| 雪解けの路 01 |
彼の呼吸が荒くなる瞬間を、テニス以外では知らなかった。 安易に抱き締める癖があることも、知らなかった。品のいい性格だと思っていたが、それは全てに当てはまるわけではないことは今日突然教えられた。強引さと紙一重の力強い手は、いつまでも自分の手をシーツに押し付けたまま逃がそうとしなかった。 それでも視界に映る彼の髪は、今日も、こんな時も変わらず美しくて見惚れてしまう。湿り気を帯びて触れる相手の肌が、今この瞬間が現実であるということを知らせる中で。 浮かれるような熱はアルコール由来か、それとも彼のものか。けれど全てが終わった瞬間、劇場型のような熱は瞬時に冷める。それは今まで何度も、彼ではない違う異性相手に感じたことのあるものだった。どれだけ誠意をもって付き合っていたとしても、いつまでも一等の感情を抱くことができなかった相手との行為は、ただひたすら空しいものなのだとつくづく思った。いつも同じ後悔を抱いた。けれどそれが彼相手でも感じるというのなら、この後悔は何だろうと胸の上に落ちてきた彼の頭に触れながら考える。 (決まってる。したらあかんかった) 心がざわつく。べたつく肌はまだ自分をベッドに押し付けたまま上にある。心地よい低音が若干かすれているのはアルコールのせいに違いない。まさか彼がこの行為を、単なる行為として以外の感情を心に抱いて行ってくれたとは決して思ってはいけない。その証拠に、唇を重ねる瞬間も服を脱がせる瞬間も、彼の手つきは慣れたものだった。知っていたはずだ、彼はこの年になるまでそれなりの数の女子を恋人とし、一緒の時間を過ごしていた姿を見つめるのが自分の立場だったのだから。 だから、この瞬間は特別だと思いあがってはいけない。たとえ数時間前の居酒屋で、付き合わないかと彼に尋ねられた身であったとしても。 (嘘、冗談。絶対ほんまちゃう。私なんかで先輩が満足するはずがない) 髪を梳いていた手を握りしめられる。あ、と髪から離される自分の手を名残惜しく見つめていると、代わりに手のひらに口づけられた。零れる吐息は熱い。それは居酒屋で飲みすぎたからだ。付き合わないかと尋ねた女子がいつまでも返事をしないから、だらだらと飲み続けて、店を出ても答えようとしないから電車に乗らずに駅前のカフェに入って、それでも黙り続けた相手に、この人でも業を煮やしたのだ。23時を過ぎて終電までの時間を気にしなければならなくなった時、ついに彼は「おいで」と言った。優しさは含まれていたが有無を言わさない強引さで覆われていた。 神戸でも有数の観光地に近い駅である。当日飛び込みでも空室はすぐに見つかり、最低限の礼儀のつもりだったのかツインの部屋を取った。数歩後ろでストールの中に口元まで埋めたまま、どこにそのようなお金があるのだろうとぼんやりと思った。そして居酒屋にも、カフェにも夜の駅にもない白磁色のような廊下の照明に眩暈がした時、飲みすぎたとようやく気付いた。 「悪いけど、返事を聞くまでは帰る気ないで」 「……先輩」 「基本、勝負事は負けるの嫌やねん」 どこまで本気で言っているのか分からなかったが、彼もそれなりに酔いが回っていたと思う。いつもより少し大きな声で笑っていたし、おいでと誘われて握りしめられた手は温かかった。 それは、どれほど希ったものだっただろう。向かいのベッドに腰かける彼の姿は、どれほど見つめ続けてきたものだっただろう。 そしてそんな勝手な想いは、彼にとって見透かすことは簡単で、これまで見逃してきたことが優しさであって、そして受け入れることは、きっと誠実さの表れだった。 付き合おうと言われるまでに、二人で会う時間は3回も用意してもらっていたこと。そもそも出会ったのは5年以上も昔の、高校生の頃だったということ。なにより、自分はこの人のことを高校以来ずっと慕い続けていたということ。 聡いこの人がそれらに気づかないはずがなかったし、だからこそ誠意を込めて交際の申し込みをしてくれたのだ。そしてためらいの末に、自分はベッドに腰かける彼の前に立ち、憧れてやまなかったその体におずおずと触れて、そして抱きついた。その後は何も考えないようにした。ただひたすら、彼は優しかった。 「まだ答えへんつもりか?」 ホテルにたどり着くまでの記憶をぼんやりと思い出していると、突然耳元で囁かれて思わず目を閉じた。酔いの残った頭では、その近さは余計に眩暈を呼び起こす。行為そのものよりも彼の声に胸が高鳴るとは、どれほど自分は片想いの頃の癖をひきずっているのか。 沈黙の中で、やがて肌がざわつく。彼の舌が首筋を舐めた。冷めたと思った熱が途端声の高さに宿る。自分でもあまり聞き覚えのない声が、自分の意図せぬタイミングで口から洩れる。 「」 「!」 「優しいままも限度があるで」 右頬に触れる彼の利き手が、つつと指先で顎までなぞる。親指で顎を上げられ、伏し目がちにしていた視線は強引に彼へと向けさせられた。居酒屋の続きのような暖色の照明の部屋の中で、近すぎるその顔はぼやけもしてくれない。昔のように、遠くに見るだけの頃のように、知り合いの一線を越えない関係で見つめる距離がそこに残っていれば、本当はもっと楽だっただろうか。 けれど、もう遅いだろうと思う。初めて自分の下の名前を呼ばれては、あの声で囁かれてしまっては、自分はもうこの人と一定の距離を保つことができる自信はない。手を伸ばせばそこに温もりがあるどころか手を握りしめられる距離と関係にあって、言葉よりも先に涙が零れる。 「ほんまは、好きです。ほんまに好きです先輩のこと。高校の時からずっと」 「うん、知っとる」 「せやけど、私なんか先輩に絶対釣り合わへん。似合わへん。無理です、絶対」 彼の表情を読み取る前に、涙が瞳を埋め尽くして視界は簡単にぼやけた。優しく握りしめられていた手を振り切って涙を隠すように顔を覆えば、やがて咎める声でもため息でもなく、そっと頬に触れる唇だけが寄せられる。それすら優しさに満ちていて、愚かなほど自分はその優しい彼を、本当に心の底から慕い続けていた。 だからこそ知っているはずだった、完璧なほど優れた彼に自分は釣り合わないと理解しているはずだった。けれどその後もう一度重ねられた唇から、逃れることはできなかった。 白石蔵ノ介という名前に相応しくない行為だと思いながら、はその手が再び自分の肌に触れることを拒めなかった。 中学卒業に馳せた思いは、その一瞬の光景によって全て吹き飛んでしまった。 学校から一輪のチューリップと、部活の後輩からの豪勢な花束と。そして人生で二度目となる卒業証書の入ったホルダーを抱えながら、は親友の姿を探していた。同じクラスで卒業を迎えられた親友とは、中学に入ってからの仲だ。しかし部活動は異なっていたため、が後輩たちに教室から連れ出されるのを笑って見送ってくれたところで話は止まっている。おかげで後輩たちと笑い話をすることはできたが、彼女と中学最後の写真を撮ることがまだできていない。戻ってきた教室に既にその姿はなく、は携帯電話越しにその行き先を問いかけてみるものの、メッセージの返信はいつになっても届かなかった。 そしてようやくたどり着いた校舎裏で、中学最後の日に最大の衝撃を受けたのだった。 (なんでこんなとこ……って、……財前?) 親友の後ろ姿を見つけて声をかけようと思った瞬間、その隣に並ぶ男子の姿には思わず校舎に身を隠した。見間違いかもしれない、と一度呼吸を整えてからそっと覗いてみるが、こちらに全く気付かない親友と話しているのは、確かにあの財前光だった。 男子テニス部の部長で、全国で名前が知られるほどテニスの実力があって、そして無愛想。片想いを抱く女子は同級生に限らず先輩後輩と幅広かったが、なぜか誰も彼と付き合えないという、謎の男。去年卒業したテニス部の上級生たちに異様なほど可愛がられていたというから、彼らの査定を経なければ彼女を持つことができないのかと思っていたほどだった。 そんな男と、親友がなぜか人気のない校舎裏で話し込んでいる。背の順で並んだ際、真ん中よりも後ろに並べないことを卒業まで悔しがっていた親友からは、さほど大柄ではない財前でも見上げる角度を伴わなくてはならない。それはまるで縋るようで、が気づかないうちに彼女は財前に片想いをしていたのか、そして中学最後の日に告白をしようとしているのかと、野暮な憶測を立てて、しばらくその様子を見守っていた。 (……嘘やん) しかし無粋な憶測は、全くもって見当違いであった。財前が自分の学生服の上から二番目のボタンを取り、親友に渡す。告白成功かとにわかに鼓動が早まったが、その時財前の手がさも当然と言わんばかりに親友の頭を撫で、親友が嬉しそうに笑うのを見て、は確信する。 (そら、彼女持ちは他の子とは付き合えへんよねえ) そこで大声で乱入するほど、自分が無粋な女にはなりたくない。驚きで言葉が出ないというのも事実だったが、親友も財前も普段学校では滅多に見せない表情で笑ったり話したりしているものだから、無関係な自分がその空気を壊しに足を向けることは最後までできなかった。 どうしたものかと途方に暮れていると、しばらくして財前の方が携帯電話を片手に親友の傍を離れた。こちらに向かって歩いてくる姿に、は慌てて逃げ道を探したがどこにもない。走り去るには足音が聞こえてしまうほど財前はすぐ近くまで来ていて、そして当然のように校舎脇で気づかれた。 「!」 「……どうも」 鳩に豆鉄砲。受験で覚えた知識のまさにいい例の男の顔を見て、はぎこちなく右手を上げて挨拶をする。この男でもここまで表情を変えることがあるのかと、そこまで親友はさせてしまう彼女だったのかと、わざとらしいほどよそよそしく立ち去った財前の背中を見送りながら訳も分からずため息をついた。 そして全員が揃って進学した四天宝寺高校で、彼に会った。 「お、ええとこにおった」 「白石先輩」 「悪いな、これ財前に渡しといてくれるか。……あ、しもた」 「あ、大丈夫です。だけは知ってくれてます」 そうか、と後輩相手にほっとしている姿は、意外なほど身近な存在に思える柔らかさを伴うものだった。悪いな、と少し目で合図をされて、は訳が分からないままながらもとりあえず頷き、手で話を促す。間近で見る噂の男の姿に、少しばかり目は丸くなっていたかもしれなかったが。 テニス部の2年で、四天宝寺中学で全国大会に出場した時の部長で、勉強も学年トップクラスで、国際大会の日本代表に選ばれたこともある男。その男が、学校の食堂で親友に何かを手渡して説明している姿を、はアイスクリームのカップ片手に静かに見つめる。四天宝寺に関わりを持っていれば誰もが知っているだろう彼という存在が、何事もないかのように突然視界に映る生活。当たり前のように毎日声を聞くことができる日々。とんでもない男と付き合っているものだ、とは改めて親友の無愛想な恋人を思い出しながら、静かに話が終わるのを待った。 は自分が面食いだとは思っていなかった。美醜に関する好みはむしろ適当だとすら思っていた。だから財前は無愛想だとしか思わないし、親友が惚れこむ理由がいまいち分からなかったのだが、この上級生に対しては違った。文句の付け所どころか、文句を口にするのも畏れ多いと思わせるほど、全てが整った男だったのだ。 「相変わらず、白石先輩格好ええね。ときめかへんの?」 「ときめく? 誰に?」 「財前の前では白石先輩もかすむってことね、はいはい」 「ちょっと、内緒やって!」 小声で怒る親友をからかいながら、溶け始めた甘ったるいバニラアイスを口に運ぶ。恋は盲目とはよくいったもので、聞けば中学3年の夏休み前から付き合っていたという親友と財前は、高校に入っても相変わらず目立たないようにしながら、それでもの目から見てもとても仲良さげに日々を送っていた。いつ見ても財前は無愛想だったが、親友の前では頬が緩んでいるのだから仕方ない。告白をしたのは財前からだという話を聞かされては、納得するしかない特別な表情だった。それで隠しているつもりかと、疑問で胸の中がはちきれそうになるほど親友が財前に猫のように懐いている姿を見るのも慣れてしまった。 だからそこに、白石蔵ノ介という男が加わる生活に慣れるまでの時間もさほど必要としなかった。慣れてしまった分彼を知る機会が増え、増えた分それが魅力に換算されて、蓄積されていくことに、まるで抵抗がなかった。 「お、。ええとこにおった」 「え、私ですか? 向こうやなくて?」 が高校1年の時、親友とはクラスが違った。しかし何の因果か財前と同じクラスであり、親友を通しての存在を知った白石は、それ以降財前に関わる何かをよくに持ってくるようになった。スマホで呼び出せば早いのに、親友の方が適役なのに、と頭の中を巡る疑問はいくらでもあったが、それらを言葉として彼に伝えたことは一度もなかったように思う。 用事があると言って先に帰っていったクラスメイトと入れ替わるように、食堂での向かいの席に白石が腰かける。相変わらず男子のわりには髪に艶があり、薄い唇には笑みがたたえられている。テニス部とは思えないほど肌は焼けておらず、かつてそれを口にした時に「そんなことあるかい」と少しだけ包帯との境目を見せてくれたことがおかしかった。 「部日誌、今日あいつやねん。せやけど向こうは学校ではあんま話さんようにしとるんやろ? 下手したら今日部活が終わらな渡さへんかもしれんからな」 「あ、ほんまですね。財前の机に置いておけばええんですか?」 「頼むわ。あ、できたらなんか一言言うたって。あいつ去年まで部長やったくせに、後輩に戻った途端サボり癖が爆発しとってな。どうでもええって顔に磨きがかかってしゃあないねん」 「まあ、あの財前ですからね」 「せやなあ」 悪いな、と笑って白石は席を離れていった。今時おかしなほどに分厚い部日誌を横に、は紙パックの中のお茶を飲み干す。 親友の恋心は、にあの無愛想な同級生と毎日会話をする生活を用意し、そしてあの眉目秀麗な先輩に言葉をかけてもらえる関係を作ってくれた。いいのか悪いのか分からないな、とトレイを片づけようとした時、不意に視界に一人の人物が飛び込んできた。 「こんにちは」 「うわっ、金色先輩」 「ええのよええのよ、小春先輩で。あなたがさんね? ずっとおしゃべりしたかったのよ」 頬杖をついた両手を頬にあて、にこにこと。四天宝寺中学から通っている者なら知らない者はいない、神童と名高い金色の突然の登場に、財前、白石にある程度免疫ができていたでも思わず言葉をなくす。だが驚かれることに喜びすら感じる金色は、動揺するに「ねえねえさん」とずいっと顔を近づけた後、無言で携帯電話を取り出した。 「……え? な、なんですか」 「アタシ、テニス部なの」 「はい、知ってます」 「それで、部員みんなの色々な管理を任されてる立場なの。蔵リンから」 「蔵リン……?」 それが白石のことだと気づいた時は、彼が単に見目麗しく品行方正な人間であるだけでなく、気さくな一面も持っていると知らされた瞬間だったかもしれない。うんうんと頷く金色は、だからねと念を押すように呟くと、に携帯電話をもう一度突きつける。 「光くんも漏れなくその対象なのよ。というわけで、協力してくれないかしら」 「なにをでしょう」 「光くんに何かあった時の、お助け要員。申し訳ないんやけど、あの子自分を取り巻く環境にこれでもかってほど無頓着で、アタシ心配でしょうがないのよ」 思い当たる節の多すぎるあの無愛想なクラスメイトを思い出し、金色の心配もさもありなんとは二つ返事で快諾した。あの金色と連絡先を交換させるまでに影響を持った親友の恋心は半端ない、とおかしく思いながら。 お助け要員に任命されたことは白石もやがて知るところとなり、後日廊下ですれ違った際に「悪いな、頼むわ」と声をかけられた。隣の金色はにこにこと笑い、忍足という名前だったらしいもう一人の2年生は訳が分からないという顔をしていた。金色がいればさほど自分など役にも立たないだろうと思いながら、それでもあの白石にも任されることが存外嬉しかった。 そして、金色の推測は外れなかった。その年のクリスマスに財前がクラスメイトの女子からテーマパークへと誘われた際、親友と同じ場所へ出かけることを聞かされていたは腹立ちまぎれに財前を廊下へと連れ出した。だが当の本人が思いのほか動揺しているのを見て、これは例の案件に違いないと瞬時に悟った。金色の読みの素晴らしさに感嘆のため息をつきながら、白石と金色に財前を引き渡して事なきを得た記憶は忘れがたい。 「」 「あれ、先輩。どうしました?」 「あの後どうなった? まだ俺財前に聞いてないんやけど」 その日の放課後、昇降口で部活へと向かうを既にテニス部のジャージ姿だった白石が呼び止めた。この秋からまた部長の役職についている彼は、例えようのない存在感がある。その白石に気軽に呼び止めてもらえる関係は心のどこかをくすぐることを、この頃の自分はもう自覚していたかもしれないとは思う。 「先輩、聞いてください。あの財前が、クラスでちゃんと言うたんです。俺彼女おるからユニバ行けへんって」 「え、ほんまか? あの財前が?」 「ほんまです! あの財前が!」 「そらえらいこっちゃ」 のおかげやな、と笑ってくれた時、自分はどのような返事をしただろう。任せてくださいと気軽に言えていたら、もしかしたら密かな恋心に自分でも気づかずに済んだのかもしれない。ただその時は白石の笑顔に思わず言葉を見失ってしまい、自分とも連絡先を交換しておいてくれと携帯電話を取り出した白石の綺麗な手を見つめてしまっていた。 恋心など、気づいてしまえば勝手に育つ。こうなってほしいのだろうと勝手に大きくなる。意識を向けたが最後、単に面容が整っているだけではない、テニスが上手くて後輩思いで、時に仲間と他愛ない話に花を咲かせて笑っている白石の姿は、の高校生活の中心にいつもいてくれた。 「、顔潰れるで。どうしたん」 「この前の化学のテストが死んだんです」 「大失敗したみたいです」 「にしては落ち込みすぎやろ。別に留年するようなもんちゃうやろ? 来年また頑張ればええやんか」 「やめてください、頭よくて格好ええ先輩には絶対分からない悩みなんで」 「光くんにも負けたのが耐えられへんみたいで」 「あ、悪い。あいつに化学教えたの俺やねん」 「……! 先輩、余計なことを……!」 学校のどこかで会えば、声をかけてもらえた。食堂で学年末テストの結果に落ち込んでいたあの時、白石は心からおかしそうに笑ってくれて、その笑顔一つでテストの点数も忘れられそうだった。 「悪い悪い。次はお前にも教えたるから」 「ええー。財前と机並べるのは、ちょっと」 「……聞こえる大きさで言うことちゃうやろ、お前」 「お、財前。ええとこにおった。ほな部日誌頼むで」 「相変わらず時代遅れな分厚さなんすけど。なんで妙にアナログなんすか、うちは」 背後から現れた財前に、親友が密かに笑いかける。財前もそれを無下にはしない。想いを共有している者同士は、たったそれだけで心の温度を上げることができる。 親友と財前の恋心から生まれてしまった片想いを、だがは口に出さなかった。自分は相応しくないと分かっていた。あくまで大事な後輩の彼女の親友という、その立ち位置を忘れたら最後、絶対に彼はこれまでのように声をかけてはくれないだろうと分かっていた。 だから白石が他の女子に告白される様を見続けたし、恋人とともにいる姿も見守り続けたし、勝手な理由で彼を傷つける女子たちを心の中で侮蔑した。それがあの高校で、に与えられた役割だった。 白石の腕の中で夢から覚めた。狭いシングルベッドに寝かせてしまって申し訳ないと最初に思った。この人の体はテニスをするために美しく生まれ、丁寧に磨き、鍛え上げられてきたものなのだから、このような些細なことで体に負担をかけさせるようなことはあってはならない。テニスを優先させない歴代の彼女に忍足とともに怒っていた高校時代の自分なら、今の自分を軽蔑の目で見るに違いない。 けれど、抱いてもらえた喜びをしまい込めない自分がいる。抱かせてしまった自分はあざといと分かりながら、結局朝までその温もりに縋ってしまった。 は自分の肩にかかっていた白石の手をそっと下ろし、長い睫毛をしばらく見つめた後静かにベッドから出た。外はまだ暗い。洗面所に向かう足取りはどこか重く、下腹部の違和感が昨夜の出来事をちらつかせる。そっと見つめる鏡に映る自分は、感情だけを優先させた末路としての今日をどのように迎えたらいいのか分からないという顔をしている。 (……絶対駄目やった。付き合ったって、絶対途中で呆れられる。嫌われるぐらいやったら最初から彼女になんかならん方が) 絶対にいい、と言い聞かせようとしたところで涙が流れたことは、白石には言えなかった。 その後起床した白石とどこかぎこちない会話のまま、ホテルを出る。衝動的な行為に浸かった場所から一歩外へと出れば、そこには気恥ずかしくなるほどの清々しい朝の空気があって、はぼんやりと空を見上げた。いつものように気遣いの心を見せる白石は、黙ってに手を差し伸べる。選ぶ権利を与えられた上で、は黙ってその手を見つめた後、白石の顔を見ないようにして静かに手を取った。 新たな一日が始まっている朝の三ノ宮駅で、手を繋いだまま改札前で立ち止まる。自分は彼とは一緒の電車には乗れない。白石もここで待ち合わせをするようになってから、いつも改札前で別れることに疑問を抱かない。白石はそっと手を離し、ICカードを取り出しながらの頭を軽く撫でた。 「答え、待ってるから」 憧れた大きな手、期待を裏切らないほのかな温もり。目頭を熱くさせる特技はこんな自分には発動してもらいたくないと、はわずかに下を向いて顔を隠す。 「考えさせてください」 分かった、と答える彼の口調は高校時代の頃のようで、昨夜の出来事などどこかに捨ててきてしまったような冷静さがあった。朝のラッシュに1時間近くもさらさせてしまうことを後悔するぐらいなら、自分ももっと昨夜冷静に過ごせばよかったとは顔を上げる。 「一つだけ言うておいてええか」 「……え?」 「俺、自分から告白したのはだけやから。何か気になることあっても、それだけは覚えといてくれるか」 指先が離れる瞬間、囁くように残された言葉に顔を上げた時には、白石はもう改札口へと向かい、そして軽く笑って人混みの中に消えてしまった。 縋ることは正しいことなのだと響く言葉に、はしばらく呆然と佇むことしかできなかった。 |
| >>02 21/09/10 |