| 桜を待つ 04 |
財前の言葉の意味は、正直に言えば分かる一歩手前のところで踏みとどまっていた。 進んでどうする、と誰かが問う声と、本当にあのが、という思いがずるずると足を引っ張っている。 しかし受け入れがたいあの笑み。生意気さに拍車がかかった「先輩まだ分かってへんのですか、ああそうですかそうですか。甘いですわー」と訴えてやまないあの笑み。あの笑みを見続けるのは大変癪に障るので、しばらくテニスコートには近寄らないことにしていた。 その決心とテニスをしたいという気持ちが喧嘩をし始める、まさにそのタイミングだったように思う。 突然名前を呼ばれ、こっちを向けと言われ。なんやねんまだ休み時間やないかと頬杖をついたままぼんやりと振り返った瞬間に訪れたのは、ドア付近からのいきなりのフラッシュ。 「お前、めっちゃええ顔すんな。ほんまに真顔やったで、今。めっちゃ貴重な写真や」 褒めているのかけなしているのか分からない忍足の言葉をただ受け止めることしかできなかった、それは本当に予定外の出来事。自分が隙をつかれるなどということは決してあってはならないはずなのに、その禁忌をあっさりと破ってきた相手にそれこそ怒りに似たようなものが沸いたが、それも一瞬のこと。 その時、カメラからそっと離れたの顔には、驚くほど嬉しそうな表情が浮かんでいた。 誰が気づいただろう、見つけただろう。咄嗟に小春に視線を向けるが、その顔は忍足に向いている。に気づいていない。知っているのは、自分だけだった。 (……あんな顔することもあるんか、あいつ) のあのように柔らかい線の笑みを見たのは初めてのような気がして、言葉が出なかったとは誰にも伝えていない。 小春が軽く腕をはたいたのはそのすぐあとのこと。いて、と顔をしかめれば、まるで母親かなにかのように眉根を寄せて「今から口をすっぱくします」と断言した。三行半と達筆に筆ペンで書いた紙(だがルーズリーフ)をこちらに渡し、見事にその日は二度と口をきいてはくれなかった。 なんのこっちゃと目を何度か瞬かせているうちに、忍足が小さく呟いた言葉が頭から離れない。 「俺でも気づくで、あれは。お前どれだけ惚れさせとんねん」 いつもは自分が鼻で笑う立場であったのに、慌てるのは忍足の十八番であったはずなのに、その瞬間返す言葉がなかった現実を拒絶できなかった。 食堂での財前に続いて、同じことを考えていると伝えてくる忍足になにを返せばいいのか分からない。 どうしよう、ではない。なぜ、だった。 (……なんで俺? おかしいやろ、俺小春愛しとるしか言うてへんで、絶対) それでも教室の中にい続けることが少し難しいことだけは感じて、放課後逃げ込んできたのは結局部室だった。財前が着替えていたその場にがらりと扉を開けて入り込み、呆然とこちらを見つめる視線も無視して半年前までの指定席の場所に座り込む。 冬の太陽の陽射しを受けて少し元気になっていた髪が、さらりとこめかみ辺りに流れ落ちてきていた。 (がどうとかやなくて……あかんて、俺は。俺は小春との関係は) 崩せない、と心の中で強く呟く。 自分は忍足ではない。ましてや白石でもない。テニスとなにかの両立であるとか、なにかを3年間続けてきたとか、そんな自慢はまるで必要としていない身なのだ。振り返ったところにいる新部長が2年生の春からこの1年をかけてどのような点で成長してきたかを知らないわけではないが、だがその成長を微笑ましいと思うことこそあれど、羨ましいとは感じた記憶がない。 恋愛に悩んで恋愛に成長する、そんな姿をまるで羨ましいと思ったことがない。 そうだ、と強く拳を握り締める。ばたんとロッカーの扉を閉める音が勝手に効果音になる。 (俺はあいつらとちゃう。彼女云々とかちゃうで絶対。ほんまのところはさておき、そもそも四天宝寺で俺が女子を好きになるとか、そんなことしてしもうたら一体俺の3年間はなんやったって話になるやないか) あっさりと答えが見つかった気がして、一氏はがたんと勢いよく椅子から立ち上がる。振り返った先では、驚くとも訝るともとれない微妙な表情の財前がこちらを見つめていた。少しばかり記憶の彼よりも背丈が伸びていることに気づいてしまえば、一氏は自分の考えが間違っていないことを確信するしかない。 「お前が大きくなった分、俺かて3年使うて成長してきた部分があんねん。なあ、財前」 「はあ。背は伸びてませんよ、先輩」 「うるさい、そこちゃうわ。せや、せやせや。俺はそんな甘ないで。命尽くしてきたからな」 「……」 「そない哀れな目で見たってなんも出えへんで、今日は」 「いや、いらないっす。先輩ぜんざいおごってくれへんし」 小さなため息が零れ落ちた気がしたが、わが道を上級生の手を振り切って進む男に固執はしない。自分が確信できるなにかがあればそれでいいのだ。 なにを迷う、と自分に言い聞かせる。自分は小春との関係で3年を費やしてきたのだ、その事実を忘れるなと強く念じる。 (悩む以前の問題や、アホらしい。なに惑わされとったんや) 心の中をひとつにまとめてしまうと、途端部室が窮屈に感じられた。冷たくとも開放的な空間に身をおきたい、空気を吸いたい。一氏はドアへと足を向ける。 「先輩」 その時、財前が淡々とした声で名前を呼んだ。 ドアまであと一歩、そのタイミングだった。左手でボールを軽く放りながら、振り返った一氏にちらりと視線を向ける。 「あんま、傷つけるんはやめたってくださいね。俺ら男が気づかんだけで女子は勝手に傷ついたりするもんやって、俺の彼女が言うてました」 成長度合いは、この男に勝てる仲間はいないだろう。どこか余裕すら見える、だが決して悪意をこめて口にしているのではないその言葉を平然と臆することなく言える。それが今の財前だ。 そんな財前をしばらく見つめ、そして言葉の意味を不本意と動揺の間でかみしめ、一氏は立ち止まる。小さな怒りがあった。 「……なんでお前らは、最近俺をそっちの道に引っ張りたがるんかよう分からへん。なんやねん、お前もケンヤも。小春も」 「小春先輩が味方やったら、俺らの勝ちですし。先輩勝ち目ないっすよ」 「アホぬかせ、なんで俺が好きだの嫌いだの口にしてお前らみたいにならなあかんのや。財前、口答えする相手間違うとるで。そんな話は白石にでもしとけ」 部室のドアに手をかける。決意が冷えていた。 まるで逃げるようだ、と感じてしまう自分がどこかにいることは否めない。 だが一刻も早くこの後輩から逃れないと、頭の中がなにかに占領されてしまう気がした。普段無口な分、意味のある言葉を発することがない分、財前が真っ直ぐものを見て口を開く時の怖さはこの身体が一番よく知っている。今がまさにその時だと、全身が訴えている。 なぜ部室に逃げてきた、自分は引退したのに。一番部室に部活にテニス部にこだわっていたのは自分なのかと、半ば自棄になった自問が始まりだしたとき、財前は見透かしたように笑った。 「惚れさせといて、それは卑怯ですわ。勝手に好きになったなんて理由は悪いですけど通用しませんよ。そんなこと、部長も、ケンヤ先輩も、俺も知ってる。こういうことは俺らかてなにかしてるんや、絶対。気づかへんかったら負け。……せやから、先輩の負けです」 コートの中に立つと、太陽の仲間だと自賛しているかのようなユニフォームは他を圧巻する力を持っている。 最上級生までのあと2ヶ月を待ちわびている成長期の身体は、そのユニフォームを威圧的にまとうことができている。 そっと目を細めて悠然とした笑みを浮かべる、まるで白石を見ているかのような存在感を植えつける財前を、一氏はそれ以上見ていることができなかった。 違う、違う、違う。何回呟いたか分からない。だからずっと呟く。違う。違うのだ。 いつのまにか足早になっている自分がいたが、そこを気にしている暇はない。今はなにかを洗脳するかのように、財前の言葉を否定することで躍起になっていた。 家に帰っても、夕飯を食べてもテレビを見ても勉強をしても、ベッドに入っても。次の日の太陽を見ても、追いかけてくる言葉が徐々に癪に障って仕方なかった。 (お前らはのなにを知っとるっちゅーんや) 冬の寒さにあてられながら、白い息が零れるのもそのままに正門をくぐる。財前の言葉がよみがえればよみがえるほど、苛むどころか彼らを非難する気持ちの方が勝っていくような気がした。 ぺたぺたと軽い音をさせて廊下を渡り、慣れ親しんだ8組の中へ。 は、朝が早い人間だった。一氏が毎朝教室にたどり着いた時、視界にその姿が収まらない方が少ない。軽い挨拶とともに教室に入れば、必ず振り返って挨拶をする。愛想がないという印象はその手際のよさに似た部分から生まれてきた印象であったと、意識してその表情を見るようになってから気づいた。 だが、それまでなのだ。鞄を机の上に置き、小春がまだ来ていないことを確認して軽く息をついたあと、一氏は実感する。 (毎朝こんなんやったで。朝の練習があった頃なんか挨拶すらままならんかったわ。特別なにを話すでもない、これでずっと今までやってきた。なにをあいつらは大げさにしとんねん) 鞄の中身を乱雑に机の中にしまう。 ふと気づくと、女子の笑い声が耳に触れていた。自分がいないところから生まれる笑い声には勉強のために視線を動かす癖があった。今日視線の先にいたのは、だった。 昨日のテレビが、今日の宿題が。話している内容はたわいもない。それこそ毎朝のコートでストレッチをしながら自分たちが口にしてきた内容と同じである。唯一違うとすれば、それはネタがひとつもないということ。ただ会話をしているだけで笑う。声をあげ、そして、表情を緩ませる。 ぱたんと、薄い数学の教科書が中途半端な音を立てて机の上に落ちた。 机の中にしまうはずだったそれを、思わず途中で手から離してしまった。 「あー、もうすぐ私立入試やなあ。あそこの女子高、近くてええんやけどなあ」 「せやなあ。早く受かって高校生になりたいなあ」 「なあなあ、は公立が本命やろ? あの学校選んだのって、やっぱりあれ?」 「あれ、って。……まあ、そうかなあ。後悔したくないもんなあ」 ふわりと、それこそ本当に触れたら柔らかさのあまり動揺してしまうのではないかと思うような緩やかな曲線を伴う笑み。わずかな朱が差す表情に、一氏は唖然とする。 知らない。あんなは知らない、知らないと強く思うほど、実は自分はとの時間を蓄積してしまっていたことに、知らないと、言えない。 (……アホちゃうか、俺。そうやんか、他の女子なんかどんな笑い方しとるとか知らへんやないか。知っとったんはだけやないか、それは) その意味は、と心が問う。喉が震える。 「ユウくん、おはよう。……あらどうしたのユウくん、教科書落ちてるで」 小春がそっと差し出した数学の教科書を無言で受け取る。その姿を、は少し心配そうな表情で見ていた。 その表情すらいつもと違うと、そう思ってしまう自分がいる事実を否定できるだけの決意が見つけられなかった。 今更新しい発見をして、なにをしたいのだろうと思う。 今日は本気で抜け出した。なぜ今日が月曜でないのだろう、月曜であれば食堂に行くことができたのに。テニス部の仲間に会うことができたのに。そんな不可抗力を空に愚痴るために、わずかな昼の陽光ばかりを頼りに噴水の縁に腰かける。購買部で適当にみつくろったパンは味わう暇なく簡単に消えていった。 自分はなにがしたいんだ、とまた思ってしまうことが寂しかった。 成長したのではないのか、確固たる意思を抱いているのではないのか。自問は用意できるのに答えられる自分は用意できない。ぎり、と強く唇をかみしめるばかり。 「珍しいな、お前が小春と離れて昼飯なんて」 空から降ってきたかのように、その時白石が缶コーヒー片手に現れた。 視線だけをちらりと動かすと、あっさりとその1本が左手で受け取りやすい場所に投げられる。白石はそのまま一氏の隣に腰をおろし、熱そうにおいしそうにコーヒーを口にした。 「……なんやねん、急に。しかもコーヒーて」 「ミルクティーとこれしか残ってへんかった。今日寒いからな、売り切れんのも早かったで」 尋ねるべきことはたくさんあったが、冬の風に負けて一氏もコーヒーを口にする。熱すぎると思われたが、冷えた身体には思いのほか優しい存在になった。 「多分財前が先に口にしたと思うんやけど。なんか言われたやろ、ユウジ」 しばらくの沈黙のあと、白石がそう問いかける。その笑みに先日の財前が重なり、一氏は途端眉根を寄せた。 「……この前のは、もしかして白石の筋書きやったんか。趣味悪いわ、ほんま」 「はは、冗談きついで。俺が裏から操っとるみたいやんか。仲間のお前をどうして追い込むようなことせなあかんのや」 珍しく声をあげて笑ったその笑みは、丁寧に見つめるとまるで裏がないことに気づく。裏へ裏へ、中へ中へとなにかを包んだり控えさせることができるようになった財前とは裏腹に、近頃の白石は表に感情が出やすくなっていた。 付き合いやすさでは以前の比ではない。部長の任に押しつぶされまいと必死になっていた昔とは比べ物にならない。だから自分はかつて、その雰囲気に甘えてこの部長に差し出がましい真似をしたのだろうか。そのことを思い出し、一氏は口を閉じる。 白石はただ笑っていた。 「まあ、せやけど。勝ち組に近い財前の言葉はきついやろ。出てきた芽も勝手に引っ込むって話やな、すまんなユウジ。その意味ではもう少しあいつをコントロールしとくべきやった」 「……そうしてまうとやっぱりお前ら共犯になってしまうやんか」 「ああ、そうか。そらあかんわ。別にお前を苦しめたいわけやないからな」 この差はなんだろう、と考える。 白石と財前、そして忍足。彼らにあって自分にはないものが、確かにあった。今の自分は白石のような、財前のような忍足のような笑みや言葉を生み出す余裕がまるでない。それが本当に余裕から生まれるものなのかどうかも分からなかったが、しかし確実に性格だけで説明ができないことだけは分かる。歯がゆさが消えないのだ。 「一回、手離しかけた俺からの……せやな、これが最後のちょっかいや」 そんな自分の心を、絶対に見透かしているに違いない笑み。けれど卑屈になれない、思わず視線を向けてしまう声。 「するならするでちゃんとせえ。中途半端に悩むのが一番あかん。……まあ、お前が一番知っとることやけどな」 その口から零れた言葉は、聞き覚えがあるものだった。 いや、言い覚えがあるものだった。一氏は目を丸くして白石を見つめる。 「……お前に言われた言葉、結構残ってたりするんやで。俺も、財前も、謙也も。それぐらい人の心に踏み込めるお前に、惚れん女がおらん方がおかしいわ」 慰めにきてくれているのだと、その時ようやく気づいた。寒空の下、白石がわざわざ8組にまできて、そこに自分の姿がなくて探してまでここにきてくれたのだと、その過程に一瞬肌が震えそうになる。 だからこそ、なのか。一氏は心の奥底が沸騰しかけているのを、止められなかった。 「……ちゃう、そんなん言われたいわけやない。俺は」 分かっている、と白石の目は教えてくれていた。財前のように言葉で押し倒してくるのではなく、受け入れる懐の深さがなぜか懐かしくて、一氏はぐっと利き手に力をこめてしまう。 「お前ら、勘違いしてへんか。俺は、俺はこんなんや。こんな俺で、3年間この学校で過ごしてきた。そんなことお前らが一番よう知っとるやないか、俺が小春と一緒になにをしてきたかなんてことは」 「せやな」 「せやったら、分かるはずやろ。俺は小春のことを好きって言うとらな成り立たへんやないか。芸だけいっぱしなところ見せて、実は好きな子がおんねんとかそんな情けない話は願い下げや、ありえへん。俺やない、そんなんは」 いつのまにか声が荒立っていた。計画もなく吐き出した心の最深に閉じ込めていた感情は、言葉にしてしまうと簡単に息がもたない。代わりに荒くなった呼吸ばかりが耳を支配する。もともと言葉にするつもりがなかった部分なのだ、末路は見えていたにしても情けない。その歯がゆさがますます一氏を苛立たせる。 「……高校行ったら、そこまで頑なにならんでもええんとちゃうか? 中学はもうここまできてしもうたけど」 白石は静かに沈黙を守ってくれていたが、やがてぽつりと呟いた。 「あかん、無理や。小春と一緒の高校行く以上、俺は俺の生き方を変えられへん」 意固地な人間の自己主張というものは、傍から見るととても滑稽だ。今の自分はまさにその典型的な表情や口調、雰囲気なのだろう。分かってはいたが、一氏は自分を抑えることができなかった。 3年間、自分のすべてを注いできたものを簡単に崩すわけにはいかないし、その方法も知らないし、そもそも崩す理由が分からない。優先順位の問題でもない。あるかないか、是か、非か。二択なのだ。 顔を上げ、雪雲を流し去った冬の空を見上げる。 春の匂いはまだ遠い。毎年桜を咲かせる校門脇の木々もただ寒空の下で細い枝を揺らすことしかできていない。だが卒業式が終われば彼らの春の日課がすぐにやってくる、自分はそれと同じだと一氏は思う。 「高校行ったって、同じや。変わるわけないんや。せやから、同じ高校にならんほうがええ。もう会わん方がええ」 白石が少し、目を丸くしたのが分かった。秀麗な顔が少しだけひきつるのも分かった。気づいていたが、訂正の言葉は挟まない。 「嫌いやないし、気にしようとすればするほど気になる。あいつが一番クラスの中で話しやすい女子やった、そのことは否定はせえへん。でも俺はこのまま高校に行く、それは否定できへんのや、したくないんや。そんなんやったらもう会わん方がええやろ。違う高校の方がええやろ」 独り言として聞き届けてくれるために、白石が沈黙を生み出しやすいようにその日の空は雲ひとつないのだと思って見上げていた。夏に比べればなんて弱い、けれど心のどこかが温まる柔らかな冬の日差しを浴びながら、テニスがしたいと思う心と同じぐらいの強さで小春との漫才の道を続けたくて仕方なかった。その心を認めるために青いのだと、そう信じる自分を許してもらいたかった。 「頑張れ、ユウジ」 頭上から届く声は、空からの声援のようだった。 だが白石が慌てて顔をあげた。その空気の流れに、一瞬心のどこかが冷える。瞬きが消え、一氏は視線を白石に揃える。 冬空を仰げる場所に、2階のベランダに。が手すりに身を預け、こちらを覗いていた。 「あ、一氏。ごめん、テニス部のみんなの話聞いてたらいつのまにかうつってた。ごめん」 「、お前……」 「あー、私高校梅田の方なんだ。天王寺は小学も中学もおったから、そろそろええかなあって思って。小春と一氏のお笑いがもう見られへんのは寂しいけど、仕方ないね」 白石が視線を逸らす。それだけで、その場所には一氏としかいないような空気が生まれる。気を利かせたのではない、居たたまれなくなったのだと分かっていた。白石ですらそうなる空気の中で、それでもは笑って見せた。 「将来、テレビで見られるのを楽しみにしてるわ。……そこでしか応援できへんくて、ごめんね。頑張れ、一氏」 それが最後の笑みだった。 風に促されるかのようにふわりと髪の毛を揺らして教室の中に消える。名前を呼ぶよりも早く、視界からの姿はなくなった。 「……悪い、もうひとつ世話焼いてもええか。ユウジ」 白石の呟きは、悲しいほどに耳に優しい。それを優しいと思ってしまうほど心の中のなにかがどこかが、冷たさと辛さに震えている。 「追いかけるんやったら責任もって追いかけろ。……これは財前にも謙也にも言えへんやろ、俺しか言えへん。その俺がそう思うんや、最後の悪あがきぐらいさせてくれ」 瞳の奥が痛いのは、熱いのは、何のせいなのか決めたくなかった。 |
| >>05 10/04/29再録 |