空中天秤03


 この時期の夕方の風は、コートの上で受けない限り肌寒いとしか思えない。
 だから図書委員の当番の日で、不本意ながらも練習の疲労に負けてしまった日は決まって肌寒さで目が覚める。都合よいタイミングで風が吹いてくれるおかげで、寒さにあてられて若干不機嫌にはなるもののそれでも帰るタイミングを見逃さずに済むのは有難かった。
 その日、目覚めた視界の中に映る時計を見るまでは、そう信じて疑わなかった。

「……嘘やろ」

 寝ぼけ眼を一度強くこする。しかしどう見ても短針は垂直に地面に向けられている。長針がまだ山の頂を下り始めたあたりであったことは唯一の救いだった。

「なんで6時過ぎとんねん、ありえへん……」

 一度頭をかいてから、財前は眉間に皺を寄せたまま窓の向こうを見つめる。夕陽の落ちた西の空は赤みを失いかけており、よくよく目を凝らせば窓は既に閉められていた。
 誰が閉めた、と正しき善意に勝手に怒りを抱きながら立ち上がる。昨年に引き続き任命されてしまった図書委員の仕事は、もはや考えずとも身体が勝手に記憶をたどるようにできている。乱雑ながらも片付けをし、さきほどまで身体を預けていたカウンターの机の上をまとめようとした。

「……なんや、これ」

 ひらりと1枚の紙切れが舞う。気づかなければそのまま埋もれていただろう小さな紙に手を伸ばし、夕暮れの終わりを告げる部屋の中で文字を見つめる。

『窓、しめました。カゼひくかなと思って。勝手にごめんさい。』

 財前は一度読んだ後、確かに閉められた窓を見つめてからもう一度読み直す。確かにそこに書いてある言葉どおりの現実があり、再度窓を見つめても確かに嘘でないことは分かる。
 だが、この字の持ち主がまるで見当がつかない。
 誰や、と小さく呟く。しかし呟きは沈黙に消え、白い紙はやがて財前の指にたたまれて制服のポケットの中に消えた。



「あらやだ光くん、ええところにおったわ!」

 嬉々としたその声は、学校内であればもうどこで聞いても不思議に思わなくなっていた。
 体育館へと向かう渡り廊下で振り返る。ラフなジャージ姿は歩く姿勢も適度に崩したものにさせる。だらりと力の入っていない姿勢で歩いていたら、さらに脱力感を煽る声が飛んできた。

「……なんでうちの先輩らは、こう見張っとるんが好きなんすか」
「なに言うてんの、たまたまやで。た、ま、た、ま」
「うわ、もう無理や。近寄らんといてください」
「もてるなあ、財前! さすがテニス部や!」

 ともに歩いていたクラスメイトは笑い飛ばすばかり。財前がいくら冷めた視線で見つめ返そうと、まるでこれが当たり前だとでも言わんばかりにさらに笑い声をあげるだけだった。
 小春は満面の笑みを浮かべて近寄り、1枚の紙を差し出す。訝しげな表情のままそれを受け取れば、見慣れた白石の文字が並ぶ。

「……ちょ、待ってください。まさか」
「その、まさか。今日3年は進路集会やねん。うちらが来るまでみんなに指示出しといてほしいんやって。蔵リンからの直々のお願い」
「直々やないし、しかももうむっちゃ遊んどるしこの字! こっちの字先輩やろ!」
「なに言うてんの、これこそ愛情の証やないの。愛されてるわよ、光くん」

 優しく肩を叩くと、小春は指先だけを揺らして手を振って去っていく。
 財前の返事など必要ないと、白石の文字も語っている。淡々と書かれた白石のメニュー表のそれぞれに書き加えられた小春の可愛らしい女子のような文字。これが本来の小春の文字でないことは知っている、本当であれば達筆という言葉が似合う整った字を書く人だ。だからこそ残された自分はやはりふたりのいいようにされていることばかり目がいってしまう。
 財前はため息をひとつつき、ジャージのポケットにしまいこむ。
 なぜ自分が他人を先導するような立場に追いやられるのか、よく分からない。しかし紙は自分の存在をそのように見ていると宣言されたも同じで、自分の知らないところで誰かが自分のことをこのように思っているというまぎれもない証拠だ。

(俺はなんもしてへんのに、勝手に話が進む)

 バレーボールを抱いたまま、体育館の壁にもたれてぼんやりと考える。
 試合形式の授業の日は頭の中を自由にすることができる時間が増えてありがたい。クラスメイトたちが隣の6組の男子たちと騒動寸前の怒声や歓声をあげながら試合をするさまを横目に、もう一度小春から渡された紙を見つめる。
 メニュー内容のみを記した文字は、詳細に関してはまったく触れていない。こちらの自由にしろとも、言わずとも理解しているとも、とにかく白石からの信頼がそこににじみ出ている。彼が自分を試そうとするとは思えなかった。

「俺を贔屓目で見すぎやろ、これ」

 思わず呟く。ひらひらと揺らしてみても紙が返事をすることはない。文字とは厄介だ、と改めて思えば自然とため息が零れるようになっていた。
 考え続けるのも面倒になってきた時、隣のコートで歓声があがる。それが女子のものだと気づいて財前はふと視線をそちらに向けた。
 自分のクラスの女子は他のクラスに比べて気の強い人間が多く、コート上で目立つのも見知った顔ばかりだ。相手コートは隣の6組なのだろう、知らない顔ばかりがあってその印象が余計に静かな雰囲気を作り出しているように見える。
 
(あいつは去年同じクラスだったよな……ああ、あれは小学校が一緒やった気がする)

 ぼんやりと見つめていると、何人かと目が合ってしまう。見知った顔はあるが名前がすぐに出てこない、本当に自分は自分に関係する人間しか覚えようとしていないと改めて悟り、ボールを転がして立ち上がる。
 自分の存在をいつも見落とそうとしない白石たちはもしかしたらすごいことをしているのかもしれない、と首を傾げながら考えれば、クラスメイトたちがコートに来るように自分の名前を呼んだ。



「あり。財前が部長なん? なんでやねん! 似合わへんわー!」

 金太郎が腹を抱えて笑う。お前の格好の方がおかしい、とつっこみそうになる言葉をぐっと堪えて白石のメモどおりに指示を出す。事細かく振り分けるというよりは、白石たちが戻ってくる時間まで無駄なく個々の練習を進められるような内容になっており、よくもここまで部員たちのことを知っているものだと感心した。

「そら白石やし。あいつ、なんでも知ってんでえ。ワイのことどんだけ調べとんねん! ってぐらいな」
「お前は調べんでも分かるようになっとる」
「は? なんで? ワイなんかしたか?」
「常に」

 隣から離れようとしない金太郎を淡々と振り切り、財前は自分のコートへと向かう。3年生がいない分コート内は静かだ、ストレッチをしながら顔を上げれば青空がいつもより広く見えてしまう。しかしそれが心地よい。3年生を疎ましく思っているわけではなく、コートから見上げる青空はやはり格別だとの思いばかりが強くなる。

(今日は考えすぎたわ)

 ゆっくりと流れ去る白い雲を見つめながら、軽く息をつく。呼吸ひとつで身体の中のよどんだものがすべて洗い流されていくこの感覚が好きで仕方ない。
 気づけば、今日は随分と人のことを考えて過ごした1日だったように思う。白石のことを考え、小春のことを考え、他のクラスの女子を考え、考える必要もないすべて見透かすことのできる金太郎にすら注意を奪われる。慣れないことをした、と身体がため息を欲しがっているようだった。

「お疲れ様、光くん」
「うわっ!」

 ゆっくりと上体を曲げて、そのまま瞳を閉じそうになったその時、背中に突然の重みがのしかかる。振り返ろうにも圧力がかかって身体が動かない、しかしその声の持ち主が誰であるかを間違えるはずもない。

「なんでですか、もっと集会やっとったらええやないですか……!」
「それがね、アタシら真面目な学年やから早く終わってしもて。やからこうして光くんに乗っかっていられるんやけどね」
「小春、なにしとんねん! 財前かまいすぎやろ!」
「俺はかまわれたないですってば……!」

 細く見えても男、しかもひとつの行動に対してどのような結果が起こるかをすべて計算して動くことができる小春に乗りかかられては、動くこともできない。腰を曲げたまま地面に這うようになってしまった姿勢で反抗するも、一氏に怒られるばかりで理不尽極まりない。
 なぜ考えを切り替えようと思った瞬間に現れるのか、自分の頭の中は全て見透かされているのではないかと本気で思うほどこのテニス部員は絶妙な距離で自分に接する。しかしこれが日常生活の中に関わりがある人間との繋がり方なのかもしれないと、必死になって見上げた空は肯定しているかのように青く澄み渡っている。

(他人は他人やけど、一度関係ができてしまえば俺はこういうふうなんかもしれへん)

 ぼんやりと考える。馴れ合いがしたいわけではないが、自分から関係を作り上げたいとも思ってはいないが、近寄るものに関して自分が拒絶さえしなければ人との関係は上手く繋がっていくように見える。

「財前、小春にそないかまわれたい言うんなら俺と勝負しよか」
「……俺そないなこと言うた記憶全然ないんすけど。いやほんま。全然ないんすけど」
「アホ、その目が言うとるわ!」
「嘘ばっか言わんといてください、先輩!」
「あら。隠さんでもええのに、光くん」
「話を広げんでください! アホばっかや!」

 そして、自分が関係を持ってもいいと思えた人間は大抵の場合そんな自分の性格を知ってくれている。だから、絶妙な距離という言葉を使うのに抵抗がない。
 小春に乗られたまま一氏と口論していると、視界片隅に白石と忍足が映って爆笑される。強引に上体を起こして小春を振り落とし、近寄ってきてくれた白石に無言のままメモを返せば柔らかい笑みとともに感謝の言葉をもらった。
 たまにはこんなこともいいと、そう思わせるだけの力を持っている。それが部長という肩書きを持つ人のなせる業であるとすれば、自分が彼らの陰に隠れる今の状況は別に悪いものでもないと思える。

「助かったわ、財前。おおきに」
「……いえ」
「そうよねえ、今日光くん図書委員の仕事あったはずやのに。テニス部を優先してくれるなんて、よっぽどアタシたちが好きなんやねえ」

 小春に言われるまで気づかなかったのは、今日の自分が慣れないことをし続けたせいに違いなかった。
 あ、と思わず呟いたあと、慌ててコート内に備え付けられた時計を見上げる。委員会で任されている図書室の受付の仕事は3時半からであり、長針は無常にもあと数分もすればその時刻を指し示そうというところまできていた。

「部長、すんません。俺委員会あるんでちょっと抜けます」
「ああ、ええで。悪かったな、俺の代わりさせて」
「いや、全然。ほな」

 運よくコート内に戻ってきてくれた白石に事情を告げ、財前はユニフォーム姿のまま図書室へと向かう。来館者が多いわけではないが、あの静かな空間が嫌いではない財前にとっては仕事をしないという選択肢は存在しなかった。
 ほとんどの生徒が部活に精を出す時間帯である、校舎の中はしんと静まり返っていて、音楽室から聞こえる吹奏楽の音色とグラウンドから響き渡る運動部の声ばかりが耳に届く。遠くにそれを聞きながら図書室へと足を向ければ、カウンターの前に誰かが立っていた。
 しまった、と一瞬息を飲んでドアを開ける。遠慮なく開け放ったその音に相手は慌てて振り返り、財前の顔を見て目を丸くした。

「あ、すんません。貸し出しですか」
「あ、は、はい」
「ほな、ちょっと待ってください」

 図書室を訪れる人間は大体決まっている。何回か受付をすれば顔と名前も一致するようになっている。人にあまり関心を抱かない財前ですら覚えられるほど来館者が少ないという裏づけではあったが、その分初めて見る顔には使い慣れない丁寧な言葉遣いになる。
 あまり顔を確認せず決めてかかって差し出した貸し出しカードに、2の字が書き込まれるまでは、彼女を3年生だと信じて疑っていなかった。
 2年か、と財前は顔を上げる。気づけば名札には2年であることを示す学年色とピンバッジ、そしてという名字。そういえば小学校の時に見たことがあるかもしれない、と顔に視線を向けるが、相手はうつむいたまま静かに貸し出しカードに記入を続けていた。
 その字が綺麗だったから視線を止めたのではなかった。

「……あれ、あんた」

 2年だと、もしかしたら第一小の仲間かもしれないと、そう気づいた瞬間に言葉遣いはいつものものに戻る。そして落ち着いてきた心から零された言葉は静かに沈黙の中に響き、逆に相手が一瞬肩を震わせたように見えた。
 そっと顔が上がる。見覚えのある顔。小学校の時に見たことがあるからか、それとも今日の体育の時に目があったからか。カウンター越しに真っ直ぐ自分を見つめる丸い女子の瞳を財前もそらさずに見つめたあと、もう一度その手元を確認する。

「あんたやろ、やっぱり。この前窓しめたの」
「……え?」
「書き置きしてったやろ。誰かと思っとったんや」

 あの日、閉められた窓から流れ込む夕方前の心地よい風がふわりと髪を揺らす。

「助かったわ、最初驚いたんやけどな。でも風邪はひかんかったで」

 財前が呟くと、相手が小さく首を横に振る。なぜか頬が赤く染まっており、暖房でもついているのかと天井を見上げたがまるでその様子はなかった。
 誰もいない、ふたりきりの図書室。自分にだけ書き残されたあの日とまったく同じ字が、今日目の前でその持ち主の名前が「」であると教えてくれていた。



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09/05/06