| 桜を待つ 03 |
見つめられる特権、と言うと随分強気な片思いを気取っているようだ。 本人に言わせれば、その瞬間は気を抜いている時であって決して人に見られたいものではないそうだ。 だがそんな本音などこの時は知るはずもないし、ましてや常に人の視線を受けることを意識している人間が垣間見せる素の表情というのは、本人が思っているよりも大変貴重なもので、視線がはずせなくなることをもう少しだけ自覚してもらえばよかったかもしれない。 いや、とは心の中でかぶりを振る。 (あかん、そうしたら私の楽しみがひとつ減ってしまう) 外は冬、待ち焦がれていたかのように今年初めての雪がちらちらと窓の向こうで舞う。 教室の後ろにある黒板には、1月下旬の予定が書き込まれる時期になっていた。 「小春、卒業式のネタどうする? 今までの最高傑作で攻めるか、それとも新作にするか」 「そうねえ、華々しく攻めるんやったら新作やと思うけど」 「せやな、俺もそう思うわ。今度の日曜ネタづくりしよか」 だらりと机の上で、頬杖なのかもたれかかっているのか分からない姿勢だった。その横で品よく姿勢を正して腰かけている小春とはまるで正反対だ。だが教室内の視線が自分たちに注がれていない以上、一氏はそれ以上の動きを見せることはない。それはこの1年、同じクラスになることでようやく気づくことができた真実だった。 なにか用を思い出したはずなのだが、立ち上がろうとした足が手が、一瞬動きを止める。 一氏が黙って外を見つめる、その光景だけには自分の行動の自由を奪われていた。 (あんな顔するんやもんなあ。横顔がむちゃくちゃ綺麗……ちゅうのは褒め言葉にはならんのかな) なにを見つめているのかは分からない。本当はなにも見つめていないのだろう、表情がまるでないのに、からすればただじっと、細かな雪を切なそうに見つめているように見えた。 筋が整っているその横顔に、一体どれだけの人間が気づいているのだろう。普段はその身振り手振りであったり声であったり表情であったりと、目を奪われてしまうものが多すぎて意識して注意深く見ることができない。いや、わざと見る暇を彼が与えていないのかもしれなかったが、それはとある感情を抱いた人間の前では無理な話である。 (あかんわ、変に男前なのも困る) そう見えるようになってしまったのは、いつからのことか。 去年も一昨年も同じクラスではなかったから、一氏ユウジという名前だけは知っていてもまるで接点などなかった。見るのではなく見つめるように、思い出すのではなく常日頃から想うようになってしまったのは確かに3年生になってからで、それまではこんな忍ぶような休憩時間の過ごし方など知らなかった。 だが、とは視線をはずし、耳だけでふたりの会話を聞き取りながら思い出す。 (もう、理由なんかなくてもいい。好きになってしまったもんは仕方ないし、いまさら誰になにを言われても私は一氏が一番格好いいと思う。ええ人やもん) 春夏秋冬、すべての季節を共に過ごした。去年までは見ることのできなかった顔を知った。空気に触れた。視界に入る時間が増えただけでそう思えた、そんな人と今もまだ一緒のクラスにいて時間を共有できている。それは、望んだからといって誰でも手に入れられる現実ではないのだ。 好きになった理由はない。ただ心がもう満水となってしまったのだ。自分の手元を離れ、勝手に満たされてしまっていたのだ。 誰が信じてくれるだろうか、と心の中で笑いたくなる感情を、だが否定するつもりはない。 ぐだぐだと休み時間を過ごす一氏に苦笑し、その笑みを小春にあっさりと見つけられて慌てて教室から出る。そうだ、2組のアルバム委員に呼ばれていたのだといまさらながらに思い出して廊下を足早に渡り、見慣れない2組のドアをがらりと開いた。 「あの、すみません。このクラスのアルバム委員は……」 名ばかり、と言えば聞こえは悪いが、もともと年間を通して活動をしていたわけではない臨時の委員である。もくじ引きであっさりと兼任を言い渡され、昨年の卒業アルバムを参考に各クラスの委員と今年度用を作成してきた。自分の仕事ですら完璧に把握しているわけではないのが実情である、他のクラスの委員も完全に覚える暇がないまま今日まで来てしまった。 しかしドア付近にいた銀髪の後ろ姿に、もっと意識を向けて声をかければよかった。 「アルバム委員? 誰や、それ。謙也知っとるか」 それは一氏に恋心を寄せる身としては、あまりにも情けない失敗のひとつだった。 同じく気を緩めた座り方とはいえ、どこか近づけない空気をまとう白石の声には一瞬身体が固まってしまう。一氏の存在を気にすれば当然出てきてしまうこの元部長と言葉を交わすのは実はそれが初めてのことで、 「アホ、お前は一体いつになったら俺という心優しき少年をありがたく思うようになるんや。俺や、俺」 だからもちろん、テニスと早食い選手権の主役である彼と話すことも初めてのことだった。 思わず息を飲んでしまう。どうしてよりにもよってテニス部ふたりなのか、と唖然となる。 「なんや、謙也かい! お前いつのまにそんなん掛け持ちしとったんや? 俺全然知らんかったやないか」 に気づくよりも先に感嘆なのか脅威なのか、よく分からない声が白石からあがった。 「せやな、お前ら2組のやつらはほんま目立つもんばっか可愛がりおって、いっつも白石がええところばっか……」 「……しもた。すまん、愚痴零しだしてしもた。こんなんでええなら、はいどうぞ」 「こんなんってなんやねん! お前はほんま親友のありがたみっちゅーもんを分かってへん!」 真顔で差し出す白石の後ろで、忍足が真顔で怒声をあげる。だが2組の面々は慣れ親しんだ光景のようで、誰ひとり慌てもしないしそれどころか女子の一部はまたかという顔をして笑っていた。 外見や素振りはまったく違うが、2組にとってはこのふたりが流れの中心にいるらしい。やはりそうなのかと半分感心し、しかし残り半分は自分は絶対に馴染めないと変な緊張感を再認識することに預けながら、どうにも真正面から白石を見つめることができなくては言葉につまる。一氏のふとした表情にとらわれることが多くなった身には、白石のように隙が見つけにくい――見つけてはいけないと訴えられているようなこの空気は、扱いが分かりかねた。 (……全部一氏と比べてしまう。ほんま、なんで一氏の方が全部よく見えてしまうんやろ) 重症だと、気づかされるにはそれだけで十分だった。 一般的には、どちらがいいか悪いかではないのだ。それはとて十分理解している。対象にされた白石とて本望ではないしむしろ失極まりない話だ、もちろん一氏にとっても。 だが、今自分の心の中で生きている感情がいったいどれほど自分勝手なものなのかを知るには、それ以外の方法がない。 が今なにを考えているかなど当然知るよしもなく、白石と忍足はいくつかのやり取りをかわしたあと視線をちらりとこちらに向けた。は彼らの存在を知っているが、ふたりからすれば初対面も同然である。忍足は2組まで足を運んでもらったことを最初に詫びたあと、自分の机からなにかを取り出して戻ってきた。 「昨日元生徒会長から伝言が回ってきて、写真をもう少し追加することになったらしいで」 「え、そうなん? 急な話だね」 「まあな。各クラスで今週中に、普段の様子でええから写真撮ってくれって。カメラはこれ。2組の次は8組で、8組の次が1組」 「順番に撮って回していく……ってこと?」 「せやな、そんな感じや。デジカメやからもう好きなように撮れって会長豪語しとったで、まあ枚数は心配はせんでもええってことやな」 テニスコートの外から見る印象とは異なり、忍足は随分と落ち着いた空気をまとう話し方をした。意外という意味でいえば、今話を聞いているのか聞いていないのか分からない白石の、その若干忍足を温かく見守る視線も想像していたものとは少し違う気がする。 テニス部はいったいどれほどの顔があるのかと不思議に思いながら受け取ったカメラと忍足、そして白石を見つめると、忍足はなにかを思い出したように手を叩いた。 「せや、8組言うたら小春らがおるやないか。俺小春に用があったんや」 「小春に? なんかあったか?」 自分も考える素振りをして白石が尋ねる。考え込むと左腕で頬杖をしてしまう癖があるのか、忍足に軽くたしなめられていた。 「んー、財前から微妙に催促されとったんを、今思い出したわ。すまん、わざわざ来てもろうたのに。俺が行けばよかった」 忍足が本当に申し訳なさそうに両手を合わせる。カメラを持った手のままは慌てて両手と首を振った。 「そんなの、全然。私の方こそ思い出すの遅かったし……なんやったら、私今から小春に言うて持ってこようか?」 「あー、ええ、ええ。そんなんテニス部やない人に悪いわ。昼休みは……まだあるな、白石俺ちょっと8組行ってくるわ」 え、と白石とがともに目を丸くする。明らかに自分とともに8組に行こうとしている忍足の流れに、ふたりだけが置いていかれていた。思いついたら即行動、スピード命とは一氏の言葉だがまさにそのとおりすぎる。 忍足はそんなふたりの視線に何も気づかない様子で、を視線で促して廊下へと足を向ける。 「なんやあいつ、毎日ずーっと部日誌みたいなのつけとったやろ。あれちょっと見せてほしいって財前がこの前言うてたんや。練習の内容参考にさせてもらいたいって」 ドアからひょいと顔だけを出して白石に伝える。白石はしばらく目を丸くしていたが、 「部日誌……って、ああ、あれのことか。はは、あれ全然部日誌ちゃうで。かわいそうに、財前騙されとるわ」 笑いを堪えながら呟いた台詞は、しか聞き届けていなかった。 苦笑する白石への挨拶もほどほどに慌てて忍足の後を追うと、忍足が想像以上に身長が高いことに気がつく。普段テニス部といえば一氏と小春ばかりを見てしまう8組の人間としては、明らかに頭1つ分以上大きな忍足に改めてテニス部の強さを思い知らされた気がした。 「あんた、そういえば結構小春と仲ええやろ」 8組はもう目の前というところで、忍足がいきなり言葉をぶつけてきた。 顔を上げて忍足の表情をうかがう、そんなことをしているうちに足はすぐに8組までたどりついてしまう。ドアの前で足を止め、普段滅多に使うことのない首の角度で忍足を見つめると、その顔はちらりと8組の中に視線を向けていた。 「どっかで見たことある、ってずーっと考えてたんやけど、今思い出した。8組のや、せやろ」 「……うん、そうやけど」 その時の忍足の声が、わずかながら小声であったことに気づくのは随分あとになってから。唐突に振られた前置きのない、そして流れがまったく読めない会話にはただ次の言葉を待つしかない。 小春を呼び出すでもなく、ましてや一氏に声をかけるでもなく。唐突に忍足は動きを止め、をじっと見つめる。思わず怯みそうになって顎を引くと、「納得」と小さく呟いた。 「うん、俺の直感がなんも文句言わへんから、このままにしとくわ」 「……え?」 力強く頷く、その意味がまるで分からなくて目を丸くする。しかし親しみやすさを味方につけてひとりで勝手に話を進めてしまう忍足に、言葉を挟む隙がどうしても見当たらない。 「あいつがあんなんやと俺の方が調子狂うてまうから、どうしたもんかとは思っとったんやけど……なんか結構気楽にしとってええ気がしてきた。うん、、」 「は、はい」 「頑張れ。俺は応援する。ようあいつのこと気にしてくれた」 がっしりと肩に手をおかれては、隙を見つける前に呼吸を確保することで精一杯だった。 後日、1組にカメラを渡しに行った時に偶然その様子を見てしまったらしい千歳に「あれじゃ熱血教師たい」と爆笑されることになるのだが(重ねて言うが、テニス部とは一氏と小春以外全員面識がない)、この時にはそんなことに気づく余裕などあるはずがない。 (なに? なに、ちょっと待って……この言い方って) 呆然と立ち尽くしている間に、思いのほどを言いきった忍足はひどく満足げな顔で8組の中に消えていく。 「おーい、小春ー。財前からの伝言やでー」 「まあっ、光くんから? なにかしら!」 「なんやねんケンヤ、俺らの邪魔しにきたんかい!」 「邪魔すんのは俺やなくて財前です、残念でした」 笑い声とともに交わされる会話。その言葉に身体が一瞬で現実に戻り、は慌てて8組の中に戻る。デモンストレーションのような前置きの会話が終われば、途端あっさりと腰かける一氏の姿が最初に目に入ってくる。 切り替えが早い。自分の仕事を分かっている。いや、常に探して常に忠実に生きて、常に全うしている。今のその、ただ外を見つめるだけの姿の意味を理解しているのが自分だけだなんていうのは、嬉しくもあり、けれど、悔しくもある。 (……忍足くんも気づいとる。小春も知ってる。私、ばれやすいなあ) だから今、手が動くのだと。自分のことを笑いたくなった時にはもう、口が我慢できなくなっていた。 「一氏、こっち向いて」 粉雪が小さく窓を叩いている。繊細な模様を作るかのように窓の向こうで揺れている。 重く垂れ込める雪雲に負けて照明をともした教室の中、決して綺麗な背景ではないだろうその光景の中で、は思わず小さく叫んでいた。 一氏が顔をあげる。まだ少しばかりスイッチが入りきっていない、動作が緩慢だ。 だが、それが素の表情だ。は確信して、カメラを向ける。 フラッシュがたかれたその瞬間は、全てが伝わってしまったような瞬間に思えた。 「……は? なんやねん、いきなり。ちゅーか待て、今めっちゃ気抜けた顔しとったやんか俺!」 数秒の間をおいて、一氏が慌てて席を立つ。一瞬の隙をつかれたことにひどく動揺している。だが小春と忍足は、主犯でありながら言葉をなくしてしまっているに対して少しだけ笑ってみせてくれていた。 「気抜けとんのはいつもやろ。心配すんな、誰も悲しんだりはせえへんから。よし、その分俺は精一杯喜んだるからな、そこだけは安心せえ」 「お前に言われて誰が安心できるか!」 「あら、ええやないのユウくん。あれたしか、卒業アルバムに追加で載せる写真撮影のはずよ。ユウくんの男前っぷりがもっともっとみんなに伝わるやなんて、素敵ねえ」 「せやかて小春、俺今めっちゃ気抜いてたやんか……! あー、うわー! !」 「なに?」 「お前、なんちゅう突撃しかけんねん……!」 遠い、まるでテレビか舞台かのようだった。忍足と言い争いをする声が、自分に向けられた声が近いはずなのに遠くに聞こえ、カメラを持つ指がまだ震えてしまう。 「一氏の素の顔なんて、そう見れるもんやないなあと思って。ごめん、思わず押してしもた」 小春と忍足は笑った。一氏は不機嫌なのか困惑なのか分からない顔をした。は、火照る頬が緩みそうになるのをこらえるのに必死だった。 カメラよりも、心に強く焼き付けるためのフラッシュだったのだと。そう気づくには、まだ時間の許可を得ていなかった。 見つめるだけの恋にしておけばよかったのだと悟るまで、傷つくことから逃げるなと言われるまでの、最後の褒美のようだった。 寒く、冷たく、けれど温かい。1月が終わろうとしていた。 |
| >>04 10/04/29再録 |