| 桜を待つ 01 |
「おー、大ホームランやなあ」 喉奥から無理なく出した大声は、冬の空に一瞬で吸い込まれていった。 「お前、変わらへんなあ。コントロールええんか悪いんか、時々分からんくなるで」 「それは先輩相手だからっす」 「なんやて? よう聞こえへんかったわ」 「聞こうとせえへん人にはもう二度と言いません」 ネットの向こうで、白石から部長の肩書きを託されて久しい財前が珍しく不機嫌をあらわにする。部長に昇進してからは随分と自分本位の感情は出さなくなったと聞いていたが(もともと一氏からすればどちらでもよかったのだが)、ことテニスとなるとそうはいかないらしい。小学生時代から天才の誉れを称え続けられた男である、それぐらいの執着はほしいものだと妙に感心している自分がいて一氏はおかしかった。 「練習に付き合いにきてくれたんか邪魔しにきたんか、どっちっすか先輩は」 思わず笑みを浮かべた一氏に、財前はますます不機嫌の色を濃くしていく。冬の寒空の下に四天宝寺のユニフォームカラーがとても映えていた。 「練習のつもりやったんやけどなあ、俺今思い出したことがあって」 「なんすか」 「お前、今年はケンヤがおらへんからシングルス選手扱いやろ。俺が相手できることなんて限られとるんちゃうかって」 コートに転がったボールを軽くラケットで叩いて手元に戻す、その慣れた一連の動作が止まる。冬の風に遊ばせる黒髪もそのままに、ちらりと財前がこちらに視線を向けたあと小さく首を傾いだ。 妙に大きくなったと、神妙な顔つきで忍足が呟いたのは数日前。 どれどれと、最初は興味本位で戻ってきた四天宝寺中学テニスコートだった。新入生が入るまでの間、少しだけ寂しさを訴える少人数(それでも他中学に比べれば随分とテニスの盛んな学校ではあったが)の光景に、たまらず左手は後輩のラケットをねだってしまった。金太郎がせかすものだからいつのまにか財前とラリーをすることになり、不本意極まりないという新部長の表情を真正面に迎えてから数十分。忍足の言葉が的を射ていたことに気づく。 (最初は、最近妙にオヤジになっとるケンヤの思い込みかと思っててんけど) どうやら一般常識の中に組み込んでもよいらしい事実に気づかされ、一氏は繋げる言葉を捜すのが後手になってしまった。 引退して急に時間の流れというものの中に無常さを感じるようになった忍足と、その同じだけの時間の流れの中で急に変化を見せた財前。ふたりの姿に、どこか置いていかれたような気分になる。 「頼もしい……ちゅうやつとはちゃう気がすんねんけどな、なんやろ。お前、変わったなあ」 心の呟きを思わず言葉に出すと、財前は首を傾いだままそっと瞳を細めて鼻で笑った。風を受けるのが随分とうまくなっている、そう思わずにはいられない黒髪の艶が妙に眩しかった。 「先輩からの褒め言葉なんか、信じられへんから聞かんかったことにします」 「なんやねん、コラ。上級生からのありがたい言葉っちゅうやっちゃで」 「週に1回ぐらいね。あ、月に1回かも。忍足先輩は半年に1回ぐらいで」 相変わらずの皮肉だったが、ボールを手にとってライン上まで戻っていく、その後ろ姿は確実に彼の成長を物語っていた。 体格だけではない、背中からでも見える意志の種類が半年前とまるで違う。 (成長するっちゅうんは、こういうことなんやろなあ) 半年前、なかば恒例となっていた夏の全国大会の時。2年生エースとして、しかしあくまで必然からではなく経験のためとして組み込まれていたダブルスメンバーとしての自分に、財前は完全な納得をしていなかった。表でこそ飄々と自分のルールの中で生きているように見せていたが、天才なのである。幼少時よりその呼び名に親しみ、対応できるだけの練習を積んできていた財前が、自分の意思とはかみあわない舞台を喜んでいたようには見えなかった。 「それでも、あの子はあの子だもの。自分の役割は分かってて、せやからあんな態度だったはずよ」 小春は財前をよく評価する。本人には決して言わないが、3年の前では次期部長たることを常々保証してきていた。 「せやけど、視野は狭いで。まだ『好き』っちゅう感情で十分動いてまうやつやんか」 そんな小春の意見に従いたくともどこか納得できなかった一氏は、よく彼の内面の幼さを口にした。言葉にするたび、小春には笑われた。 「中学2年生になにを求めてんの、ユウくんは。蔵リンの時とはちゃうで、状況が。責任とかそんなもん、これからでええやないの。せやからダブルスなんやし。アタシたちの下の、ね」 未来の時間を計る物差しでも持ち合わせているのかと、そう問いかけたくなる小春の自信だった。そしてそのとおりの、今この冬の季節だった。 一氏は一度片足に重心を預けて姿勢を崩したあと、無言のまま打ち込まれたボールを軽くあしらいながら考える。 この1年、一体どれだけの人間が成長の過程を歩んできたのだろう。 (財前は見てのとおり、か。白石は彼女ができて逆に親しみやすなったところがあるな、あいつにとっちゃ成長か。ケンヤは……まあ、勝手に物思いにふけっとったっちゅうことで) 左利き同士の打ち合いは、どこか心地よい。右利き相手に意識しなければならない注意点が一切不要となって、その分打ち込みの力や回り方などに意識を集中できる。憎まれ口を叩きながらも財前が一氏との打ち合いを決して断らなかった理由も、もしかしたら同じなのかもしれない。1年前は全く想像できなかったが。 あ、と小さく声をあげたのは財前ではなくコート脇で様子をうかがっていた金太郎だった。それが絶叫に変わったのは、財前がむすっとした表情でこちらを見つめるのと同時だった。 「なにしとんねんユウジー、いくら財前でもあんなボールには手出さへんで」 「いくらってなんやねん、金太郎。誰でも、やろ」 「しもた、久々すぎて加減の仕方しくったわ」 先ほどまでは姿を消していたはずの金太郎の声が響くだけで、空気が一瞬で温かくなる。この後輩だけは成長という物差しとはどこか一線を画している気がする。昔と変わらない姿に心温かくなるなんて、自分も中学3年という魔の手にとうとう引っかかってしまったかと一氏は苦笑ともため息ともとれない呼吸を零してラケットを金太郎に放る。 「あり。なんやユウジ、ワイとは打ってくれへんのかいな」 「お前と打つには白石の許可がいるんや。ラリー10分につき30分補習。俺担当美術やからな、期末テスト前でもない限り用ないやろ? ちゅーわけで」 「アホー、ワイなんのためにここで待っとったと思っとるんやー!」 懐かしさすら呼び起こす金太郎の絶叫を背後に、一氏はテニスコートを後にする。 振り返った破線の先で、財前は新部長として軽く頭を下げる姿勢を見せてくれていた。 中学3年の冬だった。 奔放という言葉と寄り添っている金太郎はさておき、財前が部長という肩書きをもっている。だから白石が部長の任からはずれている。白石が部長でなくなったということはその隣で常に一緒に戦ってきた忍足がユニフォームを脱ぎ、忍足がユニフォームを脱ぐということは小春がテニスコートから離れ、小春がテニスコートから離れるということは、自分の部活の引退を意味していた。 (案外あっさりここまでくるもんやな。入部した頃は基礎練習だけでえらい目におうとったっちゅーのに) それこそ、白石たちは引退時に神妙な顔つきをした。忍足と小石川にいたっては涙すら流していた。だが一氏はどこか彼らと相容れない部分があって、今もその気持ちは変わっていない。 たとえば、今吹く風。冬空に凍てつかされたこの風を、忍足たちは寂寞の感情で見つめるだろう。もう戻れないという哀愁とともに受け止めるだろう。だが一氏は違う。 (感傷にひたらんでも、もっと楽しめばええやないか。あかんわ、あいつら。妙に考え込むやつらばっかで。楽しむ言いながらむっちゃマイナスオーラ出す時あるし。あかんあかん、甘すぎる。もう少ししたら高校やないか、どうせ高校に入ったら入ったでまたテニスやるやつらばっかのくせに、忙しいやつらや) 忙しい仲間には、付き合う仲間がいる。それが自分だったと、特に今年は忙しすぎたと一氏はしみじみと思う。 表沙汰になった財前の話からすべては始まり、自分がこれほどまで部員の恋愛話に首をつっこむことになるとは思いもしなかった。自分がそのような苦悩の道を歩まずに済んだのは、ひとえに彼らと自分の考え方の違いだと一氏は断言する自信がある。 時間の経過は、どのような意味でも蓄積であるべきなのだ。その意味では成功も失敗もない、積み重ねた時間の分だけなにかがある、それを守ればいい。ただそれだけのことなのだ。 「ユウジは妙に大人びたところがあるな。感心するで、俺。謙也にも見習うてほしいわ」 白石はよく笑ってそう言った。真っ直ぐに見つめる彼の顔の方がよほど大人びていて、この同級生は一体なにを根拠に、そしてなんの理由があってそのようなことを自分に向かって呟いたのかよく疑問に思ったものだ。 しかし、それが白石だった。テニス部だった。一氏の中学生としての記憶の大半を占める色だった。 1年生の頃の記憶は生々しいほどで、石田と小石川以外の全員が同じ身長で並んでいたことまでよく覚えている。それぞれが自分の得意とする分野で能力を発揮し、全国大会の常連と言われたテニス部に中学生活の多くの時間を費やしてきた。 何も考えずともこの足が、今部室に向かっているのもそのためだ。もはや部員でないというのにコートに立つためならばそこに行く、帰るためならばそこに寄る。この癖はいつまでたってもなくなりそうにない。 「あら、ユウくん。どないしたん。なんや数ヶ月前のケンヤくんみたいな顔してるで」 扉を開けると、珍しく小春が現役時代のように机に向かってなにかを書いていた。示し合わせていたわけではないのでお互い制服姿のままだったが、この慣れ親しんだ場所で小春に出会うと妙に心が浮ついてしまう。今日何度も教室で顔を合わせているのに、だ。 「ちゃうて、今財前と話してきたからケンヤが乗りうつっとるだけや」 「まあ、光くんと? アタシもあとで覗きにいこうかと思てたところやったんよ。どうやった?」 「まあまあちゃうか。妙に大人しくなっとるところがあったぐらいで」 「やだわユウくん、それ大人しくなったんやなくて、落ち着いたっちゅーやつよ」 心底楽しそうに小春が笑う。その笑みにつられて自分も笑ってしまう。テニスコートで繰り広げたあの身も心も躍る瞬間がすぐ手の届くところまで戻ってきているような、取り戻してもいいような感覚に襲われる。 小春とダブルスを組んで、いや小春とこの学校で最高級の生活を送る選択をして、3年目。 中学3年生になるということは、一氏にとってはそのような意味だった。財前が成長するのではない、白石が部長の任から解き放たれるのではない。ましてや忍足が色恋に頭を抱えることでもない。 自分が、小春との生活を3年間も送れたという意味だった。 「なあ、小春。俺、四天宝寺高校受かるよな? 小春と一緒の高校行けるよな?」 「ユウくんの力で受からなければ、悪いけど誰も受からないわよ」 苦笑まじりに呟く。その右手はとめどなくなにかを書き続けている。見慣れた姿だ。そして自分の一番望む言葉を、ためらうことなくあっさりと用意してくれる。これも相変わらずだ。 そんな小春との関係が、一氏は心地よくて仕方がなかった。 「小春ー、高校行っても一緒にテニスしよなー。漫才やろなー」 「ほんまにどうしたのユウくん、シャレやないぐらいに昔のケンヤくんみたいやで」 「ケンヤは彼女とのことでしか悩んでへん。俺はなあ、小春。もっとでっかい規模で頭ん中働かせとんねん。高校っちゅー次のステージに向けてやな、こう、いかに小春と楽しい生活を送るかについて」 「せやなあ、四天宝寺高校にみんな受かったら、またテニスも漫才もできるわね。楽しみねえ、ユウくん」 「おっしゃ、任せとけ小春! 俺が幸せにしたる!」 これが冬だと、一氏は心から思っていた。 3年間分の時間を小春と、テニス部の仲間と費やしてきた今だからこそ受けられる冬の風は、高校への期待を温める、春を迎えた時に心から楽しめるようにとわざと冷たい空気を送り込んでいるに過ぎなかった。小春が笑えばそれだけで生活は満たされていたし、自分の存在意義もなにも揺らぐ必要がなかった。 テニスとお笑い、それだけがあれば自分の人生は正しい時間の蓄積の道をたゆまず進んでくれるものだと思っていた。 あの日、ふわりとなにかが揺れて目の前に落ちてくるまでは。 昼休み、一氏の前の席に腰掛けていた小春があ、と頬杖から顔を離す。 「話し込んでるところごめんね、これ今日中やって。書いてへんの、あと一氏だけやから今のうちにと思って。ごめんね、小春」 小春がふるふると首を横に振る。外向きの顔ではない、身内に見せる緊張感を解いた笑顔の方だ。作っていない方の笑顔と言えばいいか。 上質紙が舞うかのようにして机の上に落ちたのと、その小春の笑みとを見つめてから一氏は顔をあげる。 「なんやねん、これ」 「忘れたの? クラスの寄せ書き。卒業アルバムに載せるやつ。この前先生が書け書け言うてたやんか」 愛想のない質問に、相手は少し呆れた表情を浮かべる。 だが彼女はこれが常の反応だった。一氏が執着のないものに対してはとことん愛想がなくなるのと同じように、きっとこの人といえばこの態度だと、誰もが思っている。 「さん、アルバム委員やったわねえ。ダメやないのユウくん、煩わせちゃ」 小春の一声は、だから少しばかり計算外だった。一氏は目を丸くし、幾度かの瞬きに負ける。 「なんでお前はこいつの味方やねん、なんのつながりや」 「あら、アタシは生きとし生けるものすべての味方よ。その中でも特に美しいものには目がないっていう話。蔵リンしかり、光くんしかり、それで仕事を頑張るさんしかり」 「あはは、さすが小春。うまいわあ、私小春大好きやで」 「まあ、さんにそう言うてもらえるやなんて、今日のアタシは運がいいわね!」 滑らかに言葉をつむぐ小春を、心地よさそうな笑みで見つめ返す。小春の顔の広さを思えば不思議な風景ではないはずのその瞬間、ユウジは改めて彼女を見つめる時間を作ってしまったことをひどく後悔することになる。 「、ほら。書けたで」 「え?」 「俺の書くことなんか決まっとる。小春とお笑い芸人や。なあ、小春」 相槌の代わりに、ふたりの苦笑が零される。 左手で一度ボールペンをまわし、一氏は紙を受け取るクラスメイトの女子を見上げる。 「せやな。一氏は小春大好きやもんな、その気持ちは誰も勝てへんなあ」 クラスメイトの女子という接点以外に、まだこの時はなにも見つけられなかったはずだったのだ。記憶は、痛々しいほどにその事実を忘れない。それが時間の蓄積だったはずだった。 中学3年の冬は、なにか急くようにして足早に、なにか追い求めるようにして過ぎ去りたがっているような、そんな時間の流れの中だった。 |
| >>02 10/04/29再録 |