| うたかたに触れたら 03 |
小さく壊れやすいと、その時抱いた感覚をもっと大切にしていればよかったのだ。 自分の独りよがりな感想で心を満たすのではなく、手を繋いだあの瞬間こそ、恋愛は自分ひとりではできないという当たり前のことの本当の意味をもっと思い知るべきだったのだ。 「なあ、お前白石のどこがよくて惚れたん? いや、俺は彼女つくれつくれ言うとったけど、実際できてみると……」 「変な感じ?」 「いや、お前がおかしいっちゅう意味やなくて! 白石が変……って、これも変やけど!」 「なにが言いたいんや、謙也」 ある水曜、それはあの日を迎えるちょうど2週間前のことだった。偶然帰りの時間が重なった忍足と3人で下校し、すぐ帰るのもつまらないということで立ち寄ったファーストフードの店で忍足が興味津々に口を開いた。 ちらりとが白石の様子をうかがう。頬杖をついて忍足の話を聞いていた白石は、の視線にだけ優しい色を向けた。 「頑張る人やから。みんなの知らないところですごく努力をする人やから」 は常にその言葉を口にした。努力をしていないわけではないがそれを認めてもらいたくて日々を送っているわけでもないので、白石としてはしっくりこない部分が恥ずかしさになって表れてしまうのだが、は頑として譲らなかった。 案の定、忍足は目を丸くしたあとあからさまに眉間に皺を寄せた。 「なんや、それ。俺かて努力しとるやないか。財前っちゅー生意気な2年がおってやな、お前ちゃんと生きてんのかってつっこみたくなるぐらいいっつもぼーっとしよって、せやのにテニスはバカみたいに上手いねん。俺はこいつの世話をせなあかんねん、どや。苦労人やろ」 「世話しとるんやなくて、謙也が世話されとるんやないか」 「ああ、そうなんや」 「なんでやねん」 不思議な感覚だった。忍足が向かい側に座っている、それはいつもと変わらない。しかし今日は自分の隣にがいて、忍足との何気ない会話を聞いて笑っている。忍足の彼女と3人で過ごしたことなどなかったのに、とは3人で過ごしている、それを当たり前のようにできている今の時間に驚きと喜びがあった。 「、お前ほんまに白石でええんか? 格好ええのか変なんかよう分からんで、こいつ」 彼女をつくれと声高に叫んでいたのはお前ではないか、とつっこみを入れたくなるほどいたく真剣に問いかける忍足に、も同じ感覚だったのだろう最初は笑った。 「白石くん? 可愛えよ」 あっさりと断言した、予想外の言葉だった。一瞬場が静まり、忍足はオレンジジュースを飲む手をそのまま止めてしまう。白石よりも忍足にとって衝撃的すぎたその言葉は、後にいつまでもひきずられることになるのだが、当の本人はいたって真面目だった。 「格好ええのはみんな知っとるやん。格好よくて当たり前なんやって、白石くんは」 「無駄にハードルあげんといてくれ、とりあえず謙也はそないなこと思ってへん」 「なんで。いっぱい頑張ってる人が格好よくあらへんなんて、そんなことみんな思ってへんよ。ねえ、忍足くん」 「お? お、おう」 「せやから、白石くんは格好ええ。でも時々可愛い。こんでええやん、だめ? 私嬉しいけどなあ、そんな努力する人が彼氏なんは。私でもなんか役に立ててるんかなって」 真正面から堂々と問いかける。瞳に翳りはない、嘘は言っていないと身体全体が言っているようだった。言葉を飲み込んだのが自分だけではなく忍足もであるという、その時の反応が全てだった。 (素直に人のことを褒められる、そっちの方がよっぽどすごいと思うわ) のように言葉に出しては伝えられなかったが、常々白石はそう思っていた。テニスのことになれば枷など存在しないのだが、如何せん経験をしてこなかった代償としてに対する感情をうまく言葉にすることができない。実は好きだという言葉を口にするのですらいまだに慣れず、滅多にあらわにできない自分をはどう思っているのか時々気になった。 「……ま、まあ、うまくいっとるんちゃうの」 店を出たあと、複雑そうに忍足は呟いて帰っていった。恋愛に関しては先輩だと豪語していた彼も、自分の想定外の出来事にはうまく対処できないらしい。素直で真面目なところは変わらずかと思わず苦笑して見送れば、がそっと視線をこちらに向けていた。 「悪かったな、つき合わせて。ほな帰ろか」 「うん」 夕暮れが街を染める。 小学生時代に見慣れた景色とは違う、四天宝寺地区独特の雰囲気に戸惑ったのも最初の頃だけだった。小学校卒業と同時に引っ越してきたこの街は存外居心地がよく、そう感じられる理由が中学に入学して出会ったテニス部のメンバーがいたからだということは痛いほどに理解している。自分は周りの人に支えられている部分が多すぎる、だからこそ自分の努力には手を抜けない。 清々しいほど、近頃はそう思える。白石は夕陽に目を染める。 (謙也の勝ちやな、これは) 始業式の日の出来事が思い出される。思わず苦笑が零れれば、がちらりとこちらに視線を向けた。なんでもないと手を振る。は小さく笑った。 「忍足くん、優しいよね。私の友達めちゃくちゃ忍足くんびいきだよ」 「伝えたればええのに。喜ぶで、あいつ」 「あかんて。彼女さんに悪いわ、1年の頃から付き合うてたんやろ? 困らせたいわけとちゃうし」 「そんなもんか。別にあんま嫌がるようには見えへんけど、あいつ」 「忍足くんやなくて、彼女さん」 「あ、そっち」 「そっち」 何気ない会話の居心地のよさを、テニス部の仲間と家族以外で感じる日がこんなにも早く訪れるとは思いもしなかった。気を抜けば頬が緩む。情けないと思いつつも構わないと居直っている自分もどこかにいて、そうすれば考えることはただひとつだけなのだ。 今の自分を支えてくれる人の中の大事なひとり、それがであると自分で決めたのであれば、に報いるべき努力もすべきだった。 それは分かっていたが、なにが報いるべき内容なのかはあえて考えなかった。 手は、繋げなかった。会話をするだけで精一杯だった。 そんな心をどこまで読み取っていたのだろう、その時夕陽を見つめていたは小さく呟いていた。 「……ええんかなあ」 「え? なんて?」 「ほんまに、ちゃんとしとる白石くんに、私はええんかなあって。ふと思ってしもた」 手のひらの次、その横顔も小さいと思う夕暮れだった。 最初はなんのことかと思った。温まっていたはずの心が肌が、一瞬なにかに吹かれたような気もしたが確認する術はない。 「……謙也たちと比べとるんか? 比べてもまず勝てへんやろ、あっちの方が先輩やで」 「うーん、ちょっとちゃうんやけど……でも、そうやなあ」 「珍しいな、がそないなこと言うの。まあなんでも言うてほしいけど」 それ以上の言葉を用意できない、それが今まで彼女を作ろうとしてこなかった罰だというのであれば、受け入れる以外はなかった。 はぼんやりと茜色と薄い瑠璃色が混ざった夕方の西の空を見つめる。帰り道、その視線が白石を向くことはなかった。 「恋愛下手にもほどがある」 珍しく、部室で呟いたのは忍足ではなく一氏だった。 雑誌を読んでいた千歳が面白おかしそうにこちらを見つめる。どこか浮世離れしたところがある彼は、いつも一線をひいたところから物事を見つめる。一氏が会話の先頭を担当するというのは珍しいことで、見渡せば小春の姿がないのもおかしなことで、白石はユニフォームを脱ごうとしていたその姿勢のまま手を止めてしまう。 「なんや、いきなり。……ちゅーか俺、謙也以外にその話はしたつもりなかったんやけど」 「アホ、小春とケンヤとどっちが賢い思てんねん」 「そら小春や。間違いなく小春や」 「せやろ」 そうだ、と頷くと、一氏は自分のことのように自信満々に頷き返す。なにをしていると千歳の目が笑って問いかけていたが、仲裁に入る役は常に忍足であると相場が決まっているので彼不在のこの状況では事態はあっさりと進行する。 「ケンヤに心配されるぐらいの恋愛ってどうやねん、っちゅーことや。別にお前が誰と付き合おうと俺の知ったこっちゃないねんけどな、ケンヤが、あのケンヤがやで? 真剣にお前の心配をするて、それはどうやねんって」 「……あいつ、なにそんなに気にしとるんや?」 「お前が不甲斐ないからやろ。俺からすればどっちもどっちやねんけどな」 ひとつ大きなため息をつくと、一氏はつまらなさそうに頭をかく。小春とのお笑いコンビのためか周囲からは「面白い」という印象以外抱かれにくいが、その顔が実は端正であることを千歳は出会った時から指摘していたし、その言動も実は人を笑わせるためだけのものでないことはよく見ていれば分かる。愛想はなくて分かりにくいが、一氏は必ず真実をついてくる。それが一氏の優しさだと小春はよく言った。 「自分のことは棚にあげるくせに、人のことに関しては心配性なんやから」 「そうですか? 俺にはツッコミを入れて楽しんどるようにしか見え……いって!」 「光くん。駄目よ、駄目。ユウくんのよさに気づけないなんて、なんてお子様なの!」 一氏だけはよく分からないとは2年の財前の言葉だった。だが表面以外のなにかがあることに気づいてしまうからそう思うのであって、そしてその事実にあの他人に興味関心を抱かない財前ですら気づくのだ。一氏の言葉には耳を傾けるべきだと白石は理解していた。 その一氏が、冷めた視線をちらりと向ける。 「俺かて、お前が恋愛したらあかんなんて思ってへん。そこはケンヤと一緒や。でもな、あまりに不甲斐ないとな……」 「……なんや」 「『テニス部部長って案外情けないやん』って言われでもしたら……ああ、もうおぞましい。そんなん俺もうお前と絶交や、一生口きいたらへん」 「は」 「ええな、するならするでちゃんとせえ。中途半端が一番あかん。そないな覚悟もなくて彼女ができましたっちゅー顔をすんな、ドアホ」 白石の動揺をよそに(そもそも配慮するつもりもなかったのだろう)一氏は一気にまくしたてると、言い終えた爽快感とともに部室を後にした。入れ替わりのように小春が戻ってきたが、一氏の様子に目を丸くしていたところを見ると連携プレーではないらしい。 一氏が個人的な意見を率先して言うのは、珍しいことだった。千歳もそれを分かっているのだろう、なにがあったと問いかける小春の視線に小さく首を横に振った。 「部長は愛されとるってことばい」 忍足と財前が喧嘩をしながら部室に戻ってきた時、その話は終わった。 小春だけはしばらく自分を見つめていたが、白石は気づかぬふりをして部室を出る。 (中途半端、か。俺としては精一杯のつもり……やったんやけどな) 鞄の中で震えた携帯電話には小春からのメールが届いていた。一氏の言ったことを気にするなと、あの状況下でそこまで読んで送ってくれたメールに思わず苦笑する。 一氏の言葉の理解はうまくできなかったが、間違ったことを言う人間だと思っていないので不快感はない。不快感はないが、理解できないいたたまれなさだけはある。 水曜日だった。 帰りの用意をすべて整えて戻った教室には、いつものようにがいた。 「お疲れ様」 「ああ。そっちも」 労いの言葉に、はいつも軽く笑うか首を横に振る。自分には敵わないとはの口癖だったが、そんな自分に合わせて付き合ってくれているの方がよほど努力の人だと最近思うようになっていた。 恋愛すべきは今の時期で、今この相手なのだと思えていた。それでいいと思っていた。 「今日、試合しとったね。他の部の子結構見てたよ」 近づく白石に、そっと口元を緩ませる。近づけば近づくほど、まるで縋るかのようにの顔が上がらざるをえないこと、それが小さな快感にもなっていた。 「ああ、知っとる。小春たちがダブルスやっとったからやろ、あれは試合やなくて小春とユウジを見とるっちゅーやつやけどな」 「だっておほんまおもろいし」 「そう言うてもろたら本望やろ、あいつらも」 とめどなく流れる会話は心地よかった。自然と笑みがこぼれてしまうほどに自分は心を許していた、水曜日の夕方とはそういう意味だった。 いつからここまで好きになっていたのか、もう分からなかった。 本当は、今の感情が「好き」という言葉の意味をきちんと含んでいるのかも正しくは分かっていないのかもしれない。恋愛は初めてだ、彼女も初めてだ。だから今の状況を正しいと判断できる材料は、実はなにもないことを白石は知っている。しかし、 「今日、古島先生また怒らせてしもたなあ。あれどう思う」 「あれ? ああ、あのギャグ。私は好きやけど」 「謙也は聞くに耐えんっていつもしかめ面するんやけどな」 「笑いのツボがちゃうんやろね。私は先生も忍足くんもおもろいけどなあ」 自分の席に腰掛け、を仰ぐ。初夏を迎える夕方の空気を含んだ風が開け放たれたままの窓から訪れて、さらりとの髪で遊んでいく。その様子を見つめるのが、とても好きだった。かすかに届く髪の香りがいつからか自分の好みのものになっていて、頬が緩んで仕方なかった。 テニスの時はテニスと決めている。自分の役割は軽くない。 しかし、この空気だけは誰にも奪われたくない。自分の我がままも軽くはないのだ。 『するならするでちゃんとせえ。中途半端が一番あかん』 一氏の言葉は、まだ胸の奥に小さく残っている。 精一杯、主張しているつもりだった。自分にとってはこの水曜の夕方という時間がかけがえのないものであると。本来の目的である考え事のために使用する時はは決まって視界に映らない場所で宿題をしながら待っていてくれたし、そのお礼に帰り道にその時間の分だけ店に入ることが当たり前になっていた。土日は練習、オフと言われる月曜もレギュラーには自主練習があるから水曜以外はまるで接点のない毎日だったけれど、それでも自分は幸せのつもりだった。 もそうだと信じてやまなかった。 「……あー、俺ひとつに言わなかんことがあんねん」 「なに?」 そんな自分に対し、一氏が呟いた言葉の意味はなんだったのだろうか。夕方の風にさらされながら考えて、そして白石はひとつの結論を出す。 「みんなの前ではちゃんとするから。せやから、こういう時ぐらいはもう下の名前で呼びたいんやけど」 「……え?」 「呼びたなった、って言うた方が伝わる? 名字やと謙也も呼んどるし、そんなアホな話あるかって。俺はって呼ぶべきやって。……ちゃう?」 許可を求める必要は、本当はなかったのかもしれない。だが基準が分からないのだ、聞くしかないのだ。それをが拒むとは思っていなかったが、自分がどれほどを大切に思っているかを理解してもらいたいの一心だった。そのように思う。 笑うか頷くか、あっさりと肯定するか。選択肢はいくつかあったが、白石はじっとの返答を待つ。 やがて風が吹き、黒髪が揺れたかと思うと、は少しだけうつむいた。 「……そんなことされたら、私、多分、もう白石くん以外の人好きになれへん」 経験がないとはこのことか、と息を飲む。少しだけ悲しそうな、それでも頬を赤らませながら呟いた言葉に思わず身体が震えた。まるで想像していなかった言葉に冷静に対処できるような、そんな大人ではない。 「なる必要がどこにあんねん。俺でええやんか、俺は」 左手を差し出す。繋ぎなれていない手は、の右手を勝手に奪うということを知らない。差し伸べた手にが手を載せる、そこまでを見届けてようやく握り締める。 「俺は、がええ」 小さな手の中に温かな体温。きっかけはたったそれだけだった。日常の中にあるそれだけだった。が逃げなかった、残った、それがすべてでよかった。 自分よりも高い体温に促されて引き寄せる。その後自分の身体がどう動いたかは覚えていない。試したこともないキスを、見よう見まねのまま触れるだけの味気ないキスをその時はするだけで精一杯だった。 目を開けた時今までよりも一番近くにの顔があって、その瞳の中に自分が、自分だけが映りこんでいる景色が壮観でもう一度唇を近づけた。 その時は、それで幸せだった。水曜日は心温まる特別な日だった。 だから、その水曜日に別れの言葉を切り出されるとは、この時は想像すらできていなかった。 |
| >>04 10/04/29再録 |