はひとつも残っていなかった。

『ユウくんの言うてたとおりなんよ。光くんやからこそ、適当には多分付き合わへん。手出すも出さんも、どのタイミングでもええやないのって』

 ともに立ち上がり、教室の入り口まで見送ろうとするの姿を見つめていると、小春の言葉が頭をよぎる。
 本当の意味では理解できていないのかもしれない。けれどあの時、彼がなにを伝えようとしてくれていたのかはなんとなく分かるような気がする。
 だから、その時。自分の手は、の身体を抱きしめることしか思いつかなかった。
 腕の中でが小さく息を飲む。そんな反応を楽しむ余裕もなく、財前はの髪の中に顔をうずめる。自分のものとは違う香りに自然と目は閉じるようになっていた。
 初めて触れる女子の制服の感触は新鮮で、それでも肌触りは悪くなくてなかなか手放せなかった。

「ほんま、敵わんわ」

 呟くことができたのはたったそれだけの言葉。それ以上は、抱きしめて独占した温もりと香りを前に用意することができなかった。
 夏の風が踊る。誰もいない教室で、夕陽を待ちわびるかのように徐々に教室の中が薄暗くなっていく。そんな空気の中、が小さく自分の名前を呼ぶまで抱きしめていた沈黙の中、気づけば眉根は近寄ることをやめてくれていた。



「さあ、財前の帰りが2分遅れた理由を検討しようやないか」

 走って戻ったテニスコートでは、既に祭りが始まっていた。
 白石の黄金の左手が高々と上げられ、レギュラーメンバーが口々に自分の言いたいことを言い始める。レギュラーメンバーしか残らないこの時間帯にだけ本領発揮する白石という存在は絶対に侮れないと、息せき切らせたまま愚痴を零しそうになるが、もはや遅刻者に発言権はなかった。

「アホちゃうか、お前。このタイミングで抜け出してなんも言われへんと思っとったんか。アホやアホ、ほんまアホ」
「ケンヤくん、羨ましいからって最近光くんに厳しすぎやで。ちょっとポイントダウン」
「せやせや」
「うっさい! 白石かて似たようなもんやないか! 銀も!」
「……謙也、俺にケンカ売ってどないするん。しかも銀さん泣いとるやないか……」
「銀さんかて恋愛に興味ぐらいあるわよー、勝手に判断するなんてますますポイントダウン」
「せやせやー」
「うっさいわ、ドアホ! なんやねんお前ら最近ほんま! 俺の味方はおらへんのかい!」

 忍足の怒声が響き渡る空の下、金太郎と千歳がまだ帰ってこないことには誰も言及せずただひたすら自分ばかりが話の種とされる。不本意とはこういうことを言うのだろう。
 悲しいかな、それには慣れた自信があったがこの輪に石田が加わるのがこれほどまでに早くなる予定だけはなかった。財前はうなだれ、小さくため息をつく。

「幸せが逃げるで、せっかく手にしたっちゅうのに。そない簡単に手離したらあかんで」

 白石の笑みを横目に、財前はラケットを握ってコートの中に戻る。
 ラケットの感覚の奥には、まだ忘れたくないと手のひらが駄々をこねているかのように抱きしめた感触が残っていた。



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09/05/06