空中天秤05


 彼女ができた、とは最初誰にも伝えなかった。
 白石にだけは伝えてもいいような気もしたが、テニス部という集団である以上「ひとり」が「ひとり」の意味でなくなることは目に見えている。白石を信頼していないわけではなかったが、同様に忍足や小春たちを信頼していないわけでもなかったので(純粋な意味では信頼という言葉とは少し違うような気もしたが)、あえて誰にも言わないことにした。言いふらすものでもないと思った。あの日現場にいた白石が追及の姿勢をなにひとつ見せなかったのも、黙っておくいい判断材料だった。
 白石に彼女がいるという話は周知の事実となってはいたが、本人が自分からその話をしない以上聞き出すこともないのと同じだ。自分が言わなければ、誰も聞きはしない。そちらのほうがずっといい。

「光くんにもそろそろ春が訪れるとええんやけどね」

 時折部室で小春だけがそのような言葉を発することがあったが、誰も気には留めなかった。白石は笑って過ごし、忍足は無理だと首を横に振るそのような話の時には決まって金太郎はその場にいなかったし(小春自身もその瞬間を狙っていたように思う)、石田や一氏はさしたる興味を示すこともなかった。
 ただ転校生の千歳だけが、なにかすべてを見透かしたかのような瞳で笑うことがあった。

「早いような遅いような、難しいところばい」

 あの長身で悠然と笑みを向けられると、白石とは違った迫力がある。まだお世辞にも身長が伸びたとは言い切れない財前からすれば、ただでさえ中学生離れした身体の人間がさらに理解しがたい言葉を向けるのは卑怯だと思えた。 
 そんな、いつもと変わらない毎日。そこにただ、という人間が加わっただけだ。
 隣の教室である以上、その姿を見かけることは珍しくはない。瀬木という親友が6組にいることもあって、財前自身がのクラスに赴くことも間々だ。

「瀬木、悪い。数学のノート貸して」
「またかい。財前、お前何万回忘れたら気が済むんや。ちゅうかノートて! お前どんだけ数学忘れたら満足するんや!」
「満足するせんとちゃうなあ。もうしんどいねん」
「アホか」

 その時、がさりげなくこちらを見ていることは知っていた。昔こそ気づいていなかったが、の存在が自分の日常に組み込まれてからはその視線の意味も理解することができる。ふと顔を向けて目を合わせれば恥ずかしいような嬉しいような、そんな表情で笑ってくれるが、関係を誰にも伝えていない以上財前も軽くうなずく程度の反応しか返さない。

、片桐先生が呼んどるでー。なんや委員会のことやって」
「あ、行く行く、待って」

 気づけば、自分はのことについて知らないことが多々あった。
 人から呼ばれて「」という名前をどのように発音すべきかを知る。まだ下の名前で呼んだことがなかったな、と思って初めて名字ですらあまり呼んだことがないことに気づく。付き合うとはこういうことか、と首を傾げたくなることもあったが、誰かに問いかけることはできなかった。

「なんや財前、最近えらい悩み顔しとるな。しかもテニスのこと以外やろ、絶対」

 白石はあっさりと看破して笑い飛ばしながら問いかけてくれたが、自分の中でも整理がついていない事実を一体どのようにしたら他人に伝えられるのかが分からず、ただ財前は首をひねるばかり。
 テニスをしている時はなにも変わらないので他の誰にも気づかれることはなかったが、ユニフォームを脱いで制服に着替えた瞬間、白石の目は絶対に間違ったものを見てはくれなかった。

「まあ、悩んどるってわけではないんで。多分。きっと。恐らく」
「なんやそれ、歯切れ悪いなあ。せやけどこの年で悩み事がないほうがおかしいで、昨日なんて銀が食堂でなにを頼むか悩んで券売機の前で渋滞起こしとったしな」
「や、多分そういう悩みとは一切無縁なんで」
「……銀泣いとるやないか、財前……」

 白石の尊敬すべき点は、このようなところかもしれなかった。間違ったものを見ることはない、そして判断も間違えない。こちらがまだ明かすつもりはないという表現をすれば会話をあっさりと方向転換させてしまう。他の誰が聞いても、これが財前の彼女に関わる話から始まっているとは想像もできない。あの勘のよい小春ですらまだ気づいていないところを見ると、本当に白石はあのテニスコートでの出来事を誰にも伝えていないようだった。
 そんな白石だから、できるのかもしれないと思うことがある。

「蔵リン、彼女が呼んでるわよ」
「……ああ、もう時間か」
「熱いわねえ、おデート? おデート? ええわあ、羨ましいわあ。ねえユウくん!」
「よっしゃ、デート連れてったろ! どこがええねん小春!」
「みんなの前では言われへんわあ!」

 部室でいつもの会話が始まった時、財前は決まって視線を違うところに向けていた。他ごとをしていることもあったし、そのままひとりで帰路につくこともある。
 だがその日は、白石から目が離せなかった。淡々と仕事を終えて制服に着替え、そして部室をあとにする。偶然にも出る瞬間が重なり、ペットボトルに口をつけたままという後輩らしからぬ態度で扉を開けて見送ろうとすれば、白石が笑ってまた頭を撫でてきた。

「財前、彼女ができたんやったらちゃんとせなあかんで」

 誰にも聞こえない小さな声で、財前にだけは聞き届けられるように呟く。その顔には優しい笑みがあった。

「……なにがっすか?」
「ああ、なんや新しいこととか慣れへんことをせえって意味やないで。彼女にはしてやらんとあかんことがどうしても出てくるもんや。そればっかりはお前が努力せな、他の誰かがやってくれるもんやない。……お前の彼女なんやろ? お前がしっかりせえへんとな」

 ペットボトルから口を離し、白石を見上げる。金ちゃんと一緒の目で見んな、と笑って再び頭を撫でられた。
 黒髪が乱れ、財前は右手で直しながら不可解極まりない表情で白石を見送る。
 部室近くにいた3年生の女子が、白石を見つけて駆け寄ってくる。白石は隠す様子もなく財前を振り返って手を振ったあと、近すぎず遠すぎずの距離でそのまま正門へと向かっていった。

(一緒に帰れっちゅうことか? 部活の時間違うし、難しいやろそれは)

 とてそれを望んでいる様子はない。そもそも付き合っていると言ってもデートのひとつもしたことがなく、学校にいても会話をしないことの方が多い。それならばどうして付き合っているのかと思わないこともないが、誰にも告げていない事実である以上責められる機会もなく、また自身もなにも言わないので改める機会も内容も分からない。
 髪を直し、携帯電話を取り出す。
 思えば着信画面にもその名前はなく、メール受信画面にようやく見つけたその名前は名字でしか登録していなかった。



 白石の言葉の意味はいつも難しい。それを思い出すと眉間に皺が寄ってしまい、そうすると違う虫が寄ってくる。

「光くんがお悩みよー! あかんで、色男が台無しやないの!」
「うっさいっす、もうほんま」

 ことあるごとに構おうとする小春を振り払い、それでも抱きついてこようとするので一氏の見ている前でテニスボールを投げつける。これで大丈夫だとコートに腰を下ろしたまま天を仰げば、今度は小春を傷つけたという理由で一氏に怒られた。

「理不尽や」
「お互い様やろ、多分。小春が分からんはずがない」

 投げつけられた黄色いボールを集めて呟けば、一部始終を見ていた白石に笑いながらたしなめられる。再び眉間に皺を寄せて顔を上げると、白石がまるで駄々をこねる子どもを見つめるかのようにため息をひとつついたあと、しゃがんで財前の髪の毛をかき乱した。

「うわっ、なにするんすか!」
「取り返しつかんくなる前に、やれることはやっとけ。あとで助けたくてもできんようにされたらこっちが困る」
「……は?」
「千歳の言うとった言葉の意味が、俺もようやく分かったわ」

 再びため息をひとつ零し、白石は校舎に戻れという命令を下した。

「忘れ物しとったで、お前。はよとってこい」

 意味が分からず呆然と見上げていると、今度は石田に無理やり立ち上がらされる。しかも黄色いボールを持ったままコートから追い出され、ご丁寧に内側から鍵までかけられた。
 振り返ってもその先には、ため息をつく白石と笑顔で手を振る小春。誰にも財前をコート内に呼ぼうという姿勢がない。
 なんやねん、と一度悪態をついてから諦めて教室へと戻る。7組の机の上には確かに自分の名前が書き込まれた数学のノートがあり、どうしてこれだけが机の上に出ているのか分からないまま手に持ってコートへと戻ろうとする。
 黄色いボールが跳ねる。幾度か床に落としてともに歩いた後、利き手で受け取って廊下を曲がろうとした、その時だった。

「俺、お前に話したいことがあんねん」

 突然の声に足を止める。そっと顔を上げれば、そこには見慣れた後ろ姿。つい数週間前までは視界に収まったとしても気づくこともなかった姿だが、今となっては事情が違う。
 財前はテニスボールを握り締め、静かにその様子を見つめる。
 生徒たちが部活動に精を出しているこの時間、渡り廊下を悠然と歩く人間など普通はいない。いたとすればそれは、自分のように忘れ物という重みのない理由で行動している人間だけだ。
 だが、と小さく首を傾ぐ。さらりと黒の前髪が額を撫でる。
 だが、そんな理由で校舎を訪れた人間を前に、このような光景など用意してくれなくともよいのではないだろうか。

(できすぎやろ、これ)

 渡り廊下の物陰に佇むふたりの人間。ひとりは自分がよく知っているだ。後ろ姿を見ればすぐに分かる、自分よりも小柄で他の女子ほど崩していない制服の着こなし方。堅苦しくもなく、情けなくもない絶妙のラインでの着方がよく似合う女子を、財前は自分の身近ではひとりしか知らない。
 そのが、珍しく自分を見ていない。気づけば自分を見てくれていることがほとんどだった彼女が、自分に気づくこともなく目の前に立つ人間にだけ視線を向けている。
 誰だ、と視線を向けるまでもなかった。

「な、ええやんか。俺ら去年めっちゃ仲よかったし」

 一瞬で眉間に皺が寄る。その声が馴れ馴れしいからか、それとも自分と同じ男の声だからか。他に物音のしないこの静かな空気では、どちらとも判断できない。
 ただ自分の機嫌が悪くなることだけは、沈黙の中だからこそ十分に理解できる。

「お前、最近可愛くなったって他のやつらとも言うとったんやわ。去年俺らむっちゃ話しとったし、お前も俺のこと知っとるやろ? 案外いけるんちゃうかって」
「あー……」

 雰囲気をつくることが下手な言葉だからだ、と冷めた視線で見つめる。が曖昧な相槌しか打てず、言葉で返答ができないのは明らかに相手の情緒の欠片もない言葉のせいだ。の煮え切らない態度にしびれを切らしているのはよく分かったが、しかしその原因はお前だろうと静かにボールを握り締めながら思う。
 その手に妙に力がこもっていることに、ボールがあって初めて気づくことができた。

(さっさと断ればええやんか。なに黙って話聞いとんねん)

 に見つからないように壁にもたれる。視界には階段しか映らなくなる、曖昧な言葉しか返せないが視界からはずれる。
 だが視線が動いてしまえば、自分の手の届くところにが映る。
 ボールを一度、軽く放り投げる。扱いなれたものである、それはかすかな音を立ててすぐに手のひらに戻ってくるが、そんな音にもは気づかない。あれほど毎日自分の目の届くところにいて、自分ばかりを見ていたがまるでこちらに気づこうともしない。
 それが屈辱であると思ったのは最初のうちだった。

「ええやんか、お前どうせ今付き合っとるやつおらんのやろ? 俺結構お前と気が合うと思うで」
「えーっと……それは」
「は? もしかして彼氏おんの?」
「え、いや!」
「ならええやんか」

 ありえへん、と呟くには絶好のタイミングだった。
 真っ先に拒絶の言葉を口にしたを見つめる。なに嘘ついとんのや、と呟きはしかし言葉に出せない。
 言葉に出せなくさせたのは、自分だった。
 屈辱が後悔にすり替わる、絶好のタイミングだった。
 しまった、とボールを握り締める。周りに伝えるつもりがなかった関係に、は気づいていた。だから誰からも聞かれたこともなかったし、と一緒に登校することも下校することもしなかった。ただ日常の中にの存在がひとつ増えた、それだけの感覚だった。
 だが、それが間違いであったことにようやく気がつく。

「な、付き合おって。お前も俺のこと嫌いやないやろ?」
「嫌いやないけど、でも」
「なに?」

 抗う理由は持っていても、それはまだ事実としてはいけないことになってしまっている。は口ごもり、苛立ちすら見える表情で視線を落とす。
 やがて落とされた視界の中で、ひとつの影を見つけた力は褒めてやるべきだった。
 ゆっくりと顔が上がり、財前を見つめて顔面を蒼白にさせる。慌てて口に手をやり、繋ぐ予定だったのだろう言葉を飲み込んだ。
 のそんな様子を静かに見つめ、視線をずらす。相手の男子はの反応の意味を知ろうともしていない。急かす言葉と、手が伸びる。
 限界だった。
 よどんだ空気を切り裂くように鮮やかな黄色のボールが男子の足元に飛ぶ。絶妙の感覚で投げ捨てたそれは上履きの真横で嬉しそうに跳ねた。

!」

 静かな廊下に響き渡る声の大きさに、自分の方が驚く。しかし驚きに負けて沈黙を作ることはできなかった。
 唖然としてこちらを見つめるに近づき、身体を渡り廊下の日差しの中にさらす。自分よりも高い身長を持つ相手が心から癪だと感じたが、転がっていたボールをに渡す代わりにその手を握り締めてしまえば、身長差など気にするよりも早くの温もりが熱になって身体中に伝わる。

「……財前? は、何で?」
「何でもなにも。人の彼女になに手出しとんねん、アホか」
「……は?!」

 第二小か第三小、少なくとも自分たちと同じ第一小の人間ではない。顔だけ見覚えはあるが名前はまるで出てこないので、自分の生活にはまったく無関係の人間である。
 しかしそこまで分かれば十分だった。財前はの手をひき、相手に何のためらいもなしに渡り廊下を去る。小柄なが小走りで引っ張られていることに気づくには、渡り廊下から校舎を抜けて、人影のまったくない教室の前にまで来なければならなかった。

「……財前くん、あの」
「断れよ、ああいうのは。なんでわざわざご丁寧に話聞かなあかんのや」
「それは」
「断らへんかったらしつこく出るに決まっとるやないか、向こうかてそれなりの気持ちで来とるんやで。なんで……なんで、」

 自分でもひどく冷たい言葉だと思った。一瞬でが黙り、うつむく。いつも自分を視界に映して嬉しそうにしているあの瞳が、自分を目の前にしても顔を上げる様子がまるでない。
 繋いだ手だけが、ただ熱い。
 突きつけられた現実に言葉をなくすのは、沈黙に返す言葉を持たないのは財前の方だった。

(こんな予定、あらへん。なに言うとんのや、俺)

 夏の風が髪を揺らす。沈黙を生めるにはそれで十分だ。自分の気持ちは、言葉は、風ひとつにも敵わない。
 それなのに手を離そうとしない自分の横暴さに、呆れてため息しか出てこない。

「財前くん、ごめん。断るつもりやってんけど……」
「それぐらい分かっとる」

 が驚きと不安が入り混じった表情でこちらを見つめる。ちらりと視線を向けたあと、財前は小さく首を横に振った。

『忘れ物しとったで、お前。はよとってこい』

 白石の言葉がよみがえる。なにをして忘れ物と言ったのか、今であれば理解できる。やはりあの人には敵わない、と思うにも十分な一言だった。
 手のひらに伝わる熱は、下がる気配を見せない。
 夏の風が心地よい。日陰の温もりが心地よい。見上げる空は、青い。気分をよくするものはこんなにも揃っているのに、今の自分の感覚は手のひらひとつに集中してしまっている。
 それが指し示す事実を前に、もう逃げる気は起きなかった。


「……え?」
「……って、初めて呼んだわ、俺。アホは俺か」

 始まりの図書室を覚えている。告白をしてくれたテニスコートも覚えている。との繋がりがどこから始まって、それが今どれほど心地よいものなのかを無視することはできない。
 財前は一度視線を地面に落とし、ゆっくりと目を閉じる。どれほどの時間を費やしたかは分からないが、再び顔を上げた時にの瞳はきちんとこちらを見つめてくれていた。
 それが心地よいのであれば、手離すことはできない。
 財前は自嘲ぎみに笑い、もう一度強く手を握り締める。

「付き合うって意味、もっとちゃんと考えるわ。きちんとする。に投げっぱなしなんは、もうやめる」
「……それは、財前くんには」
「無理とか言うな、お前が。……お前が言うたら誰も見てくれへんやないか」

 はなにも言わなかった。ただ静かに、財前に握り締められた手をそのままにする。
 ただ手を繋いだまま、しばらくの沈黙の中を過ごす。どちらかが笑って、相手も笑って、そしてようやく時が流れる。
 自分が次になにをすべきか、しっかりと考えよう。白石に聞こう。今の関係を作ってくれたを手離したくないと思っている自分がいるのであれば、次は自分が動く番だ。
 それでいいかと、言葉に出さずに視線だけを向ける。
 はいつものように、瞬間だけを見るのではなく沈黙の流れの中で笑ってくれた。



09/05/06