空中天秤01


 創立百周年を迎えようとしている校舎は、いたるところに限界がきていた。
 窓の開け閉めには通常の2倍の力が必要、階段は多目的に使われすぎてきた栄光の歴史のためにどこもかしこも滑りやすい、教室のドアがいつのまにか開いていく、カーテンは黄ばみ続けて遮光性という機能をどこに備えてくれているのか皆目分からない。
 練習試合で訪れた他中学の選手たちは、いつだって目を丸くしたものだ。部分的に改築されているとはいえ、あくまで改築であって新築とは言いがたい。
 いつもどこかに「変わらない」なにかを残すこの校舎が、財前は嫌いではなかった。

「財前ー、おるかー。ざいぜーん」
「……なんすか、先輩」

 開きたいのか閉まりたいのか分からないドアが勢いよく開け放たれる。別段珍しい光景でもないのに振り返ってしまったのは、その声があまりにも耳に馴染んだものだったからだ。
 おう、と忍足謙也が軽く手をあげる。同級生にも後輩にも分け隔てない空気で接してくるこの忍足が、財前は嫌いではない。机に寄りかかった姿勢のまま、次の言葉を待つ理由がいらないほどには嫌いではない。
 上級生の登場に戸惑うクラスの女子たちに目もくれず、忍足は入り口から光るものを放った。財前が両手で慌てて受け取って視線を向ければ、それは見覚えのある鍵だった。

「今日、お前鍵当番やって」
「は? なんでですか、そんなん先輩らがやればええ話やないですか」
「俺ら今日は校長の銅像磨き当番や。白石からの伝言やからな、しっかり伝えたで」
「な、ちょ……!」
「あ、小春に預けるんはナシやって。ほな、せいぜい頑張り」

 当然のように手元に落ちてきたそれを見つめる暇も、反論する暇も与えず忍足は去っていった。
 手元の鍵は、使い古されて違う意味で光沢が出てきてしまっている。
 四天宝寺中学男子テニス部の部室は、創立百周年を謳うここ最近になってもまだ改築こそすれ新築にはしたことがない年季の入ったものだ。そのためドアの開け方にコツが必要で、3年生の中でもごく一部の者にか開けることができない。
 何の不運か、2年生の中でその開け方を身につけているのは財前ただひとりだった。

「あの部室、いつ建て替えるんや? いつか地震でも起きたら絶対に潰れるで、あれ」
「……さあ」

 忍足の出て行ったドアを見つめながら尋ねるクラスメイトに、自分の方こそ聞きたいと財前は心の中でため息をついた。
 妙な結束感だった。
 廊下は走らない、なぜなら傷みがひどくなるから。窓は頻繁に開けない、なぜならサッシが壊れるから。ドアは乱暴に扱わない、なぜならドアとしての機能をなくしてただの板となってしまうから。実際にそれらを忠実に守っている生徒の方が少ないのだが、共通認識としては校則よりも強い力を持っている。
 古い、と校舎の造りにため息を零すよりも前になぜそんなにも皆がまとまるのか、そちらの方がよほど疑問だった。

「先輩らみたいできもいっすわ」
「俺らみたいとはなんやねん、財前!」
「光くん、構ってほしいんやったら素直にそう言いなさい?」
「やっぱきもいっす」

 笑顔で手を差し伸べる小春から逃げるようにしてドアを開ける。鍵当番になってしまった以上それなりの責任感をもってホームルーム終了後部室に直行したはいいが、時間に忠実に生きる先客には勝てなかった。

「先輩らも銅像掃除かと思っとりました。なんで俺が鍵当番やねん、って」

 白石に教えてもらったドアの開け方は、手に馴染んで久しい。
 本来であればドアと呼ぶことも正しくはない、開帳式の扉であったがそこに無理やり最新式の施錠装置をつけたので簡単には開けられなくなってしまった。だからそのコツを知るのは白石や小石川たち部の代表の肩書きを持つ人間や3年のレギュラーメンバー、そして財前となっている。

「ああ、あれは2組だけ。ケンヤくんたちがなんや先生のボケをうまく拾われへんかったらしくてなあ、罰や罰。そないな理由やからアタシたちに言うんは恥ずかしかったんとちゃうの、ケンヤくんのことやし」
「俺らやったら絶対にそないなことあらへんもんなあ」
「ねえ、そうよねえ。アタシとユウくんやもんねえ」
「……救いようもなくきもいっすわ」

 白石に教えられたとおりの場所に鍵を置く。
 思えば、この鍵の使い方を最初に教えてくれたのが白石だった。あの頃はなぜ自分に直接部長が教えるのか皆目分からず、ただ目を丸くすることしかできなかった。本当の理由は今も分からない、分かるのはこうして時折鍵当番を回されることがあるということだけだ。

(ほんま、何やねん。自分らの失敗は自分らで拭えばええやないか、なんで俺やねん)

 一氏と小春が男子らしからぬ会話に華を咲かせるのにももう慣れた。耳を塞がずとも会話を記憶しないという技術を身につけることができている。
 経験というものは、良くも悪くも人を成長させる。次の手段を考えさせるからだ。その手段が良いものか悪いものかは、いずれ訪れる未来の中で決めればいい。
 日々の中で一瞬の意味を最も大切にしなければならないのは、そんな時ではなかった。

「光くん、今日の練習アタシらに付き合わへん? ダブルスの練習したいんやろ?」

 小春が笑みを浮かべて尋ねる。ユニフォームの袖に腕を通しながら財前は一度考える素振りを見せたが、やがて浅く頷いた。

「ええですよ。退屈せんとできるんやったら」
「退屈とは言うやないか。四天宝寺の誇るべきダブルスを前にして」
「まあまあ、ユウくん。コートの上でじっくり味合わせてやったらええやないの」
「ほんまきもいわあ、先輩ら。サブイボが出る」
「なんや、財前。仲間になりたくて興奮しとるんか」
「……」
「ツッコミも放棄かい!」

 叫ぶ一氏を無視し、優しいとも穏やかとも違うがどこか突き放すことができない小春の笑みに対してだけボールを軽く投げる。
 四天宝寺中学の古さとともにあるのが、このような上級生であり、また下級生でもあった。

(俺も来年は後輩の相手せなかんのやろな。……できるんか、俺に。全く想像できへん。自分らのことは自分らでせえって言うたら……あかんか、怒られるか)

 既に後輩と呼べる立場の人間はいたが、3年生がすべての相手をしてくれる今の立ち位置が思いのほか心地よいため抵抗感ばかりが未来を支配する。自分に白石のような、忍足のような、小春のような振る舞いができるとは、財前は到底思えなかった。
 外れそうになっていたピアスを付け直し、ラケットを手にする。
 誰からも干渉されない、自分だけの感覚が正しい時間の過ごし方。
 部室を出ようとした時、一氏も小春も声をかけない。その感覚が心地よすぎて、見上げた空の青さが一際澄んで見えた。



「天才は孤高なもんや、別に馴れ合っとらなあかんなんて俺は思わへんで。安心せえ」

 顧問の渡邊は悠然とした笑みを浮かべて言った。

「口悪いのは愛嬌のうちやからな、まあええんとちゃうの。お前も金ちゃんも一緒やわ、扱いに困ることなんかなんもないで。せやから気にすんな」

 日も暮れた部活帰り、奢られたペットボトルを受け取った時に白石は笑って言った。
 自分の周りには、自分に対して笑みを向けてくれる人が多いとつくづく思う。石田は無表情が常であるため対象にはならないが、少なくとも怒られることよりも笑みを向けられることの方が多いことは確かだ。
 その理由を自分なりに考えてみたこともあったが、数分でやめた。他人の考えなど真の意味で理解できるはずがない、そもそも自分の導き出した答えが正解とも限らない。思い込みで動いて支障が生じるぐらいならば、もとよりの接触なり先入観なりを放棄した方が早いし無駄がない。そう考えられるだけの人生にはなっていた。

「おー、今のは謙也やなあ」
「ケンヤや」
「間違いなくケンヤくんね」
「うっさいわ、どアホ! 外野が連呼すな!」
「外野やないでー、顧問やでー。謙也、ボール取ってこい。そしたら朝錬終了にしたるわ」

 打ち上げられたボールは、哀れフェンスを越えてグラウンドへと転がっていった。本来であれば自分のラケットの中心で打ち返す予定だった財前は、ぼんやりとその様子を見届けてからため息をつく。ネットの向こうでは忍足が周囲から野次を飛ばされ、苛立ちながらコートを去っていった。
 渡邊の一声で、朝の練習が終了を告げる。打ち損ねた感覚がわずかに眉間に皺を寄せさせる。

「光くん、駄目よ駄目、その顔! 男前が台無し! エエ男っちゅうのはいっつもああやないと。ねえ、蔵リン」
「別に男前でなくてええですわ。面倒やし」
「それは喧嘩を売っとるんと一緒やでー、財前」
「や、部長に喧嘩売るつもりはないんで。全然ないんで。面倒やし。てか来年おらへんし」
「やだ、泣かせないでよ光くん!」
「うわ、ちょっ! 抱きつかんといてください!」
「財前、なに抱きついとんねん!」
「アホちゃいますか先輩! どう見たって抱きつかれとるやないですか! アホ!」

 妙にからんでくる上級生は、昔こそ鬱陶しいと感じることが常だったように思う。温かく見守っているようでその実なにも見ていなかったりする渡邊のなにを、どこをどう信頼すればいいのかも分からなかったように思う。
 気づけば、これが朝の風景だった。
 古い校舎と同じで、馴染んでしまうと居心地のいいものというのは意外と存在する。当たり障りない、変哲のない、面白みのない味気ない。同様の意味で形容する言葉は数多くあれど、馴染むという言葉以上にしっくりとこないのであまり使うことはない。
 ただ、馴染むまでである。馴れ合いはこの身体がまるで必要としていない。

「あ、あかん! 世界史の宿題忘れとったわ! うーん……あ、銀のクラスの方が先に授業やったな、頼む銀! 写さして!」
「人の世は常に己の努力の上に成り立つ」
「銀さん、朝から渋いわあ。とっても素敵」
「謙也、今日は災難やな。諦めて自分でやり」

 その会話に、自分の名前は必要ない。振り返れば目を合わせてくれることは簡単に予想できたが、身体も心もそれを欲していないので財前は飄々とひとりで部室へと戻る。
 コートを出て部室へと戻る道で、上級生につきまとわれることはあまりない。まるで示し合わされたかのような絶妙な距離がそこにある。

(まあ、同い年にレギュラーがおらんのもあかんわな。誰も彼も全く強くあらへん)

 部室の扉を開き、ラケットを片付けて軽く一息つく。鍵の開け方を教えてくれた白石にはこのような時に感謝したくなる。もし開け方を知らなければ、常に彼らと行動をともにしていなければならない。苦痛ではないが得意でもない。

(別にええけど。今の状態でも退屈せんし、来年になったらなったでまた変わるやろ)

 他力本願だが、自分で周りを変えるほどの熱意はない。そんな熱意があったら今は自分のテニスの練習に時間を注ぎたい。
 ユニフォームを脱ぎきった瞬間に扉が開く。振り返った先、目が合った白石が軽く手をあげる。財前は周りの誰もが気づかない程度の小ささで軽く頭を下げた。



 古くとも馴染む校舎、適度な距離の部活、周囲には財前の好むものが溢れている。
 中学2年の春はその空気の中で過ぎていく。日々強さを増していく太陽の光は厭うものではなく、むしろもっと照らせと焦らされている感覚になるのは自分が満たされているからだろうかとふと思うこともあるが、これも途中で考えるのをやめた。

「最近機嫌ええなあ、光くん。なんや楽しいことでもあったん?」

 同居する兄の妻が微笑みながら尋ねてくることも一度や二度のことではなかった。だが財前は、軽く首を傾げる程度のことしかしなかった。考えるよりは太陽に焦れている方がよほど腕が鳴った。
 2年生の教室がある3号館からは、グラウンドが南の光を受けているように見える。窓際の席に座るとその景色がとても綺麗に見えて、7組の教室の中にいる時は気づけば外に目を向けるようになっていた。
 今日は何の練習をしよう、ダブルスの練習をするなら小春たち相手に何を強化すればいいだろう、転校生の千歳という3年生の腕も実は見てみたい、そんなテニスに関する思いばかりが膨らむ日々だった。

「ざいぜーん! ざいぜーん!」

 その日々を彩るものの、恐らく最後のひとつ。それはいつも唐突にやってくる。
 窓際の席で壁にもたれながらクラスメイトたちとたわいない話をしていたまさにその時、廊下から突如自分の名前を連呼する声に財前は一瞬でしかめ面になる。

「あっ、おった財前! なあなあ、小春知らへんか? ワイ小春に渡しもん……」
「知らん! ちゅーか金太郎、お前いつになったら呼び捨てやめ……」
「ええやないかー、小学校ん時は当たり前やったんやし」

 カラカラと笑う金太郎の前では、いつも会話の主導権が奪われる。奪われてしまうと、周囲に目を向ける感覚が一歩遅くなる。自分と金太郎を取り囲むクラスメイトの温かい(と形容するのも正直納得がいかない)視線にようやく気づき、財前は不機嫌さを丸出しにしながら教室の入り口へと向かう。
 着こなしという言葉では到底守って上げられないほど着崩した制服姿の金太郎は、近寄ってきた財前を見上げてにっと口の端を上げた。

「ワイ、思い出したでえ」
「……なにを」
「白石、こう言うとったわ。『小春か、もしくは財前やな』って。はい、ちゅーわけで」
「は?」

 手のひらに押し付けられたのは、あの感覚。再び手に戻ってきた銀色の鍵に一瞬目を丸くしてしまった時には、金太郎は既に廊下を走る準備万全だった。

「今日の鍵当番、頼んだでー!」
「待たんかい、金太郎!」

 配慮という言葉を知らずに生きている、それがありありと分かる逆行した走り方についていくことはできない。なんの効果もないと知りながら、教室の入り口から怒鳴り声をあげるのが精一杯だ。
 廊下を行き交う同級生たちが、ぎょっとした目でこちらを見る。それでも相手があの遠山金太郎だと知ると、笑い声が起きて挙句その視線は逃げ足の速い金太郎ではなく自分にだけ向けられる。

(なんやねん、なんであいつだけ同じ小学校やねん! 一小はアホばっかや!)

 同じ小学校というだけで、なぜこうも笑いの的にならなくてはならないのか。いくら四天宝寺の生徒とはいえ、自分の本意ではない笑いの対象となることを快く受け入れるだけの余裕は財前にはない。
 小さく舌打ちをし、乱雑に頭をかいてから自分の席に戻る。
 選ばれた人間にしか渡されない部室の鍵が、当たり前のように財前の左手の中で昼下がりの陽光を受けて輝いていた。



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09/05/06