彩光 01

 その秋、ひとつの経験をした。
 思い出すだけで笑いが零れる、後となっては盛大な笑い話だ。それでもその時の自分は、それが精一杯だった。気づいて立ち止まって、振り返って首を傾げて。経験したことのない未来が一秒一分一時間、一日と躊躇することなく襲ってくる感覚に自分は流される道しか知らなかった。けれどもそれが正しいことなのかと考えてしまった。それがすべての始まりだった。
 ふと気づいた空は、秋の色をしていた。
 見上げた空は、悲しいほど遠くにあった。

「うまそうな色やないで、全然」

 秋という言葉になにを思うのか、後輩は興味がなさそうに呟いた。相変わらず小さな身体だったが、横顔は少しばかり落ち着いてきたようにも思う。錯覚かもしれないので言葉にはしないが。
 つまらなさそうにこちらを見つめる金太郎の肩を軽く叩く。9月から部長となったもうひとりの後輩とは異なり、可愛がる空気を金太郎はまるで厭わない。それが1年と2年の差なのかと考えたこともあった。

「金太郎はええ子やなー。お前、絶対癒し系や。時々やけど」
「は? なに言うとんのや、ケンヤ。ジュース奢ってくれるんとちゃうんか」
「はいはい、いくらでも奢ったる。お前に癒される日がくるとは思わへんかったわ」
「せやから、癒しってなんやねん」

 金太郎の呟きは秋の空に吸い込まれる。疑問の色がない、不安の響きのない素直な金太郎の声は聞いていて清々しい。と、同時に心のどこかがきしむ感覚がある。
 近頃、自分はおかしいと忍足は感じていた。今までの自分では対応したことのないなにかが、心の奥底に住み着いて離れない。頭の片隅に宿ったまま消えもしない。

(こんな予定、全然あらへんかったのに)

 原因が分かっているだけにたちが悪い。忍足は秋の空を見上げて思う。
 時間が、流れすぎていた。
 自分の知らないところで、自分の想像できない重さで、自分の関与できない力で時間が流れていく。いつのまにか自分が中学3年生になっている、自分が部活を引退している。
 自分が自分ではなくなっていく。大人になるとはそのような意味だったのかと考える。考えている間にまた時間が流れる、気づけば仲間たちが別々の行動を取っている。
 焦燥ばかりが心を埋め尽くしていく感覚だった。

「ケンヤくん、それは単に物思いにふけってるだけよ。秋の病よ」

 見透かすのではない、分かるのだとは後日の小春の言葉。
 ある日の食堂で唐突に投げかけられた言葉に、忍足は一瞬どころかしばらくの間箸を口にしたまま動けなかった。

「なんのこっちゃ」
「せやから、秋の病。秋って人を感傷的にさせることが得意よねえ」
「なに勝手に病人扱いしとんねん、格好よく言えばええっちゅうもんやないで」
「あら、いけない? それぐらい成長したっていう意味にも取ってほしかったんやけど」

 小春は笑いながら答えてくれたが、心は素直にその言葉を飲み込めない。才識ある小春の言葉を素直に受け止められないとはよほどの重症ではないのかと、忍足は自分のものながら心の中身に手を焼いてしまう。

「アホらし。そもそもやな、成長ってなんやねん。言われて実感できるんやったらもっと嬉しいもんなんちゃうんか。俺今、全然気持ちよくないで」

 それ以上の言葉を拒絶するべく、小春に向かって呟く。小春は困ったように笑ってみせた。まるで駄々をこねる子どもをあやすかのようだった。

「アタシは好きよ、そんなケンヤくん」
「うるさいわ」

 手のひらの上で転がされている感覚が癪に障る。
 昔はこのようなことはなかった。小春に言い負かされるのは日常茶飯事、むしろあってしかるべき出来事のはずだ。なにを苛立っているのか、と自分に問いかける間を探せない代わりに、小春との距離を取ることばかり。
 白石だけが、ただ笑って見ていた。
 気づかなくともよい事実に気づく。知らなくともよい感情を知る。身体の外から訪れる刺激に身体の中のなにかは反応しているのに、それらの対処法については身体の内側はまるで機能しようとしない。まるで他人事のようだった。
 自分はどうかしてしまったのだろうか、と携帯電話の向こうの従兄弟に呟いたら「なんのこっちゃ」というつっこみひとつ。まるで優しくない。

「アホちゃうか。お前の頭のどこにそないなこと考える余裕があるんや。あー余裕ともちゃうわ、受け皿や受け皿。それ考える前に他のこと気にせえっちゅう話やで。なに勝手に物思いにふけっとんねん」

 呆れるのではなく若干の怒りを含んだ言葉を用意したのは、一氏だけだった。
 誰から聞いたのか、それとも気づかれてしまったのか、偶然階段ですれ違った時に唐突に投げかけられた言葉に目を丸くした。

「……なんやねん、その目。自分、その角度は忌々しいっちゅーことに気づいてへんのか」
「は? ああ、悪い。ユウジの方が低かったわ」
「ケンカか。ケンカか? 売られたら本気で買うぞ、病人相手でも」
「……なんでやねん」

 思えば、この一氏という男は妙に自分に素っ気なかったり妙に攻撃的になったりと、忙しい一面がある。そんな彼が自分を気にかけてくれる一言を(心底不本意だという顔つきではあったが)用意してくれた、それも時間の流れの為せる業だったのかもしれない。
 しかし、一氏にまで心配めいた気分をさせてしまっている自分は、本当にどうかしてしまったのかもしれない。彼の一言は不思議な重みがある。

「お前がそんなんやと調子狂うわ。なにしとんねん、ほんま」

 言い捨てて一氏は軽々とした身なりで教室へと戻っていく。

「……そんなもん、俺が知りたいわ」

 なぜ空が遠くに見えるのか、いや遠くに見えるのが悲しいのか。なぜ時間が勝手に流れていくのか、いや流れていくことに追いついていけないと感じるのか。
 廊下を黙って歩いていたその時、開け放たれた窓から歓声が飛んできた。
 そっと窓に近寄って視線をさまよわせれば、遠くテニスコートに見覚えのある姿がふたつ。それが昼休みを利用した制服姿のままの財前と金太郎だと気づき、忍足は小さく頬をほころばせる。

「謙也くん」

 空気に馴染む、耳に馴染むその声と、テニス。それらは四天宝寺中学での3年間の記憶そのものに近い。

「なにかあったんかと思たら……ああ、やっぱり。顔で分かった」

 自分よりも頭ひとつ小さい身体、自分には真似できない柔らかい物の言い方。
 忍足はテニスコートから視線を戻す。目にすることが当然という言葉以外では言い表せない、それ以外の言葉を探したことも探す必要も分からない相手を、ただ黙って見つめる。

「謙也くんも今日、テニスしていったら? 3年生が使ったらあかんなんて渡邊先生言うてないんやんな?」

 秋の風が黒髪を揺らす。出会った頃よりも長く揺らめく、その光景が時間の流れを否が応でも実感させる。出会った頃は、もっと短かったような記憶がある。確かめる言葉は口には出せなかったけれど。いや、出す理由がまだ分からなかったのだけれど。
 真っ直ぐの視線を受けて、忍足は軽く首を横に振った。

「あかんわ。今テニスしたら、戻られへんくなる」
「戻る?」
「テニスばっかしそうや。さすがに財前に嫌がられるわ、そんなん。お前は3年やろって」

 他の誰でもない、自分に言い聞かせるうよに呟く。しかし呟いたあとに最近の自分は自分らしからぬことを言葉にしてしまう癖を思い出し、はっとして相手を見つめる。
 は、おかしそうに笑ってみせた。

「仲ええなあ、相変わらず。去年からずっと同じこと言うてるわ、謙也くん。多分私白石くんの次ぐらいに同じこと聞いてるで」

 違和感がないと、耳が教えてくれた。忍足は心の中でそっと胸を撫で下ろす。

「去年? 嘘や。去年はあいつただの生意気な1年やで、俺との関わりはなかったはずや」
「嘘やないって。2年の時は財前くん、1年の時は白石くん。絶対1日に1回以上は聞いてきた気がする。仲ええなあ、やっぱり」

 微笑みかけてくれる量は決して減らない。妙な自信がその言葉を素直に耳に届ける。
 風に遊ばれる髪もそのままに、忍足は目の前の相手を見つめる。
 それが3年間、とともに過ごしてきた時間の為せる業であるのならば、忍足には時間の流れが怖いのか有難いのか分からないような気がした。



 偶然という名前の力を借りてもよいのであれば、それはまさに偶然の為せた業であったように思う。
 広い四天宝寺地区の中で、通った幼稚園も小学校も異なって、クラスの溢れる四天宝寺中学に入学して最初の1年目で同じ時間と空間を共有することを許された。あとから思えば偶然以外のなにものでもない、その力のもつ偉大さに気づくのは随分先のことだったが。

「そんなもんやろ。この年で人生の成り立ちに意味なんか求めても悩むだけやで。がむしゃらに、アホみたいに、なんも考えんと突っ走っても守ってもらえる間は、小難しいことなんか考えんでもええんとちゃうか」

 3年間同じ時間を過ごしてきた親友は笑って呟いた。
 包帯の先から伸びる整った五指で頬が彩られる。大事な利き手で頬杖などしてもらいたくないのだが、彼がその手を使ってしまう時というのは真剣に物事を考えている時と相場が決まっていた。だから反論の言葉は生まれない。
 長い睫毛の下にのぞく深みのある瞳が、自分では到底思いつきもしないような言葉を発する口が、その考えが正しいものであると主張してやまない。
 その主張に飲み込まれることが苦しくない自分も困ったものだ。
 忍足はそっと視線を動かし、休憩時間で喧騒に支配された廊下を見つめる。

「俺は別に、説教を聞きたいんとちゃうで。一般論を聞いとるだけや」

 そうか、と白石が笑う。忍足の視線を追って彼の瞳も廊下を見つめ、やがて小さく笑った。

「なんやねん」
「いや、相変わらずやなと思って」

 うるさい、という言葉は生まれる前に飲み込まれる。
 秋の空を背後に抱く廊下を、名前も知らない女子とともに歩くの姿があった。こちらの視線に気づいて小さく手を振る彼女に、忍足は無表情のまま手を振り返す。
 たった数秒の逢瀬。逢瀬と名づけるのも憚られる、憚るべき表情でしか過ごすことのできない自分。
 偶然の為せる業に従ってきた、それが3年目の自分の姿だ。
 お前か求めとるもんとはちゃうかもしれへんけど、と前置きをして白石は口を開く。

「せやかて、お前たちが俺らの中では一番の長生き組や。お前がどれだけ悩もうが考えようが、その歴史に俺も財前も敵わへんのやで。時間を味方につけとるんと一緒や。……その自信は、あってもええんとちゃうの。一般論では」

 融通のきかない子どもを見つめるような、柔らかい笑い方だった。いつのまにこのような笑い方ができるようになったのだろうと考えた時、忍足の視界にはひとりのクラスメイトの姿が映る。

「お前もそうか?」
「は? なにが」
「白石も、自分も時間が経てばそうなると思うか?」

 彼女が白石の恋人であることを知っているのは、一部だけだ。テニス部の仲間と、白石に好意を抱いて見つめる日々の中で気づいてしまった他の女子だけ。言われなければ親しさの欠片も見つけることができないふたりが、しかし忍足のつたない言葉では言い表せないほどの密な間柄である事実は確かに存在している。
 視線の先を辿った白石は、しばらくの沈黙のあと曖昧に首を動かした。縦でもなく横でもなく、どちらかに振りたいけれど断言できないとでも言うかのように、なにかに身を任せているように。

「なりたい思ても、そうできるかどうかは自分だけでは決められへんやろ。しかも俺らの場合は、早々に1回別れとるぐらいやしな」

 遠まわしに自分たちとの違いを告げられる。だから自分と同じ悩みは共有しかねる、そう言われているような気がして、忍足は廊下に視線を戻すことしかできなくなった。
 という同級生と、恋人関係になって3年目。
 カッターシャツの上にセーターをまとう感覚にもそろそろ慣れてきた。中学生活最後の秋は日に日に存在感を増して、夏の記憶をどこかへ追いやろうとする。
 どこか寂しくて、夏の最高の思い出がつまったテニスコートを見つめることも度々だ。しかしその都度、テニスコートに立つのは自分ではない後輩たちで、その頭上を彩るのは秋の雲で、空で、今という現実だ。結局自分は卒業までの日々を指折り数えることしか仕事がないような気がした。
 似合わない、と金太郎には笑われた。彼の中に似合う似合わないの判断基準がどこにあるのかは皆目見当がつかなかったが、テニス部の面々は概ね似通った言葉を爆笑か苦笑とともに返してきた。
 ひとつ年下の、9月から部長となった生意気な後輩だけは鼻で笑うだけだった。

「なんやねんお前、えらそうに」
「えらいからしゃあないですわ。部長やし、中間の結果先輩に勝っとるし」
「アホ、学年ちゃうのになんで競争せなあかんねん。ていうかそもそもやな、お前いつも最高点やのうて平均点取ることがいきがいみたいな男や……」
「俺、中間学年20位っすけど」
「……ようやった。おーおー、ようやった。そら優秀や」
「今、『なんでお前が20位やねん』って思いましたよね。絶対思いましたよね。ていうか顔に書いてありますよね。この眉毛らへん」
「うるさいわ!」

 出会った頃に比べれば話す回数も増えてきた財前は、どこか憎めない愛嬌という武器がある。口が自由になったのであればその生意気さも緩和の対象になってもらいたいものだと、一度ため息とともに白石に訴えてはみたものの笑顔でかわされた。
 いつもこうだった。いつも周りは、自分をどこか幼い子どものような感覚で扱うことがある。

(なんでやねん。俺かて真面目に生きとるやないか)

 心の呟きは白石と従兄弟である侑士にしか呟いたことはない。ただしふたりとも、しばらくの沈黙のあと盛大に笑い飛ばすことしかできなくなる(制御不能の)対応しかしてくれなかったので、それ以降は忍足も心の中に留めておくだけにしている。しかし本音は変わることはない。

「真面目やで、お前は。ほんま真面目。羨ましい通りこして憎たらしいぐらいな」

 かすかに差し込む秋の陽光が暖かい。財前の話を、そしてそれに対する忍足の感情を今日も聞かされて聞き飽きたと言ってもよいぐらいなのに、白石はただ笑うばかり。
 その余裕が羨ましい時もあれば、受け入れがたいなにかが心の中にごろりと転がる時もある。今日は明らかに後者の方で、忍足はむっと眉間に皺を寄せた。

「なんやねん、いきなり。しかもそれ褒められとんのかよう分からんし」
「褒めとるやないか。最大限の本音で、称賛の言葉やで。憎らしいなんて」
「アホ。俺からすればお前の方が憎らしいわ。なんやねん、テニスもできて頭もできてカッコもできて、そんで人当たりもよくできてって。お前は全国の中学3年生っちゅー生き物を一度その目で見てこい」
 
 勢いに任せて話しとおす。聞き届けたあと白石はまた笑って、壁に預けていた身を起こす。

「そうか? 俺は納得しとったけどな、お前の感じ方に。やっぱり時間は侮れへんわって」
「なんのこっちゃ」
「それは俺の台詞。ええんとちゃうの、そこまで真面目に考えられる時が『今』なんは。別れたあとの後悔やったら洒落になれへんけど、今やったらいくらでも薬に変えられるやんか」

 その時、忍足は白石の言葉の意味がよく分からなかった。また小難しいことを言っている、と自分とは異なる生き物を見ている感覚に近い。褒められているとは分からない代わりに、今の自分の悩みが気負うものではないと伝えられていることだけは分かる気がした。
 だが、それで心が軽くなるわけではない。それが答えなのではない。
 白石にも答えを用意してもらえない。小春からも温かい目で見守られることしかない。

(ほんまにこれでええんか、俺。悩んで考えてばっかやないか、こんな予定全然あらへんかったのに)

 ふと見上げた秋の空は、悲しくなるような遠さで自分を見下ろしていた。



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10/04/29再録