| 夏の華 04 |
それは突然だった。 いや、正確には今日という日になってようやく表に現れた。 同級生のの存在を認識するようになってから、そろそろ1年。 見上げた夏の空はおかしなほどにあの時と同じ色をしていて、不変さが愛しい。だからなのか、仁王は1年前の自分とは違う今の現実が正しいのかどうか、分からなくなっていた。 「仁王君にはほとほと呆れました」 初夏の風の中に柳生の声が溶け込む。その一言に顔を上げた時、仁王は最近の自分はこの姿勢ばかりしているということに気づかされる。 数日前、ブン太は好奇心丸出しの表情で仁王を見つめてきた。は困ったような、それでも見捨ておくことはできないような視線を仁王に向けていた。その都度話した内容、考えた内容は、気づけばここ数日の思考回路を独占してやまないものだった。 そして、今日は。 「いくら聖人君子ではないとはいえ、この仕打ちはもはや無意識というには済まされないもの。いい加減反省したまえ」 「は? お前なに言って 「あなたは理想論が強すぎるんですよ。良い意味でも悪い意味でも、困ったほどにね」 ひとつ年下の後輩が消えていった1階の渡り廊下を見つめて、呆れて一言。 腕を組み、仁王を見下ろせる姿勢のままで柳生はそう呟き、そしてそれ以上はなにも言わなかった。 仁王は柳生を一瞥した後、視線を同じ方向に向ける。昼休みの終了をまもなく迎える校舎内は、5時間目開始にむけて少しずつ動き出していた。言葉は交わしても心にまったく響いてこない女子テニス部の後輩が目の前からいなくなったのも、それが理由だった。 「おっしゃっている意味がよく分かりませんが」 仁王は薄い笑みを浮かべ、わざとらしく丁寧に言葉を振る。それは言葉の続きを求めるという安い挑発の意味ももちろん込められていた。しかし、言葉を回された柳生は表情ひとつ変えなかった。 流れ行く沈黙が、仁王の心をざわめかせる。だがそれは夏の風が青葉を揺らして起こす木々のざわめきとは似ても似つかぬもので、動揺が簡単に生まれるほどに胸の奥底が不安定だった。まるで無言こそが答えのような、そんな居心地の悪さが心を揺り動かす。 「仁王君とさんの交際について」 その時、右上方で重苦しいため息が悲しく零れ落ちた。 「仁王君の考えは恐らく間違ってはいない。そもそもふたりが納得していることならば、それは本来私のような第三者が口を挟むべきものではないのでしょう」 「なんじゃい、いきなり」 「人と人との関係において言葉は時に暴力になりかねない、私だってそう思います。言葉は作られるもので嘘も裏切りもありますが、感情はたとえ装うことはできても偽ることはできないものですから。だからふたりの付き合い方はけして間違いではなく、人としてある意味理想のかたちなのかもしれません。……ですが」 チャイムが鳴る。いつものように機械的に、何の悪意もなく昼休みは終了であるという事実を伝えてくれている。 大樹の周りに埋め込まれた赤レンガに腰掛けたまま、仁王は黙っていた。数日前、同じようにチャイムを聞きながらと唇を重ねたあの時を無性に思い出しながら、そして温もりを恋しく思いながら、ただ黙っていた。再び柳生のため息を聞きながら。 「私たちはそれを実証できるほど人との付き合いに慣れているわけではなく、ましてや」 「は?」 「相手は私たち男とは違う、女性なのですから。完全に理解できるなんて保証はどこにもない。……それを助けてくれるのは、言葉ではないでしょうか?」 その柳生の言葉は、語尾は上がっていた。質問の意図が込められていることは仁王にも分かる。ただ、伝わってくる圧迫感が質問というレベルを超えていた。 「仁王君にとっても、それを認めることに不具合はないと。私は思いますが」 最後、柳生は柔らかい笑みを浮かべてそう言った。まるでいい加減に観念しろと、意固地になるなと暗に諭しているかのように。少なくともそう捉える余地は残されていた。 柳生の言葉に従う必然性はないと仁王は思った。 けれど、それはまるで忠告もしくは警告のようにすら聞こえた。そのまま仁王に沈黙を強いるには、あまりにも過ぎた薬だった。 柳生の言葉は、悪い催眠術のようだった。終了という言葉を知らないたちの悪い音楽のようだった。 そして、今まさに。他人の言葉に動揺させられている自分が、仁王は情けなかった。 (図星って言うてるようなもんじゃ) 頬杖をつきながら、教師の声を聞き流すのも適当に。階下にテニスコートを見つめながら、ついに仁王は5時間目の経済の授業を放棄する。既に今開いている教科書のページは正しいのか自信はなく、いつのまにか一度リセットされてしまった黒板の文字を丁寧にノートに書き写す気にもならなかった。 ただ視聴覚教室の窓際の席であるのをいいことに、視界を外へと向ける。コートの中には何の因果か柳生との姿があった。体育のようだった。 (嘘をつけ。この時間は体育だってこと、3年になった時から知っとるくせに) 他人事のようにを見つめる自分を、仁王は心の中で失笑する。けれど少しずつのテニスの腕が上がってきている事実に、結局は目を細めた。 昔はラケットの握り方すら見ていて落ち着かなかったが、仁王と親しくなってからはもテニスに興味を持つようになっていた。自分の大切なものを理解してもらえることは、存外心地よかった。 随分と、時間ばかりが流れていた。仁王は思い出す。 1年前の夏。夏休みの練習中、テニスコートからの姿を見た時は何の冗談かと思った。ましてや自分の教室で夏期講習を受けている姿など、自分の目は幻にでも捕まったのではないかとすら思った。 『あいつ、俺と一緒のクラスだよ。っていうやつ』 『なんじゃい、いきなり』 『あれ。仁王、今見てなかった? いや、見てた。見てたよ、見てたことにしよう、その方が面白いから。俺が』 それは夏休みが始まる幾分か前。早朝練習が終わって向かった昇降口での出来事。 まだ小学生の延長のような、そんなあどけなさに支配されていた当時のブン太のその一言がきっかけでもあった。もちろんそのことに気づくのは随分と後になってからだけれども。 あの時既にに好意を寄せていたのかと問われても、仁王はイエスと答えられる自信はない。 綺麗ごとを口にしてまで自分を着飾ろうとは仁王は思っていない。については最初は単なる興味、正直に言えばその名を知るまでは存在すら気にかけたことなどなかった。 ただ、偶然すれ違う廊下でその姿を視界に収めても、その声を聞き入れても不具合を感じなかった心が、すっと筋の通ったその横顔を窓ガラス越しに見つめて心を占められることは、おかしなほどに簡単だった。 そして自分の心も半信半疑なままに試した、あの夏の日。あのタオル。 すべては、あの瞬間に始まる。あのタオルを介して初めて言葉を交わした瞬間、という人間は仁王が考えていた以上に――自分の心に反抗を試みることは馬鹿らしく、また無益であると思うことがあまりにも簡単なほどに――好意を持つことが不思議ではないと思えた。それはとても感覚的なもので、言葉で理路整然と説明できたものではない。直感のすごさを認めざるをえなかった。 それは、周りの言葉からも明らかだった。 『今のは絶対わざとだ』 『確かに、わざとだな。故意的なものを感じずにはいられない』 『仁王君、いい加減白状したまえ。いくら騙すことが趣味とはいえ、我々にまで隠すことはないでしょう。殺生ですよ』 ジャッカル、柳、そして柳生と。学校生活の中で一番付き合いの濃いに仲間に見られては、もはや逃げ場などなかった。 『……悪趣味やの、お前ら。盗み見なんて』 『なにを今更。柳、これは部長に報告すべきだと思うに一票』 『真田君にも報告して事の真偽を吐かせる、にもう一票です』 『ああ、そうだな。部の規律を乱すわけにはいかない。仁王、ではそういうことで』 『は?! ま、待て! なんで俺が身売りされな……!』 『楽しいことがあれば盛り上げよう。これ、俺のモットー』 『右に同じく』 『以下同文です』 『アホか!』 自分よりも周りの方が事情に詳しくなってしまってから、情けなくも仁王は自分の心を理解する。周囲がそう見えたのであれば、自分は無意識にその態度を取ってしまっていたのであろう。言葉は偽っても感情を殺すことは難しいと自分なりに悟っていた仁王は、この時ラケットを片手にそう思った。 だから、始まりがそれであったからこそ。自分の気持ちは自分だけが決め、そしてその感情によって自分の領域に招きいれたに関しては、自分で責任を持つと心に決めていた。そう思わせたのは周囲の言葉だったのだ。 『すごく落ち着いているよね、彼女』 『は? 誰が?』 『さん。君とどことなく似ているよ、雰囲気が』 ある日、幸村は唐突にそう呟いた。 年の瀬も近い2学期末、用事で訪れた幸村の教室で仁王はを思い浮かべた。 仁王の中でのは、まだ十分に子供と呼べる顔つきをしていた。そう、今のような大人びた笑い方をするようになったのは後々になってからのことだ。この当時のはまだ直線的で感情任せな言葉が多く、喜怒哀楽の波はもっと大きかった。涙を見たこととて一度や二度の話ではない。幸村の指摘は的を射たものではなかった、少なくとも仁王の中では。 『……そうか? 違うじゃろ、全然』 だから仁王は興味がなさそうに軽く話をはぐらかす。すると幸村はただ笑って、「周りはそう見ているよ」と言った。周りの意見に振り回されないようと決意した矢先の言葉だったため、仁王は軽く相槌を打ってその場を離れた。 結果的に見れば幸村の指摘は正しかった。いや正しかったからこそ、その指摘を受け入れることは仁王にはできなかった。それではまるで、自分がを変えてしまったようで複雑だった。 『男というものは、得てして独りよがりな思想に染まりやすいと言いますがね』 記憶の中に、先日の柳生の言葉が混ざり込む。自然とを思い出した。 一連の過程を経て今は男女の関係になっていたが、仁王はそんなとの間に事実確認のような言葉は用いなかった。用いる必要がないと感じたからだ。 そんな仁王の性格を、は難しく感じる素振りなど見せずに理解し、受け止めてくれていた。ただそれは本人に確認した事実ではなく、許容の心は雰囲気から掴み取れるものでしかない。真実か否かとは別の問題になる。 そこに甘えていた事実を完全否定する材料を、しかし仁王は持ち合わせていない。 柳生はそのことを言っているのだろうと、仁王はそのように解しようとした、その時。 (……誰だ、あいつ) 視界の中に飛び込んできた光景に、仁王は閉じかけていた瞳を開けた。 フェンスで仕切られた男子コートと女子コート。その真ん中、まさに仕切られたそれぞれの空間の端に、と名の知らぬ同級生の姿があった。言葉を交わすという関係で。 1学年800人を超える立海大附属中学では、たとえ同級生でも顔と名前が一致しないなどということはざらにある。今視界の中でと言葉を交わしている男子も、少なくとも仁王にとっては漏れることなくそのパターンに属する人間だった。 (柳生と同じクラスか、その隣か……にしても) その時、いつの間にか眉根を寄せてしまっていただなんて。気づいてよかったのか、仁王は分からない。 しかし、視線を他へずらすなどという術は持ち合わせていなかった。聴覚は既に教師の声を雑音と認識し、眠気に支配されかけていた思考回路は嫌味なほどに覚めていた。そのおかげで視覚は目の前の現実をごまかすことなく仁王に伝えてくれた。 音はない。なにを話しているのかは分からない。ただが笑って話をしている、そしてその相手が自分ではない異性である、それだけが仁王に与えられた情報だった。 「……」 頬杖をついて、冷めた目でその様子を見つめる。がこちらの視線に気づくことはない。ただ仁王が一方的にに視線を送るという、その現実があるばかりだった。 それは、声をかけるという術を持たなかった1年前とまるで同じだった。 (……アホらし。なに嫉妬してんだか) 心の中で吐き捨てるように呟くが、それはけしてを卑下するものではない。むしろに敬愛の念を抱いているからこそ、そんな見苦しい感情を抱く自分を揶揄する意味で呟いた。そうでなければならない、と仁王は自分を戒める。 ただ、頑固なのは思考回路だけだった。 ダイレクトに飛び込んでくるテニスコートでの現況は、静かに、けれど確実に。ひとつの理想論に凝り固まった思考回路の命令を無視して、心をあっさりと独占する。 戒めを無視して胸の中に生まれ落ちたもの。それは、不快だと思う心。 (他の男と話すなんて、当たり前じゃろ。ここは女子校じゃない) それでも仁王は自分に言い聞かせる。の行動の正当性を説くことによって自分の冷静化を図るかのように。理性を打破しかねない感情の暴走を阻止するかのように。 それができなければ、自分は今までどのようにしてと付き合ってきたのかと。小さな不安と自嘲とが大きくなることを防ぐために。 しかし、現実は酷だった。 無意識のうちにシャープペンシルを回していた左手は動きを止めていた。顎を支える右手のひらは熱かった。瞬きをしていなかったのか、乾いた瞳が痛かった。 仁王はひとり取り残されたような世界で、黙ってを見つめる。そして思う。 あんな笑い顔は、自分の前ではしなくなったかもしれない。唐突にそう感じた時、と話をしている男子に無性に腹が立った。それがたとえとの暗黙のルールを無視したエゴイスティックな思いであると分かってはいても、仁王は吐き気を抑えられなかった。 (俺がこんなことで怒るなんて、あいつは思わないんじゃろうな) ひとつひとつ、言葉を用意して。自分を抑えようとして。 (大体、なんで俺怒ってんだ? 俺だって女子と話すじゃろうが、それをあいつが怒ったことなんてなかった。こんなこと別に珍しいものでもなんでもない、なにを今更) の行動に正当性と、自分の行動に戒めとを与えるために言葉を繰り返すけれど。 (……なんで今日に限って、むかつくんだか) 冷静さが欲しくて心の中で呟いたその瞬間、仁王は思考を止めた。 腹立たしく思う理由が分かった。視界の中でと話す男子の目的に気づいたからだ。 それは同性ゆえの直感とでも言うべきもので、はなにも気づいていないし相手もそんな素振りはまったく見せていなかったが、しかし仁王は過剰に反応してしまう自分を否定することはできない。 なぜなら、それは。かつて自分が抱き、そして今もまだ抱き続けるに対する感情とまるで同じだったのだ。 (自分と同じ目をしとる人間なんて、気づかないわけがない) を信じている感情とはまったく別の、単純な嫉妬心がとめどなく膨れ上がる。 今出来るものならば、見せしめのように自分の手でを掻っ攫ってしまいたかった。 エゴも甚だしい所有欲にまみれた人間として、あの男子の目の前では自分の女だと言ってやりたかった。 しかし、その時。そう思ってしまった、その瞬間。 恋心というよりも、むしろ単なる独占欲に支配された心をもつ自分というものを突きつけられたこの現実に、仁王はただ呆然と、を遠くから見つめるしかなかった。 (……馬鹿じゃろ、自分) 心臓がきしむ感覚は、眩暈を招く。吐き気にも似た気持ち悪さに仁王は目を閉じる。 言葉は嫌いだった。不要だった。他人の言動に振り回されるのも嫌いだった。けれど。 昼間、中庭で話した柳生の言葉が嫌味なほどに甦る。わざとらしいほどに舞い戻ってくる。後輩の女子との会話を暗に非難してきた、あの瞬間が。 あの時の光景が今のこの現状とどこが違うのか、仁王は答えられなかった。分からなかったわけではない、むしろ同じものでしかないと分かってしまったからこそ、柳生の言葉が。の心情が、今更ながら分かってしまった。 そして結局抑えられなくなったエゴは、ひとつの思いを導き出す。 の本心を知りたいと。仁王は唐突にそう思った。 自分の本心を言葉で伝えて、言葉での本心を聞きたいと。無謀にも今更思った。 (あいつが言う言葉に、嘘なんかあるはずがないのに) 頑なに言葉の役割を否定してきた自分はまるで子供だったと気づく。 『それを助けてくれるのは、言葉ではないでしょうか?』 正論に反抗するほど落ちぶれてはいない。今なら柳生の言葉の意味も素直に分かる。 仁王は目を開けてしばらくの様子を見つめた後、無言で立ち上がる。椅子から立つ音に教師の声が止まり一瞬でクラスメイトの視線が向けられたが、仁王は表情ひとつ変えないままに今更左手を軽く挙げた。 「先生」 「はい、どうかしましたか?」 初老の社会科教師が温厚な視線を向ける。 衝動というものは恐ろしい。そういえば1年前のあの夏の日、タオルを教室に残した時もこんな状態だったような気がしないでもない。懐かしく思い出しながら、仁王は今日ばかりは教師の優しさに敬意を表し、丁寧に。 「朝から我慢してた頭痛がひどいんで、保健室行ってきます」 まったくもってでたらめな逃亡理由を、悪びれることなく口にしたのだった。 |
| >>05 04/12/03 |