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気になってしまったら終わりだという予感はあった。
知らない存在であるべきだったと思う。今のままであるべきだったと心から思う。そうすれば彼は単なる同じ小学校出身の、テニスの上手い、不器用と無愛想を同居させた付き合いにくい同級生のままで時間は過ぎていくことを許してくれたはずだ。自分の生活に、彼の存在は必要ではなかったはずだ。
必要でないままにしておくべきことに気づいたのは、しかし今日という日だった。
貸し出した本を受け取り、小さくうつむく。いてもたってもいられなくなったのはそれから数秒と待たない間のことで、は荷物をまとめて図書室から去る。
カウンターの前を離れる瞬間見上げた財前の瞳には、自分しか映っていなかった。
頬が火照っているのは、自分が今廊下を走っているせいにしてしまいたかった。
(あかんわ、卑怯や)
その言葉を使い始めた時から、もはや取り返しはつかなくなっていたのかもしれない。
頬杖をつきながら校舎の外を見つめるのはいつしか癖になっていた。図書室の開け放たれた窓の向こうに見えるテニスコートには、四天宝寺の萌黄色のユニフォームが映える。テニスの素人が遠巻きに見てもレギュラーと呼ばれる人たちがどれなのかは分かるほどであり、その中でも純粋な黒髪を陽光に輝かせるのは財前ひとりだけだった。
(愛想ないなんて嘘やん。めっちゃ気に入られとるやんか、先輩たちに。ほんまに愛想なかったら先輩たちがあんなかまうわけない)
図書室に来れば財前がいるかもしれない、という小さな予想があった。もともと調べものをしなければならないのだから図書室にくることになんら理由はいらない、それでも図書室へと向ける足を軽やかにさせるためには財前の名前が必要不可欠になってしまっていた。
そもそも、図書室で出会ったのはまだ一度きり。しかも彼がうたた寝をしてたい時だけだ。
それでも図書室には財前がいる、図書委員の仕事を絶対に休まない財前がいる、と身体が覚えてしまったのは、自分の感情ひとつのせいとしかいいようがなかった。
(私めっちゃ単純やん。絶対財前くんのことそんな知らへんのに、なんでこうなっとるんやろ。ほんまに好きなんかな、もうよう分からへん)
問いかけは誰にできるものでもない。もし親友たちに零してしまえば最後、財前のことを根掘り葉掘り聞かれて(自身もまだ詳しくないというのに)挙句には「見守る」という冠をかぶったお節介が飛び出すに決まっている。財前という存在が近頃浮き出してきている彼女たちの前では、絶対に漏らすわけにはいかない感情だった。
だからひとりで抱え込む。だからひとりで、図書室を訪れる。
彼を見てなにをするわけでも、なにができるわけでも、なにを起こすつもりでもなかった。
ただ視界に収められることしか考えていない安直な思考回路は、カウンターの中でうたた寝をする彼ではなくテニスコートに立つ彼の立場を忘れていた。
(……似合うなあ、ほんま。卑怯すぎるぐらい)
窓の傍に立ち、コートを見つめる。
黒髪が揺れるさまがあれほどまでに綺麗に見える、そんな男子を見たことがない。両耳のピアスがちかちかと陽光を反射して輝く様子が似合っていると、心から思える男子も見たことがない。普段は愛想がなくて言葉数が少なくとも、ぶっきらぼうで表情の変化に乏しくとも、声を聞いていたいと思える男子を見たことがない。
間近で会えなくとも、コートに立つ姿を見られただけで胸を満たす男子を見たことがない。
重症だ、と思う。自分で泥沼にはまっていっているとも分かっている。
それでも視界に彼が映る。体育の時間、姿を探してしまう目が合ってしまう。
それだけで身体のどこかが幸せを感じ、満たされるのであれば、それはもうそのようにしておくべきなのかもしれない。財前がテニスコートから消えた瞬間諦めと覚悟の混じったため息をひとつだけ零し、今日はもう帰ろうとカウンターへと向かった、その時だった。
「あ、すんません。貸し出しですか」
ドアが開き、声が飛ぶ。慌てて振り返れば、そこにはテニス部のユニフォームを着た財前の姿があった。
一瞬目を丸くし、息を飲む。間近で見ることのなかった半袖のユニフォーム姿は彼の体躯が小学校の時よりも随分と大きくなったことを教えてくれている。すらりと伸びた手足は細くともしっかりしており、わずかに日焼けした肌の色とユニフォームの明るい萌黄色との違いが眩しい。
恋しいと思う感情は卑怯だ。優しくない。直視できる状況に、その直視という行動を取らせてくれない。
「あ、は、はい」
「ほな、ちょっと待ってください」
慌てた返事に、財前は訝る様子もなくカウンターの中に入って貸し出しカードを取り出す。
古きよきを謳うことが好きな四天宝寺中は、不思議なところで昔ながらを残す。貸出機などすぐに購入してもよさそうなものを、いまだ生徒会も図書委員も、現場にいる利用者たる生徒も口に出さない。人の手で片付くものに関してはそのままでいいという風習が存在し、面倒なものを嫌う財前ですらひとつの仕事として当然のように振舞う。
その風習のおかげで、今、目の前に財前がいる。
「……あれ、あんた」
そのおかげで、今、自分たちの会話が続いている。
貸し出しカードに名前を書こうとした手が止まる。2年6組というクラス表記を見つめる財前の視線が痛い。だが財前の瞳は、まるで新しいものを発見したかのような色でを見つめた。
「あんたやろ、やっぱり。この前窓しめたの」
「……え?」
「書き置きしてったやろ。誰かと思っとったんや」
あの日、閉められた窓から流れ込む夕方前の心地よい風がふわりと髪を揺らす。
「助かったわ、最初驚いたんやけどな。でも風邪はひかんかったで」
小さく笑う、そんな笑い方を今まで見たことがない。
そんな新しい部分を見せ付けられて、おとなしく記憶の片隅にしまっておけるほどおくてな人間であれば、きっと図書室に足を向けることなどなかった。
「またお前か」
名前と顔を覚えられるほど通いつめた図書室で、それでも財前の反応は随分と冷ややかなものだった。
だがあくまで表面上はの話であり、それが愛想のなさに繋がっているだけだということに気づいてしまえば言葉の意味も変わってくる。そもそも以前は名前すら覚えてもらっていなかった、自分とて相手のことを知らなかった。随分と進歩したものではないか、と言い聞かせるだけで十分だ。
「財前くん、なんでこんなに委員会の仕事多いん? なんかいっつも受付しとるイメージ」
「今日はたまたま。4時まで頼まれただけ」
「部活はええの?」
「委員会の時間ぐらい自分で取り戻すようにしとる」
いつかのようにうたた寝をすることはなかったが、決して真面目に業務に取り組んでいるとは言いがたい。カウンターの中であくびをかみ殺しながら時間が過ぎているのを待っていることもざらにある。
それでも、絶対にこの席から離れることはない。言葉と行動が一致していないように見えるが、だがそれは表面でしか彼を見ていないからだ。財前の言葉は実は、なにひとつ図書委員の仕事を嫌がってはいない。
やがて本来の担当の生徒が訪れ、財前と入れ替わる。調べものをしていた手を止めて顔を上げれば、テニスバッグを持った財前もちょうどこちらに視線を向けた。
「今から練習なん?」
「うん」
「財前くん、テニスやっとる時ほんま格好ええよな。みんな言うとる」
「なんやそれ」
周囲の代弁というよりは自分の本音を隠した言葉だったが、財前はただ笑うだけだった。
気温に負けて肘までまくった白のカッターシャツが日焼けした肌に映える。髪にしろピアスにしろ、制服にしろユニフォームにしろ、この人は他の色と自分の両方を綺麗に見せる方法を絶対に知っている。そうでなければここまで目を奪われない。
視線に気づいたのか、鞄を肩にかけた財前がこちらを見つめる。
「俺で格好ええなんて言葉使たら、先輩らはなんて言えばええねん。あの人ら、俺よりもっと異常やで」
「異常って」
「ほんまそうやもん。俺、普通でありたいわ」
コートを見つめる視線によどみはない。揺れもない、ためらいもない。ただただ真っ直ぐに見つめ、そして気づくか気づかないかの程度で小さく笑う。
「テニスでは負けたないけどな」
頬杖の姿勢を崩し、声をあげてしまいそうだった。
は息を飲み、その横顔を見つめる。自信の塊なのではない。卑下の視線なのではない。言葉遣いは悪く、愛想もなく言葉じりだけをとらえればまるで可愛げのない2年生だが、その笑い方に皮肉の意味はまるでない。
「……財前くん、ほんまテニス部好きなんやね」
なぜ彼が私立に行かず地元の公立に進学したのか、その理由が見つかった気がした。
「なんで?」
「笑てるし。楽しいんやろなってすぐ分かる。やなかったら絶対そんな顔できへんって」
思わず頬を綻ばせる、そんなことをさせる力を財前で初めて体験する。
返されるものは少ないと、そんなことは分かっている。もともと財前自体反応が大きくもないし、そもそも自分の気持ちは伝わっていない。そんな中で自分が期待する反応など返されるはずもない。それでも、そうだとしても見返りという言葉などまるではじめからこの世に存在していないような感覚で頬が緩み、火照る。
(私、よっぽど好きなんやな)
自覚の言葉はまだ財前には聞かせていない。
だが表情になにかが出ているのか、財前の言葉数は日に日に増えていく。
「一小のやつにそないなこと言われたん、初めてや」
「……そうなん?」
「俺、一小の頃あんまみんなと遊んどらんしな。お前ともしゃべったことなかったし」
「うん、そうやね」
カウンターから出て、部活に出る準備を済ませる。それでも腰かけたままのをそのままおいていくのではなく、机にもたれて会話の続きを与えてくれる。小学生時代、周囲との関係が疎遠だった事実を認める言葉を発しても、気分を害することなく逆に改めて納得した素振りを見せる。
瞬間だけを捉えてはいけないのだと、ようやく気がつく。
瞬間ではなく会話の流れを繋げて、そしてようやく財前の性格の一端が分かるようになっている。愛想がないなどという表現が、いかに彼の瞬間と表面しか見ていない言葉であるかということに気づいてしまうと、もはや視線を逸らすことすら惜しくなる。
「でも、私、第一小やったから今財前くんがどれだけすごかったかって分かるようになったと思っとるよ」
「……なんで?」
「そうやなかったら、多分今頃……ただのテニス部の人としか見てへんと思う。財前くんは、時間をかけてかけて、ようやく教えてもらえる人やね」
綺麗な横顔に向かい、そっと呟く。
一瞬大きくなった瞳は、やがて丸みを帯び、それが笑っていることに気づいた時には返す言葉も奪われた。
「そんなもんか」
少しだけ、ほんの少しだけ。目じりを下げて笑い、財前はもたれていた机から離れる。
「確かに、俺とこうやって話す一小の女子はお前だけやな」
ほな、と手を振り図書室をあとにする。テニス部の中にいると目立たない身長も、からすれば十分高い。図書室からその姿が消えてしまうと、途端部屋の中が味気のない古びた教室に変わってしまった気分になる。
そして教室の中から見つめるテニスコートの彼は、随分と大きな存在に見えてしまう。
自分も部活に行かなくてはいけなかった。だからあと1分、と時間を決めて見つめる。見つめても、あのユニフォーム姿の彼からはまるで視線をはずしてはいけないという魔法でもかけられているような感覚になる。足は、絶対に言うことをきいてくれない。本心を見透かしているかのように動かず、ただコートの上でラケットを持つ、時折3年生にからかわれる彼の姿をますます見せつけようとする。
(……あかんわ、財前くん)
開け放たれていた窓を、あの時と同じように閉める。今日うたた寝をしている人はいない。
それでも窓を閉めたのは、そうしなければ自分がその場所を離れることができないと思ったからだ。はそっと目を閉じる。
(格好よすぎるなんて言うたら、怒られるかな)
図書室をあとにし、部活に向かった。部活の都合で図書室を利用していたのだから遅れることに悪気はない。しかし部長に申し訳なさそうに謝られると、罪悪感が小さく心を打つ。
図書室に行く役割を受けたのは、財前がいるからに他ならない。
(もう、ダメかもしれん。全部財前くん中心やん)
気づいてしまえば、というよりはその現実に向き合う覚悟ができてしまえば、実は話は簡単になっていた。
平常を装う心で精一杯の部活をこなし、終了を告げられると同時に制服に着替えてテニスコートに向かう。息を切らしてたどり着けば、夕方の空の下にテニスコートに立つ財前と部長の白石の姿があった。
「財前、お客さんやで」
他の部員の姿はない。これが委員会の時間を取り戻すという言葉の意味か、と思ったその時に白石があっさりと自分の存在の意味を財前に伝える。こちらに背中を向けていた財前が振り返り、を見て一瞬目を丸くした。
「どないしたん、図書室に忘れもんでもしたんか」
「え、あ……ううん、そうやなくて」
なにを言いにきたのかは決めていても、言葉までは決めていない。そして白石がいるなどというイレギュラーは勝手ながら予定もしていなかった。
そんなと、まるで状況が理解できていない財前の間に妙な沈黙が流れる。それを理解しているのは第三者の白石という、不思議な空間に彼の笑い声が漏れた。
「もう少しぐらい、人の気持ちが分かるようになれるとええんやけどな。それぐらいは我がまま言うてもいいか、俺」
「……なんのことっすか?」
「天才でええんやけどな、お前は。でももったいないで、それを理解してくれる人を自分で減らしてまうのは」
白の包帯が巻かれた左手が、財前の頭を撫でる。まるで金太郎にしているかのような優しい手つきで撫でると、白石はに視線を向けて財前の背中を押す。
白石に促されるままコート外に出てきた財前の瞳に浮かぶのは、疑問の色ばかり。突然現れたを訝ることよりも、白石に言われた言葉の意味を理解しがたいと素直に疑問符を並べている。
「……なに笑てんねん」
そこで自分の存在には疑問をぶつけないのかと、問いかけるよりも早く笑いが零れる。拗ねた口調で財前が眉間に皺を寄せれば、あれほど格好いいとばかり思っていた彼が随分と可愛げのある人に見えて、もう限界に近いことを改めて知る。
会話の聞こえないところに足を向けてくれた白石に感謝をしながら、話を聞いてくれる財前に感謝しながら。は涙目になりそうになるのを必死で堪えて、夕陽にあてられる5色のピアスを真正面に迎える。
仰ぎ見る財前の顔に、自分は逆らう術などなにもなかった。
「財前くん」
「なに?」
「私、財前くんのことがほんま好きなんやけど、どうすればええかな」
笑いながらの告白なんてまるで情緒がない。
涙まで誘う笑いの中の言葉なんて、軽いとしか思えない。
それでも財前は、そんな一瞬だけを捉えたりはしない。会話の流れの中でただ目を丸くし、唖然として返す言葉を探そうとする。
ユニフォーム姿の彼がこんなにも幼く見えるのは、これが最初で最後かもしれないと思えば、言葉はもう隠す必要がなかった。
「付き合ってほしいなんて言うたら、怒られるかな」
初夏を迎え、夕方を迎える時間が遅くなったテニスコート。
テニス部員だから、白石が認めてくれているから。図書委員だから、そして財前が第一小出身だったから。様々な理由が重なって今という瞬間がある。
その瞬間に振り絞った自分の言葉を財前が受け入れてくれたから、その次の日がある。
始まりのあの日、夕焼けの中で見つめた財前の顔は、小学校の時に見ていた顔とも廊下で見つけた顔ともまるで変わらなかった。
けれど真正面から見つめてくれる力に自分が負けたと呟いた、ある日。財前は珍しく大きな声を出して笑ったのだった。
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