夏の華 03

 信じていないわけではない。信じていなければ身体の関係など許さない。
 けれど欲がないとは言い切れない。信じていたいと思わず願いたくなる日があることは、否定できない。
 彼と出会って、もうすぐ1年。
 見上げた夏の空は遠く、嫌味なほどに眩しく。は目を細めることはあっても、心が軽くなることはなかった。
 体調が崩れたのは、仁王の家を訪れてから3日後だった。
 睡眠不足だったからだとか、御飯をきちんと食べていなかったからだとか、理由はいくらでも考えられた。加えてこの暑さである。は体調管理を怠った自分の非を認めることはできても、他の誰か、なにかを責めるわけにはいかなかった。
 そう、たとえ心の中に軋みがあったとてしも。

「仁王先輩、彼女いるんですか? って」

 朱塗りの箸が、ふわりと仕上がった卵焼きをきれいにふたつに割る。
 色鮮やかに仕立て上げられた、そんな弁当箱を見ながらはちらりと視線を向けた。

「いないですよね? だってそういう噂、聞いたことないですよね? って」

 昼休みを迎えて久しい教室は、いつものように騒がしい。しかしその騒音はまったくの耳に入ってこようとはしなかった。
 ただ感覚器官に訴えてくるのは、開け放たれた窓の向こうから直接瞳に飛び込んでくる空の青さと、そして静かに鼓膜を揺らす親友の江梨の声。自分の場所ではない窓際の席に腰掛け、机ひとつを挟んで江梨と向かい合いながら、は椅子の背もたれに脱力気味にもたれて、気だるい身体をもてあますしかなかった。
 その様子を見て、ついに江梨が今日何度目か分からないため息をつく。

「どうする気?」
「……どうするもなにも。付き合っていないのは事実だから」
「またそういうことを言う」

 真剣に考えようとしないに江梨は再び呆れ、しかしそれ以上の追及はせずに、まずは昼食をとるように勧めた。しかしは首を横に振る。今日の昼食は弁当ではなく購買部で調達しようとしていたが、結局4時間目終了後に訪れた購買部で購入したのは紙パックのウーロン茶、ただそれだけだった。
 なにかが胃に蓋をしてしまったような、そんな感覚に喉を締められる。は会話すら億劫な雰囲気を出してしまっていたのだろう、江梨はただ困った表情を浮かべるだけだった。

「2人を見てると、やきもきして仕方ないんだけどな。事情を知ってる人間としては」

 江梨はそう呟くと、自分のお弁当箱の蓋におかずを取り寄せてそっとの前に置いた。気配りの利く親友はご丁寧にも未使用の割り箸を添えてくれたが、それは購買部でのみもらえるものである。一緒に飲み物を買いに行った時、内緒でもらっていてくれたのだろう。そんな親友の親切に、は体調不良という気分と言葉を身体の奥へと押し込んで、素直に感謝の言葉を述べてからそっと箸をとった。冷めた卵焼きが逆に口に優しかった。

「時間が合えば一緒に帰る。日曜のデートもする。試合も応援しに行く。去年のクリスマスは一緒にツリーを見に行って、立海生のお約束・冬の学校指定マフラーはもちろん交換済み。雰囲気を出すことに関してはもう立派に一人前。それから」
「……」
「『そういう』関係もある。それでどうして、『付き合っていない』ことになるの?」

 直球の質問に顔を上げた瞬間、江梨と視線がぶつかる。真正面から向けられたそれは、もはや呆れを通り越して哀れみにも近い色合いをしていた。
 は無言で卵焼きを口に運ぶ。少しずつ胃に落ちていく甘い卵は、しかしけして心の重みを取り払ってくれるわけではない。江梨の真っ直ぐな視線と、そして真っ直ぐな言葉とを受けながら、それでもは、自分に聞かれても、と思った。



 仁王雅治との出会いは、去年の夏だった。
 当時2年生だったは学校が組んだ夏期講習に参加しており、夏休みにもかかわらず登校していた。その限られた時間の中で、は毎日窓越しにテニスコートの中の仁王の姿を見ていた。夏休みなど関係なく続けられるテニス部の練習の厳しさは、立海生では知らない者はいなかったため、それはさして珍しい光景であったわけではない。ただ単純に視界に入ってきていたという、そんな表現の方が正しいのだろう。
 そんな中、仁王はよく真田や柳生、ブン太たちとつるんで目立つ存在だった。
 格好いいと思わなかったと言えば嘘になる。しかし見つめることによって特別な感情が生まれたとは認めなかった。いや、むしろ認める認めない以前に、それが仁王という同級生を知るきっかけでしかなかったという事実しか分からなかった。
 あの日、言葉を交わしてしまうまでは。

ー」

 それは、夏期講習最終日。時計の長針が講習開始時刻である午前9時ちょうどをさそうかさすまいか、そんなギリギリのタイミングでその声は訪れた。

「悪い、前の席にあるタオル取って」

 階下から飛んできた聞き覚えのない声に、は驚いて視線を窓の下に向ける。するとそこには、テニス部のユニフォームを着た仁王の姿があった。
 遠くにしか見ることのなかった人間が、今まさに自分に視線を向けている。その事実は、少しばかりの動揺を加速させた。

「え、タオル……?」

 その時、自分がどういう表情を浮かべていたのか。は覚えていない。

「おう。お前の前の席にあるじゃろ? それ、俺のやつだから」

 そして自分がなにに動揺していたのかも覚えていない。名前を知られていたことだろうか、もしくはこの教室が仁王のクラスだと初めて知ったからだろうか。
 それとも。

「え、あ……これ?」
「おう、それそれ。悪いけど、そこから投げてくれん?」

 圧倒的な威圧感すら覚えたテニスをする姿からとは、結びつけることができないほどその声が柔らかかったからか。笑みが、眼差しが柔らかかったからか。
 テニスコートの上で、いつも見事なまでにラケットを扱ってみせる左手が天に向く。
 後から思い出せば、その時にはもうチャイムが鳴っていただろう。だからこそ雑音も雑念も届かなくなってしまっていたのか、は無意識のうちに前の席にかけられていた真っ青なスポーツタオルに手を伸ばし、そして自分のコントロール力を頼みながら、真夏の空気の中にタオルを投げ込んだ。
 風の抵抗を受けて、タオルはわずかに仁王からは離れた場所へ。しかし仁王はうまく身体をずらし、器用にも右手でそれを掴み取った。

「サンキュ」

 軽く左手を挙げて、そしてに笑顔を預けて背中を向ける。
 残されたのは、驚きと動揺と、そして妙な嬉しさに支配された感覚だった。



 その瞬間だけを、なぜ後々になってまで覚えていたのか。冷静に考えればおかしなものだった。
 実際には、その後確かに仁王と会話をする関係にはなっていった。けれどもその関係が特別なものである必要はなく、またあの瞬間も同様だった。異性と話をするというだけで、その時の気持ちを恋愛感情に転換しなければならないとは自身欠片も思っていなかったはずなのだ。

(でも、結局あれがきっかけだったんだよね)

 椅子の背もたれに重心を預けるだけでは身体はやはり重く、結局はだらしないと分かっていながら頬杖をつく。自然、見上げる形になった夏の空の眩しさは、去年の夏とまったく変わっていなかった。

『あのタオル、本当はわざとじゃったんよ』

 既に何度か抱かれた後、ある日仁王は突然そう呟いた。
 手を繋いで、キスをして、肌を重ねて。一般的には恋人同士の関係と呼ばれる、それらの行為をすべて経た後で告げられたその言葉。予想も、ましてや期待もしていなかったそれは、をとらえてあまりあるものだった。ただ。

(でも、私はそれを聞かなかった方がよかったのかもしれない)

 言葉での契約を結んでいなかった、実質的な恋人の関係では、むしろその言葉は刃のようだった。仁王の好まない言葉の関係を求めてしまいたくなる瞬間だった。
 流れ行く雲は、まるでの心を写し取ったかのように重たく見える。病んでいる、と思うには十分すぎた。

(卑怯だよ、仁王。ずるいよ)

 あの時の仁王の言葉は、今でもの耳奥で響いている。声調、息継ぎのタイミング。それらすべてを覚えている代わりに、一瞬でも思い出してしまえば、は喉奥でかみ殺さなければならない言葉があることを知っている。
 あの時、あの言葉を聞かなければ。きっとこんなことにはならなかった。
 あの夏の日は単なる偶然の産物であり、今の関係は偶然が生み出した嘘偽りのない、言葉では説明できない関係だと。そう思い続けることに、きっと迷いは生まれなかった。
 けれど一度生まれた迷いは、断ち切ることが出来ない。
 喉億でかみ殺さなければならない思いは今日も健在だ。は胸に言葉を隠し持つ。いつ吐き出すことができるのか、そんなことはまったく分からない軋みを今日も宿し続ける。
 そして今日も、その軋みを振り払うために。信じる心を守るために呟いた。

「だって、私たち。お互いに『付き合おう』なんて言ったことないから。そういう言葉なんていらなかったから」

 それは江梨に聞かせるためでも、同時に自分で納得するためでもあったよう。
 江梨の瞳が細められる。しかしそれは笑みをたたえるものではなく、むしろ冷めた視線と称した方が的確なほど。はあえて気づかないふりをしたが、しかし江梨の機嫌が悪化したことだけは空気だけでも十分に読み取れた。

「……普通は、さ」
「うん」
「付き合うことになってから、そういう関係にならない? 程度の違いはあったとしても」

 もはや呆れでも哀れみでもない、怒りすら感じられる静かな江梨の問いかけに、はしばし黙る。たとえ自惚れだとしても江梨の感情が仁王に向けられていると、その可能性を推察できる以上、としては仁王をかばう言葉を用意したかった。
 なぜなら、仁王は嘘偽りを口にしたことは一度もなかった。今の関係に偽りを持ち込むことはけしてなかった。そのことを、なにより自身が一番理解していたからだ。

(そうじゃなかったら、こんな関係が続いているはずがない。私が仁王を信じていれば、仁王は私を裏切らない。仁王が信じていてくれるから、私は絶対に仁王を裏切らない)

 静かに自分の心に言い聞かせて、は小さく口を開く。既に江梨に分け与えられた昼食を食べきる気持ちなどなくなっていた。

「そういう言葉の関係なんてなくても、……言わなくても、分かるものだってあるじゃない。私はあると思う」

 けれど、それは誰の耳にも小さく、また震えすら感じ取れる弱々しいもの。
 は言葉を紡ぎながら自分を叱咤する。ここで江梨を納得させられなければ、仁王に悪い印象を与える。自分の行動に自信がないと思われる。避けなければならないそれらの展開をは必死で頭の中から振り切り、青空を見上げたまま言葉を続ける。
 力を貸して、と。ここにはいない恋人に祈った。

「だから、別に周りに知られてなくても私は平気だよ。周りが私たちのことを恋人同士だって認めてなくても……、うん、私は……というか、私と仁王は」

 続けたかった言葉は、しかし突然途切れた。
 言葉の終わりを静かに待っていた江梨の瞳がかすかに丸くなる。その視線が自分から階下へと移り、表情が変わったのを感じて、はようやく自分の視線が外に向けられたまま固まってしまったことを知る。
 なぜ言葉が途切れたのか。視線が止まったのか。そんな自問をしなければならないほど、は自分のことが分からないつもりはなく、また同時に。
 どこにいたとしても、仁王に視線を奪われない自信など。まるでなかった。

「あれ、テニス部の2年だよ」

 江梨が呟く。その視線の先は校舎前に広げられた中庭があり、初夏の風に揺れ動く大樹の葉たちが擦れあって優しく鳴る。その鮮やかな緑の下、彼の姿はあった。
 その横に、小柄な2年生の女子を迎えながら。
 は頬杖を解くことすら忘れ、黙ってその様子を見つめる。傍に柳生が控えていることから、偶然後輩に捕まったのだろうことは簡単に見て取れる。おそらく風通しのいい木陰で休憩でもしながら次の試合の話でもしていたのだろう、そう思うことは簡単だった。
 ただ、時間だけは止まることを知らない。風が吹けば吹いた分だけ、葉が音を立てれば立てた分だけ、の視界の中のふたりは言葉を積み重ねていく。そこには笑い声もあれば、かすかな接触すらあった。

「……」

 は会話を続けられなかった。心の軋みが、今までで一番強く吐き気を訴えた。底の見えないどこかに、意識を丸ごと陥れようとしていた。
 言葉を発することのできない喉が、ただ焼けるように痛かった。
 今、自分が抱く思いは理不尽なものではないだろうとは予想がつく。
 けれど今ここで声をあげ、後輩の女子をにらみつけ、仁王を叱責することは現状では常軌を逸したものになるのだろう。それすらも予想がついてしまう自分が情けなかった。
 同じ女だからこそ分かってしまうとは皮肉なもので、は2年生をただ冷めた目で見つめる。好意があるのは明らかだった。そして同様に、それを受け止めている仁王に言い様のない怒りが生まれる。
 けれど。

(……私が怒るなんてこと、今の関係からは許されない)

 そんな苦痛の選択が言葉となることを、は許さなかった。

(嫉妬なんてしたら、仁王に呆れられる。それより、私が仁王を裏切ることになる)

 自分たちは、周囲とは関係なく自分たちの想いだけで生きていければよかった。そのはずだった。
 だからこそ、は心の軋みを言葉にすることができない。言葉にしてしまったら最後、は自分で自分の言葉の矛盾を認めてしまうことになる。仁王とのこれまでの関係に、自分で汚しを与えてしまう。自分と仁王にしか分からない、周りには隠されているとも見て取られる関係でここまできた以上、その関係を覆すような――彼女としての嫉妬なんて、そんなエゴに満ちた感情は口に出してはならなかった。



 江梨の呼びかけに反応できたのは、女子の手が仁王から離れたからだろうか。
 そんなことを思った自分には吐き気を覚える。自分の行動規範をあの後輩に決められているようで気持ち悪く、また同時にそう思ってしまう現実が情けなかった。
 そんなを、江梨は静かに見つめる。そしてただため息をついて、そっと一言。

「今、どういう顔してるか教えてあげようか」
「……え?」
「彼女の顔だよ、おもいきり」

 涙は出なかった。いつのまにか封印してしまったそれは、泣きたい時にも流れてくれないほど奥深いところにまで沈んでしまったらしかった。
 それが仁王の求めた自分だと。そうでなければ自分たちの関係は続かないと、信じてやまなかった結果だと気づいた時には。
 揺れる大樹の下、後輩の女子の声が仁王に寄り縋っているようにすら聞こえた。



>>04


04/12/02