桜を待つ 05

「……は? なんや、なんで泣いとるんや。俺なんかしたか」

 戻った会議室で、卒業アルバムの最終構成をしていた忍足がぎょっとする。窓を閉めていたのは正解だったとは薄い満足で、結局涙を流してしまっては意味がない。
 だが、とめどなく床に落ちていく涙をは見送ることしかできなかった。

「私がアホやった、それだけ」

 予鈴が鳴り響く会議室で、ようやく呟くことができたのはたったそれだけ。
 廊下を歩く生徒の無邪気な声も、走る去る音もすべて聞き流して作業に没頭していた忍足は、その時だけはから視線をずらさなかった。ペン先が乾くことも厭わず、ただじっと見つめて、待っていてくれていた。
 本鈴まで、残り5分。教室に戻るまでのタイムリミットは残り4分。

(ああ言われるぐらいなら、もっと隠しておくんやった。好きになんてなるんやなかった)

 せめてその時間だけは、と思った心がまた涙を生んだ。



 振り出しに戻ったのか、それとも目標地点を突き抜けたのか。

「ユウジー」

 びくっと肩が震える。そっと振り返れば、そこにはクラスメイトの女子がいた。ただし手にはクラス日誌があり、今日日直をともにしている女子だった。では、なかった。

「ユウくんは一体どうしたいの」

 無言で日誌を受け取った一氏を、小春は幾分か冷めた視線で見つめる。口元に笑みは浮かんでいるがその目が笑っていない、今どのような色の感情を抱いているのかは一目瞭然だった。小春は確かに怒っていた。

「……どうもこうも。俺になにを求めとるんかが、よう分からん。なんやねん、小春まで。財前たちと同じや」

 日誌を乱暴に机の中に片付け、一氏は小春が視界に入らないように強引に頬杖をついて窓の向こうを見る。快晴だった。雪が降ったり冬風を楽しませたりした最近の天気とは打って変わって、心のすくような本当に綺麗な薄い水色が広がっている。嫌味にも見えた。
 あれから、どれほどの時間が流れただろう。ぼんやりと空を見つめながら思い出す。
 教室の中での声を聞くことはある。だが絶対にその姿は視界に入らないところにある。振り返ってまで確かめるものがあるのかないのかも分からないから一氏も動かない。だから、の姿を目にはしない。同じ教室にいながら絶対の距離を取っている今の関係が、少なくとも1週間以上は続いているように思えた。

「もう3週間よ。バカ言わないでちょうだい」

 心を見透かしたかのように小春が怒る。ちらりと視線だけを向けると、ここしばらく見たことがないほどの怒りを、それでも必死に抑えているというような苦悶の表情がそこにあった。
 それがまるで苦しんでいるようにも見えて、どうして小春が苦しまなくてはならないのだろうと的外れなことを考える。小春は重くよどんだため息を零した。

「なんのためにそこまで頑ななの。そりゃ誰も絶対に付き合えとか、そんなこと思ってるんやない。ユウくんの意思を尊重してる。せやけど、これはおかしいわよ。歯がゆいわよ」
「頑なとは随分な言われようやな。それやとまるで俺が悪いみたいやないか」

 じろりと小春の視線が眼鏡の奥で動く。どれほど攻撃的になっても怜悧の色は隠せない。だから余計に身がすくむ。なのに自分の口から出る言葉は小春の怒りに火を注ぐものばかりで、言ってしまったあとにしか気づけない自分が情けない。

「ええわ、もう。ユウくんの意思を尊重するわ。アタシがなにを言うても今のユウくんは絶対に聞いてくれへん」

 ため息がもうひとつ。あっさりとしていて軽いため息。それが無関係の色を表していることを悟らされたとき、一氏は一瞬ぞっとする。
 どうして、こんなことになってしまっているんだろう。沈黙の中で考えることといえば、もうそんなことしか残っていなかった。

(なんやったんや、今まで。なんで怒られる通り越して見捨てられなあかんのや。おかしいやろ、あいつら全員みんなして。小春まで。まるで俺がと付き合うこと以外考えてへんやないか)

 いたたまれなくなった教室からそっと抜け出し、あてもなく校舎の中をさまよう。昼休みが随分と長く感じられるのは幸か不幸か、距離をおいてひとりになる時間を与えられたと思うべきか考える時間を強制的に与えられてしまったと思うべきか。こんなことであれば志望校をもっと実力とはかけ離れた上位の高校に設定しておいて、他ごとを考えられないような毎日を送るようにしておけばよかったと無茶なことすら考えてしまう。
 入り乱れた頭の中を覗き込まされる気分が、やがて一氏の足を止めた。

(アホやろ、自分。高校まで変えてどないするん。小春と一緒の高校やなかったら、3年間の意味ないやんか。あいつらと一緒の高校やなかったら、テニスがおもろないやんか)

 むしょうに白石や忍足の顔が浮かんでしまうのはなぜなのか。石田や小石川、金太郎が続いてしまうのは、なぜと問うのもおかしくなってしまう。
 予鈴が鳴り響く。あの時と同じように、残り5分しか自由の身でないことを知らされる。
 人気の少ない特別教室の階で、廊下の壁にもたれて天を仰ぐ。
 優先順位ができてしまっている。正確に突きつめれば、意識させられている。それが現状であることに、身体が追いついていなかった。

「もう負けとるやんか」

 誰に聞かれる心配もない独り言を呟く。太陽が届かない廊下はその言葉を育てることもなくあっさりと寒さの中に包み込んでかき消してしまう。自分でもそのようなことを言ったのか言わないのか、一瞬分からなくなる。
 だが心は、重い。逃げたいのに重くて走れない。その変化に持ち主である自分が気づかないはずがない。
 一氏は見上げていた視線を廊下に落とし、そっと瞳を閉じる中で小さく自嘲の笑みを浮かべる。

(どうしたい、のレベルなんか超えてしまっとる。小春の傍を離れる段階で、もう負けとる)

 本鈴まで残り2分。早足で8組へと戻る。
 自分がなにをすればいいのか何をしたいのかも正確には分かっていない、けれど、

(もう目すら合わせへん。……って、それを気にしてまうのは、負けやろ)

 ふとした時、無意識に身体のどこかを動かしている時。そこにはきまっての視線があって、困ったように笑ってくれていた。その反応が身体に蓄積されてしまっていて、そんな時間の使い方しかしていない自分がいて、今この現実がむしょうに冷たくすら感じてしまう。
 どこかで財前が見透かしたように笑っている気がした。結局心配した視線を向けてくれる小春と、結局もうあの笑みを見せてくれなくなったのいる教室を、この2ヶ月で自分が作り上げてしまったのだと思うとひどく心が痛い。
 痛いと思う現実を、辛いと思う現実を、後悔という言葉が一番よく理解している。

(どないせえ言うんや。はよまともにならんかい、自分)

 振り回される自分が情けなくて哀れで、お笑いと小春を二の次にしてしまっている現実が寂しくて怖くて、席について授業が始まっても心は上の空だった。
 あと一歩。それは分かる。
 あとひとつ。それも分かっている。
 その残りひとつが、何なのか。それが分からない。

(腐ってまう。絶対このまんまだと、全部壊れてまう。それは分かってんねん)

 心の余地がどんどんと小さくなっていく。曖昧にしておきたい部分がどんどんとかき消されていく、呼吸が苦しくなる。
 ああもう自分は、結局最低の道しか選べずに今日ここまでの時間を使ってしまったのだろう。哀れという言葉を使うこともおこがましい、まわりを巻き込みを傷つけ、そんな時間を蓄積させてしまった自分になにを楽しむ権利があるのか。気分が悪くなる。

「ユウくん」

 小春の声が、随分と優しく感じられた。
 いつのまにか終わっていた授業、周りを見渡せば全員帰り支度を始めていた。

「独りよがり、って光くんは言うかしらね。ケンヤくんは……とにかくはらはらと心配するかしら。蔵リンは、きっと、自分と重ねてもうて辛そうに笑うことしかできへんのとちゃうかしら」

 一氏の前に席に腰かけ、教室内を見渡しながら呟く。それらの言葉が修飾している内容が分からず、けれど小春の言葉に縋りたい現実も捨てられず、一氏は無心で小春の言葉を聞き続ける。

「みんな自分の性格がよう分かってるわよね、アタシ感心しちゃうのよ。この1年、いろんな子の成長を見届けてきたわ。これ、アタシと銀さんと千歳くんみんなの意見。千歳くんって怖いわよねえ、4月からしかみんなを見てへんのに、おもろいぐらいに色んなこと言い当ててしまうんよ。人を見抜く能力に長けた人って、繊細な人が多いんやわって確信することができたいい例ね」
「……」
「ねえ、そう思わへん? ……光くんたちの成長に1年間なにかと首をつっこんでしまったって思ってしまうユウくんは」

 言葉と視線、どちらが優しいのか分からず一氏は言葉に悩む。
 その時、担任が教室の中に戻ってきた。その手にはなにか印刷した束があって、中身が卒業アルバムの見本であることを告げられると教室内がどっと沸く。早く早くと訴える視線に負けた担任は、各自ばらばらに席についている現状のまま興奮してやまない生徒に苦笑して、その状態で配布し始めた。
 構成最終予定と称して配られたその紙は各クラスごとに違うらしく、小春から回された紙には8組のクラス内の様子が掲載されていた。写真はまだ公開されていなかったが、どこになにが貼られているのかだけは想像できるようになっている。小春と自分が切り抜きされて8組という看板を支えていた。うまいものだと感心する。まだ全貌は分からないとはいえ、この1年の様子と8組の特徴を丁寧に描く構成になっていることだけは分かる。小春も感嘆のため息を零した。

「アルバム委員が頑張ったからな、今年はいいできやって写真屋さんが感心しとったで。ようやったな、。お疲れさん。みんなもに感謝せえよ」

 称賛の声が飛んだ。やめて、と手を振りながらその称賛の声から逃げようとするの姿が目に入る。
 いつもであれば真っ先に称賛の声を浴びせたがる自分が、頭を隠したのが分かった。

「もう、格好つけるんはええやないの。そろそろ自分を楽にしましょうよ、ユウくん」

 小春が小さく零す。その視線は遠くを見つめていた。なぞるようにしてたどれば、そこにはの姿。恥ずかしさと嬉しさがない交ぜになった表情で、卒業アルバムのことを説明している。その姿に、小春はそっと目を細めた。

「一番うちの学校が好きで、一番テニス部のみんなが好きで、一番月曜日の昼休みを楽しみにしとったんはユウくんやって、悪いけどこれアタシだけやなくてみんなの共通意見。元部長のお墨付きよ」
「……いまさら何言うとんねん、そんなこと」
「今までみんなのことを一緒に見届けてきてくれた分、最後はユウくんが一番いいラストで飾らないとみんなが申し訳なく思ってしまうんよ。せやからつっこんでしまう。珍しいって目丸くしてたわよ」
「……誰が」
「光くんの彼女が」

 小春がにっと笑う。まだ気づいていないの、と真相を説明したくてたまらないというような子どもの顔に似ている。

「光くんがあんなにテニス以外のことに執着するの、初めて見たって。それこそケンヤくんと勝負しとった期末テストの時なんか目やないって。挙句、こう言うのよ。ユウくんが羨ましいて」

 一氏は目を丸くしてしまう自分を止められなかった。

「バカね、ユウくんは。ほんまに真面目。ケンヤくん以上に真面目。ええやないの、彼女のひとりやふたりぐらい。……あ、これはケンヤくんの台詞ね」

 そんな反応すら分かっていたのだろう。小春はただ、悲しそうな、切なそうなため息をひとつ零す。

「どこに相方の幸せを願えへんコンビがあるの。ユウくんはアタシのことそんな了見の狭い人間やと思ってるんやね、そっちの方がよっぽどショック」
「小春」
「ねえ、ユウくんに幸せになってもらいたいって思う気持ちは、認めてもらえへんのかしら。ユウくんがアタシとの関係を大切にしてくれるのと同じぐらい、アタシがユウくんに満足いく人生を送ってもらいたいって思う気持ちは、ユウくんには認めてもらえへんのかしら」

 言葉が雪崩のように押し寄せる。なにか説明しがたい感情を掘り起こすようにして。
 小春はそれ以上なにも言わなかった。ただ構成用紙をじっと見つめ、やがてなにかに気づいてふと笑みを漏らした。
 惚れすぎちゃうの、と誰かに呟いたことだけは分かった。
 一氏はただ、小春の言葉を何度も何度も心の中で繰り返していた。



「正装すると、やっぱ雰囲気ちゃいますね先輩」
「アホ、いつもと同じ制服やないか!」

 卒業式の朝は、いつものやりとりから始まってしまった。
 式が始まる前、正確には最後の始業の鐘が鳴り響く前に部室に全員集合するのが男子テニス部のしきたりだった。全員が全員学生服というのは、もしかしたら1年に1回しか揃うことのない貴重な瞬間なのかもしれない。部活が好きなこの仲間たちは、いつも部活がなくとも誰かが絶対にユニフォームに身を包んでいた。忍足が間違えて着替えているということもあったが、制服でいいと言った張本人の白石が率先して着替えていたこともあった。

(あ、俺もか。俺もジャージによう着替えてしもうてたな)

 財前のつっこみに過剰反応する忍足を皆が笑う、その光景に懐かしさすら感じながら一氏はそっと心の中で思い出す。この1年、色々なことがあったと仲間の顔ひとつひとつを見つめるだけで思い出が怒涛のように押し寄せる。
 それを感傷と言うのよ、と小春は笑った。そうか、と今日は静かに受け入れた。

「まあ、俺らもいよいよ卒業っちゅうわけで。引退してからも結構顔出してしもうてたから、あんま実感沸かへんかったかもしれへんけど、ほんまにこれでしまいや。なあ、謙也くん」
「なんでそこで俺やねん」
「財前財前言うて一番可愛がっとったんはお前やないか。なあ、金ちゃん」
「は? なんでワイ?」
「金ちゃんは俺が一番よう可愛がったなあ。財前の言うこと聞かんと、どうなるか……もう分かってるよな、金ちゃん」
「わー、わーわーわー! 毒手はやめ!」

 部室の中がどっと懐かしい笑いに満たされる。財前ひとりだけが「結局ええところもってくのは白石部長やないですか」と呟いていたが、その呟きすら今年1年を説明するためには必要不可欠なものだった。

「まあ、高校は俺ら全員隣に移るだけやからな。とりあえず全力で受かりにいくか。そのためにも今日ぐらいは、きちんと卒業せなあかんな」

 白石の言葉に全員が耳を傾ける。今は部を先導しているはずの財前ですら、その瞳にまったく曇りもよどみも浮かばせずに見入っている、聞き入っている。
 その光景に、感傷を通り越した違う感情が心の中に起き上がってくることに、一氏は気づいていた。白石の声を背景に、仲間たちの真摯な瞳を背景に、自分が一体どのようにしてここまでこれたのかをふと思う。

(小春がおってくれたから。みんなと一緒にテニスができたから。そんな毎日で、そんな毎日を、あいつはただずっと見てくれとったんやな)

 自分にそのような真似ができるだろうかと問う。答えはすぐにでる、無理だ。
 小春は自分のことを人を見ることができる人間と言うが、そんなことはない。自分は結局自分の好きなことしか考えていなかった、考えているように見せて満足しているだけだった。そんな3年間が、今日終わる。

「小春、ユウジ」

 来年へ向けての話の後、白石がそっと名前を呼ぶ。一氏は小春とともに顔をあげる。

「今日は楽しみにしとるからな。お前らが学年の代表になったこと、誇りに思うで」

 真っ直ぐに見つめ、笑みを浮かべる白石を一氏はただ受け止めるだけだった。
 この部長でよかったとは、忍足の言葉。
 この部長でないと嫌だったとは、財前の言葉。

(あいつら、好きなもん多すぎやな)

 教室へと戻ったあと、コサージュを胸につけながらふと思う。教室も廊下も、すべてを愛おしく見させようとする卒業式という雰囲気はなかなかに手強い。小春一筋で終わるはずだった中学3年間が、途端色味どころか鮮やかさを増して記憶の中に入り込もうとする。
 ふと、と目が合った。
 あれ以来だと気づくのはしばらくしてからのこと。最初はなぜ目が合ったのかも分からなかったし、それ以上に、目が合うことに理由を探す時間を作らなかった。



 体育館へ移動する手前、周りが卒業式への興奮を抑えきれぬとばかりに笑い声を響かせる中でそっと名前を呼ぶ。あまりにも自然に呼べたことに自分の方が驚いた。
 あの時よりは、少し髪が伸びただろうか。真っ直ぐに見つめるの視線が、少し角度を高くしただろうか。ふとそんなことを思うが、それらに付き合っている暇はない。

「これ」
「……え?」
「まあ、あとで」

 言葉少なにに差し出す。それはルーズリーフの切れ端を使っただけで、風情もなにもあったものではない。
 だがは受け取ったあと、しばらくその紙を見つめていたが、やがてそっと上目遣いで一氏を見つめて小さく頷いた。一氏も軽く頷き返す。それ以上の言葉はいらなかった。
 練習をしすぎた卒業式は、流れが分かっているだけに落ち着いて受けられる。ふと気づけば忍足と小石川が号泣の涙を流していて、なんて感情豊かな人間かと逆に冷静に見てしまう。だがそれほど愛着の感情を表に出せる彼らが、少し羨ましかった。
 自分も、あそこまでできるだろうか。式の終わりに考える。
 テニスが好き、白石が好き、学校が好き、クラスが好き、彼女も好き。表現こそ違えどそれらすべてを叶え、実践し、そして公にしている仲間たちを思う。自分もなれるか。両立、共存できるか。その答えはまだ分からない。だが、

「卒業生のみなさん、ご卒業おめでとうございまーす!」
「それではいきましょう、小春&一氏の卒業お笑いライブ!」

 最後の舞台に立った時の爽快感は今までに経験したことがないものだったし、

「後継者はお前やってみんなに言われるんすけど。ほんま嫌なんすけど」

 感想と称して伝えにきた財前に、来年抱くことのできる期待を大きくしてもらったし、

「ああもう、俺はこの学年でほんまよかった。俺は幸せもんや」

 高揚して涙と笑みをごちゃ混ぜに断言する忍足に、自分もだと思わせてもらったし、

「最後に花を飾るんがお前で、よかったと思うで。まあ、色んな意味の花やけど」

 悠然と笑みを浮かべる白石に、この部長とともに過ごせた3年間のおかげで今があることを強烈に感じさせてもらった。そしてその3年間が、合格発表と引き換えに手に入ることも教えてもらった。
 未来が明るい。楽しみなことしか待っていない。好きなものがひとつでも多いだけで、ひとつ以上の幸せがついてまわってくる。
 財前から受け取った花束を見つめ、空を仰ぐ。快晴だ。やがて咲き乱れる校門脇の桜が卒業式に間に合わないことがいつも悔しいのだが、代わりに入学式の準備をしてくれていると思えば途端に心が晴れやかになる。見送ることよりも出迎えることに重きを置いてくれていることに、まるで心強い味方を手に入れた気分になる。

「ユウくん、第二ボタンほしいっていう女の子がおるんやけど。どうするの、あげるの?」

 そう問いただしながら、顔は笑っている。そんな小春を一瞥して、一氏も笑う。

「そうさせる気ないくせに、いちいち聞くな」

 小春が納得の表情を浮かべるのを見届けるよりも早く、一氏は踵を返して教室へと戻る。
 今日までの主役だった3年生が出払った教室は、いつもよりも広く、冷たく見えた。3月の陽射しが入っているのに、冬のあの時よりももっと寂しそうに見える。
 そこに、が待っていた。卒業アルバムとともに。

「お前も、物好きなやっちゃな。なんでそんな構成やねん」

 一氏の声にそっとが振り返る。少し泣いたのだろうか、記憶よりも若干目が赤い。けれど一氏の姿を見つけてすぐに笑みを浮かべ、ふるふると首を横に振った。

「大好評なんだけどな、これ。忍足くんも大絶賛してくれた」
「大絶賛やなくて、あいつの場合は大爆笑や」

 そうか、とは笑う。その笑い方は3月の陽光にとても似合っていた。
 以外にいない教室に、一歩。足を踏み入れるのは、とても簡単なことだった。あまりにあっさりとしすぎて止まり方が分からない。すぐにの隣にまでたどり着き、腰かける。真正面から見つめるの瞳は、やはり少し泣いていたように見えた。

「……よう、戻ってきてくれたな。俺正直無視されるんちゃうかと思って結構緊張した」
「手紙渡されて無視なんかできへんよ。それも私に」
「……え? なんで?」
「忘れたの? 私、一氏のことが好きなんやで」

 まるでそれは、逃げ回っていた自分への戒めのよう。
 真正面からの言葉に胸が簡単に苦しくなる。逆にの顔は清々しくて、一氏の答えがどちらになろうとももう構わないという顔をしていた。
 気づけば、一緒のクラスになって一番気が抜けた時に話していた仲。
 それはわざとがそのような瞬間だけを狙ってきてくれていたのだと、自分がにいつ手紙を渡すかを考えた時に初めてわかった事実。そんな相手をここまで待たせたことに対する薄情さは、痛いほど分かっている。

「……あんま、うまいこと言われへん俺は」
「うまいことって。一氏は全部うまいよ、器用やって」
「ちゃう、器用やない。今なに言うていいか分からへん」
「それは……卒業ライブをやりつくしたからやないの?」
「それはそれ、これはこれ。……やないとあかんって、教えたのはお前やで、

 ひとつめに好きなもの、お笑い。だから好きなもの、小春。
 ふたつめに好きなもの、テニス。だから好きなもの、白石、忍足、財前、銀、小石川、千歳、金太郎。監督。テニスコート。部活帰りのたこ焼き。
 みっつめ。

「ごめん、なにもかも全部手探りやけど。絶対待たせてしまうけど。それでもよかったら、まだ俺と仲良くして。高校離れても、一緒におって」

 その言葉を人生で最初に口に出させてくれた人。
 はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑ってそっと人差し指で目をこする。

「私は、ユウジがいい」

 父親に呼ばれても、母親に呼ばれても、兄に呼ばれたとしても今日のこのような反応の仕方は絶対にできない。名前を呼ばれただけで簡単に息がつまる。
 そんなユウジの反応に、は涙を押し隠しながら笑って、

「素の表情の方がやっぱりええなあ、ユウジは。私大好きや」

 何度も繰り返し頬が熱くなることを言うものだから、

「お前ばっか好き好き言うなや。……俺も、好きやねん」

 終いには、絶対言うことなどできないと思っていた言葉を口にしてしまっていた。
 が笑う。開け放たれた窓から流れる風が卒業アルバムの上で踊る。
 8組のページの右端には、素の表情で映っている自分の顔がこっそりと。クラス内の全員が絶賛する「いつもと違う」自分で、まるで今日この時を見守るかのように載っていた。



10/04/29再録