彩光 02

 3年という月日は切ないほど長く大きく、けれど自分が一体その時間の中でなにを成果として残すことができたのかは分からない。いや、この年齢であればすべてが加点の対象として見られるべきなのかもしれない、だからこそむしろ時の流れなど気にすべきものではないのかもしれない。
 だから気づいてしまった時、対処法が分からない。
 だから悟ってしまった時、相手の気持ちが途端恐ろしいものに見える瞬間がくる。

さん、こんにちは」
「小春くん」

 その時名前を呼ばれたのは偶然のはずだった。
 食堂を後にした廊下で振り返れば、そこには四天宝寺中学随一の頭脳の持ち主がひらひらと手のひらを振ってみせていた。
 金色小春の名前を知らない同級生はいないが、それに負けずと小春自身も同級生の名前をよく把握している。よく自分のことも知ってもらっているな、とふと疑問に思ったのは最初だけで、思えば仲間を愛してやまない運動部はうちが一番だと顧問が笑いながら豪語する、それが男子テニス部なのだ。

「謙也くん、今日はテニス部に顔出す言うてた。小春くんも? 楽しんできてね」

 妙にどこかがくすぐったい気持ちでその名とともに問いかければ、小春は少し笑って頷いてみせた。

「さすが、さんよね。この前テニス部で話題になったんよ、さんのこと」
「私のこと? どうして」
「うちの2年に……って、ああ新部長さんね、もう。その子がケンヤくんとさんの関係を妙に気にするもんやから。アタシ、言うてやったわ。あのふたりは幸せ組よって」
「それ、なんの話なん」

 唐突な切り込み方に思わず笑い声をあげる。
 忍足との関係は3年目に及んでいて、日ごろ誰かとの会話で話題に上ることは少ない。真正面から、しかも前置きなく忍足の名前を出させる会話をしたのは久しぶりのような気がした。だからなのか、妙にくすぐったいと思った心のどこかが温かみを増していく。
 小春が自分のことを忍足の恋人として知ってくれている、そのことがありがたくすら思えて、そして、忍足の存在が大切なものに違いないことを実感させられる。

「部活引退しても仲良いの、ええなあ。さすが男子テニス部やね」
「仲ええというよりかは、ケンヤくんがアタシたちを放ってくれへんっちゅう方が正しいかも」
「あはは、ごめんね」

 ともに教室へと向かって歩き出す。途中ところどころの窓から零れ落ちてくる秋の太陽の恩恵が暖かくて、思わず目を細める。

「部活引退しても、謙也くんが楽しく色んなことできてくれとるんやったらそれが一番ええんやけど」

 本音を零す。小春は笑みを返しただけだった。
 その日の帰りに見上げた空は、秋の夕暮れに強く支配されていた。
 これほどまでに赤く染まった夕空を見るのは久しぶりかもしれない、とはふと足を止める。しかししばらく見つめていて、記憶の思い違いに気がつく。久しぶりではなく、初めてなのかもしれなかった。

(空なんて、そう滅多にきちんと見たことないんかも)

 青いことは知っている。正確には青く見える理由、赤く見える理由だったが、深く考えずとも空は青や赤、時間に季節、気候に激しく左右されて日々その色を変えてやまないものだということにしておけば気持ちが楽なような気がした。

「おー、真っ赤やな。明日は晴れかな」
「赤いと晴れなん?」
「いや、よう知らんけど。でもそんな気するやん、派手やから」
「ほんま?」
「ほんま、ほんま。たぶん」
「たぶんやったらほんまとちゃうやん」

 思わず吹き出すと、隣に並んで歩いていた忍足が目を丸くしてこちらを見つめる。

「あれ、今吹き出すとこか? ものごっつ本気なんやけど」
「ううん、ちゃう。謙也くんらしいなあ思て」

 どうして、と忍足が首を傾げる。自分より頭ひとつほど高い背丈でそのような仕草をされても、見上げるこちらとしては微笑ましいのか奇妙なのか、よく分からないけれどどうしても笑いたくなってしまう。そうさせてしまう力があることを、この人はもっと思い知るべきだった。
 大人びた顔つきと体躯を手に入れながら、その仕草ひとつひとつが随分と幼さを残している。それが嫌味なく愛嬌として映る。憎めないという言葉の利便性を誰よりも理解していい。
 そんな忍足が、恋人である。その事実はむしろ誇りにも近かったかもしれない。

「謙也くんには、かなわんわあ。もう絶対勝てへん気がする」

 呟いたその言葉は、心の底からの真実だった。
 あの日、あの夕暮れの中。かつてテニス部に費やし続けてきた時間を忍足が依然として使いあぐねていた、あの秋の中。
 隣に並ぶ忍足を見上げ、は小さく笑ってそっと視線を秋の空に戻す。
 あの秋の日、ふたり並んで見つめる夕日は、もっと綺麗なものだと信じてやまなかった、あの瞬間。

「もっと嬉しくて、もっと楽しくて、もっとドキドキする思てた……なんて言うたら、怒られるんかな」

 太陽は南の丘を越え、ようやく西に舵をとろうとする頃合。屋上は、心地よい秋の風とその日差しに守られていた。

「昼間から感傷に浸るんもどうやねんって、私でも思うんやけどね。ごめんね。放課後は無理やった」

 風に遊ばれる髪を押さえながら、これだけは絶対に誤魔化してはいけないといつもよりも喉に力を込める。言葉に想いを込める。
 聞き届けてほしいような、否定してほしいような、本当はそんな曖昧で自分勝手な感情であることを、それはまるで押し隠すかのように。
 忍足は言葉を挟まなかった。
 は沈黙の中で、困ったように笑うことしかできなかった。
 その場所は、夕陽の見える場所であってはならなかった。夕陽を見つめてしまえば最後、あの瞬間を思い出して今の空気が途端悲しみに負ける。
 忍足は幾度か目を瞬かせたあと、わずかに眉間に皺を寄せた。亜麻色の髪が昼の日差しの恩恵を受けて小さな光の粒子を宿しているかのように見える。一瞬ですべてを引きつける華のような存在であるよりも、長く心寄せて見つめる者だけがその魅力に気づければよいと、そう心に思うようになったのはいつのことだっただろうか。もはや遠すぎて思い出すことはできないけれど。

「長すぎたね。ここまで来るのに、ほんま、長すぎたと思う。長すぎて、もうなにが正しいのかよう分からんくなってしもた」
「……」
「そこまで気づけへんかった私も私なんやろうけど……でも、私、絶対に間違ってるっていう気は……なんでかな、あんまり」
「せえへんのか」

 黙ってうなずく。の反応を見て、忍足はまた黙った。
 風ばかりがふたりの間を撫でていく。少しばかり強い程度の昼の日差しを選んで正解だった。秋風に吹かれたそれは、心地よい温もりに変わって頬をさする。
 せめて別れるならば、少しでも明るく終わりたかった。

「……正直、今お前がなにを言うとんのか、俺にはよう分からへん」

 せめて終わりを知るのであれば、離れがたいなにかはもう視界に入れたくなかった。そんな本音を、しかし忍足は分かっていない。

(……ああ、ちゃうわ。分かってた。分かってたよ、謙也くんなら引き留めてくれること)

 テニスコートからだろうか、歓声が聞こえる。運動部といえばテニス部、四天宝寺中学に入学して最初に植え付けられた感覚がそれなのだ、卒業も間近に控えるこの3年の秋の時期にあらがうことは難しい。
 自分の身体が四天宝寺中に、テニス部に構成されているようなこの感覚のまま、言葉を紡ぐのは本当は危険ではないか。それは分かっているつもりだった。

「謙也くんは分からんでええと思う。分かったらあかん気がする」
「なに言うとんのか、さっぱりや」
「せやから、分かったらあかんねんって。私の勝手で終わらせて」

 は首を横に振り、忍足を視界から外す。
 これ以上忍足を真正面から見つめることは息苦しくて耐えられそうになかった。

「勝手って分かっとるんか」

 そこで初めて忍足の語調が厳しいものになる。まるで合図だったかのようには顔を上げ、忍足を見つめる。
 綺麗な顔だと、このような時にも心の底から思ってしまう自分の勝手極まりない感情に心底嫌気がさした。

「聞く気にならへんなあ。受け入れるつもりなんかさっぱりあらへん。お前の言うとることのこれっぽっちも分からへんもん、俺」

 その双眸は、大きくはなくとも秀麗な印象を与える時がある。触れるように、前髪が何度も風に揺れる。

「別れたい言われて、はいそうですかってあっさり頷けるか。アホちゃうの、。本気でそう思てんの」

 見据えるという行為が憎らしいほどに似合う。
 日頃どれほど優しいと称えられる彼でも、この夏までは毎日勝負の空間にどっぷりと浸かっていた身なのだ。決断後の意志では、勝負にならない。
 は押し黙る。その様子を見て忍足は小さく鼻で笑う。

「……なあ、普通逆とちゃうの。俺、振られるならもっと別のタイミングがあったと思うで。テニスしかやらん、白石たちとしかおらへん、そんな男と」

 秋の風は薄情だ。
 耳に痛い言葉を一語一句聞き間違えることを許さない。そんな風が、存在から目を離させまいとしているかのように大好きな忍足の髪を揺らし続ける。
 目を細めるだけで精一杯なその心情を、忍足が本当に理解してくれたのかどうか分からない。いや、理解という表現がそもそもおこがましい話なのかもしれない。には尋ねる権利そのものがなかったけれど。

「3年も付き合うてきて、なんで引退したら別れるってなるんや。意味分からん。俺、認めへんからな」

 フェンスの金網が高い音をたてて揺れる。忍足の身体が校舎へと戻るドアへと一歩近づき、の隣を通り過ぎようとする。

「今の話、保留。あかんわ、そんな話昼間にするもんとちゃうで」

 昼間でないとできない。夕方になれば、感傷という余計な感情が勝手に話を作り上げてしまう。だからこそのこの時間なのだ、それを分かっているのかいないのか。
 確認することもできず、は小さく下唇をかみ締める。
 その背中を見送ることはできなかった。屋上にいるはずなのに、視界が真っ暗になった気分だった。



 開かれた視界の中には、見慣れた部屋の天井が映った。
 忍足は一瞬息を止める。目が動く。幾度かさまよった後、初めて零した呼吸で一気に身体が弛緩する。熱が途端に身体中を駆け巡り、重く重くベッドの中に沈んでいくようだった。

「……夢か」

 確認するように呟く。熱がどっと汗に変わって秋の朝に相応しくない寝起きを演出した。
 忍足は重苦しいため息をついて、身体を起こす。乱雑にカーテンを開けば、重くためこれた灰色の空が今にも落ちてきそうだ。
 雲の錘に嫌気がさす。こんな時に近くに感じられたとしてもなにも嬉しくない。まったく人に配慮が足りない。
 幾度か頭をかいてから、寝癖のままに部屋を出る。1時間目の体育が今日ばかりは億劫に思えた。

(なんちゅう夢や。俺、ほんま最近疲れとるんやろか)

 登校中、思考回路が徐々に本来の流れを取り戻しだしたころ、忍足はようやく冷静に今朝の夢を思い返すことができた。
 不思議なことがたくさんあった。夢だからとはいえ、その内容はあまりに衝撃的すぎた。なぜ今この時期に、しかも現実の世界の時間の流れと全く相反さない流れを満たした内容だったのか。あまりに現実味がありすぎて、まるで予行演習でもさせられたようだ。

(アホ、なにが予行演習や! それやったら本番があるみたいやないか!)

 ぶんぶんと首を横に振る。周囲の四天宝寺中学の生徒がぎょっとこちらを見つめる。いくつか見知った顔があって、忍足は足早に校舎へと向かう。

「なにしとんねん、お前。悩むんやったら隠れてやらんかい」

 どこから見ていたのだろう一氏が、昇降口で呆れてそう呟いた。パタンと軽い音を響かせて床に落ちる上履きに足を入れ損ねる。じっと見つめ返せば、わざとらしいため息がひとつ零れた。

「悩むっちゅう言葉もおこがましいわ。ひとりでぐるぐる回っとるだけ、でええか」
「……ぐるぐる回っとるってなんやねん、そしたら答えがないみたいやんか」
「答えなんかあるんか。見つけられとるんやったら毎回同じ顔を見んでもええなあ、俺らは」

 返す言葉もない忍足に、一氏は今度は笑いも嘆息もしなかった。
 上履きをはかずに立ち止まってしまった時間がどれほどだったのかは分からなかった。けれど1時間目の体育の途中、目の前で繰り広げられる試合をぼんやりと見つめていた時に白石が何気なく横に座ってきたかと思ったら、実は心配を告げる言葉を用意していたということを知って、忍足はもうひとつのことを思い出す。

「せや」
「なんや」
「なんで俺、になっとったんや。なんで俺が俺を見るんや、の気持ちばっかり分かるんや。うわ、気色悪い」

 途端、今朝感じたあの嫌な汗が戻ってくる。バスケットの試合を終えてもう10分以上経っている、身体は秋の心地よい程度の温もりに馴染んで熱などとうの昔に手離してしまっている。はずだった、その中での汗に心臓が妙なリズムを打つ。

「なんのこっちゃ、お前が今朝から死にそうな顔しとったんはそのせいなんか?」

 唐突な呟きに白石は目を丸くする。簡単に今朝の話をまとめて伝えると、端麗な瞳がますます丸くなった。

「ちょ、待て。どこからどこまでが夢や。謙也の想像まで入れたらあかんで」
「想像やない、一緒に帰ったあとすぐに次の日になっててん。そしたら屋上で振られて……って、ああもうまさか今も夢なんとちゃうか、白石」
「アホ。お前のチームに負ける夢とかそんな情けない夢、俺が許すはずないやろ」

 さきほどのゲームの結果を愚痴のように零してから、白石は思案の表情になる。

「そんな都合のええ夢、単に考え込みすぎなだけとちゃうんかな。思い込みすぎて夢にまでそれが出たとか」
の目から見た感じになってか? 心臓に悪いで、そら。そんな夢願い下げや」
「そらそうやけど。まあ、それ言うてしもたらあくまで夢なんやから、とらわれすぎてもあかんと思うしな」

 物事を綺麗にこなすことのできる男が浮かべる悩める表情は、妙に男としてのなにかが負けている気がしてならない。考え込むとか悩んでいるとか、色々な言葉で最近の自分は形容されているけれども、しかし白石のようには見えていないだろうと自分でも分かってしまう現実が悲しい。
 時間が流れても、追いつけないものは追いつけない。けれどその中でなにかを得ていることを実感しなければ、無駄に過ごしているのと同じ。
 あ、と忍足は息を飲む。考えていた白石がちらりとこちらに視線を向ける。

「……あかん、あかんわ白石。こらあかん」
「なんや? なんか、思い出したんか?」

 立ち上がった自分を、今朝の通学路で一斉に浴びたものと同じ視線で白石が見つめる。だが抑止効果などもはやない、忍足は一斉にひいてしまった熱を追い求めるかのように何度となく五指を組む。
 心臓だけが、思考回路の動きに反応していた。

「夢ん中で、長すぎたって言いよった。なんやねん、って俺が思てつっこもうとしたら、分からんでええって」
「……はあ」
「なんやこれ、つまりそういうことか?」
「は?」

 もはや白石は言葉を挟まない。教師の笛の音はおろか、自分たちの名前を怒鳴り声で呼ばれるまで身動きもとれなかった彼のその時の心情を思えば察するに余る部分はある。
 だが忍足は、途端視界が開けた気がして唖然となる自分を止められなかった。その唖然はすぐに妙な緊張に取って代わり、ぐっと力を込めて拳をつくる。
 答えが、見つかった気がした。

「3年付き合うたのに、今の状況っちゅーこっちゃ。ああ、あかんわ。そら成長してへんわ、止まったまんまや。あかん、これは俺が悪かった」
「……なんやよう分からへんけど、謙也の中で答えが出たんやったらまあええけど……」
「答え、答えな。それや。いやちゃう、これや。夢は悪夢やなくて教えてくれとったっちゅーことや、絶対」
「そうか。ならええんとちゃうか」

 整列の中にまぎれ、体操服の裾を整える。几帳面なところはいつまでたっても几帳面な、そんな白石がよいのだと認める。これは正解に違いないと、忍足は自信をもって深く頷く。

「キスまでしかやったことあらへんかったら、そらあかんわな。3年も付き合うてきて」

 それは実行宣言。小さく呟いたその言葉に、自分の今までの悩みを消し飛ばさせる。心の中の決意をゆるぎないものとする。ああなんと有意義な夢と体育だったのか、と満足して教師の言葉に従って終了しようとした、その時、

「キスまでってなんやねん?!」

 眉目秀麗で通っているばすの白石の叫び声が体育館に響き渡った話は、しばらく仲間内どころか学校全体から消えることはなかった。



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10/04/29再録