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怒声ひとつに反応しているようでは、この学校では平穏な生活が送れない。それが当然だと思わなければ日常という言葉を使いこなせないのがこの学校だと、1年間通えば嫌でも分かってくる。
そもそも年間行事がすべて他校の常識を逸している。隣の中学に進んだ親友は、いつも四天宝寺の話を興味津々を通り越して唖然として聞いている。
「今日の鍵当番、頼んだでー!」
「待たんかい、金太郎!」
怒声が廊下に響き渡るよりも早く自分の横を通り過ぎていった1年生など、まるでこの学校を象徴しているかのような存在だった。自由という言葉をどこまで履き違えればああなるのか、と入学当時は話題になったが、やがてテニスの腕前とあの白石に気に入られている事実が彼を見る周囲の視線を変えた。履き違えているのではない、自由という言葉にすら縛られない新入生なのだと。
は金太郎の去った後の廊下で、そっと怒声の持ち主に視線を向ける。
理科の特別教室に移動する途中だった足を止めた視線の先には、普段は全く言葉を交わさない同級生の顔があった。
「財前でもあんな声出すんやね、びっくりしたわ」
親友がこっそりと耳打ちしてくるのを、曖昧に頷く。廊下中の視線が自分に集まっていることに気づいた財前は、ひどく不機嫌な顔をして小さく舌打ちをしたあと、なにかを握り締めて7組の中に戻っていった。
廊下であってもその黒髪に艶が宿されているのが分かる。一瞬で目を奪われるほどの抜群の容姿を持っているわけではなかったが、はっと目を留めさせるなにかを持つ、それが財前だった。
「私、財前ってもっと大人しいかと思っとったわ。あ、静かって意味やないで。無愛想って意味な」
そんな財前の拗ねたような態度に、親友は笑いを堪えるのに必死だった。
ようやく金太郎の嵐から解放された廊下を、特別教室に向かって歩く。も結局笑いを堪えることができなかった。
「そうやと思うで、私も。小学校の時なんかもっと表情変わらへんかったし」
「なんや、財前って一小なん?」
「うん。あの1年の子も一緒やで、あの子もずっと変わらへんなあ。小学校ん時もあんなふうに走りまわっとったわ」
「……財前は?」
興味津々といった顔で親友が覗き込む。こんなにも彼の名前を聞くのは久しぶりだ、と思いながらは首を傾いで記憶の糸をたどる。
「財前くんは、昔はもっと近寄れんかったなあ。ていうか、嫌われとったわ女子に。むっちゃ無愛想やから」
廊下中に響き渡るような、それこそさきほどの財前の怒声の時を上回る勢いで周りの生徒が振り返る。それほどの笑い声を上げてしまった親友は、結局涙まで流して財前の名前を何度も繰り返し口にする。
たどりついた理科室で他のクラスメイトたちが何事かと事の次第を尋ねても、もただ苦笑することしかできなかった。
財前光という同級生の存在は、小学校1年生の時から知っていた。
狭い学区内の小さな小学校である、道頓堀第一という名前だけでいえば地区第一位の冠をかぶっていたとしても、実は規模でいえば第二や第三小の約半分程度の生徒数であり、一度入学してしまえばたとえ同じクラスになることがなくとも顔と名前ぐらいは苦労することなく一致させることができる学校だった。
その中でも財前は、向かうところ敵なしというテニスの天才少年として名を馳せていた。
「あ、でもあかんで。財前な、あいつめっちゃ愛想悪いねん。人が話しかけても『ああ』とか『ふうん』とかな、なんやその可愛げのない顔! ってどんだけ引っぱたいたろ思たことか」
ただ、その肩書きに並んで付け加えられるのは常に彼の愛想のなさに辟易した言葉たちだった。それも一度や二度などという数えられる程度のものではない、財前という名前が出ようものなら時にはテニスという特技よりも先を歩いて回るほどだった。
財前といえば、テニスと無愛想。
財前と同じクラスになることは、一度もなかった。だからその印象に逆らう方法もなければ逆らう理由も今のところ見つからない。
小学校の思い出といえば、隣のクラスになって朝礼の時にあくびをかみ殺しながら隣の列に並んでいた姿や、運動会の時に同じ赤組になってなにを考えているのか分からない顔でともに体育用具を片付けた姿、身体よりも大きく見えてしまうテニスバッグを背負って、高学年の任務でもあるクラブ活動に参加することなく正門から飄々と帰路につく姿。それらに会話は一切必要なかった。だから正直、財前の声にも自信がない。
だからか、とシャープペンシルを一度くるりと回したあと、は顔を上げる。
(ああ、そうか。私財前くんの声知らへんわ。せやから驚いて振り返ってしまったんや)
耳に残る財前の怒声は、理科の授業が始まって30分近く経つ今となっても離れようとしない。高すぎず低すぎず、強く印象づけるような特別ななにかがあるわけではないが、妙にこの年に不釣合いな凛とした部分がある。近寄らせない冷たさと、見捨てられない甘さの残る声だ。
その声が、中学に入って初めてと言っていいだろう今日という日に響いてきた。
(……財前くん、なあ。もともとは私立に行く予定やったって聞いとった気するな、そういえば。そんだけ強いんやろな、うちのテニス部)
もう一度シャープペンシルを回し、窓の向こうの景色を見つめる。
春の陽光を受けて輝くグラウンドの前には、財前らテニス部員が日々の生活の基盤としているテニスコートが燦然と輝いていた。
それまでまともな接触ひとつなかった財前という男子は、見れば見るほど不思議な少年だった。
「お、財前。ええところにおった、ちょっとお使い頼まれてんか」
「……ええところやないし、絶対見張っとったし」
学年関係なくその存在が知れ渡っているテニス部部長の白石に捕まると、渋々ながらも言うことを聞く。なぜか白石が2年の階に姿を現すことが多いので、その気になればその光景は何度か見ることができた。
「あっ、光くん! ちょっとちょっと、聞いてえなアタシらの新作!」
「……きもいっすわ、もう本当まじで勘弁してください」
学年どころか学校関係なくその存在が周囲の注目の的となっている金色に見つかると、まるで小学校のときのようなつまらなさそうな顔で平然と悪態をつく。それでも金色が離れないおかげか、その嫌そうな顔に棘が見当たらないので視線をはずすことができなくなる。
「慈悲の心は時と人を問うことを知らぬという」
「……師範、これ慈悲やなくてお節介……なんでパスタに白米……いや、俺もう体力あるし!」
食堂で黒髪を元気なさそうになびかせる後ろ姿は、その横に腰かける石田という東京からの転校生の尋常ならぬ体躯のおかげでようやく財前と分かる。石田の存在がなければ財前がうなだれる姿など見つけることもできないし、そもそも想像もできない。
「ざいぜーん! ワイ、今日委員会やからなー! 迷子になったんちゃうでー、勝手に白石に言いつけんなよー!」
「……やから、なんでお前は静かにそういうことが言えへんのや、金太郎!」
金太郎にいたっては、勝手に財前と会話していることを宣言してくれるので振り返ることが最も簡単だった。そしてこの時ほど財前が表情と感情を結びつけてくれる瞬間はないことに気づいてしまえば、金太郎の登場(財前からすれば間違いなく「襲撃」だが)は実は貴重な瞬間であることを知ってしまう。
知れば知るほど、小学校の時の記憶が拭われていく。
「財前くん、あんなしゃべる子やったんやね。なんか意外」
「うちらは意外っちゅーレベルをとうの昔に超えてしもたわ。まで言うてしまったらおしまいやで、あいつ」
ぽつりと呟いた言葉に、親友はカラカラと笑い飛ばす。涙を流したり腹を抱えたりするほど笑わなくなっていたのは、もはや財前に興味を示さなくなっていたからだろう。最初の印象が薄ければ薄いほど、記憶の片隅に追いやることも簡単だ。
そう考えると、自分はなぜ財前の記憶をここまで留めていられるのだろうか。同じ小学校という経歴はかくも力を持ったものだったのだろうか。
(や、財前くんだけやないし第一小。変なの)
問いかける相手がいない以上、答えらしきものにはいつまでたってもたどり着けなかった。それでも視界に財前が映る機会は減るどころか増えていく。四天宝寺という学校は、それほどまでに男子テニス部に優しすぎた。
「瀬木、悪い。数学の教科書貸して」
「またかい。財前、お前何回忘れたら気ぃ済むんや」
「済む済まんとちゃうなあ。もうめんどいねん」
「アホか」
その優しさは、教室の中にいても分かるほどになってしまっていた。
小学校のあの運動会の時のような、自分の興味のないものに対して向けるやる気のない瞳での教室に入ってきた財前は、媚びるどころか悪いとも思っていない様子で教科書をせがむ。頭を下げられるのではなく、ただ唐突に手だけを差し伸べられた相手は同じ第一小の出身であり、そんな財前の態度に特別気を悪くすることもなく教科書を差し出した。
の視界に財前は映るが、財前の視界にはまるで映らない。
親友と話していた頬杖の姿勢のまま、財前を見つめ、見送る。教科書を手にした財前は振り返る様子もなく教室をあとにする。
横顔ばかり見つめて瞳の色より鼻の高さばかり覚えてしまう。5色のピアスを同時に見ることは許されない。
「瀬木くん、財前くんと同じクラスになったことあるん? 昔からあんなん?」
「あいつ? あんなんやんか、ずっと。お前も第一小やろ、知らへんの」
「知っとるけど、なんか、昔と印象ちょっと違うなあ思て」
「そうかあ?」
あからさまに不可解な顔をして、瀬木が財前の出て行ったドアを見つめる。
は、同じ顔で見送ることはできなかった。
小学校の同級生を見送るという、そんな冷静さを伴う心を持ち合わせてはいなかった。
気にかけてしまえば終わりだった。
中学2年の感情などたかが知れていて、一度傾いてしまった天秤を自分で元通りにすることなどできないようになっている。直情的であることが是とされる、振り返らず進むことを許されるだけの時間しかまだ刻み込んでいない身体では、一度気にかけてしまえば終わりなのだ。
「なに。、あんた財前のこと好きなんちゃうの」
目を点にした親友には慌てて否定したが、言葉に出されてしまうと余計に気にかけてしまう。感情のコントロールの仕方など学校では教えてもらえない、財前という人間が視界から消えるように動く方法など教科書に載っていない。
遠巻きに財前を見つめる生活が日常になっていくことに、そう時間は必要としなかった。
「おい、財前。白石が呼んどったで。はよ行ってこい」
「なんで部長が?」
「知るか。……なんや、その目は。なんで俺の手ばっか見とんねん」
「いや、なんか出てくるんちゃうか思て。鍵やったら絶対受け取らへんって今心に決めた」
「なんやそれ」
テニス部の誰かが話しかけてくれる瞬間は、至高の時間にも近い。ただしそう思う心は自分で好きな瞬間を選ぶことができず、いつもお情けを頂戴する形でしか生かされない。
耳ばかりが肥える、耳ばりが満たされて目ばかりが潤って口が文句を言っている。
(無理、無理。いまさら何も話すことなんかない。話せへん、絶対無理……やなあ)
心に言葉を積もらせていくと、それだけで時間は流れ去っていった。
春の終わりといえど、夕方はどこかに冬の名残が潜んでいる。
桜も散り終わった今となっては、西の夕空に東から徐々に伸びていく紺色の空の様子など、まるで季節が逆戻りしていくのではないかと思えるほどだ。訪れた図書室で西の遥か彼方でまだ温もりの色を宿そうとする空を窓越しに見つめ、それでも日は長くなった方だと自分に言い聞かせる。一瞬身体が震えたが、それは無防備にも一部の窓が開け放たれているせいにした。
「適当やなあ……」
閉館間際のこの時間、なぜ窓を開け放ったままにしておくのかと傍にいない図書委員に愚痴を零す。四天宝寺中は常軌や一般的という言葉とはどこかかけ離れた印象をもたれがちだが、それは生徒たちが自立した面を持っているからこそ許してもらっている部分でもある。委員会活動などその最たるもので、面倒だなどと発言しながらも仕事を放棄する生徒には出会うことがない。
珍しいこともあるものだ、と窓を閉める。換気のためでないことは時間帯を考えれば明らかなので、書き置きのひとつでも残しておけば済むだろうとカウンターへと向かった。
「!」
貸し出し用のボールペンを手にした、その瞬間だった。
不意打ちだった。息を飲む。誰もいないと思っていたカウンターの内側、机に伏せて寝息を立てる人がいたことには慌てて口を手で押さえる。
艶のある黒髪、色違いの5つのピアス。小さな寝息と寝顔は身長に見合わずまだあどけなさが残されている。
それが財前であることに気づいた時、一瞬呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだった。
(そうや、図書委員やった……! 忘れとった)
まだ落ち着かない心臓に手を焼きながらも、周囲に誰もいなかったことに感謝して静かに息を吐く。呼吸以外のなにかが伝わってしまったのか一瞬財前の眉間に皺が寄ったが、その瞳が開かれることはなかった。
しばらくの沈黙を見送ったあと、はようやく落ち着いて財前の寝顔を見つめる。
綺麗な寝顔だ、と心から思う。秀麗な容姿ではないが、どこか凛とした、一本筋の通った空気を作ることができるのが財前であると気づいた目には、寝顔ですら綺麗に見える。
そして同時に、やはり自分は彼の視界には収まることができないとも思う。
(閉じてくれてるから見られるなんて、皮肉もええことや)
眠りのおかげで訪れた瞬間。けれどそのおかげで、今日もやはり瞳の色は分からない。
は小さく首を傾ぎ、寝顔を見つめる。小さな呼吸が微笑ましく、思わず頬が緩む。
(好きなんかなあ、この人のこと。好きなんやろなあ)
心に積もる言葉は、もはや限界だった。
まだ知らない部分がたくさんあることは分かっている。自分が知っているのは財前光という人間のうちの極々一部に過ぎないことなど重々承知している。けれど、感情は止まりたいとか消え去りたいとか訴えてくることがない。この今のふたりきりの時間に、足が動きたいとも言ってこない。
さらりと前髪が流れる。長い睫がかすかに揺れる。幼い寝息が絶え間なく続く。
(好きやなあ、本当に。テニスしとってもしとらんでも、普通に見とりたいもんなあ)
手を伸ばす勇気はない。静かに財前の寝顔を見つめたあと、生徒手帳から白紙の紙を1枚引きちぎって書き置きを残す。
初夏を迎えようとしている夕暮れの中、それでも艶を隠せない財前の黒髪を眩しく見つめて、はそっと彼の手元に紙を落とす。
せめて財前が風邪をひかないようにと、そう願った教室は窓を閉めおかげか少しだけ暖かく思えてなかなか去ることができなかった。
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