| 天王寺慕情 01天王寺駅 忍足編 |
猛暑という言葉を聞かなくなって久しい。強引な夏の延長が続いていた今年の秋の入り口まで、それは毎日の天気予報の必須用語だった。聞かなくなってようやくああ、今年は猛暑と言われすぎていたなとぼんやりと冬も間近な秋の空を見上げる。見た目で季節の違いがはっきりと分かるような自分ではなかったが。 だが、自分の時間の使い方は劇的に変化した。それはいまこの瞬間が夏ではない、秋である証拠だと、忍足は誰よりも強く思っている。 目の前の光景はテニスコートではなかった。日曜ということも手伝ってどこからともなくわいてでてくる人、人、人。自分もそのひとりである。 日曜に部活ないんやで。朝から私服で駅におるんやで。なんやねんこれ。ジャージはどこいってん。 だから、以前までであればそのように思う自分を止めることができなかっただろう。 「今日も天王寺駅をご利用くださいまして、ありがとうございます。お客様にお知らせ、お断りを申し上げます。本日、大阪環状線内において……」 機械越しの声も、コート入場を伝える放送ではない。誰が聞いているとも知れない、ただ繰り返されるばかりの案内放送。 何度同じことを繰り返すのだろう、見つめるその先には改札機が並んでいて、一秒たりとも同じ景色が続かない。人がきて、人が吸い込まれていって、人が出てくる。男も女も老いも若いも一人も団体も関係ない。見知らぬ顔が、当たり前のように忍足の前を通り過ぎていく。 天王寺駅、中央出口前。柱にもたれかかり、忍足は手持ち無沙汰なのを隠すように両手を上着のパーカーのポケットにしまいこむ。 時計は午前10時、10分前。20分前に約束の場所にたどり着くのはテニス部の癖だ。 だが今日は、あの黄色と緑のユニフォームを待ちわびてはいない。それがほんの少しだけ寂しさを持っているのが分かる。だが、忍足はうなだれるようなことはしなかった。ため息もつかなかった。 冬を控えた秋の雲高き空に、寂寞の思いを抱くことがなくなったのは、実は最近のこと。 中学3年の秋を迎えるということは、1日という時間枠からたった3文字、それはテニスでも部活でもどちらでもよい。とにかく中学校に入学して以来日々の生活の基盤でもあったその時間がすべて「解放」となることだった。 最初こそ戸惑いを覚え、切り替えという言葉の意味を頑なに理解したがらない男だった。 「ケンヤくん。時間を持て余すぐらいやったら彼女さんとデートでもなんでもする言うてたん、忘れたの? 駄目よお、口だけの男は株を下げるわよお」 空は秋晴れ。太陽は依然西に沈みたがらず、ぎらぎらとした熱を放つ放課後の3年B組。 暇やで、なんかおもろいことないんか。ちゅうかお前ら土日なにしてんねん、部活に顔出したらあかんのかな。そんなことを呟いたある日、小春はまるで後輩を諭すような表情で神妙にそう呟いた。いつもであれば棘のある一言を絶対に付け加えてくるはずの一氏がなにも言わなかった。それ以上向ける言葉はないという意味だった。もしくは、呆れているということだった。 「なにしとんねん、謙也。暇暇言うてる場合とちゃうやろ絶対。お前この前の反省の心はどこに行ってしもたんや」 「反省って……白石、自分それ俺を悪人呼ばわりしとるやろ」 「悪人も悪人、なに言うてんねんいまさら。ずっと付き合うとる彼女がおりながら好き勝手やりすぎてふられる夢を見てようやく目が覚めたばっかりの男がなに言うとんねん、え?」 「……真顔で説教するのはやめてください、白石くん。ほんま怖いねん」 整った顔立ちで淡々とそのようなことを言われると、敗北者の気分になるからやめてくれ、と何度心で願ったか分からない。 だが、今の白石には願うだけで精一杯である。忍足は強く自分の意見を口に出すことができない。白石のように自分の考えをゆるぎない意思でかためてしまう人間には、自分は到底敵わないと思ってしまう。 (部活終わったら大切にするて、そら決めたけどな。考えてわかったけどな。そんなんすぐ実行に移せるぐらいやったら、もっと昔に気づいとったことやろ) 部活を引退し、勝手に進む季節と時間に取り残された感覚を味わっていたのはつい最近の出来事。部活という時間の使い方以外に拒絶反応にも似た思いを抱いていた自分を、救ってくれたのはこの仲間たちであり、そして恋人のでもある。 長く付き合ってきた、部活の間待っていてくれた彼女との時間を、大切にする時期。 それを理解はできたが、だからといってすぐに今までと違う行動を起こせというのはなかなかに難題である。だからついいつもの口癖に頼ってしまう。そして怒られる。変わらない日常だった。 黙りこくる忍足を見つめ、白石は目を丸くする。忍足の考えを見抜いているのか、小春がカラカラと笑った。 「蔵リン。蔵リンの考えは間違ってはないんやけど、それはケンヤくんにはやっぱりもう少し柔らかくっちゅうか、オブラートに包むっちゅうか、男の階段はよ上れやオラアッ! っていうか」 「男の階段やったらどれだけでも上ってええんやで、謙也。ちゅうか時間余ってるんやったら自然とそうなるもんなんとちゃうんか。え、いや待て。まさかお前ほんまにあれからなんも進んでないとか……」 「いやよ蔵リン、それをケンヤくんに聞いちゃ。酷な話」 「ほんまか ほんまになんも進んでへんのか?」 「アタシの敏感なこの小鼻がなんの反応もせえへんっちゅうことは、そういうことよ、蔵リン。ううっ、生殺しよ生殺し」 「なにここでカッコつけとんねん、自分。ださ。ださすぎるわ」 「うるさいわ、自分ら! ちゅうか彼女おらんユウジになんで責められなあかんねん!」 机の上に出したままだった数学のノートではたこうとした瞬間、身軽な男には飄々と逃げられた。彼女おるし、と小春と手をしっかりと握り締められては反論の余地もなくなった。その様子を見て白石は美しく眉間に皺を寄せ、ため息をつく。 「せめての前では男前であることを祈る。忍足くんが格好ええ彼氏でありますように」 その名前に、忍足はぐっと言葉を飲む。人の口から出てくる自分の恋人の名前というのは、妙に強制的な力を働かせる。それは身体の動きであったり、思考の流れであったり。 そんなことも見透かして白石が口にしていることも分かっていながら、忍足は黙ってしまったその場の空気を如何ともしがたくなっていた。白石は頬杖をついて忍足を見つめる。 「1年の時から付き合うとるんやろ。お前の部活生活にずっと付き合うてきてくれたんやろ。せやったらちゃんと恩返しをする。それができるんが、今やって。部活が終わって、違う時間の使い方ができるようになった、今やって。謙也、自分で言うとったやろ。待ってるで、」 これか。忍足は白石が用意したがっていた真意に気づき、しかめ面をした。 「……せえへんつもりは別にないし。しかも恩返しとか、そんなんなんか恩着せがましいし」 「じゃあ、償い」 「なんやねんそれ、俺が悪いことしとったみたいやんか」 「アホ、自分気づいてへんのか。白石の言うとおりやろ。自分は存在自体がどうにもこうにも悪や。微妙に悪や。ノリツッコミ甘いし」 「アタシたちのネタに時々のってくれないし。突き放すなら突き放すで光くんぐらい極寒の男にならんとあかんのよ、ケンヤくん。その中途半端っぷりが、悪。悪ね、ユウくん!」 「俺が悪やったら自分らは極悪や! 放課後の教室でいちゃつくな、アホ!」 「全国大会優勝する言うて準決勝止まりやった男に、否定する権限はあらへんで」 冷然と言い放った白石に、やはり部員としての性か、忍足も小春も一氏も全員黙り込む。 小春以上に神妙に(ただ無表情なだけだったのだが、実際は)缶コーヒーを飲みながら呟く白石には、同級生とは思えぬ迫力があって忍足はいつも反論ができない。 しかし、具体的になにをせよとまでは言わないのがこの親友たちの意地の悪いところだ。 「言うたかて、お前絶対そのとおりになんかせえへんやろ。絶対せんやろ。どうせまたぐずぐず考え込むやろ。いや、教えてやってもええんやで?」 そしてそんな触れる必要のない心の声にあっさりと耳を傾け、拾い上げてしまうのがこの親友たちの意地の悪すぎるところだ。 「よし、それなら話したろ。この前の日曜な、俺天王寺植物園行ってな。そのあと俺ん家行って、家族全員でかけとったからな、」 「わー! わーわーわー! コーヒーでからむな、白石! ちゅうか聞きたない! 俺明日からどんな顔してあいつ見ればええねん! 同じクラスで付き合うなやほんま!」 「あらー、ケンヤくんウブねえ。それやったらアタシらが指南してあ、げ、て、も」 「きしょっ! きしょい! 見てみい、ごっつ鳥肌!」 「チキン肌か。たまにはうまいこと言うやんか、臆病者のオシタリケンヤくん」 「アホか、なんやねん今日ねちっこすぎるわ!」 その光景を、部日誌片手に不本意とも不毛とも呼べる心持ちで見つめていたらしい財前は、後日食堂で「俺先輩らの後輩で嫌やなーと思ったこと限りなくありましたけどね、やっぱ同級生やなくてよかったなーとあそこまで思ったのは初めてかもしれません」と淡々と呟いた。 だから仕返しに「お前は俺らが引退しても結局寂しくてなにかと理由をつけて3年の階にくるなー、どんだけ寂しがり屋やねん」と笑顔で呟いたら、最後まで残しておいたゆで卵を無表情で取り上げられ、止める間もなく金太郎の胃袋におさまってしまった。「その日練習試合なんすよね、俺ら。せやから栄養あげたるんですわ」。どうしてお前はそれほどまでに偉そうなのか、と叫ぶ前に金太郎にお礼を言われたら怒りも萎んでしまった。 そんな食堂の様子は、自分たちだけが楽しむ場所ではないらしい。 「謙也くん、今日も楽しそうやったなあ」 ゴミ箱を引きずりながら分別場へと向かっていた忍足の頭上に、柔らかい声が響く。秋の風に頬を撫でなれながら顔をあげれば、2階の教室から恋人であるがこちらを見下ろしていた。 「部活引退してからの方がもっと楽しそうやね。なんで?」 「なんでって、なんやねんその質問。ちゅうか見とったんか」 「うーん、見とったというより……丸見え」 「は?」 「ゆで卵、残念だったね。謙也くん、テニス部のみんなが目立たんはずないよ」 「……そらそうや」 あっさりと納得して押し黙ると、は箒の柄をつかんだままくすくすと笑った。 艶のある黒髪の綺麗な、同級生だった。すらりとしたというよりも、少し小さいのではないかと思える身体つきだ。ただ、本人が意図していない雰囲気は他の誰にもない柔らかさというか優しさがある、そう忍足は自負している。 「それな、自惚れてるって言うんやで。ちゅうか甘えてる? それやったら俺も自慢したろか、あのな」 「お前の自慢は卑猥に聞こえる自覚を持ってください白石くん」 真顔で勝負を挑んできた白石の恋愛ののめりこみ具合が、そんな時になって思い出される。結局勝負はしなかったものの、こちらが負けてたまるものかと心の中で意気込んだらいつのまにかを睨みつけてしまっていたらしく、困惑の表情を浮かべられた。 「ごめん。なんか怒ってる?」 「え? あ、いや。全然」 「ほんま?」 「ほんま、ほんま」 それでもは、不安げな表情を持て余している。 昔からそうだった。この彼女は、聞き分けがよいと言われる面があるが、それはただ相手の顔色をうかがいすぎて本音を二の次にしてしまう性格だからだと忍足は知っている。自分の意見を押し通す力を、良くも悪くもあまり身につけようとしていない。 そんなに、自分がどのように接すればよいのかも、忍足は知っている。 「せやったらいま言うとくわ。、今度の日曜あいてるか?」 白石の勝ち誇った顔が脳裏に浮かんだが、忍足はためらわなかった。 いいさ、言うとおりにしてやろう。くさくさと時間だけを持て余すぐらいなら、前進したほうがいい。それに、唐突であったとしてもふたりの約束ができることをはあまり嫌がらない。 後から考えれば、どうして「せやったら」なのかと尋ねられたら窮地に陥っていたのかもしれないだろうに、と自分の対応の悪さや鈍さにため息がでる。だがそんな忍足の性格も知ってくれているは、わずかに小首を傾げたあと、頷いてみせた。 「なんもないよ。え、どっか行くん? 遊び?」 「おう。どや」 「どやって。いいよー」 臆することなく地上から2階に向けてデートの申し込みをする忍足に、は笑い声をあげてもう一度頷いてみせた。 帰りが遅いことを心配したのか、ただ掃除を抜け出したかったのか。3階の教室から名前を呼んできた白石の顔は、勝者の笑みを浮かべているように見えた。 10時、3分前。 駅の騒々しさはやまない。むしろ日曜であるからこそ、自分と年の近い人間が大きく楽しそうな笑い声をあげる声がやけに耳に飛び込んでくる。 (俺らもあんなふうに、楽しめっちゅうことか) 今日にいたるまでの出来事を思い出すのを止め、忍足は時計と改札口とを交互に見つめる。ポケットの中の手を強く握り締めながら。 長年の付き合いの恋人となっていた。分かることが多くなった反面、それに甘えて意識した付き合い方をしなくなっていた。それでもいいと誰かは言ったが、だからこそ大切にすべき人だということも言った。そんなこの秋の出来事は、テニスに夢中になっていた中学校生活の中でも鮮明な記憶して忍足の中に残っている。残したいと思っている。 (償い、とはちゃうけど。まあ、慣れていけっちゅう白石なりのアドバイスか。1回別れたことがある男が言う台詞はやっぱちゃうなあ) 言葉に出してしまえば笑顔で仕置きをしてきそうである。わずかに背筋を凍らせて、ぶるぶると頭を横に振る。 なにも、楽しい休日に思い返さなくてもよいだろう。そうだ、今日は休日だ。秋晴れだ、部活のない日だ。デートのことだけに頭を使ったとしても、誰も咎める者はいないはずだ。 (せやったら明日白石に自慢しまくるデートしたろ。植物園どころやないで、動物園行ってあの新しいビルで買い物までしてきた言うたらあいつ絶対羨ましがるに決まっとる。そうや、正々堂々とおもいきりデートしたる) 意気込んで、時計が1分進んで、そして。 そろそろだろうかと、顔を上げた瞬間。 「忍足くんやないの」 笑顔で声をかけてきたのは、ではなく、の母親だった。 「……は。あ、あ! どうも! こんにちは!」 「はい、こんにちは。おばさんびっくりしたわー、見たことある子がおるなあって思ったら。ほんまに忍足くんやった」 ころころとした笑みを浮かべて、の母親が笑う。女子は父親に似るというが、それはには当てはまらない。背丈といい笑ったときの目元といい、つくづく生き写しに近いというか、母親の若かりし頃の姿がそのまま今のなのだろうと忍足は思う。 (……いや、いや! ちゃうやろ俺! なに冷静に分析しとんねん!) そんな娘の恋人の心の叫びなど、露知らずという顔で母親は楽しそうに忍足を見つめる。忍足は逃げられない。 そして残念なほどに、この人がの母親である以上、柔らかさという言葉の裏に潜むのんびりとした性格であることを忍足は知ってしまっている。忍足は、やはり逃げられない。 「テニス部、惜しかったねえ。から話は聞いててんけどな、なんや東京の強い学校とあたってしもたんやって? 忍足くんや白石……くんやったっけ? 今年は強い強いてがずっと言うもんやから、おばさん楽しみにしててんよ」 「はあ」 「今日は、部活は? もうないん?」 「は、はい。引退しましたんで」 「そうなんや。あ、せやったら今日は、みんなで遊びに行くん?」 あなたの娘とデートです、同級生に自慢できるほどきちんとしたデートをしようと数秒前まで意気込んでおりました。とは、当然口に出せるはずもない。 (ちゅうか、もしかして今日約束しとること言うてへんかったんかい!) の真意がまったく読めない動揺に愛想笑いを浮かべるしかない。はぐらかせばいいのか、それとも真実を伝えるべきなのか。なにが正しい行動になるのか皆目見当もつかない愛想笑いに、しかし母親はさしたる疑問を浮かべるでもなく、なぜか、ため息をついた。 「……どうしました、おばさん」 「いやね、忍足くん。あのねえ」 「はあ」 「随分背高くなって、男前になったなあ思て」 困ったように眉尻を下げて首を横に振る、それはまるでがこの人の娘である証拠であるかのように、そっくりだった。不安を持て余してもう一度ため息も零した。 「ほんまにええの? 忍足くん」 「な、なにがですか」 「にはもったいない気がするんやけど、ほんまにええの? 忍足くん。うちの子で」 右手を頬にあてながら、思案顔で母親が忍足を見上げる。その角度すら娘と同じで、忍足は軽い眩暈すら覚える。まるでに問われているようで、急に胸に流れ込む空気が重苦しくなっていた。 「その、そのですね、俺は、その」 「うん」 「なんといいますか……」 なぜこんな時に思い浮かぶのが白石や小春たちだったのかは、悔しくて認めたくはない。だが人当たりはよくとも要領がよいわけではない忍足は、ぐるぐると頭の中を忙しく駆け巡っていく言葉の、思いのどれが正しいのか分からなくて押し黙る。 時計はとうに午前10時を過ぎている。はいない。代わりにの母親がいる。 「俺、ずっとテニスばっかりしてきて、あんまと付き合うとるいうても彼氏らしいことってあんましてへんと思うんで、……あ、さん、と!」 ええよ、と笑って母親が首を横に振る。似た顔で微笑まれると、やはり敵わない。 「せやから、今からなんです。ちゃんとするんは。できるんは。こんな俺でええんかって、俺の方がに聞きたいぐらいで。……やから、おばさんの質問は俺には申し訳ないっちゅうか」 わずかに、少しずつではあるがわずかに母親の目が丸くなっていく。ああ、その言葉にはしないが感情を隠せない表情は昔からよく見てきたものだな、と緊張の中に懐かしさがじわじわと入り込んできて、落ち着きが戻ってくる。 「俺が、これからに認めてもらう方なんです。頑張るところとか、努力するところを。やから、もうちょっと時間かかると思うんで、すんません」 正しいのか正しくないのか、それは分からない。そもそも15年程度の人生で、母親のこの人の納得できる答えなど用意できるはずも分かるはずもない。 だから、今。部活が終わり、これからの時間をと使うことに意味があることがようやく分かったこの時期、言えることができるとすればそれは宣誓だった。努力の結果は後でしか分からない。けれど勝負事は自分で勝つから楽しい。自分がいい人間だったのかそうでなかったのか、判断してもらうための努力は惜しむ必要がないことは、テニスに教えてもらっている。 「それは、この先も付き合いますんでよろしくお願いしますっていう意味に……とっちゃおうかしら?」 見上げられる視線に、忍足は黙る。だが否定はしない。まるで嫌な感じがしない強制的な力に、また思考の流れを奪われている。それでも、否定をしたいとは身体のどこも、心のどこも願っていない。 「お母さん?!」 その時になって、が母親以上に目を丸くして声をあげた。電車が遅れていたらしい。なんてタイミングだと母親は残念そうにため息をつく。だがすぐに笑って、 「忍足くん、じゃあさっきのこと。よろしくね」 「さっきって……え、なに。なに話してたん」 「ええの、ええの。、あんたちゃんとしとかへんと忍足くん他の子にとられてしまうで。ええ子やわー、お母さん今から友達に自慢してこよっと」 「自慢って……え、なに。ちょっと謙也くん、なに話してたん?」 「え、いや! 言えへん。絶対言えへん」 「なんで!」 含み笑いでいつのまにか母親は姿を消し、が左腕を掴んで真実を言えと揺さぶるが、しかし忍足は結局本人にはなにも言えなかった。 当然だ。男の決意は簡単には口にしてはいけない。 いや、決意というほどのものではないから言えないのかもしれない。いやいや、そもそもこれからを大切にするという思いは数日前に本人には伝えていることであって、なにをいまさらな話なのだ。 だからこれはこれでよしと、そう思いたかったはずなのに、 「謙也。俺はな、ただデートをすればええんとちゃうかって言うたつもりやった。まさか親御さんに改めましてのご挨拶をせえとは、これっぽっちも言うたつもりはなかったんやで」 「顔笑てるで、白石。ちゅうか自分なんで知ってんねん」 「15歳のプロポーズなんて、ああもう素敵ねえ。さんが羨ましいわねえ。小春、憧れちゃうわあ!」 「プロポーズしてへんし! ちゅうかきしょいし、小春」 「やっぱりノリが悪い、つまらん男やなあ。から三行半でもつきつけたったらええねん」 「なんで離婚まで話すっ飛ばすねん、アホかユウジ! せやからなんで知ってんねんって!」 翌日の月曜日、食堂で自分を囲むように座った仲間たちに怒声を浴びせる。 その横で淡々と、現役テニス部員のふたりがゆで卵を食べている。 「いや、練習試合の集合10時やったし。集合天王寺駅やったし。みんな見てしもたし」 俺さりげなく言うといたはずやのに、と哀れみに近い瞳で財前が呟く。金太郎はなんのことか分からないという目で忍足を見つめていたが、その向こうで千歳と石田が肩を震わせ、小石川が至極申し訳なさそうにため息をつけば、金太郎の純粋さもまるで特効薬にならない。 「そんな遅い時間に集合とかすんな、アホ!」 苦し紛れの怒りの声は、今日もまたに聞かれることとなって、結局いつまでたってもにはテニス部仲間のことばかり話題に出されることになるのだった。 |
| ……ちょっと前のできごと 11/05/20 |