桜を待つ 02

「先輩、冗談も大概にしてください」

 財前の白けた視線は痛くない。なぜなら2年間、この男は常にそうして上級生を見つめてきたからだ。そういう男だと思ってしまえば、上下関係を気にするよりも先にこの関係をどのように楽しもうかという気持ちの方が強くなる。そんな自分の生き方が嫌いではないのだから、従うしかない。

「冗談やない、卒業する身とすれば最高の名誉やないか。卒業式に小春と漫才ができるやなんて!」

 食堂で派手に拳を握り締める。箸が食い込むかと思うほどに。だがその痛みすら心地よい、財前のどこか哀れみを含んだ視線すら心地よい。そうして見上げるだけになればいい、自分はこの道を信じて疑っていないのだからと心の中で呟く。

「正確には、校長先生の『ご命令』やろ? 2組にも回ってきたで、その噂。なあ謙也」

 可愛げがすっかり失せた財前に苦笑して、白石が問いかけた。
 月曜日の昼食は食堂でとるという暗黙のルールは、部活を引退したあとも相変わらずだった。時間の蓄積が心地よい。隣に小春、目の前に白石と財前を迎え、居心地のよい空間はあっさりと作られる。

「おう。まあ卒業式の最後に卒業生代表が校長とお笑いバトルすんのもうちの風物詩みたいなもんやから、誰やろなとは話しとったけど……期待を裏切らずにお前らやもんなあ、圧勝だったらしいで。先生たちの間で」
「先生たち?」
「予選は先生たちの投票なのよ、光くん。せや、次点でケンヤくんと蔵リンが入ってたらしいって本当?」
「なんで俺らやねん」
「いや、罰ゲーム校長銅像磨き25回の伝説はそう簡単には崩されはせえへんで。ケンヤのお笑いセンスはある意味俺らの真逆やからなあ……このやろう、さては俺と小春の仲を引き裂こうと!」
「誰が割り込むか、ドアホ!」

 忍足の言葉で昼食が終了するのが、いつものことだった。機嫌を損ねてぶつぶつ呟く様は、それこそテニス部の伝統だ。最初こそはしゃぎすぎたかと少しばかり気にやむ様子を見せたほかの部員たちも、ここまでくると誰も相手にしないのだから恐ろしい。

「ケンヤー、お前相変わらずやなあ」

 トレイ片手に後ろから声をかける。

「うるさいわ、ドアホ。変わらへんのはお前の方かて一緒やないか」

 1年生の時よりも随分と身長が伸びた忍足は、見下ろす視線を持ちながらも少しいじけていた。
 食堂を出ると、途端に冬の寒さが身にしみる。使い捨てカイロを取り合う財前と忍足の後ろ姿に、変わらないのはやっぱりお前やと心の中で呟いた瞬間白石に大笑いされた。人の心を読むのも大概にしてもらいたい。
 階の異なる財前と、そしてクラスの異なる白石たちと別れ小春とともに8組の教室を目指す。校舎内で一番誰よりも笑いで視線を浴びること、それを目標とした3年間は偽物ではなく、誰かの声援を受ければ自然と身体にスイッチが入ってしまう。

「よっ、小春&一氏! 卒業式の『答辞』、期待してるで!」
「任せとけ、地球上で一番熱い春を小春と過ごしたるでぇ!」
「いやーんユウくん、真昼間から大胆発言! そんなユウくんが素敵よ!」

 廊下に笑い声が響けば心地よい。それが自らに課した仕事である、ためらっている暇はないしそもそもためらう理由が分からない。声援に手を振り小春と掛け合い、そして数分のショーが終わる。その繰り返しだ。

「声がしたと思たら……相変わらずやなあ、ふたりは」

 声援が終わる瞬間は、一瞬だけ自分に許された「気休め」の時間に近いものがあった。自分が苦痛には思っていない小春との時間なので気休めという表現はいささかおかしな気もしたが、次へのエネルギーを蓄えるという積極的な意味として用いることもできる。
 その瞬間に、最近うまく滑り込んでくる声があった。

「相変わらずやないとおかしいやろ、ちゅーかなんやねんお前のそのナイスタイミングは」
「え? なにが?」
「絶妙の間やなあ、ある意味感心してまうわ。お前、お笑いのセンスあるんとちゃうか」
「やめてよ、一氏たちにかなうはずがないのに」

 こんな顔をして笑うこともあるのかと、思わず一氏が目を丸くする。
 最近、このクラスメイトの言動が新鮮すぎて目から離れなくて困っていた。

さんは、優しいからなあ。アタシらのタイミングなんてほんまは気にしてもらうことちゃうのに、ユウくんにまでそう思われるってほんまに優しいっちゅうことね。ええお嫁さんになるわよー、さん」
「あはは、小春はいつもほんまにうまいなあ」

 小春が毎度のごとく名前を呼ぶのでという名字の印象ばかり強くなっていた。だが彼女にもれっきとした名前があり、という名前を繋げてみるとそれだけで雰囲気が変わってしまうのだから不思議なものだ。名前を聞かされると、途端に彼女が女子になる。当たり前のことのはずなのに、その響きに妙な緊張感すら伴うのだから困ってしまう。
 はしばらく小春との会話に笑みを見せていたが、ちらりとこちらを向いたときに一氏と目が合う。

「お疲れ様。卒業式、楽しみにしとるから」

 ふわりと何か可愛らしいものを見つけたかのような笑い方だった。少なくとも1年間、同じクラスになってこの冬になるまで目にしたことはない表情だ。新鮮さに負けて最近の自分は言葉を発するよりも軽く手や目で返事をすることだけになってしまう。
 興味のないことに対して愛想がなくなる点では同類だと思っていたの最近の変化に、戸惑いすら覚えたくなる毎日だった。

「おかしいわよねえ、不思議よねえ」

 のもとを通り過ぎ、窓際の自分の席に腰かけると目の前の席で小春がころころと笑った。

「なにがやねん」
「え? このタイミングってことよ」

 次の授業の準備をする手が止まる。机の中を覗く姿勢のまま小春をじっと見つめると、小春は五指を強く組んで祈るような瞳でこちらを見つめた。

「ユウくん、アタシ応援するから。こんなチャンス逃しちゃ男がすたるってもんよ」
「は? なにがやねん」
「ああもう、今までのツケがここにきて爆発ね。なんのための光くんやったの、蔵リンやったのケンヤくんやったの。ちゃんと勉強せえ言うとけばよかったわ……金色小春中学最大の失態ね、これは」

 ぶつぶつと呟く意味が、その時はまだよく分からなかった。意味を理解する必要がないと心のどこかが、頭のどこかが思っていたからだろう。
 小春の言葉はすべて信ずるに値することは分かっていたが、溺れこむような信者なのではない。信頼の意味を履き違えない。小春との間の関係がなければ生きることのできない信頼なのだ。その信頼を壊そうとするもの、関係を破ろうとするものには自然に警戒のスイッチが入るようにできている。
 そんな反応を、自分では好ましいものと思っていた。小春との3年間を最上のものとする頭では、それ以外に考えられなかったのだ。
 だが小春はなにかを見通しているかのように、そのような時は決まってよく笑った。

「ユウくん、アタシはユウくんが一番幸せになる道を応援してきたつもりよ。それはこれからも変わらないわ」

 ふわりと笑う。まるで駄々をこねるこどもをあやすような笑い方だ。
 その笑みに見覚えがあって、それがかつて財前たちに向けられていたものと一緒だと気づくと一瞬気分が不機嫌に負ける。

「俺の幸せってなんやねん。俺は小春と漫才が一緒にできればそれでええって」

 鳴り響く予鈴に負けないように呟くと、小春が笑みのあとで小さく肩をすくめてみせたのが分かった。



 それが一氏だということを、知らないわけではなかった。
 そんな一氏であるからこそ、今の自分の感情がなぜそのような流れを形成しているのかがまったく分からなかった。身体の持ち主の感情に、心が生み出す感情がかみ合わない。理解しようとすればするほどそれは「追いつこう」とする行動に似ていて、気づけば頭の中の感情が心に支配されていく。染められていく。
 いつのまにか、一氏を見つめる生活になっていく。

「ほな始めましょうかー、小春&一氏のお笑いライブ!」

 第一声はどこから飛んでくるか分からない。教室の中だったり、廊下からだったりはたまた食堂からだったり。運動場から聞こえてくることもざらで、声に促されるかのようにして窓を開ければ、そこにはテニス部のユニフォームを着たふたりがよく人の輪の中心にいた。そして必ず5分後には、騒ぎを聞きつけた白石がつかつかとやってきてふたりをテニスコートに連行していった。5分間だけは大目に見る白石の優しさに気づいたのもその頃だったし、期待されれば裏切ることができない不器用さを一氏が持っていることに気づいたのもその頃だった。

「あら、アタシは不器用の扱いはしてくれへんのかしら」

 夕暮れを待つ冬の教室。小春の問いに、はしばらく考え込む。
 だが一度白石が部長の会合で遅れていた時、5分というタイマーの役割を果たしていたのが一氏の横でともにはじけあっていた小春であったことをは知っている。それは無理だ、と笑顔で笑って否定すれば、小春も肩をすくめて笑った。

「よう見てくれてるわ、さん。……まあ、ユウくん中心に見てたらアタシはそう見えるのかもしれへんなあ?」

 にやりと笑ったあの時の小春の笑みは、忘れられそうにない。
 一氏に対する感情を認めてくれる、そんな小春がいたからこその想いだった。

「小春は笑わへんの? 私のこと」

 衝動に駆られたとはまさにこの時のことで、は初めて自分の想いを間接的にだとしても口にした。
 普段教室で話すわけではない、前置きのような関係があったわけでもない。ただ中学校に入ってからその存在を知って、誰もが笑いの目でしか彼を見ない環境の中にあって、たったひとつの事実に気づいてしまった自分だけは同じ道を歩めなかった。そんな3年間だったのだ。

「笑うもなにも……」

 部活に顔を出してくる、と飄々とした態度で一氏が教室を離れてから1時間。コートでは制服姿のままの一氏と、白石の愛弟子扱いをされている財前という2年生がラケットを握っていた。
 アルバム委員の仕事を適度にこなしながら、なぜか教室に残っていた小春に問いかける。
 窓際、一氏の席に腰かけてこちらとコートと両方の様子をうかがっていた小春は、頬杖をついたまま笑った。

「ユウくんはいい人やってアタシが思ってしまってるからねえ。そこを見つけてくれた人をどうして笑わなあかんのかしら」
「……」
「せや、さん。言うてみて。ユウくんのええところ、好きなところ」
「え?」
「なんやアタシの方がドキドキしてきたわー、はよ、はよ」

 思わずボールペンを強く握り締める。しかし教室の中には自分と小春以外の誰もおらず、廊下にも覗き込んできてくれそうな外野はいそうにない。しんと静まり返る教室の中で、小春の目は逃げを許さないという色をしていた。
 はしばらく強く口をつぐんでいたが、やがて教室の中に誰かの声が響く。それがコートから届いたあの元気な1年生のものであることに気づいた時、時間の流れの中に途端身体が引き戻された。
 言葉には、したくなかった。本当であれば。

「……一氏、さあ」
「うんうん」
「どうでもええことにはどうでもええ顔普通にするし、小春とおらん時は結構愛想ないって言われるし、はたから見たら冷たくも見えると思うんやけどさ」
「うんうん」
「でも、真剣なことには絶対気抜かへんよね。絶対やりきるよね。せやからそれ以外のところ、あんなふうになってしまうんは絶対当たり前やと思う。白石みたいに器用に両方できる人は一部でええって。気抜くところは気抜いてええやん、その方がよっぽどテニスとかお笑いに真剣なんやって分かるし、そっちの方が格好ええし」

 誰にも、それこそ親友にも告げていない心の奥底の部分を一気に吐き出す。だから小春が初めて聞かせた相手だった。言葉にして、初めて自分の耳で聞いてしまった瞬間だった。
 いざ言葉にしてしまうとあまりの自分の溺れこみ具合に、次の言葉が出てこなくなる。気づけば頬が赤いような、耳が熱に負けて痛いような。しばらく沈黙の中に隠れていた気分だったが、かたんという音に慌てて顔を上げれば、小春の笑みがそこにあった。

「意外、って言うたらさんは怒るかしら?」
「……え?」
「アタシ、もっと違う意見が出てくるかと思うてたのよ。それで試してたわけやないけど、せやけどユウくんの身内みたいなもんやから、応援できる子やないと心から応援できへんし」

 最初は、小春の言う言葉の意味が分からなかった。自分をどう思うのかを答えるより先に帰りの準備を始める、順番が間違っているその光景を止めることができず眺めるだけになる。
 アタシもテニス部に顔出してこようかしら、と呟いて、ドアに手をかけたその時、

「真剣すぎて、まわりが見られへんことあるからユウくんは。少し歯がゆい思いをさせてしまうことがあるかもしれへんけど、せやけどさんやったら大丈夫そうね」

 振り返って呟いたその言葉が、自分の想いを認めてくれている言葉であることに気づくまでには少々の時間を要した。
 だけど、小春がいたからこそその後の時間は繋いでいくことができたのだ。
 きっかけをつくることができたのだ。あの日、あの時。

「俺の書くことなんか決まっとる。小春とお笑い芸人や。なあ、小春」

 自信満々に宣言をした一氏を、小春は困ったように笑ってみせた。それはまるで「ごめんね、もうしばらく待ってね」とに伝えているかのようだった。
 としては、どこまでも自分の真剣なものに対して真っ直ぐに突き進もうとする、そんな一氏の姿を間近で見られるだけで幸せだと、返す笑みで少しでも伝わってくれればという思いひとつだった。



 テニス部の仲間と食堂で会することができるのも、残り10回をきっていた。
 そのように呟くと忍足が途端哀愁の念にさらわれて無口になるのが見物のひとつだったが、全員の進学予定である四天宝寺高校には食堂がないということを教えられてそろって無口になってしまうあたり、月曜のこの時間は非常に大切なものだったと痛感させられる。

「せやったら、誰かの教室に集まりましょ。みんなでお弁当つついたらええやないの」
「高校行ってもお前らと一緒の飯か……途中で漫才するんやないで、飯の時間がなくなるからな」
「あらまあ、そんなこと言うてケンヤくんが一番嬉しそうにスキップしてるのね」
「してへん! 勝手に実況中継すんな!」

 いつもと同じように忍足の怒声で始まる月曜の昼食の時間、一氏はふと自分がれんげを持ってきていなかったことに気づく。

「なんすか、先輩」
「れんげ忘れた。親子丼は箸でもスプーンでもない、れんげや」

 はあ、と妙なこだわりに曖昧な相槌が返される。昼休みが始まってまだ10分も経っていない、今この時間に入り口に逆行するというのはなかなか無謀な試みである。しかし自分の信念を曲げるわけにはいかない一氏は、無理やり箸コーナーへの道を進む。

「あれ、一氏」
「おう、あっ、ええところにおった! そこ……」

 目指す場所に、の姿があった。ちょうど今日の昼食を受け取ったところで、まさに今一氏が目指さんとしていた場所に立っている。なんという幸運か、と一氏はぱっと顔を明るくし、口を開いた、

「ああ、れんげね。はい」

 その瞬間にはあっさりと傍近くにあったれんげをひとつ取り出し、一氏に差し出した。
 れんげ、と言葉を作りかけた口が一瞬動きを止める。ありがとうと喜ぶよりも先に目が丸くなり、そんな一氏の反応にの方こそ驚いた顔をする。

「違った? ごめん、それやったら……」
「ああ、ちゃうちゃう。これでええ。すまん、ありがとう」

 怪訝な顔をするに慌てて感謝の意を述べ、踵を返す。何の動揺かさっぱり分からなかったが、その場に長くいてはいけないような気がして元きた道を戻っていくと、財前が白石たちとこちらとを交互に見るようにして待ってくれていた。

「なんや、お前最近優しいなあ。なんかあったんか」
「迷子になる先輩のお迎えをするんが面倒なだけです」

 無表情のまま、財前は白石たちが腰かけた席へと一氏を案内する。トレイの上にあるれんげをちらりと一瞥した財前が、小さく後ろを振り返ったあとそっと口を開いた。

「……先輩、いろいろと気づいとるんすか?」

 財前が小さく呟く。なにを、と視線で尋ねようとしたが、直感でそれ以上深くえぐってはいけない気がして一氏は口を閉じた。
 そんな一氏の様子に、財前は視線だけを向けた。もともと過剰な反応をする性格ではないことを知っているので、本来であれば気にすることなどない一連の動きだ。だがなぜだろう、成長したと感じている後輩相手にその考えは通用しないと誰かが言っている。
 財前と一氏、ふたりの席も確保していた白石たちが手をあげて合図を寄越す。その隣に座る小春の横に、と少し早足になっていたかもしれないその背中に、

「俺からすれば、部長とユウジ先輩の方がよっぽど似てますわ。無駄に真っ直ぐすぎ。1回汚れてまえばええのにっちゅーぐらい綺麗すぎ。せやから、折れてしもたらどうなるかぐらいは簡単に想像できますよ」

 ぽつりと呟き、白石に視線を向け、

「ああいう人やないと無理やと思いますよ、先輩。俺のこと見くびらんといてください」

 最後に一氏を勝利の視線で見つめてきた財前は、生意気な後輩の顔を取り戻していた。



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10/04/29再録