02.二色プリズム

 夕暮れに染まる街並を、初めて手を繋いで帰った。
 指は触れているのに、手のひらの温もりは伝わるのに、それでも身体は少しだけ遠くに感じる距離を保っているのがどこかおかしくて笑うと、財前は居心地が悪そうに眉をしかめる。
 それを受けて顔も心も温かくなるのは、その表情の意味をきちんと知っているからだ。

「財前くん」
「なに」
「こういう時にそないな顔したら、みんな誤解してしまうよ。怒っとるんちゃうかって」

 負の意味を持つ言葉に、眉間の皺は正しくなることを知らない。
 相変わらずだ、と言葉に出さずにただ笑えば、呆れたようなため息ばかりが飛んでくる。
 それでも手を離さないでいてくれる関係は、つかず離れずの距離を保ってくれているその左手は、自分にだけ向けられた大切なものだった。
 眉をしかめる意味は、恥ずかしさの裏返しであることに気づいている自分だけが触れることが許される大切な左手だった。



「あり。財前の彼女やん。元気かー?」

 財前を視界に収めるための最強の味方だと、そう信じてやまなかったその声が自分に向かって遠慮なく言葉をぶつけた日は、簡単には忘れられないだろう。
 食堂で偶然出会った遠山金太郎は、食券片手に引換所まで走っていこうとしていたその足を急に止めた。ご丁寧に走っている途中だったと誰が見ても分かるような振れた手足の姿勢のまま、じっとを見つめてきた。そして前置きなく、そう叫んだのだ。

「……は? なんやて? 財前の彼女……?」

 の隣にいた親友は、トレイ両手に呆然と足を止める。じっと金太郎を見つめた後、ゆっくりと視線をに向けたがその視線に訝る色はまるでなかった。
 なにも考えていない、それが一番正しいと思えた色だったのもつかの間、

「なんやて?! あんた、いつから付き合うとんの! しかも財前て! は、なに?!」

 食堂という公共の場所の意味をまるで考えない大きさで怒声を上げ、金太郎の両手を自分の耳を塞ぐために使わせてしまったのだった。
 肩をすくめ、しばらくの沈黙が逃げていったあとようやくは親友を見上げる。トレイの上に載ったパスタがよくこぼれなかったものだと感心する。思わずパスタに安堵の視線を向けると、優先順位が違うとまた怒声が飛んでくる。

「あんた、なんやのそれ! 財前みたいやんか!」

 自分の衝撃に巻き込まれないに、親友は目くじらを立てて財前の名前を引き合いに出す。そんなつもりはないと丸くした瞳の視線を向けるが、その反応すら財前と重なって見えるとまた怒られた。
 金太郎は笑い飛ばし、そのまま目の前からいなくなる。突然自分たちの生活の中に財前という名前が色濃く飛び込んできた親友は、しばらくの間軽い眩暈にも似たその衝撃から立ち直れないようだった。
 財前の彼女になったという話は瞬く間に広がり、しかしやがて勝手に収束していった。

「そんなもんやろ。俺、羨ましがられるキャラちゃうで」

 部活帰り、つまらなさそうに呟いた財前の横顔に安心にも似た感覚がして、また笑うとまた眉間に皺が寄る。その時ばかりは怒っているのかと気にもなったが、テニス以外で目立とうなどとこの人が考えるはずもなく、愚痴よりも先にあの左手が伸びてきた。

「そんなん別にどうでもええやん。俺嫌やで、白石部長みたいになんでも目立つんは」
「白石先輩は特別やね。あの人はすぐ目に入ってくる」
「……なんや、そんな目立つんか?」
「目立つなあ。財前くんの次ぐらいには。あ、これ私の中の勝手な印象」

 随分と調子に乗るようになったものだと、言葉にしたあと自分でもおかしくなる。
 真正面から見つめることを許された財前に視線を向けると、身体は勝手に緩むようにできている。握り締めてもらえる左手に熱を預けるようにすると、財前の眉間にまた皺が寄る。
 けれど、手を振り払われることは絶対にない。
 白いカッターシャツから伸びる細い腕。自分よりはしっかりとした筋肉がついているとはいえ、白石たちの前に並べばまだまだ小柄な体躯だ。しかしその身体から伸びる手が、今自分の身体を引っ張る力をもてあますようにすら見える。
 自分の身体に馴染んでいく財前の体温に、手の大きさに、ただ頬は緩むことしか知らなかった。

「なあ、財前くん」
「……なに」
「私、重症やね。どうしよう、私財前くんのこと好きになることできてめっちゃよかった、絶対」

 攻撃的すぎる、と怒られるになったのはしばらくしてからのこと。
 思わずという言葉を使うには少々気がひける、それほどまでに勝手に口をついてでてくる本音の言葉たちに、照れて動けなくなるのはいつもではなく財前だった。

「お前はたしなみっちゅーもんをどこに忘れてきたんや!」

 珍しく叫ばれた、と思って視線を向ければ、その顔に例のしかめ面はない。
 嬉しさを飛び越えすぎると本当に怒ってしまうらしいというのは、付き合い始めて初めて知った事実。しかし財前のことに関するとため息をつかれても首を横に振られても肩をすくめられても、怒られても、もはや怯むどころか新鮮な感動でその反応を見つめてしまう。どうしてこの人は感情の示し方にこれほどまでにレパートリーが少ないのだろうと、そう思えてしまうこの距離がいけなかった。
 その距離のままでいさせる、彼の左手が一番罪作りだと思った。

「惚れてしまってごめんね」

 覗き込むような視線を向けて、やはり笑いながら言ってしまう。
 今まで見たことがないようなしかめ面をされて受け止められた言葉は、夕闇に消えていく代わりにしっかりと足跡を残していったかのように、繋いだ手が熱かった。

「それはね、ちゃん。光くんがアナタをデートに誘いたいからなんよ」

 この人たちは偶然という言葉を武器にしているとつくづく思う毎日だった。
 食堂で親友と昼食を楽しんでいると、今度目の前に現れたのはこの学校内で知らない者などいない3年生の金色小春だった。次から次へと現れるテニス部の有名人に、親友はすっかりペースを狂わされ、まさかの小春との至近距離に目を丸くすることしかできない。しかしは小春というこの3年生が想像以上に、いや自分の思考回路で考えられるレベル以上に人のことを思いやってくれる先輩であることを、財前のしかめ面に教えてもらっている。

「デート、ですか? そないな話、一度も財前くんから出てきたことないですけど」

 財前は好かれているなと思わず笑いながら返答すると、小春は悩ましげに首を横に振る。いつのまにか現れた一氏はさも当然というような顔をして小春の隣に着席し、新たに注文していたのだろうデザートのトレイからスプーンをひとつ、小春に差し出していた。小春の手の中でスプーンが左右に揺れる。

「ちゃう、ちゃうんよちゃん。ていうかな、ちゃんなら分かるわよねえ。光くんのあの優柔不断っぷり!」
「優柔……はあ、そうですね。あんま自分でなにかを決めたりするんは得意やないですね、あの人。あんま興味がないと言うか」
「なあ! せやから蔵リンかて張りきり……って、ああこれは関係ないんやけど、でもとにかくな、せめてデートのひとつやふたつぐらいやったってもええんとちゃうの光くん! って、アタシは最近つくづく思てるんやけど、そこんところちゃんはどうなん?」
「そこんところ? 私がですか?」
「そうよ」

 神妙な面持ちになって小春が尋ねる。フォーク片手に首をやや傾げば、「そこまで財前の真似せんでもええ」と親友にため息をつかれた。

「真似ちゃうし、昔から私もするし」
「ちゃう、絶対ちゃう。財前がようする癖やんか、それ。なんやあいつ、無愛想なくせに可愛く見える仕草できるって、ほんま女の敵や」
「……可愛いかなあ、可愛いというよりは」
「なに、なんなん! のろけ?! 嫌や、聞きとうないわあんなやつののろけなんか!」

 本当に親友かと疑いたくなるほどの勢いで拒絶する親友に、しかし怒りはわかないようにできている。
 財前の本音を知っているのは自分だけでいいと思うのは、我がままだろうか。疑問に思わないこともないが、それはまだ財前本人に確かめたことはない。確かめて怒られたり呆れられる、そんなことが怖いのではなくて、あの反応の意味を大勢の人に理解してもらっては困るという、自分勝手極まりない感情をもてあましているせいだ。

「遠くから見とるだけやったら、財前くんは絶対分かりにくいわ。せやからええよ、今のまんまで。みんなに傍に寄られたら絶対勝ち目ないし、私」

 財前が止めない限り、自分の感情は生き続けることができる。そんな不安定なものであることぐらい承知している。財前の許可がなければ自分はあの表情の意味を理解しようとしてはいけない、あの左手をラケット以外で独占してはいけない。
 それは自分が彼を好きになっているからではなく、彼が許してくれているからだということを忘れてはいけないと、片想いを経験した身体は苦しいほどに知っている。

「やから、デートとか。そういうのは、私から言うのは駄目なんです、きっと。大丈夫ですよ、先に片想いした方が我慢強いことだけは絶対に譲るつもりないんで」

 黙って話を聞いていた小春に、まだ手をつけていなかったデザートを差し出す。一氏はちらりとつまらなさそうにこちらを見たが、頬杖をついたまま遠くに視線を向けた。

「……ちゃん、ほんまあれやね。絵に描いたような惚れっぷりやね」

 その時小春がようやく呟く。なにがですかと問いかける間もなく、一氏が小春のため息に同調するかのように深く頷いた。

「こういう子やないと無理やで、小春。見くびったらあかん」
「そうみたいやねえ。よう分かったわ、光くんが彼女にした理由」

 の返事を待たず、一氏までもが神妙な面持ちになってを見つめる。口を閉ざす一氏というのは滅多に見る機会がなく、親友もそちらの方に興味がひかれて4人のまわりには沈黙が訪れる。
 沈黙が破られたのは、小春の頭の上に長く綺麗な指が置かれた瞬間だった。

「やから言うたやないか。こっちから攻めるんはルール違反やて。財前が動かな、なにも始まらんのや」
「白石先輩」
「なあ? 

 振り返り仰ぎ見る小春をよそに、ゆったりとした笑みを浮かべて白石が問いかける。
 頷くべきか尋ねなおすべきか、白石の真意は2年生のに読めるはずもない。ただ黙って見上げていると、財前と同じ左手で小さな紙切れを渡された。

「財前の行きたいところリスト。で、ここが今度の日曜の練習試合後に時間を使てもいいて言うたところ。無難やろ、映画なんて。なんでこういうところは消極的やねんて」
「……これ」
「悪いな、あいつお膳立てからはまだ卒業できへんらしいわ。もうしばらく付き合うたって」

 紙から視線を離し、ゆっくりと白石を見上げる。
 財前は無愛想ではない、と確信してよいという優しい先輩の笑みがそこにあった。



 本来であれば、このように誰かに手配をされた関係というのは奇妙なものなのかもしれない。
 しかし財前の場合、今の彼を包む環境がいかに温かいものかを指し示してくれる目安のひとつになっているようで、どうも拒絶することができない。むしろ一緒になって付き合ってしまう、そんな毎日に笑ってしまいそうになる。

「なんでそない簡単に先輩らの言うこと聞くんや」

 財前とふたりで出会うのに、夕暮れを伴うことが多くなっていた。
 待ち合わせ場所とされた地下鉄の駅前で、部活疲れと虚脱感とをない交ぜにした表情で財前が呟く。部下帰りだというのだから制服に違いないと思い込んでいた頭には、その私服は新鮮を通り越して衝撃に近かった。
 別段珍しい服ではない。一般的にこの年頃の男子が着やすい、と言えば大げさかもしれないが、細い身体を綺麗に見せるTシャツとデニム姿に、やはりこの人は自分を彩るものをすべて味方につけることができる人だと感心すらしてしまう。今日も5色のピアスは健在だ。

「白石先輩まで出てこられたら、断る方が難しいと思うわ」
「まで? までって、他に誰がおった」
「小春先輩、一氏先輩……ああ、あと遠山くん」
「なんで金太郎まで」
「食堂で『財前の彼女』て叫ばれたよ」
「……アホや、ほんまに」

 大げさだと気遣いたくなるほどに深く疲れた色のため息が零れる。夕陽に照らされた黒髪が揺れる様は綺麗だったのでそのままにしておいた。
 そんなの本心など、きっともう見抜くことができているのだろう。
 財前はしばらくの沈黙のあとようやく顔を上げ、いつもの眉の形でを見つめる。
 怒っているのではなく、気恥ずかしさを隠そうとしていること。それを見抜くことだって、にはできるようになっている。

「ありがとう、財前くん」
「なにが」
「デートしてくれて。すっごく嬉しい」

 そして惚れた者の弱みは時には強みであることを、財前に否定させるつもりはない。
 隠すことない本音を呟いて笑えば、一瞬で財前の顔が赤くなる。眉の角度が変わるのはもう分析すらできるようになっていたが、色が変わるようになってくれたのはここ最近のことだ。しかも赤らめるのはそう頻繁に起きることではない。
 アホや、とぶっきらぼうに呟いて日曜の人ごみの中に足を踏み込む。私服で見る後ろ姿はやはり大きくはない、大きくはないが学校よりも目を奪われてしまって仕方ないのは惚れた弱みだ。
 そしてそれを相手が知って、受け入れてしまえば、弱みは弱みでなくなってしまうのだ。

「……はよ」
「え?」
「ほら、はよ。映画始まるやろ」

 憮然とした表情や態度の中で差し出される左手を待っていた。そう言えば、きっと財前は怒るだろう。
 それでも手を繋いだ時にだけ与えられる彼の大切な左手や、温もりや、零される恥ずかしさを隠した表情。それらを独り占めでる瞬間の前では、貪欲にならざるをえない。
 手を繋ぎ、財前を見上げて笑う。眉はひそめられたままだったが、頬が赤く見えるのは夕陽や日焼けのせいではないと思った。

 その背後で視線が向けられていたことに気づけるほど、財前もも落ち着いているわけではなかった。

「……あの顔やで、あいつ。どうやねん」
「『可愛いやんか』と言うに言えず苦しんどる顔やったな、分かりやすい」

 アイス片手に白石はため息をつく。部活が終わった後さりげなく様子を探ってみたが、今日の財前は防御壁をこれでもかというほどに高く積み上げてしまっていて何も聞き出すことができなかった。しかし小春という最強の頭脳を味方につけている白石に負けの二文字がつきまとうはずもなく、渡された紙をもとに尾行することに苦労はなかった。
 ただ、心配でここまでついてきたはいいが、まさか予想どおりすぎるこの展開に今日も今日とて脱力する他はない。
 一歩前進したと思って次の道を示せばしかめ面をされる、それでも話を拒絶する素振りは見せないのでお膳立てをすればしたでまた次の課題を教えられる。

「世話のかかる天才や」

 今日は初夏という名に相応しく、この時間に食べるアイスが美味しい。雑踏の中にふたりの姿が消えたことを確認して、白石は踵を返す。その時呟いた言葉に、隣に並んでいた副部長の小石川は笑い声をあげた。

「そうさせとるんはお前や、お前。財前にかまいすぎっちゅう話やって、ケンヤが怒っとるやないか」
「謙也の相手は小春たちに任しといたらええ。俺は今こっちの方が気になる」
「愛情かけすぎや」

 非難めいた言葉だが棘はない。ともにアイスを食べる小石川の表情に怒りもない。むしろ小春たちと同じような、見守るような優しい瞳があるばかりだ。

「なんで男ふたりでアイスやねん。あいつはデートやのに。寂しい日曜やなあ」
「しかも制服姿で、か。よう似合てるで、白石」
「アホ、俺はこう見えてもてんねんで」
「はいはい」

 自分も同じ顔をしているのだろうか、とふと気になったが、小石川には問いかけずそのままふたりで岐路につく。
 今日のアイスは美味しかったから、明日これをおごってやろう。部長としての任務はコート外でも重要だ、それは2年連続で部長を務める自分が一番よく知っている。
 ただ、その相手として真っ先に浮かんでくるのが財前なことは、気づかないふりをした。



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09/05/06