| 夏の華 05 |
単純な思考回路は、結局いつまでも仁王如何のままなのだろう。 夏、晴れの日。あの日とまったく同じ澄み切った晴天。 今日という日になってようやく向日葵が素直に愛でられる。迷うことなく太陽に向かってその艶やかな身を伸ばし続ける華を、心から綺麗だと思うことができる。 そう告げるとあからさまにへこんだ、その時の仁王はまるで去年の姿そのままだった。 なにかに呼ばれたような気がして、はふと顔を上げた。 そこはテニスコート。いつもであれば仁王とともにあることがなによりも相応しい柔らかい緑色は、けれど今だけは体操服を着た女子によって占領されている。見飽きた光景からふと視線をずらせば派手な色彩が視界に飛び込んできた。 コート脇、目障りなほどに瞳に映るのは華やかな夏の花、向日葵。我慢するということを知らず、実直でそれでいて鮮やかな黄色の花々は、今のにとっては己の対極の存在のように見えた。まるで嫌味のようにすら思えた。 それでも、早く授業が終わればいいとは思う。授業など早く終わってしまって、いつものようにテニス部がこのコートを独占してしまえばいいと。 仁王がなによりも懸けているものがテニスである、ということを知っている以上、たとえ授業だからとはいえ自分がこのコートに立つなどということは分不相応な気がした。 そこまで思い、は心の中で失笑する。なんて自分は視野の狭い人間なのかと。 (仁王とのことを考えてこんなに身体がだるいのに、結局それでも仁王のこと?) 自問に答えるのは気恥ずかしさ。どうしようもないほどに仁王に染められ、いやむしろ自分から染まろうとしたこの思考回路をもてあましながら、は天を仰ぐ。雲が流れ去って晴れ渡った青色の空はとても眩しくて、それだけで目を細めたくなった。 今の関係が続いていくのはいいことなのか悪いことなのか、は分からなかった。 ただ現時点では、傍から見れば自分は己を殺したつまらない女なのだろう。自分のことながらはそう思っていたし、事実それを受け入れていた。江梨のため息と疑問の方が正しくて、今の仁王との関係が間違いのないものだとは言い切れない、第三者から見ればそれは明らかだった。 ただそれでも、仁王を好きだと思う気持ちに翳りが見えたためしはない。 この時間、仁王は選択社会の経済の時間だった。はテニスコートから視聴覚室を仰ぐ。窓際に姿を見つけることはできなかったが、しかしだからこそ思いを馳せた。 (私、我がままなんだよね。今が幸せなんだってこと、すぐに忘れるから) 昼休み、胸に宿してしまった嫉妬の念を後悔しながら、心の中で呟く。 (好きな人と付き合っていられるだけで――違うか、両想いの人がいるだけで幸せなんだってことを、忘れちゃだめだ) 己の感情を抑え込むかのように、言い聞かせるかのように。 それはまるで自責の念だった。大きくなることしか知らない恋しいと思う感情の、これ以上の暴走を食い止めるための楔としての言葉だった。自分でコントロールすることができない感情を自分の言葉で抑制しようなど、矛盾するにもほどがあると自覚しながら、それでもは自分を戒める術を選択した。 そう、恋愛の相手に負担をかけたくなどない。同時に相手のすべてを理解し、尊重しあえるなんて綺麗ごとを言いたくもない。互いの差異はあってしかるべきものであり、ただその差異を相手が苦に思わない関係でありたい、それだけだった。 (もうすぐ大会か。テニスの邪魔にだけはなりたくないし、自分のことは自分でやらないと) 早く体調を元に戻したいとは思った。これでは仁王のせいで自分はこうなったと言ってしまっているようなもので、それだけは避けたい、その思いでは大きく息を吸う。気の滅入りが不調の原因のひとつであると気づいている身体は、案外立ち直りのきっかけさえ見つかれば簡単にいつもの状態に戻るのではないかと思えた。 最近言葉を交わす機会が減っている。今日は声をかけてから部活に送り出そうか。 来週にはテストがある。国語だけではなく英語のノートも貸した方がいいだろうか。 そして、大会がある。その日までには、せめて仁王が好きな差し入れをしようか。 (……なんだ。忙しいや) 嫉妬なんて今更なものに振り回されている時間は本当はないのではないか。冷静にそう考え、は立ち上がる。試合はまだ続いており、今日はもうなにもすることがないだろうとコートから出た。授業開始前に体調不良を伝えてあった教師に一言声をかければ、それはなにも不自然なものではなかった。 ただ、その後の展開がまずかった。 「」 どこまで聞こえただろう、けして小さくはないその声が突然飛んだ。 は前を見据えたまま、ただじっと。返す言葉もなく、ただただ自分の鼓動の大きさに感覚を奪われるばかり。なぜなら。 「……どうして」 そこには、経済の授業を受けているはずの仁王の姿があった。 正面をきって視線を合わせるのは久しぶりな気がした。動揺をもって言葉を交わすのも久しぶりだった。 「授業」 「え?」 「授業でしょ、経済の。なんでいるのよ、こんなところに」 「あー……まあ、それは」 しかし口が用意できる言葉は、そんな味気の無いものばかり。仁王が言葉につまり、沈黙が容赦なく流れていくその時になってようやく視界の片隅でやけに動くものが映る。それが「どこかに行け」という江梨の合図だと気づき、は慌てて体育教師の目をかすめるように仁王の手を取ってテニスコートの前から去った。 校舎裏、真上から照りつける太陽のせいで陰は小さくしかできないそこに移動した時には、つい寸前まで考えていたことなんて忘れてしまっていた。 「……どうしたの? なにかあった?」 向き合っても言葉が出てこない沈黙に、先に割り込んだのは。その問いに仁王はまだしばらく沈黙を守った。 そんな仁王を見て、そして時間が経つにつれて、驚きは疑問にとって代わる。 は違和感にかすかに眉根を寄せた。目の前に立っているのは紛れもなく仁王雅治という同級生であるのに、他の誰でもない自身がそれを否定したがっていた。学校にいる時にも、ふたりきりでいる時にもけして見せない雰囲気が仁王を包んでいたのだ。 思わず首を傾げそうになったその時、ようやく仁王が口を開く。 「……お前」 「うん」 「……あー」 「……なに?」 「……」 再び黙る。焦らしているのか迷っているのか、後者ではないはずだと思いながらはためらいがちに言葉を振った。 「授業は?」 「それは……」 「……?」 「あー、のよう……いや、うん」 成り立たない会話もそのままに、仁王は深く大きく息を吐き――目を伏せた。 ひとり取り残されたような世界になって、はただただ目を丸くする。その瞬間、ほら、と心の中の自分が呟いた。 (……仁王?) それは、が知っている、だけが知っている仁王とはまったく違っていた。 飄々とした態度を取るのが常だった。しかしその裏には慎重さがあることをは知っていた。自分の考えはきちんと自分でまとめ、決めたその意思にのっとって己の行動を起こす人だと。単にプライドが高いのか、悩む姿をあまり人に見られたくない彼は自分をそのように規定し、余裕があって隙のない態度を取ることが――当たり前のはずだった。 「……授業は、別にどうでもよくて」 自分の信じるものがなにであるかを分かっている仁王が、迷いやためらいを人に見せるなどということは滅多にない。 「よくないでしょ。来週からテストなのに」 「……こういう時に人の揚げ足を取るなよ」 「『こういう時』って?」 「……」 自分が作り出す言葉に振り回されるなど、絶対にありえない。普段であれば。 そう、だからこそ。この光景は異常だと思考回路が言っていた。 押し黙る仁王を見つめ、はこの異常が本物であることを知る。なおかつ重度であることにも気づく。 の瞳がなにかを掴んでしまったという色をしていたのだろう、仁王は自分に向けられる視線を受け流して小さく舌打ちをし、頭をかいた。夏の陽光が生み落とす光の粒子を綺麗に反射する明るい髪が、揺れた。 ばつが悪そうに視線が再び下を向く。手持ち無沙汰を厭うかのように利き手がズボンのポケットの中に隠れた。ただ風に踊らされるネクタイばかりが、はたはたと。沈黙を優しく埋めるかのようにかすかな音を立てた。 そんな仁王を見て、は違和感の原因にようやく気づく。 (……そういえば、去年の仁王ってこんな感じだったなあ) 心に突然宿ったのは、懐古の感情だった。 そして、懐かしさにとらわれた神経系はの手を動かさせた。 「……なんじゃい」 「なんとなく。触りたかったから」 乱れた仁王の髪を撫でるように整えると、沈黙の優しさが肌にしみる。 懐かしい気分で髪に触れていると、昔の仁王のことが躊躇することなく甦った。そう、昔はもっと感情そのままに突っ走る時があったとか。テニスのことで柳生と言い合いになってはその都度言い負かされて拗ねていたとか。 大人びているなんて、褒めているのか揶揄しているのか分からない言葉を使う必要なんてまったくなかった、とか。 は仁王の双眸に視線を向ける。見上げるその角度は少しばかり急になってしまっていたけれど、瞳はわずかに丸みを削いでしまっていたけれど。けれどその瞳の色は、昔となんら変わっていなかった。 その時、仁王の瞳が揺らめく。その瞬間。 「……え、ちょっ……仁王?」 視界が男子の制服に遮られた。苦しいほどにその両腕の中に閉じ込められた。自分が抱きしめられていると気づいた時には、もはやに自由はなかった。 ただ黙って、抱きしめられたまま仁王の言葉を聞く。その術しか残されていなかった。 「……自分がしてきたこととか、信じてたこととか。間違ってたとは、俺は思っとらんよ」 仁王が小さく呟く。温もりの中にしみいる声、それは素直に愛しいと思えるもの。 抱きしめられることもこれが初めてではないはずなのに、その声は、温もりは、の心臓を刺激してやまなかった。 「お前のことが……その、大切だっていうことは、別に。……別に、わざわざ口にする必要もないと思ったことも、間違ってたとは思わんよ。間違ってたって思ったら、この1年はなんじゃったって話になるから」 「……仁王?」 「けど、それも限界があるんだよな。俺らの年じゃ」 は息を飲む。それは仁王から想像できる言葉ではないと、頭の中で誰かが言った。 抱きしめられたまま、は言葉の次を求めることができない。 仁王がなにを言っているのか、なにを伝えようとしているのかまったく分からなかった。その分からなさが小さな不安を呼ぶ、そうなってしまえば身体が震えることは簡単だった。 背中を、こめかみを。嫌な汗が流れていく。悪い予感がするというのはどうしてこうも簡単なものなのか、思考回路がマイナスへと突き進むのを、は止められなかった。 どこに定めればよいのか分からない視線は、ただ泳ぐことしかできない。 (……別れる、ってこと……?) は張りつめた空気の中、黙って仁王のシャツをつかむしかない。血流が分かってしまうほどに、指先がじんじんと冷たさと痛みとを覚えていくほどに、強く、白く。 まるでこれでは縋っているようだと。顔をあげた瞬間、動揺のあまり仁王の表情すら理解しきれないままにそう思えば、息をすることすら痛みを伴って、この空間すべてが肌を突き刺すように辛かった。 だが、仁王はそんな空気とは無縁のような優しい顔をしていた。 「そんな顔するなって。お前が思っとることとは違うから」 それだけを言うと、仁王は利き手の親指でゆっくりとの頬を撫でる。乾いた瞳はそれが決壊の合図だと勝手に定め、意識とは無関係のところで涙を生んだ。 それはこの1年、が自分の感情を出すためには極力用いないようにしていた禁忌のものだった。 仁王はの涙を見てかすかに困惑の表情を浮かべる。それを受け取るは必死に自分で涙を拭おうとしたが、それよりも先に仁王の指がその任を負う。 しかし、仁王の好かないものはなるべく抑え込もうとしていたにとって、その優しさは仁王の事実上の彼女としてのプライドに障るものでしかない。 「……やめて、いいから。そんなことしなくていいから」 「目の前で泣かれて黙っとる男がおるか」 「泣かれるの嫌いなくせに……!」 「嫌いとは言うておらんよ。まああんまり嬉しくはないけどな、へこむからの」 涙を見せるなど予定外だったは、泣き声であることにも構わずに反抗する。手を払いのけ、俯こうとする。けれど仁王は拘束を解くこともなく、苦笑するばかり。その余裕が今となっては癪でしかなかった。 「もう、離して! なんだか馬鹿にされてるみたいで嫌だ……!」 「分かるもんは仕方ないじゃろ?」 「……なに、私が泣き虫だって?」 「いや。違う、そんなんじゃのうて。お前に我慢させてたことぐらい知っとるから」 そして、ただ一言。それだけを答えると、目を見張るの顔を見てまた笑うのだった。 は用意していた言葉をなくす。もはやなにに反応すればいいのか分からなかった。 泣くという行為を肯定されたことにだろうか。それとも、やはり自分たちは言葉のいらない関係であることから逃れられないということか。 整理のつかない頭は、けれど確実にひとつの事実に気づかされる。別れ話なのかというの思考回路を先読みした結果、それを否定してきた仁王の言葉に涙が止まる。 「……お前は聞き分けがよすぎなんじゃよ、多分」 「え?」 「そんで俺は年相応って言葉を知らない無謀な中3」 「……は?」 「まあ、いいからいいから。今は素直に俺の話を聞きんしゃい」 1年という時は、けして無駄ではなかった。 涙を止めたが今なにに心を奪われているのかを、表情と雰囲気だけで感じ取ったのだろう。仁王はそっとの身体を解放し、頭を撫でる。突然抱きしめたせいでわずかに乱れていたの髪は、さきほどが仁王にした時と同様に、「恋人」の手で直された。 そして、5時間目が終了するチャイムが鳴り響く、その時。 「今更なんじゃけど言わせて。俺もう限界」 が視線を上げる。仁王と真正面から視線がぶつかる。それはいつもと変わらない声、空気、その中での出来事のはずだったのに。けれど。 「好きなんで、俺の彼女になって。……ください」 に心の準備をする暇も与えずに、仁王はそう言ったのだった。 風が泳ぐ。仁王が好きだと言ったシャンプーで洗う髪がからかうかのように頬を撫でる。 予期していなかった言葉は、けれど今まで一番望んでいた言葉。それがなければ無理だと思ってはいなくても、それでも欲しいという感情を押し殺すことができなかった言葉。 は黙る。黙らされた感覚にとらわれたまま、顔を上げる。 真っ直ぐに見上げたその先、そこにあった気恥ずかしさを隠し切れない仁王に感じたことはただひとつ。嬉しさなどという単純な感情以外にも、もうひとつ。 「……なんだか、去年の仁王みたい」 涙を止められないままに笑ってが言うと、仁王はばつが悪そうにまた髪をかく。褒められているのかからかわれているのか、仁王にしては珍しく言葉の真意がつかみきれていないようだった。 でもその反応すらもの言葉そのままで、背伸びの加減を計っていた去年の仁王を思い出してあまりある。思わずは仁王に身を預け、声を殺して笑った。 ただ言葉で改めて言われただけ。事実はなにも変わっていない。 けれど言い様のないこの幸福は、なにに代えて表すことができるだろうか。抱きしめてくれる仁王の温もりに負けた思考回路では、もはやなにも考えることができなかったけれど。 「……あのよう、」 「あ、初めて名前呼んだ」 「人の話は最後まで聞く」 「はい。……なに?」 返ってくる反応ひとつひとつが嬉しくて、涙もそのままに顔を上げる。 そんなをもちろん咎めることなく、仁王はひとつ息をついて。 「返事」 と、小さく耳元で囁いた。 今更、という思いは今は無用なもの。むしろ今更、とい思える感情が今となっては愛しいもの。は表情を見ることができない仁王に抱きしめられたまま、なんの不安もなくその頬にそっと唇を寄せた。 「私も大好きです」 離した唇で、ただ一言。それを囁くことができるなら、誰になにを言われても構わないと思わせた仁王に改めて最愛の心を込めて、そしては尋ねる。 「だから、彼氏になって?」 呟いた言葉は風に運ばれる。答えはない。ただいつものように抱きしめられた。それが仁王のどのような感情を伝えてくれるのかなんて、それこそ今更なこと。 想いを公然にしてもよいと認められて見上げた空は透き抜けるように青く、花壇の中、向日葵たちが風に揺られながら惜しむことなくその艶やかさを自慢していた。 |
| 04/12/04 |