うたかたに触れたら 04

 それは別れを切り出している言葉だと、理解するまでには随分と時間がかかった。
 夏の風が吹いたあとだっただろうか。の視線がいたたまれなさに負けて逸らされたあとだっただろうか。それとも自分の心臓が大きくはねたあとだっただろうか。ひとつひとつの情景や感覚は覚えているのに、そこに費やした時間はまるで分からない。自分の身体が一瞬自分の意思で動いていない別のもののような、そんな感覚に近かった。

「もう、あかんのかなあ」
「……なにが?」
「どうしたらええか分からんくなる時がある」

 初めて唇を近づけた1週間前の水曜日、離れたあとでぽつりとは呟いていた。
 しばしの沈黙はあったように思う。余韻と称すれば響きはよかったが、の瞳が嬉しさに揺れているようには見えなかった。握った小さな手のひらが、いつものような温もりを宿してはいなかった。それにもっと早く気づくべきだったと今ならいくらでも言える。
 しかしその時は、自分の感覚に必死だった。
 溺れていく自分の感覚を止めたくないことに必死だった。

「なんもせんでええって。おってくれるだけで俺はありがたいで」

 頬をそっと右手のひらで包み、向かい側の椅子に座らせる。視線の高さが等しくなって顔をこちらに向けさせれば、左手を頬に寄せても包帯越しに温もりが伝わってしまって我慢をしている意味がなくなった。
 夕暮れの教室で、何度唇を交わしたかは覚えていない。
 途中呼吸が苦しそうになっても、は絶対に白石の左手を払いのけなかった。だから離せなかった。

「溺れすぎよ、蔵リン。部長の任務はきちんとしてくれとる、それは分かってんねんけど、それにしたって」

 その想いは透けて見えるほどだったのだろう、翌日のテニスコートで小春がそっと呟く。渋々忠告をしているのだ、小春の顔にはそのように書いてあった。
 いつもであれば仲裁(という名のお節介)をする忍足が白石の恋愛に対してだけは寛容な態度(という名のお節介な態度)をとるものだから、あえなく自分が憎まれ役を買ってでる。そう訴えてならない視線に一度は怯みそうになったが、白石は笑って返すばかりだった。

「部活に支障をきたしとるつもりはないねんけどな、問題でもあったか?」

 小春は首を横に振る。しかし顔は晴れない。

「問題がないから、よ。溺れてるのに問題がない、それが問題やっていうこと」
「難しいこと言うな、小春は。はっきり言ってくれてええのに」

 お笑いの場面にいない小春は、恐らく一番常識人だろう。いやお笑いというものがそもそも自分の欲求から行っているものではなく、相手のために身を捧げているという視点から見れば小春ほど相手を想い、敬う感情を持っている人間はいないのかもしれない。示し方こそ違えど一氏も結局は似たようなもので、このふたりの言葉は時に痛みを伴うほどの真実をつぎ込んだものになる。

さんがそこに気づけへんような子やったら蔵リンは彼女になんかせえへんし、まずさんが告白なんかせえへんってことよ。見くびらないでほしいわ、アタシはふたりのことを誰よりも知ってるつもりやから」

 真っ直ぐにこちらを見つめる視線が痛くて、沈黙で誤魔化したあと先に目を逸らしたのは白石だった。

「うまくやってんのが褒められるのは、他の人の前だけでええやないの。うまいところなんて、うまくないとあかんところだけでええやないの。ねえ、蔵リ……白石さん」

 眼鏡の奥の細められた瞳が、なにもかもを見透かしているようだった。

さんは、格好ええ白石蔵ノ介が好きやなんて絶対言うてないはずよ。ねえ気づいてくれへんかしら、アタシ、白石さんもさんも大事なのよ」

 それ以上小春は言葉を向けなかったが、それが水曜日のテニスコートだったということは恐らく予兆の意味も込められていたのだろう。

「ごめん、白石くん。無理やった。一緒におればおるほど、もうあかんって思ってしまう」

 始まりも終わりも、なにかが起きるのもすべて水曜日になってしまっていた。
 小春の言葉をうまく消化しきれないまま訪れた教室でに呟かれて、一瞬言葉は生き方を見失った。白石が黙っているとそれを訝るでもなく、むしろそのような反応をすることを見透かしていたかのようには笑う。

「元に戻ろ。前みたいにしよ。私は、白石くんの彼女になったらあかんあった」

 自分が水曜にしかとの時間を作っていなかったことに気づいたのは、すべてを聞き届けたあとだった。
 自分は、水曜以外のを知らない。でも相手は知っていたかもしれない、むしろ知っているだろう。自分の知らないところで、知らない時からこちらを見てくれる瞳を持っていてくれたが水曜以外の自分を知らないはずがない。
 けれど、水曜以外のを自分はどれほど知っているのかは分からない。
 どっと汗が吹き出す。テニスコートで経験するじわりと滲む汗ではない、ラケットを握り締めて滴る感覚ではない。身体の内側の熱が一瞬ひいて、頭をなにかで殴られたような感覚のあと一斉に鳥肌が立つような汗の出方。それは言葉を殺す力を持っていると気づいても、何の役にも立たない。

「ええよ。悪かったな、彼氏らしくなくて」

 思考の主導権すら奪われて、思いもしない言葉が紡がれる。
 はその言葉を聞くと、悲しそうに笑った。どうして最後まで笑っていられるのだと尋ねればよかったのに、そこで出てくる言葉を持たなかった。



「別れた……て、は? お前なに言うてんねん。この暑苦しい時に」

 珍しく怒声が飛んでこないと思ったら、忍足はひどく真顔だった。本気で冗談を言ったと思ったらしい。受け止めてやるほど、つっこんでやるほどのレベルには達していない冗談だとその顔が言っている。今まで彼女を作ってこなかった代償がこれか、と白石は情けなくて笑ってしまった。

「なに笑てんねん、……て、まさかお前」
「冗談で言うことでもないやろ。ほんまや。昨日別れたで」
「は?! なんでや、お前らべつになんも悪いことなかったやんか。この前だって普通に話しとったし……なんや、なにがあった?」
「悪いことがなかったから、やろ。やっぱ難しいわ、俺には向かへん」

 カッターシャツを脱ぎ、目に眩しいユニフォームに腕を通す。3年目になる習性は、何も考えていなくともできることばかりなので楽だった。

「自分しか見えてへんかったら、意味ないんやろ。そういう意味や」

 自分は本当はそのような人間ではない、と心の中で誰かは呟いている。テニスに関しては、四天宝寺中学のテニス部に関しては誰よりも部員たちのことを考えている自信がある。それが絶対だったからだ、優先順位という言葉に意味を持たせることが馬鹿らしいと考えていたからだ。
 同時に、それしかできていないという意味に気づかないふりをしてきたからだった。

「……お前、それでええんか?」
「なにが」
「やから、その」

 スライド式のドアのノブに手をかけた時、忍足が呟く。振り返れば今までに見たことがないほど神妙な面持ちでこちらを見つめる親友の姿がそこにあり、どうして自分よりも悲しそうな顔をしているのだろうと思うとなぜか頬が緩んでしまった。

「ええもなにも。振られてしもたら、俺には何もできへんし」

 蛍光灯に別れを告げて、照りつける太陽の下に身をさらす。歩くだけでじわりと肌が嬉しそうな悲鳴をあげていた。こういう汗のかき方しか慣れていないのだろう、心地よさすら感じてしまう今の自分が白石は情けなくもあり、哀れで、どこかおかしかった。
 テニスに身を投じていれば、違うことは考えなくてもいい身体にはしてきたつもりだった。

「光くん、彼女できたらしいわ」

 コートに入ってボールを軽く地面に打ちつけていると、小春が近寄ってきて呟いた。その時までは、このコート上では理不尽な命令に従う身体ではなかったはずだった。
 白石はボールを手に取り、そっと小春を見つめる。嘘はついていない瞳だった。コート隅でテニスシューズの靴紐を結びなおしている財前に目を向けてみるものの、飄々とした雰囲気は普段と全く変化なく、言われなければ何の変化にも気づけそうにない。
 タイミングがいいのか悪いのか、と白石は自嘲しそうになるのを懸命に堪えた。

「誰? あいつから告白したんか」
「ちゃうみたい。2年の子で、なんや向こうが先に惚れてしもたて」

 ああ、と記憶が相槌を打つ。図書委員の財前が居残り練習をするというので付き合っていたある日の夕方、そういえばそのようなことがあったと思い出すとあとは勝手に記憶が憶測を紡ぎだしていった。自分の記憶力に感心すると同時に、財前にとっては劇的な変化だったにも関わらず片隅に追いやり過ぎていた自分が情けなかった。

「そら関与したらんとあかんなあ。財前、今まで彼女なんかおらんかったやろ。絶対愛想つかされるで、その前に助けたらんと」
「……そうね」

 小春の視線には気づかないふりをする。自分の言葉にまるで重みがないことにも気づかないふりをする。笑みを向けることだけは意識せずともできる、皮肉な状況に心の中で笑った。

(愛想つかされたんは自分やないか。なにを偉そうに。……下手したら財前の方がよっぽど幸せにするとちゃうんか、あの子の顔に全部書いてあるわ)

 渡邊が来るまでの間、部員たちに指示を出しながら頭の片隅で余計なことを考える。手繰り寄せた記憶の中で、財前の彼女になったのだろうと思い当たる女子がテニスコートにやってきた時の表情を思い出せば、なぜか敗北した気分になった。
 財前の彼女ととでは、比べる対象が異なると分かっている。分かってはいるが、他に比べられるだけの経験を持っていない自分では頭の中で勝手に比べてしまって仕方ない。
 太陽に負けて、眉間に皺を寄せる。ラケットを持つ左手に力をこめる。

「財前」
「なんすか」

 振り返る財前の顔に曇りはない。いつものことだった。このひとつ年下の天才は、自分の感情をあまり表に出さない。
 だからこそ、その澄みきった視線を真っ直ぐにぶつけられると痛くて仕方なかった。

「謙也とのダブルスはどうや、仲ようやっとるか?」
「まあまあじゃないすか。まあ、あの程度の足の引っ張りなら予想しとったし」
「白石、お前なに俺の悪口言わせとんねん!」
「悪口やないし、事実やし」
「だ、そうです」
「財前、お前ー!」

 忍足が財前を追いかける姿に目を細められたのも一瞬だった。すぐに心が曇る。財前がなぜか心の靄などなにもないという顔をしているように見えて、もしかしたらもともと持っていなかったかもしれないのにそのように見えて仕方なくて、自分はどれほど重症なんだろうと少しだけ思う。

「白石」

 忍足は、そんな自分を全て見透かしているのだろう。小春が物事を見抜く天才なら、忍足は親友の心を見抜く天才だった。顔に出てしまうのが最大の難点だが、その感情が心地よいほど優しさに満ち溢れている自分の長所を、この男はもっと理解した方がいい。

「お前が心配せんでも、財前はちゃんとするからええ。なんとなく分かる。お前とよう似とるけど、素直な不器用な分あいつの勝ちやわ」

 風に好きに髪を遊ばせる。白石は静かに言葉を受け止めて、やがて笑う。

「それやと俺がまるであかんかったみたいな言い方やな、謙也」
「……」
「そこはのるところやで。沈黙される方がきついわ」

 一度ボールをコートに落とし、ラケットで打ってから左手で掴む。
 人の温もりのしないボールを握り締めて初めて、自分がなにをなくしたか分かったような気がした。



 水曜に教室に戻っても、もうが来ることはなかった。
 翌日となりの席のに話しかけてみることもなかった。クラス内での必要な会話はお互い避けずに行えるが、見ていて痛々しいと忍足が呟くほど知っている人間からすれば落ち着きすぎた会話だった。それ以上の中身もなかった。
 夏の風が吹いての黒髪が揺れても、それに触れることはなかった。
 つい左手で頬杖をついて授業を聞いてしまって、せめて右手でやってとたしなめられることもなくなっていた。
 ただ、髪の香りばかりがいたずらに届けられる。

(隣におるんやけどな。手伸ばしたら届く距離なのに、ありえへん)

 開け放たれた窓の向こうに覗く青空に目を細める。
 自分以外のまわりはなにも変わっていないのに、自分だけが過去の時間の中に取り残されている。なにが悪かったのか、テニスであれば自分のことでも客観的に分析する自信があるのに今回のことはまるで見えない。しかし心はいつも以上にもがこうとしている分たちが悪い。
 答えが出ていないことを忍足も小春も気づいていた。一氏も気づいていたが、もう何も言ってこなかった。
 そのまま時間が過ぎれば幾分か心のきしみが和らぐか、答えに近いなにかが分かるようになるだろう。そう自分でも思うようにしていた、ある日の放課後だった。

「七原、ちょお待って」
「なに?」

 どこか聞き覚えのある名前に白石は振り返る。委員会の仕事を終えてテニス部に遅刻して向かう、その渡り廊下での出来事だった。
 声の上がった方に視線を向けると、こちらに背を向けた女子の姿と見覚えのない男子。恐らく下級生だろうその男子は、白石の視線に気づくこともなく目の前に佇む女子になにやら話しかけている。学校内であればどこでも見かける普通の光景だった。
 下級生に知り合いは多くない。聞き間違いか、と足の方角を戻そうとした時、女子の顔が上がってちらりと視界に映る。白石は一瞬でテニスコートへと向かおうとする足を止めた。

(……財前の彼女の子やないんか、あれ)

 記憶力には自信がある。しばらく見つめていてそれが確信へと変わった時、目の前の光景の意味もがらりと変わってしまった。

「あんな、今度のお笑いツアーのことやねんけどな。あれさあ」

 親しげを装っているが、そこに距離があることは一瞬で見てとれる。せめて口調だけでも近づいたものにしたいという表れなのだろう、だから渡り廊下などという中途半端な場所で声をかけてしまうのだ。
 財前の彼女はその意味を恐らく理解しきれていないのだろう、ご丁寧に呼び止められて話を聞きながら、時折笑い声すら上げている。その会話の先になにが待っているのか、傍観者の白石でも予想がつくことを当の本人がまるで気づいていなかった。
 瞬時に状況を理解し、白石はテニスコートへと急いで戻る。

「小春、協力せえ」
「なにかしら、楽しいこと?」
「財前を男に仕立てる企画や。失敗は許されへんで」

 状況を説明するよりも早く、小春はその言葉だけを聞いて親指と人差し指をくっつけてみせた。

「光くんがお悩みよー! あかんで、色男が台無しやないの!」
「うっさいっす、もうほんま」

 小春の第一声に始まって、黄色いボールが晴れ渡った初夏の空の下で踊る。いつのまにか一氏までもが加わり、財前に構っている間に小春はテニスコートをあとにしていた。
 後日聞いたところによると、部室の財前の鞄から勝手にノートを持ち出して2年7組の机の上においてくるという、小さいながらも勝手きわまりない細工を施したらしいが、結果がよければどんな仕掛けがあろうと構わなかった。
 なにを必死になっているのだろう、と白石は思わず笑う。

(やっとるつもり、ではあかんねん。相手に伝わってへん考えなんかいいも悪いもない。……独りよがりになるんは俺だけでええやろ)

 小春と一氏にちょっかいを出されたあと、しばらく呆然としていたもののやがて不機嫌そうにボールを集めだした財前の背中を見つめる。大柄ではないが抜群のセンスを持っているテクニック重視の後輩は、愛想は悪いが憎むことは絶対にできない愛嬌がある。自分と同じ道は歩ませたくはなかった。

(好きなら好きて、大声で言うたってええやんか。彼女なら。それを一番許してくれる子の前で我慢してどないすんねん。せやから隙見つけられて手出されるんや)

 ボールを集める財前の前にしゃがみこみ、無言のまま黒髪を乱す。小さな抵抗のあと呆然とこちらを見上げてくる財前の幼さの残る顔に一度苦笑したあと、白石は呟いた。

「取り返しつかんくなる前に、やれることはやっとけ。あとで助けたくてもできんようにされたらこっちが困る」
「……は?」
「千歳の言うとった言葉の意味が、俺もようやく分かったわ」

 ため息をひとつ零す。1週間前の自分に向けていたい言葉を呟いても、財前に届くかどうかは分からない。
 だが、大切なものを大切だと宣言することもできないまま終わるなどという、そんな道だけは絶対に歩ませはしない。白石はそっと笑み、校舎を指差す。

「忘れ物しとったで、お前。はよとってこい」

 財前は一度目を丸くして意味が分からないと抵抗したが、石田が手伝ってくれた。父親が子どもをあやすかのような軽々とした運び方で財前を連れ出し、白石は餞別だとボールをひとつ放り投げる。そして戻ってきた小春と入れ替わりになるようにしてコートの外に追い出した。
 フェンスの向こうの財前の顔には理不尽極まりないと書いてあって、どうしてこのテニス部は全員わかりやすいのだろうと笑い声をあげそうになる。だがそれを見届けるより先に財前は渋々と校舎に向かっていた。
 素直さは忍足にも負けないと、その素直さをどうして自分は身につけられなかったのかと、複雑な思いでその背中を見送る。

「お前かて、まだ忘れ物ですむと思うんやけどな」

 一部始終を見ていた忍足が呟く。一氏がちらりとこちらを一瞥したあと、くるりと背中を向けてしまったのを見て白石は苦笑した。

「俺は、もう遅いわ。結局を苦しめることしかできへんかった」

 一番素直になれた瞬間は、敗北宣言を出したのと同じだった。
 見上げた空は、慰めてくれているかのようにはるか彼方まで青く澄み渡っていた。



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10/04/29再録