うたかたに触れたら 05

 真相は、心の中にしまった。白石が気づかないよう、心の奥底に沈めた。
 学級委員が無造作に作ったくじを手に取り、番号を確認する。黒板には机を意味する四角い枠の中にランダムに数字が書き込まれ、クラスメイトたちが全員手元の紙と黒板とを見比べている。は今の席とは異なる場所に自分の番号を見つけると、そっと視線を左にずらす。主は不在だった。
 隣に座る白石とは、親しい会話をすることはなくなっていた。
 黒板の前で、忍足とともに紙を開いて笑い声をあげている白石の姿を遠くに見つめ、心の中で別れを告げる。近すぎて遠すぎる、息苦しさすら覚えるこの席とはもう無縁となる。

(近すぎたらあかんわ。気になってしまう)

 途端混雑を極める教室の中で、自分の机を運びながらは心の中で呟く。
 始まりはこの教室だった。ただし今のような爽快感溢れる青空の下ではない、寂寞とした感情を揺さぶり起こす夕暮れの見守る中での出会いだった。

「考え事をするには部室はあわへんやろ。あいつらやで? せやから教室に逃げてくるっちゅーわけや」

 何度目かの水曜日の日、窓際の自分の席で白石は笑ってそう呟いた。言葉のあとには忍足や小春という静寂という名とはなかなか寄り添いにくい名前が繋げられていたため、部室の騒がしさが白石を夕暮れの教室に急き立てるという意味にはなっていた。
 だが、表面どおりの意味で受け止められる素直さが自分にあったならば、恐らく彼とそれ以上の会話をすることはなかっただろう。

「白石くんは、真面目やね。ほんまに真面目。真っ直ぐすぎて、強いね」

 あの時、そう呟いたのは正解だったのか不正解だったのか。
 独白に近い小さな言葉に、最初は沈黙が返された。やがて笑い声が静かな教室の中に響き、口元を握り拳で押さえてようやく白石は返事をする。

「なんでそうなるんや。確かに不真面目やないとは思うけど、そんな真顔で言われたんは初めてやで」

 端正な顔立ちと柔らかい物腰。決して相手を拒絶しない、笑みには笑みで返してくれる白石が、目尻に指を添える。光るものが見えたのはそれからしばらくしてのことで、笑うほどかとつっこむと、笑わずにはいられないとあっさりと宣言された。
 素直な人だと、改めて思った。
 校内でその名を知らない人はいない、テニスで有名な同級生だった。あの個性が溢れるどころか常に自己主張していやまない部員たちをまとめあげる立場なのだから仕方ないと、納得してしまうほど目立つ存在だった。だが彼を嫌う人よりも好いてしまう人の方が多く、それらが結局人気という目に見えるようで見えないなにかを作り出してしまう。それが白石という人間だと、最初は思っていた。

「みんな、見るとこ間違えとる気がする。格好ええとか、そこやないって最近よく思うわ」
「……なにが?」

 挑発に似た視線を笑みの中に隠す。白石はの言葉を興味深そうに聞いていた。
 この人は、自分を見失って取り乱すなどということは絶対にないのだろう。はしばらくの沈黙の中で改めてそう感じながら、まるで夕暮れに告白するかのように呟く。

「そこまで完璧にできる人……って、ああ完璧って私らが勝手に決めとるだけかもしれへんけど、でもそう思ってしまう人が、裏でどんな努力しとるか。そっちやと思う、白石くんを褒めるとするなら」

 正直、自分でも形は見えていなかった。ぼんやりと思うことをなんとかして伝えようとして出てきた言葉がそれだけだった。
 白石は頬杖をついて、やがて笑みを消した。ちらりと視線を夕陽へ送り、銀髪を茜色に染め上げる。その横顔を見ているとああやはり綺麗な顔だなと思ってしまう、そんな現金な自分にはほとほと呆れたが、しかし

「気づかれへんから、努力って言うんやで。まあ実際に努力しとるかどうかはおいといて。努力しとる人間は、別にそれを褒めてほしいからやっとるわけやなくて。気づいてほしいんやなくて。表面だけ触ってもらえる方が、むしろ嬉しいのかもしれへん。……って、俺は思うねんけどな。は?」
「……え?」
「俺っていう人間は、多分そっちやと思うんやけど。から見て、そう見えるかどうかっちゅーこと」

 この白石の言葉が、結局すべてを物語っていたことに気づくのは付き合ったあとだった。
 新しい席に机を動かしていれば、視界から白石は消える。いまさら気づいても、取り返そうという気にはならなかった。

(努力しとることに気づかんふりなんて、もうできへん。そんな大人やない、私)

 新しくなった視界の中には、いつもであれば視線を奪ってやまない銀髪はない。目にしないことでこれほどまで心を落ち着かせることができるとは思ってもみなかった。今まで随分と身体に悪い場所にいたものだと、思わず笑ってしまいそうになる。
 教室内で、白石と付き合っていたことを知っているのは忍足だけだった。だから別れた事実も忍足しか知らない、もしかしたら小春たちテニス部員も知らないことだった。白石と名のつく情報には無防備になることを命令された状況では、彼に想いを寄せる女子の存在が否が応にも飛び込んでくる。

「ええんか、お前。ほんまはもっと大切にしてもええと思うんやけど、俺は。あの白石が付き合うって言うた、その気持ちみたいなやつを」

 我慢できないといったように忍足が声をかけてきたのは、その時の一度だけだった。が笑って誤魔化したため、忍足もそれ以上は口を挟めないようだった。

(無理やって。努力して頑張って今までテニス部やってきて、その中で当たり前みたいに私とも付き合って。そんな、無理やんか。無理させるために付き合うとる彼女なんて、全然意味ないしおったらあかんやんか)

 机をおき、顔をあげる。教室の中はまだ新しい座席を求めて移動するクラスメイトたちの笑い声と机を運ぶ音に満ち溢れている。物事をもっと簡単に捉えられるようであれば、自分ももっと楽な付き合い方ができたのかもしれない。白石のことを忘れようとしていても、結局思い出してしまう自分がはおかしかった。

(それぐらい、好きやったなあ。大好きやった)

 呟きは心の中で消える。もう口に出すことはない、白石とは席も離れた。
 忘れる努力をするから、誰も気づいてくれるなと。白石の真似をしてみようかと自嘲気味な笑みが零れかけた時、視界に眩い銀色の髪が映る。

「また近くやな。よろしく」

 後ろの席から声が飛ぶ。どうして変わりない声なのだと、耳を捉えてやまない声なのだと怒りたくとも怒れない。言葉は出口を見失っていた。
 振り返って、久しぶりに真正面から見つめた白石の顔には、いつもどおりの笑みの裏に少しばかりの困惑の色が滲んでいるように見えた。

(嬉しくなんかない、辛いだけなのに。なんでまたこんな……)

 会釈をするだけで限界だった。視界を黒板に預け、身の回りの整理を始める。
 隣同士になった時はなにも話しかけなかったのに、前後になったら言葉を向ける。不自然なのは今の方だというのに、それでも言葉をむける白石の気遣いに心がはちきれそうになった。
 今でも好きでたまらないのだと、本人以外の誰かに伝えたくて仕方なかった。



 財前を見守る日々は続いた。
 見守るという名前を借りた余計な手出しだと忍足どころか一氏の視線すら訴えていたが、白石はそれらにすべて気づかないふりをした。限度を超えそうになった時だけ小春がなにかと理由をつけて止めに入ったり、財前から白石を遠ざけようとする。

「そない変質者みたいにせんでも。なあ、銀」
「煩悩に従う心を、守ってくれているのかもしれん」
「誰が。財前を、小春たちが?」
「小春たちが、白石はんを」

 テニスコート脇でベンチに腰掛けながら呟いた言葉を、石田は淡々とした表情で受け止めてくれた。だが返された言葉の意味は理解に苦しむものだった。
 いや、苦しんでなどいない。白石は石田の背中を見送りながら小さく笑う。

(気づかんふりをしとるだけや。そうや、俺が一番弱い。下手したら財前よりも)

 そもそも、なにを見て自分と財前を重ねているのだろうかとふと考えることがある。
 6月に入って席替えをすることになった。狭い教室内でも慰め程度の距離が置けると思ったのも束の間、新しく決められた席に机を移動させればその前の席にがいた。驚いたのは相手も同じだったようで、白石と一度目が合ったあと一瞬息を飲んでいたが、すぐに会釈に取って代わられた。
 クラス内では、忍足を除いては誰もと付き合っていたことを知らなかった。
 テニス部内では、忍足を除いては誰もと別れたことを追及はしなかった。
 に向けられた作り物の笑みに、同じ笑みで返す。また近くやな、よろしく。こちらこそ。たわいない会話さえしておけばまわりの誰にも悟られることがない。
 視線を落としぎみに席につき、期末テストに向けての受験生の課題を語る担任の声も遠くに。そっと向けた窓の向こうの青い空は、今日もまるで呼んでいるかのようにテニスコートを明るく照らしてくれている。

(部活しよ。そしたら気にするもんもなくなる。せや、俺はもともと部活だけで十分やったはずなんや)

 左手で頬杖をつく。その癖は直らない。たしなめてくれる人もいない。
 忍足の名前を呼ぶ担任の声に視線を戻すと、視界中央にの背中が映った。
 届くのに届かない距離にあるそれを、白石の手の温もりを知っているの黒髪が遮る。触ってもいいと言っているのか見るなと言っているのか、沈黙する背中は答えなど教えてくれなかった。
 7月を迎えても、結局なにも変わっていなかった。

(今日まで考えとる、それが答えっちゅーわけやけどな)

 教室での出来事を思い出して、白石は人知れず苦笑する。風に流される銀髪を軽く押さえて、流れるような動きでそのまま頬杖をつく。動いた視線の先には財前がいた。

「光くん、今日帰りちょっと部室で渡したいものがあるからよろしくね」
「なんすか?」
「うん、光くんがデートに成功するようにって私からの差し入れ。……って、なんやのその目」
「……いや、もう先輩らほんま、あのですね……どうしようもないぐらいお節介ですわ」
「ちゃんとせえへん光くんに発言権はないわよー! ねえ、ユウくん!」
「せやせやー」
「つっこむんやったらもっとやる気見せてください」

 口の利き方は相変わらずうまいとは言えなかったが、愛嬌だけは人一倍ある。それが分かっているから小春たちも口を挟む。財前本人からすれば理不尽極まりないだろうが、それが役割にも近い意味を持ってしまっている以上白石は止めなかった。

「そうやなくて、口出しできへんだけちゃうんか」

 まるで劇場のようだった。遠くに財前を見つめながら、突然自分の世界の中に忍足が割り込んでくる。顔を上げ、太陽を仰ぐようにしてその顔を見つめれば苦虫を噛み潰したような親友の顔がそこにあった。

「お前にはできへんやろ、あんな素直に自分の感情だけに真っ直ぐに生きるんは。お前には仕事があるからなあ、しかもものごっつ真面目にそれに取り組もうとするやつやからなあ、俺のつれは」
「褒められてんのかけなされてんのか」
「心配しとるんや、アホ」

 吐き捨てるように呟くと、忍足は白石の隣に腰かけた。石田とはまた異なる安心感があって、自分がいかにテニス部に依存しているかを思い知らされる。
 そのテニス部を守るために、自分が仕事を果たすこと。それが間違っているとは思わなかった。

「せやから、きちんと両立しとったやないか。俺嫌やで、他ごとに夢中になって部活を適当にするんは。お前かてその辺知っとるやないか」
「おう、知っとるで。大概にせえっちゅうぐらいよーく知っとるで。しかもお前が両立っちゅーやつをむっちゃできるやつやってこともな」

 苦々しさが忌々しさに取って代わられる。随分と攻撃的だな、とやや目を丸くして忍足を見つめると、あきれ果てた表情だけが白石を迎えた。

「努力すんな、って言うとるんとちゃうで。お前の好きなことを否定する気はない」

 後から思えば、そこに忍足がいなければ物事は動いていなかったのかもしれない。
 財前に触発された部分があったと、それは否定しないがそれよりももっと強く主張したいのはこの親友の存在だったことを、白石は絶対に忘れるつもりはなかった。

「せやけどな、そのままやったらあかんねん。彼女の前では。特にの前では」
「……彼女ちゃうし、もう。なに言うて」
「お前の努力なんて全部見透かすの前で、全部綺麗に両立しとるとこだけ見せたりしてもなんも意味ないっちゅー話や。綺麗なとこなんてほかのやつの前で見せたれ、の前でなに同じことしとんねん」

 白石の言葉を遮り、まくしたてるように言うと忍足はすっと立ち上がって財前を呼ぶ。黒髪に映える原色のピアスが光を反射し、白石は一瞬視線をはずす。

(別れたあとこそ言われるなんて、俺は本当になにしとったんや)

 忍足の言葉だけがぐるぐると、頭の中で回り続けていた。
 もしそこで話を簡単に理解できる力があったなら、真意を真正面から受け止められる勇気があったなら、足は動いたかもしれないし手は携帯電話を握ったかもしれない。しかし踏み出す一歩のとり方など、どのようにすればいいのか分からない。
 そこまで世話のかかる予定はなかったと、だから仕方なかったと後日忍足は呟いた。

「俺、やっぱ白石部長とちゃいましたわ。全然ちゃう、絶対ちゃう」

 財前が部室でそう呟いたのは、練習で身体を酷使しつくしたある日の夕方のこと。
 思えばそれは水曜日のことだった、そこまで計算して忍足が(小春も共犯に違いないが)仕組んだというのであれば、この親友には頭が上がらない。

「俺、溺れたら余計手離せなくなりましたわ。それぐらいにさせた子、簡単には離せません。せやから振らせたりなんか、絶対させません」
 
 財前が真顔と笑みの間の表情で宣言する。最初はなぜそのようなことを宣言されなければならないのか皆目分からなかったが、自分との一連の流れを聞かされていたのであればすべてに理由ができる。それは挑戦状ならぬ、勝利宣言だった。
 白石は静かにそれを受け止め、やがて苦笑した。どうやら自分の知らぬ間にこの可愛げのある後輩は随分と先に進んでしまっていたらしい、随分と大人になっていたらしい。不器用さと成長は関係ないのだなと気づかされて、白石にはもはやなにも言うことができなくなった。

「余裕やな、財前。ええで、証明してみせえ。お前が証明できたら、なんでも言うこと聞いたるわ」
「ほんまですか」
「……ああ、ええで。俺の負けっちゅうことやろ。なんでもええで」

 たまには、後輩の言いなりになるのも悪くない。そんな部長としての真面目さが、すべての始まりだった。

「先輩が彼女に告白し直してください。で、付き合い直す。そんでええですわ」
「……は?」
「おいこら、財前! お前なに言うて……!」

 白石が絶句したのを守るかのように、忍足が立ち上がる。しかし。

「よかね、それ。のった」

 千歳の一言がすべてを決めて、部長の権限はその瞬間だけ剥奪された。
 迫真の演技とはこのことで、この時忍足は笑いを堪えるのに必死だったらしい。小春はそんな忍足を見て頼りないと言い放ったが、だからこそあの彼女なのよと白石にとどめをさすことも忘れなかった。 
 動じない財前は、白石が得意としてきた悠然とした笑みを浮かべ、テニスボールを放って渡す。

「忘れもんは、取りにいかんと。ねえ、部長」

 不器用な人間が、自分に勝った人間が命令を下す。どこかで聞き覚えのある台詞は、まさかこの日のために用意されていたとは思ってもみなかった。
 財前に忍足、小春、そして一氏たちまでもが自分を見つめる。全員と別れたことを知っていたと、その顔に書いてある。
 素直な部員たちで困ると、笑ってしまったら敗北と同じ意味だった。

「……あーあ。どうなん、これ。今から俺めっちゃ格好悪い男になりに行くけど。ええんか、お前ら」

 立ち上がり、軽く息を吐く。だが心が妙に心地よい緊張の波を作り出している。
 忍足が笑う。小春は器用に親指と人差し指をくっつける。一氏はつまらなさそうに視線だけを向け、千歳は明るく笑い飛ばした。

「好きな女は奪ってなんぼ、って言うたれ財前」
「奪うぐらいの気概がないと部長やないですわ。悪いですけど、部長、めっちゃ独占欲強いですよ。はよ気づいてください」

 背中を押されてばかりで、笑うことしか返せない。初めての恋愛という代償はいつまでもこれだ。いつまでも、自分はこの仲間たちに勝てない。
 だが、と白石は自然と緩む表情のまま、鞄を手に取り素直に部室をあとにする。

「お前らに恋愛指南されるんは今日でしまいやからな。悪いけど、俺そんな長いこと駄目男やってられへん」

 夏の夕暮れがあたりを包んでいる。取り出した携帯電話の中に、そのメモリはまだきちんと残されている。
 未練がましいのか、情けないのか、駄目なのか、そんな問いかけは今までいくらでも用意した。初めての失恋にうまく対処できないのも罰のひとつだと言い聞かせるのには飽きていたところだ。
 だから、と。白石は一番星を見上げて一呼吸をおいてから、躊躇することなく発信ボタンを押す。
 コール音は、すぐにやんだ。
 受話器の向こうの声は、涙を押し殺しているように聞こえてならなかった。
 白石はしばらくの沈黙のあと、と名前を呼んで、そして小さく笑った。

「なあ、俺、格好悪いぐらい執着してもええかな。だけが許してくれるて思うんやけど、俺の思い込みかな」

 返事が零れた瞬間、涙が零れたかのように夕空に流れ星がひとつ飛んでいった。



10/04/29再録