| うたかたに触れたら 01 |
与えられた春の感覚は、痛々しい記憶として残った。 2年生までの感覚を一度リセットし、新たな気分で臨んだはずのその教室に残された記憶は、真正面から受け止めるのはまだ辛い。逃げ出したくとも日々の生活はこの教室が主導権を握っていて逃れられない。 その状況を招いてしまった自分の浅はかさから、逃れられない。 「あーもう、覚えとけ今日の部活! 絶対負かしたる!」 あの時、怒声が響き渡ったのは桜散る朝の教室だった。初めて会した3年2組のクラスメイトたちの中で忍足が叫んだ声は、振り返るのには十分すぎた。 廊下側の席で、銀髪の男子が口元を押さえて苦笑する。 「なんや、白石も一緒やったんやね。忍足まで。騒がしいクラスやなあ」 親友が口にした内容とはかみ合わない笑みを零しながら呟く。 は、ただ黙って白石を見つめていた。 春のあの日、振り返らなければよかった。気づかなければよかった。 桜舞う夕空を背景に立つ姿を、見つめなければよかった。 その日、教室に足を向けたのは偶然の力などという運命的なものではない。部活の都合でどうしても訪れなければならない時間に彼がいた、ただそれだけのつもりだった。 (白石くん? なんで今頃。部活とちゃうんかな) 銀髪が揺れる。そっと窓の向こうに注がれる視線は瞳が細められているためか随分と鋭く見えた。 普段は笑みの似合う人ではあるが、ふとした瞬間にその笑みが消えることがあるのは誰もが知るところで、その瞬間は大抵「真剣な時」と形容されている。 (……真剣な時、ねえ。そうかなあ) はユニフォーム姿の白石を見つめ、そっと小首を傾いだ。 今年初めて同じクラスになった白石蔵ノ介という男を知らなかったわけではない、いや知らない方がおかしい。まるでなにかの力が働いたかのように個性派が集い、揃った四天宝寺中学というこの学校の中においては、彼は正統派に属する人間だったのだ。 抜きんでたなにかをその身に宿す人間というものは、近寄りがたさに負けたこちら側の人間から偏愛されるか敬遠されるかのどちらかのはずだとばかり思っていた。だが、彼は絶対に敵を作らない。思想と言動が連動している人間は、嫌われない。中学3年にしてその現実を知らしめたこの同級生の、内面に触れる。まさにそれが初めての瞬間だった。 (テニスしとる時によう笑とるやんか。一番真剣なはずのテニスで笑てるのに、なんでそれ以上真剣なものを作らなあかんの。みんな、理想高いなあ) 3年になって間もないこの時期、物理的には近しい存在になっていたが、だがそれは彼の中身を以前より深く見知ったということではない。むしろ視界に収める回数が増えれば増えるほど、なぜか近寄りがたさが増したと言った方が正しいかもしれない。 それほど、白石という同級生は掴めるようで掴めなかった。 仕事をしに来た足は、完全に止まっていた。どうしてユニフォーム姿の彼が教室の中にいるのか、小さな疑問がそっと頭をもたげてくる。 (せやけど、やっぱテニス上手いし綺麗な顔しとるし。みんなが好きになるんも無理ないか) テニスの腕は評判だし人当たりもよい、その口元はまるで笑うことが使命と知って生まれてきたかのように女の自分から見ても美しい輪郭を描いて笑みを浮かべることを知っている。ただそれを称賛し、個人的感情を揺さぶられる人間が大勢いる。それは遠巻きに見つめる事実として強く印象づけられていた。 自分ひとりの視界にだけ映る白石の姿を見つめる。 自分も皆のように同じ感情になるのだろうか、と自問を浮かべそうになる。 (みんな、どこを見て白石くんのこと好きやって言うてるんやろ) はもう一度、そっと白石の表情をうかがう。 教室の中の白石が、視線を机の上に戻す。夕陽を受ける横顔が綺麗だった。 (こういう表情も知っとるんかな。……こっちの方がよっぽど気になると思うけどな) 翳りや憂いなどという、中学3年生には到底不要かと思われる言葉ばかりが頭の中で羅列し始める。思わずため息に似たなにかが零れ落ちそうだった。 教室内で、テニスコートで。普段見つけられない表情、その一瞬にだけ心が震える。 思わず息を飲んだその時、廊下を駆ける足音が響く。夕方の匂いがする時間帯に響くそれはなぜか物悲しさをつれてくる。やがて笑い声が聞こえ、振り返った先には目を丸くして立ち止まる小さな男子がひとり。 「あり。先客やん。小春ー、ワイ負けてしもたでー。この場合どうなるんやー?」 伸びた前髪を払いもせず、細腕を夕方の少しばかり肌寒い風にさらされることを厭いもせず。少年は階段の方に大声で叫んだかと思うと、ひょいと曲がり角から見慣れた顔が覗く。 「あら、さん。お久しぶり」 「小春」 そこに現れたのは、去年同じクラスだった天才の誉れ高い金色小春だった。独特の口調と四天宝寺始まって以来のIQの持ち主という誰も真似できない個性が、彼をいつも偏愛の対象とさせる。も気づけばそのひとりで、潔いほどの正論しか用意しない厳しくも優しさがある雰囲気に負けて、小春とは随分と会話を重ねてきた。 その小春が、頭ひとつ分以上小さな男子に状況を説明する。母親のようでもありどこか兄のようでもある、妙な関係に思わずが笑うと、少年はまた目を丸くした。 「もしかして、テニス部の新入生?」 「そう。遠山金太郎言うて、今年のうちのルーキー。うちらの誰よりも強いかもしれへんって監督が褒め称えて仕方ないんよ。ほら金太郎さん、ご挨拶」 「あっ、ワイ遠山金太郎言いますねん!」 大きな声は、桜を茜色に染める夕方の切なさを一瞬で吹き飛ばす。 その時、ガラリと存外軽い音が響き、廊下はもうひとつの影を作った。 「あっ、白石! もー、待っとったんやでぇ。はよ勝負、勝負! ここまで白石迎えにいったら勝負してもええって小春が言うたでぇ!」 小春から視線をずらし、振り返る。さきほどまで自分に満面の笑みを浮かべていた少年の言葉が、少しだけ好戦的な色を含んだものに変わる。 視界中央に立つ白石は、を一瞥してかすかに笑った。 「金ちゃん、うるさいで。廊下は静かにせえって言われへんかったんか?」 「ええやんか、授業中やないんやし。第一小はいつもこんなんやったで」 笑われた、と思ったのは一瞬のこと。すぐにその視線が自分の方など向いていなかったことに気づく。 背後ではしゃぐ金太郎という名の新入生に、先輩としての表情だけが浮かぶ。自分という同級生に対しての顔は、そこには存在していない。 「あらやだ、それやったら光くんまで廊下で大騒ぎする子になってしまうやないの。それはイメージダウンやわー」 「は? なんで財前が叫んだらあかんのや?」 「金ちゃん、人にはイメージっちゅうもんがあんのや。財前にも守らなかんもんがあんねん、そこは分かったりや」 そっと横を通り過ぎた時、かすかに夕陽の匂いがしたのは気のせいか。 ほな、という小春の言葉にようやくこの場に引き戻される。反射的に振り返り、小春の笑みを向けられたあとで白石に視線を向ける。 部に忠誠を誓う部長。絶対の力となるべき自分の存在意義に忠実に生きる人。笑みの綺麗な人、人当たりがよい人。白石を形容する言葉は、本当はいくらでもある。 だがこの日初めて、自分の目の前に立っているこの同級生が実は人が形容できるなにか以外のもので埋め尽くされているような気がして、は肌の震えを無視できなかった。 「さんも気ぃつけて」 向けられた言葉の真意も尋ねられず、表面上の意味しかなかったかどうかすら判断できず、ただうなずく。それだけで精一杯だったこの桜の舞う夕焼けの中の出来事、それがすべての始まりだった。 人気者に裏があるなど、そんな簡単でありきたりで見慣れすぎたからくりに振り回される道理はなかった。そもそも本質が別にあるとまだ断言できるわけではない、それなのに白石をそのような目で見てしまうのもおかしな話だ。彼は同級生だ、自分と大差あるなにかを持ち合わせていると考えれば考えるほど自分が情けなくなる。 「白石? 格好ええんとちゃうの。私の趣味やないけど」 常々忍足の方が絶対にいいと断言する親友は、カラカラと笑いながらそう答えた。 「そらルックスがあるにこしたことはないんちゃう? 1年とか2年なんて、中身知るより先にそっちしか知ることできへんのやから普通にそうなってまうやろ。私は断然忍足やけど」 「ふうん。そっか。確かに白石くん好きっちゅう子の話はよう聞くなあ」 「まあ、そうなってしまう対応をしとるんも白石が一番やから」 4月という初々しい場面があちこちで見られる混雑した食堂で、笑いながら親友が視線を奥へと向ける。箸を持ったまま振り返れば、そこには男子テニス部らしき集団が歓声をあげながら昼食をとっている場面があった。 「アホちゃうの、あんたたち! なんでそこで古島先生につっこんでやれへんの……! そら校長先生の銅像磨きになるわ、自業自得よ! ねえユウくん!」 「四天宝寺の恥や、恥」 「アホ抜かせ、これで何度目やと思うとるんや! ちゅーかな、そもそもな、古島先生のギャグはつっこむに値せえ……いってえ!」 「謙也、諦め。それを言うたらおしまいやで。負けは負け、敗北。潔く認めてこそ男や」 「ひとりだけ格好つけたってお前も同罪やからな! ちゅーか白石、そもそもはお前が最初つっこまへんかったからこんなことに……って、財前、お前なんやねんその顔」 「……俺、会議言うから来たんすけど。先輩の愚痴なんか聞きたないっすわ。唾飛ぶし」 「……白石、お前教育の仕方絶対間違うてるで。絶対。ほんまむかつくんやけど」 「天才に逆らう方が間違うてるからその言い訳は聞かれへんなあ。さて、本題。銅像磨き10回目を逃れるために謙也にツッコミの才能を与えようっちゅーことで」 どこにいても聞こえる声、目立つ空気。思わず視線を奪われたあとは必ず笑ってしまうようになっている、そんな男子テニス部の学校内の位置づけでは気にするなという方がそもそもの間違いなのかもしれなかった。 (自分のことを知らへん人がおったらあかんみたい) はちらりと白石に視線を向ける。相変わらず視線がぶつかることはない。清々しいまでにテニス部のことしか見ていない、それが最近白石を見ていて気づくことだった。相変わらずクラスの中で会話と呼べる会話をしたことはなかったが、彼のもとを訪れるテニス部員との会話を見ていれば自然と分かるようになっていた。 白石は常に整然と話題を膨らませもするし収縮もさせる。無理のない会話運びをするその顔には悠然とした笑みすら浮かぶ。男子といてもひとりだけどこか同級生にあるべき落ち着きのなさとは無縁の状態で、忍足らと同じ舞台に立っているようには思えない。小春も似たようなものだったが、だが彼は武器を目に見えやすい形にしてくれているのに対して白石はすべて笑みに包み隠されてしまっているような感じがした。 「せやけど、どうして急に白石なん? 別に今まで口にしたことなかったやんか」 考えれば考えるほど分からなく、その渦に自分が落ちていっているのを認めさせるかのような一言。中学3年間同じクラスとなった親友は、にやりと笑って尋ねてきた。は目を丸くする。 「同じクラスになって、ああやっぱ格好ええわってこと? それやったら多分他の女子に負けるで、白石好きなんてむちゃくちゃライトな子以外は全員こてこてやから」 「別に深い意味はないよ。なんとなく」 親友がにっと笑んで、心の奥底を吐き出せと訴える。は軽く笑うだけに留めた。 「ま、好きになるなら覚悟がいるってこと。白石も、なんや軽そうに見えるだけで真面目やからなあ。今まで彼女がおらんって、多分ほんまの話やろ? 振られた子の話しか聞かへんもんなあ」 食堂という混雑した場所は、すべての話題を軽く済ませてくれる。親友の言葉もまるでテレビかラジオから聞こえる言葉のように軽く聞き流す。 は顔をあげ、もう一度白石の姿を見つめる。その横顔にこの前の教室で見た色などどこにもない。 自分が知っていると思っている白石と周りが思う白石とはどこかずれがあるような気がして、けれどそれがまず正しいのかどうか、正しいとすればどのような意味を持っているのかが分からなくて何も言えなくなる。 「まあ、来週席替えするらしいし。白石の傍になってみたら色々と分かるんとちゃうの? あ、でも私はやっぱり忍足の方がええと思うけどね」 親友の言葉は的を射ているどころかまるで予言だった。 そう思ったのはくじ引きの番号の促すがまま自分の机を移動させ、顔をあげたその時。視界片隅でちらりと銀髪が揺れたような気がして顔を上げれば、窓際の隣の席に白石の姿があった。 思わず息を飲む。部活に向かう帰りのホームルームで行われた席替えの中では、新しく用意すべき挨拶の言葉など誰も考えていない。白石も同じだったのだろう、どこか気だるそうに自分の机の周りを片付けると当然のように教室後ろのドアからテニスコートへとあっさり向かってしまった。 (優しい? 人当たりがいい? ……ちゃうわ、絶対。めちゃくちゃ他の男子と一緒やん、全然普通やないの) 話しかけられなくて嬉しく思う、その感覚がまず狂っていたのだろうとは小春の言葉だ。困ったような呆れたような、けれど最後には笑ってそう教えてくれた小春の言葉は耳に焼き付いて離れない。 隣の席だから、という言い訳はある程度使用してもよいことだけけは認めてもらえた。 「そら蔵リンかて万能やあらへんし。それに近いかもしれへんけどね、それを求められて嬉しいんはテニスのことだけやろし、それ以外のところは……どうなんやろなあ。まあ、なまじできてしまう人やから余計ややこしくなっとるんやけど」 「そうやね。隣におったら分かる気がする。別に自分が好きでやっとるわけやなくて、そうできてしまうからそうなってしまっとる、みたいな。せやけど別にみんなにそれを分かってほしいとも思ってへん、みたいな」 幾分か驚きの色を含んだ視線を向けられたことも、忘れられない。小春がそのような表情をするのは珍しいことで、顔を向けて真意を問いただそうとするよりも早く苦笑された。 「せやから、さんなんやと思うわ」 白石と同じユニフォームを揺らし、まるで子どもを見つめるかのような優しい色合いで笑う小春のその言葉の真意は、今となってはもう尋ねられない。 自分でなければならなかった理由を、もう聞き出すことはできない。 始まりはどこからだったのか、今となってはもう分からない。食堂で見つめてしまった時か教室の後ろ姿を見つけてしまった時か、同じクラスになってしまった時かそれとももともと地元がここではない彼が四天宝寺中学に入学してしまった時か、どこを始まりとしてよいのかはまるで考えられない。なにをもって始まりとするかも難しい。彼は常に人の視界を遮るなにかを持ち合わせてきた。 「ごめん、白石くん」 青々と茂る若葉が風に揺れる。部活で忙しいとユニフォームが揺れて伝える。開け放たれた窓から運ばれる風は、あの日と比べると随分と夏の匂いをまとうようになっていた。 成長しろと、まるで時間に促されているかのように思う。 真っ直ぐ自分を見つめてくる白石を見つめ返し、はなぜか笑ってしまった。 「無理やった。一緒におればおるほど、もうあかんって思ってしまう」 考え込んで出した結論と言葉に、白石は黙る。笑い飛ばしてもくれない。 散った桜は1年の時の眠りについた。あの日、自分が足を止めたあの日の桜は今はいない。白石の本音をどこまで聞くことができたか分からないままに、桜は勝手に今年の役割を若葉に託していた。 もう、自分には聞く機会はないのだろう。そう思うには十分だった。 「元に戻ろ。前みたいにしよ。私は、白石くんの彼女になったらあかんかった」 軽々しくこの言葉を口にしていると思ってくれるな、それが伝えてはいけない最後の願いだった。笑っているのは涙を堪えるためだった。 勝手に好きになってしまった自分に付き合ってくれた白石を、これ以上困らせたくないという独りよがりにも近い願いが生んだ最後のこの瞬間を、言葉を、お願いだから拒絶してくれるなと全身が訴えていた。 6月、春が終わり初夏の訪れを待ちわびる夕方。 「ええよ。悪かったな、彼氏らしくなくて」 あの日はひとりだった白石に、ふたりきりとなった教室で送った言葉に白石はやがて苦笑し、了承の言葉を告げた。 |
| >>01 10/04/29再録 |