| うたかたに触れたら 02 |
3年目の春だった。 見慣れた校舎、見慣れた昇降口。使い古した上履きは見慣れた廊下の上では軽い音しか響かない。渡り廊下から見える外の景色も変わっていなかったが、幾分かはその視点が高くなっていることに前向きな成長を感じることができた。 白石は顔を上げ、春の空を仰ぐ。 遠く広がった涙色の空は、見つめるだけで目を細めさせる力を持っていた。 「蔵リン、2組やったで。さーて、誰と一緒かしら?」 「なんや、その言い方やと小春と一緒やないんか。つまらんなあ」 「あらやだ、どうして分かっちゃうのかしら。さすが我らが蔵リンね」 「アホ、なに勝手にばらしとんねん。お前の顔に書いてあんのや、俺と一緒やって」 「……いや、謙也と一緒っちゅー選択肢はなかったわ。そうか、謙也と一緒か……」 「なんやねん、その遠い目は。……3年間一緒でうんざりなのは俺も一緒や」 居心地のいい空間の中には、必ず彼らの声がある。 3年の教室が並ぶ階へと足を向けると、こちらが探すよりも早く相手が自分の姿を見つけて駆け寄ってきてくれる。 母親には幾度となく笑われてきたが、今の自分にはこれがすべてだった。 彼女のひとりぐらいできやんの、と女家族からつっこみを受けるのは屈辱に近い、と呟いたのは忍足だ。1年の時より付き合っている恋人がいる彼からすると、白石の女気のない生活とそれを笑いのネタにまでされる状況は耐え難いものらしい。 「お、この子。ずっと白石の試合応援しとる子やんな。最後の1年一緒のクラスなんて、むっちゃ嬉しいんとちゃうの」 クラス前に張り出されていた2組のクラス名簿を見て、忍足がわざとらしく呟く。 「そうか。応援ありがとうっちゅう言葉ならいくらでも用意したるで」 「……聞かせてやりたいわ、その台詞。絶対女子のやつらは騙されとんねん、哀れや」 「ケンヤくん、女心っていうのは複雑なのよ。好きな男にならいくらでも傷つけられたっていいものなの、ねえユウくん」 「俺は小春を傷つけたりはせえへんでー!」 「お前らは男同士や! 朝からなんやねん!」 忍足の怒声で、2組の前は始業式の朝から笑いの舞台へと化す。小春たちの任務が一日一笑(以上)であることは四天宝寺に通う人間であれば誰もが承知のことで、話題の方向が逸れたとしても怒るのは忍足ぐらいなものだ。 白石は小春に軽く手を振ったあと、教室の中へと入る。忍足も渋々その後ろに従い、新鮮な景色の中で自分の席を探した。 「俺、今年の目標決めたわ」 「なんやねん、いきなり」 眉を寄せながら小さく忍足が呟く。不機嫌だと、さきほどの小春の顔よりももっとはっきりとその顔に書いてあった。顔に出やすいのはお前だと、白石は出かかった言葉を始業式の朝に免じて飲み込んだ。 「俺、お前に彼女がおらんのはもうええ加減にすべきやと思うねん。ええやろ、別に。彼女のひとりやふたりぐらいおっても。せやから今年こそは、絶対お前に彼女をつくる」 白石は目を丸くする。随分と真面目な顔で呟くから何事かと思えば、頭の中で反芻するよりも先に笑いが零れた。 「ひとりやふたりって。ひとりとしか付き合うたことのないお前に言われたないわ、余計なお節介や」 思えば、忍足は年度が変わったり学期が変わったり、果ては制服が変わったり体育の内容が変わったりする、そんな大小問わない節目ごとにそう呟くのが癖だった。妙なところで真面目であり律儀であったりする忍足は自分の信念を曲げることがない、だから親友として付き合っていけるひとりであったが、なぜか彼女の話にだけは鬱陶しいほどに反応する。 「作る作らんの問題やなくて、おらんだけや。タイミングが合えばいつかできるもんやろ、そんなもん。別に無理せんでもええんとちゃうか」 席に横向きに腰かけ、いつもの癖で頬杖をつく。隣の席、白石を真正面に迎えるように座った忍足の顔からはしかめ面が消えない。むしろ白石の言葉を聞いてさらに不機嫌をあらわにするように、首を横に振った。 予鈴が鳴る。今年初めて同じクラスになった女子が笑い声をあげながら自分の席へとつく。声のした方向へと視線を向けると、何人かと目が合う。テニスコートで見たことがあるかと言われればある気がしたが、名前すら知らない。自分の今の生活には本当に忍足たちテニス部のメンバーと、他の気の合う男子たちしかいないような気がした。 女子と話さないわけではない、ただ深入りしたことはない。 親友と呼べる女子はいない、必然性がまだ理解できない。 そんな心を、忍足は間違っていると伝えているのだろうか。久しぶりに忍足の文句を真正面から受け止め、考えてみる。後から思えば随分と殊勝なことをしたものだと笑い飛ばしてしまいそうだが、この時は忍足の沈黙が妙に肌を刺した。 「彼女がおっても部長ぐらいできんで、お前なら。せやから俺ら、今年こそはお前と一緒に全国優勝やって張り切っとんねん。……お前ばっかに重荷背負わせとるわけやないっちゅーことは、その……知っとけ、アホ」 自分は優しいと言われるが、それはそつなくこなすことが上手いだけだ。火種を作りたくないからその場を丸く収める、その能力に長けているだけだ。 本当の優しさとは、不器用でも忍足のような人間が持っているものを言うのだろう。知ってはいたが、今目の前で自分の感情を上手く伝えることができずに苛立っている忍足を見て白石は改めて思う。 「それは、分かっとる。謙也がいいやつっちゅーこともな。せやけど彼女はつくらへんで」 「……お前はー! なんでそこで素直に頷くことができへんのや!」 「あ、先生」 「あーもう、覚えとけ今日の部活! 絶対負かしたる!」 恋愛で幸せが手に入る、平穏が手に入るという忍足の平和すぎる考え方に、心はいまだ同調することはできない。それでいいと白石は思っていた。そう断言できるのは忍足のように恋人と長く付き合った人間だけでいい。結果を知っている人間だけが強く思えばいい。 忍足が自分の席へと戻る後ろ姿を見送りながら、視界の中に映る女子を見つめる。 出会って心を奪われて、溺れた恋愛をしてみる。そんな道があるなら、そして忍足が言うような魅力的ななにかが人生に加わるというのなら、飛び込んでみないこともない。 だがそれは今の時期ではないと、小さく心の中で呟いて外の景色を見つめる。 桜の花びらが舞い、名前も知らない女子の机の上にふわりと落ちてきていた。 平素、常なるものを常と以外に考えることはできなかった。そんな余裕はいらなかった、四天宝寺中学のテニス部部長とはそういう意味だと、それでいいと思っていた。 難易度が高いという意味ではない。幼い自分に術がないという意味でもない。この身に与えられた任務は決して軽くなく、いやむしろ目に見えて重い。だがそれを「重い」と口にしてしまうことは自分にその任務を与えてくれた渡邊の好意に背き、また受け入れると決めた過去の自分をも裏切る。そして負けを認めてしまってはこの先これ以上の役割を自分は心から全うすることができなくなるだろう。 幼いなりに今の状況を判断し、乗り越えようと決めたのは既に1年半も前の出来事。 夏の名残に支配されたテニスコートでの渡邊の突拍子もない言葉にすべては始まり、そして今日のような桜を迎える頃にはある程度はさまになっていたように思う。少なくとも小春や忍足、一氏、石田、そして小石川たちは自分を常に助けてきてくれていた。彼らの心情に応えることに必死だった。 「白石、これ。今度の練習試合の相手一覧や」 煙草の匂いを漂わせながら渡邊が書類を手渡す。随分とクレイジーな顧問だと思ったのは最初だけで、今となっては教師の中でも最も信頼できるのがこの渡邊だ。幼い自分には真似できない悠々とした、それでいて実があって芯が曲がらない生き方が白石は好きだった。 「申し込まれたんですか? これだけ?」 「そうや。もてんのも困るなあ、部長」 「選ぶ権利があるんはええことですね。どうしますか、今の全員の様子見て決めるか、それとも一番強いところと練習して経験値を積むか」 夕暮れのテニスコートで、渡邊は居残り練習をするレギュラーメンバーを見つめてしばらく思案する。精鋭たちのラケットがボールを弾く音が心地よかった。 「お前に任せるわ。そこに載っとる学校は全部1回俺でふるいにはかけてあるからな、適さへんと思ったところは入れてへん。せやからあとは白石が様子見て考え。順番さえ決めてくれたら、あとは俺が日程を組む」 「分かりました」 渡邊から預かった書類を手に、あとのことは小石川に任せて校舎へと戻る。 ひとりで考え事をするには部室という場所は適さなかった。小春や忍足たちがいると、どうしても楽しい方、自分が助かる方へと流された思考になってしまう。結果を見ればそのようなことはほとんどないのだが、だが自分の役割を軽く考えたくはないと思ってしまえば最後、考え込むと決めた瞬間はたとえユニフォームのままでも教室へと戻る。部活でクラスメイトたちが出払ってしまえば、この箱には大きな役割がなくなる。少しだけその時間を自分のために使ってもらってもいいだろうと、そう考えて通うようになった放課後の教室だった。 ただ、その教室通いをたったひとりの女子だけが知っていた。 「お疲れ様。大変やね、今日も考え事?」 決まって水曜の夕方にその声は響く。窓際の席に腰かけ、静寂の中で動くシャープペンシルはこの時必ず止まるようになっていた。 白石は顔を上げ、声のした方を見つめる。目に優しい表情を作れる女子だと、最近よく思うようになっていた。 「ああ、まあ。映画部も大変やな、教室の戸締り係なんて」 「そうでもないよ。校舎の中使わせてもらってるんやから、これぐらいはせなあかんってみんな分かってる」 「偉いなあ。うちの2年に聞かせてやりたいわ、その台詞」 という名前は3年になって初めて聞いた。正確には、席替えをして隣の席になって初めて知った。小春は知り合いだったらしくそれとなく情報を回してくれていたが、にとりたててなにか特徴があるわけでもなく、相手も自分を特別扱いをしてこない。それ以上関係を進めることの意味が分からないと一蹴すれば、忍足がまた首を横に振っていた。 そのだけが、自分が教室でひとりの時間を持つことを知っていた。正確にはばれてしまっていた。 「私、最初は白石くんのことめちゃくちゃ無敵な人やと思ってた」 戸締りをしながら、はしみじみとそう呟いた。 「なんていうか、……当たり前のことやねんけど、無敵になるためには努力がいるんやね。努力が見えない人ほどそういう努力もしとるって、それに気づくべきやったんやね」 自分こそ、最初この人はなにを言い出すのかと思った。それを後日伝えたらはそうに違いないと笑い飛ばしてくれたが、この時の白石には自分が今なにを言われているのか一瞬理解できなかった。褒めてくれているのか遠まわしに皮肉を言われているのか、がどのような人物か深く理解していない以上どちらとも言えず、ただ聞き役に徹する。 そんな白石に訝る様子もなく、淡々とは言葉を繋げた。 「でも、白石くんいっつもみんなのために努力しとるところがあるやん。それに甘えてばっかりなのは駄目やと思うのね、私は」 「……そうか? そんなつもりはないけどな」 少し心が痛い。随分踏み込んだ言い方をする、と思わず笑みを浮かべてしまう。それは入ってくるなという一種の防御壁のようなものだったが、には通用しなかった。 真正面から白石を静かに見つめ、やがて零れたのは、遠慮の笑みではなく見抜いた笑みだった。 「みんなの会話につきあえるすごい人、なんやなくて、みんなに合わせられる努力の人。すごいとしか言えへんよ、そんな上手くできる人私知らんもん」 夕暮れの中で響く言葉は、静寂の中では艶を持っていた。どうしてだろう、の言葉は鋭いはずなのにどこか優しい。意表をつかれて白石が言葉を継げないほどの力があった。 だからなのだと、言い訳かもしれなかったがけれどそれが初めての体験である以上、そこにしか原因は考えられなかった。 だからなのだ、その時、 「ほんまのこと言うとね、少しそうかなって思うところはあった。でも全然仲よくないし、自分が勝手にそう思っとるだけかもしれへんし。だから今まで、あんま教室では話さへんかったんやけどね。でもね、もう我慢するのもええかなって」 「……え?」 「私、白石くんがほんま好きみたい。格好ええもん、そんなに努力しとるなんて。憧れてしまうぐらい好きみたい」 唐突に飛び出してきた、まさに事故のような感覚についていくことができなかったのだ。 「……は? なに、今なんて?」 聞き直すなどという、普段の自分からは想像できない言葉が飛び出る。状況を整理することよりもついていくのがやっとという、自分らしからぬ展開に身体は正直だ。 そんな白石を見て、は嬉しさと恥ずかしさをないまぜにしたような笑みを浮かべた。 「いっぱい努力してる白石くんを本当に格好いいと思うので、憧れるので、仲良くなりたいです。……っていう意味。付き合うてほしいとはさすがにまだ内緒やけど」 好きだから付き合ってくれと、自分の感情のためにレールを敷いてくれと言うのではなく、自分の生き方を褒めて告白してくる人など、それは事故に違いないと思った。 白石は呆然とを見つめることしかできなかった。 それはまさに、のちに忍足が勝利宣言をすることになった瞬間。 告白をどう処理するかは、その場で白石に委ねられた。 答えという形ではなにかを用意してほしいと言われたが、内容については一言も言及されなかった。その潔さも今まで体験したことがなく、決まり文句はますます影を潜めた。 は我慢できず伝えてしまったあとから恥ずかしがっていたが、あそこまで堂々と褒められるとこちらの方が恥ずかしかった。だから普段なら出てくる丁重な断りの言葉も、その日ばかりは思考回路のどこにも姿を見せなかった。ただ黙り、さきほどの言葉を反芻し、やがて零れ落ちた苦笑とともに、自分の首は縦に揺れた。 「ええの? ありがとう。よかったー、ドキドキした」 「付き合う前提でええで、俺は」 「あー、ほんま。……え?! 今なんて!」 「なんやねん、がそう言うたやんか」 「え、ちょ……そこまでは高望み……!」 「なんやねん、高望みって。俺そないなこと言われる身分ちゃうで。……初めてやで、俺。告白されて受け入れるの。俺にとってはそういう意味や」 次の日から、隣の席に座るのはクラスメイトではなく恋人になった。は最初それを遠慮したが、の今の気持ちを聞いて自分がそうしたいと思ったと素直に伝えれば渋々ながら受け入れてくれた。 告白をしてきて、彼女になることを拒むのもが初めてだった。 「ほんまおかしい、ああもう今思い出しただけでも笑える。告白急すぎるやろって、なんであの瞬間やねん。しかも断るってなんやねんっていう」 「そうやってネタにばっかりするところは全然格好よくあらへん」 「あーうそうそ、ごめん。すまん。機嫌直して」 言葉を交わせば交わすほど、居心地のよさに心が浸っていった。 彼女となにをすればいいのかはよく分かっていなかった。ただ部活漬けの毎日にはなにも言わなかった。言うような人間であれば最初から見抜けていたはずであるし(その選球眼は皮肉なほど磨かれていた)、そもそも始まりの言葉が嘘偽りということになってくる。 だから毎日という時間は、気兼ねなく過ぎていった。変わらず過ぎていった。 「そらな、彼女ができてもお前ならいける言うたんは俺やけどな……せやけどお前、物事っちゅーもんには結構限度があるもんやで」 2組の中で唯一と付き合っていることを知っている忍足が呟いたことは一度や二度のことではないが、それを聞いたの方が笑っていた。部活で忙しいのにねえと当たり前のように呟き、忍足の考え方に否定的だった。 その考え方すら、今までにはなかった。そして自分と同じだった。 「」 「なに?」 週に一度、水曜だけ。部活が終わる時間が重なるこの日だけ手に入れるようにしていたふたりきりの時間で、白石は呟いたことがある。 「俺、お前と付き合えてよかったって思っとる。ほんまに」 経験の浅い自分にはこれが精一杯だった。手を握ることも抱きしめることも、自分からできるようになったのはそのあとのこと。自分の愛しいと思う感情をもっと直情的に、縛り付けるかのような強引さで示すことができるようになるまでには時間が必要になる、それほどまでに自分は恋愛に関して成長してこなかった。 だが口にするだけで、気持ちが重なることがこれほどまでに心地よいものだと知らされて、怖いほどに心が落ち着いていた。 「が一番好きや。絶対。どうしたらええかな、伝え方がよう分からへんけど」 席に腰掛けたまま、を見上げて呟く。夕陽が西から入り込んで頬を赤く染める。いつもであればここで笑ってくれるはずのは、じっと白石を見つめたあとそっと視線を落とした。 「……手」 「え?」 「手、繋いで。嬉しすぎて怖いから」 ようやく届けられた言葉に、笑うのは白石の方だった。 利き手での右手を包み、その手が見た目よりも随分と小さいことに気づく。相手が男の自分とは違う女子であることをそんなところで実感していると、やがての瞳から涙が零れた。 抱きしめることはできなかった。その方法を知らなかった。 それでも自分が手を繋いでいるのは、初めて恋をしたたったひとりの人であるという自負が心を満たす。伝われと願う。 言葉に出さず、ただ繋いだ手の温もりだけに縋るようにしばらく白石はの右手を離そうとしなかった。 |
| >>03 10/04/29再録 |