「お前は?」

 冬の寒さは厳しい。東京からあまり出たことのない身でありながら「厳しい」という言葉を使うのも驕りが過ぎるかもしれないが、しかし学生服では防寒に限度があるのもまた事実。マフラーを持ってきてよかった、そう思いながら英二は尋ねる。
 ほかごとを考えていられるほど自分は落ち着いている、そうも感じながら。

「……嫌いではない」
「そりゃそうだろ、友達なんだし。俺が聞いてるのはその先だよ」
「……」
「……なあ。お前、俺に喧嘩売ったんじゃないの? さんのことで。それなのにどうして黙るんだよ、そこで」

 相手を追いつめる道を難なく選択できるほど余裕がある。
 沈黙しか返さない向日の真意に首を傾げたくなるほど、客観性の欠片を持っている。今の自分は大丈夫だ、心からそう思うことができる。
 そんなことを思いながら、けれど。

「……お前の言葉と同じ意味にしかならねえのが、すげえむかつくけど」
「……え?」
「好きだ、俺だって」

 返ってきた言葉に、思わず黙ってしまったのもまた事実だった。
 目の前にいるのはの大事な親友。それは痛いほど分かっている。
 大切にしたいと思っている人の大切な人であれば、自分もそのように思うべき。それも分かっている。異性間の親友関係は成り立つことを知っている英二であれば、本来それは造作もないことだ。
 しかし、と心はその思いに鐘を鳴らす。自然体であることに否を突きつける。

(向日は別だ)

 そう思ってしまう原因を、英二は自分の視界の中に見つけた。
 その目が、顔が、態度が。英二に対する敵愾心に満ち溢れている。
 のことが好きだという感情ひとつの点において、自分たちは同じ直線上にいることを伝えてくれている。
 ただ、その鐘は自身の危機を伝えるものではないことも同時に英二は理解している。自惚れであるとしても、の感情がこちらに向いていることを感じ取っているこの段階では、危機というよりもむしろそれは哀情に近い。
 なぜ2年も共にいてその想いに気づくことができなかったのか。なにも起こさなかったのか。心の中に宿るのは、その疑問だった。

『好きだって言ったら?』

 挑発の意思というよりも純粋に自分の思いを言葉にのせただけのその問いかけに、向日はあからさまに動揺に負けて言葉をなくした。予想できる範囲内だろうに、と英二は心の中で思うが、しかしそれを嫌悪の感情とともに感じたわけではない。
 この時、不思議なほど心は落ち着いていた。

(本当に、完璧な友達関係だったんだろうな)

 その大切さをなまじっか知っている以上、英二自身が向日を同じ敵対の心で見つめることはどうしても憚られた。
 同情か。そう問われれば否定しない。その感情に向日が嫌悪を通り越した拒絶反応をみせることも分かっている、だから口にしないのだと言われたら返す言葉は実際ない。
 けれど、と英二は手にした缶をぎゅっと握り締める。駅の2階部分から流れ落ちてくる電車がつくる風と、そして自分たちの周りに漂う冬の冷気のせいでそれは随分と冷たくなってしまっていたけれど、もはや本来の目的など英二はどうでもよかった。

(でも俺は、自分の気持ちを知っている)

 自分の意思を確かめることはもはや不要だった。向日の動揺に同情じみた感情すら抱いてしまうほど、もはや自分の感情に他人の心理は関係することなどなかった。
 唯一関係することができるもの、それは自分の感情の行き先となった人の心だけ。
 右横で黙る岳人を一瞥した後、英二は会話を急ぐことなく静かに冷めたカフェオレを口にする。やはり自分で選んだ自分の大好きなものは、どのような状態でも美味しいものだと実感しながら。

「……でも、お前のさっきの言葉に驚かなかったなんて言ったら、嘘だけど」
「え?」

 その時、向日が突然口を開いた。

「正直な話、そうじゃねえと困る部分もある」

 そして飛び込んできた予想外の言葉に、英二はわずかに目を丸くして視線を右方へと向けた。
 視線の先で、向日は落ち着いた瞳の色で地面を見つめていた。夜闇の中でその瞳の色など本当は分かるはずがないのだけれど、その黒目に揺らぎがないことだけはたしか。英二はその言葉とその表情に、向日には分からないよう一瞬身構えてしまった。
 その英二が抱いた印象を知ってか知らずか、向日はけして動揺とは連れ合わないままに言葉を続ける。

「あいつが男の話をするなんて初めてだった。今まで付き合った男はいねえし、1回だけ告白されたこともあったけど恋愛感情で見たことはないってきちんと断った。俺はあいつが誰かの彼女になるなんて、考えたこともなかった」
「……」
「だから、お前がもしその気もないのにあいつのことを遊んでるだけだったら、俺は今お前を殴ってた。絶対」

 冷たさの中にひどく似合う、その言葉は周囲を一瞬で静寂の世界へと変えた。
 雑音が入ってこない。車のクラクション、人の話し声、電車のブレーキ、しわがれた構内アナウンス。探せばいくらでもあるはずのそれらの騒音が、一瞬で自分の聴覚の至らぬところに消えてしまったことに気づいた、その時。
 英二は、自分が苛立ちを隠そうとしていることに初めて気づいた。

「……お前にそこまで干渉されるのは、どう考えても不愉快なんだけど」

 冷めた目を向けて呟く。口調が荒れた。心のどこかが向日に対する苛立ちをじわじわと訴えてくる。
 その思いに任せて英二が言葉を返すと、向日の眉根が素直に寄った。

「友達としても、それ以外としても。俺にはそう思う理由がある」

 けれどその顔には苛立ちこそあれ、動揺の色はない。英二を侮蔑する色こそあれど、自身を見失うような色はない。先ほどとは何かが違う、そのことに気づいた英二は小さく息を飲み、間という名の猶予を自分に与える。焦る必要はどこにもない、そう自分に言い聞かせてから再び口を開く。
 身構える理由を探してしまう自分の方こそ動揺しているのだと。そのことに気づいたのは、怒りを抑えた言葉を口にしたその瞬間だった。

「百歩譲って、俺が遊んでいるだけだとしても。……仮に、さんがその状況で俺をそういう目で見ているとしても」

 岳人の肩が一瞬震える。自分よりも正直な身体だと思いながら、いやだからこそ英二は言葉を繋げる。

「その場合は、『引っかかった』さん個人の問題だろ? 殴る権利まではないんじゃないの? お前には。……彼氏じゃあるまいし」

 自分でも反吐が出るような台詞を口にした時、反論は生まれなかった。向日の口は、開かれなかった。
 本当はそんな仮定はどこにも存在しないということを、自分の力で証明してみせる。英二は自分の言葉に暗にその意味を込めた。そうすることで向日の入る余地をなくしてしまおう、その思いひとつで。結果向日は反論できなかった、これは自分の勝ちだ。そう思ったが、しかし違和感に気づいて英二はたたみかけるのを止める。
 違和感。それは、その言葉にすら向日はけして取り乱すような真似はしなかったこと。

「俺が知ってるは、そんなやつじゃない。簡単に男にひっかかるようなやつじゃない」
   
「お前だってそう思ってるくせに、二度とそんなことを言うな。むかつく」

 驚かない代わりに、怒りを。苛立ちを。その顔、声、言葉にのせて、はっきりと言い放ったのだった。
 英二は謝ることも笑い返すことも、ましてや反発することもせずに、ただじっと向日の顔を見つめる。しかし、好きだと言ったらと、その言葉にあからさまに動揺していた数分前までの向日は本当にどこにも見当たらなくなっていた。
 そんな向日の態度に、英二の心にそれまでは存在しなかった言葉が浮かんでは消える。

(友達だから? 好きだから? なんなんだよ、この自信は)

 疑問符を浮かべれば浮かべるほど、その言葉はかすむことを止める。消えることをやめる。そして英二に、缶をもつ手にぐっと力を込めさせた。
 その反応をどこまで見ていたのか、予想していたのか。向日はしばらくの沈黙の後、そっと口を開く。

「友達としてしかやってこなかったけど、だてに2年も一緒にいたわけじゃない。あいつのことは、俺はお前よりもずっと知ってるし、分かってる」

 独白も同然と言えばそれまで。大きくはなくともけして逃すことのできない強さでそう呟いた向日の目は、こちらを向いていない。ただ真っ直ぐに前を見つめている。ただし、視界の中を移動していくものにはまるで気をとられることのないままに。
 まるで、この場にも自分の心の中にも、英二の存在などありはしないとでも言うかのように。
 その瞬間、英二は気づいた。いや、気づかないふりをしていた現実を突きつけられた。
 それは確実に自分たちの間の存在する、優劣。今までは気づく必要などない、敵がいるとすればそれは己自身でしかないと思っていた心に、初めて違う動揺が頭をもたげる。
 向日よりも自分が劣っている点。自分が苛立ちを覚えているのは、それを知らしめた向日の先ほどの言葉に他ならないことに、英二は気づいてしまった。

(知り合ってたかだか1ヶ月の俺は、まだなにも分かっていないって?)

 怒りと屈辱に満ちた疑問を心の中で呟いてしまえば、もう否定することはできない。自分が数分前まで感じていた感情はあまりに自分に都合のいい解釈でしかなかったことに気づいてしまえば、もうなにに戸惑うこともない。
 自分は、向日に嫉妬しているのだ。に恋愛感情を抱いてしまったがゆえに。
 その感情において、向日の存在は苛立ちという名の危機感を与えてくるものでしかないのだ。その立場ゆえに。
 しかし、その感情に動揺する時間は英二には与えられていなかった。

「お前は、あいつは人の話を聞くことのできるいいやつだって言ったけど」
「……え?」
「あいつ、そんなできた女じゃねえよ。そんな完璧な女だったらとっくに他の男の彼女になってるだろ」

 言葉は唐突に始まった。英二の予想の範囲を大幅に超えた、いや、裏切った言葉で。
 返す言葉も持たないまま、英二は黙って向日に視線を向ける。しかし向日は本当に英二の存在などなにも気にしていないというように、淡々とした雰囲気につりあった表情を浮かべて言葉を繋げた。

「古典はできるけど化学はまるっきり駄目、俺がいくら教えても『文系に化学は必要ない』しか言わねえ。俺が古典を同じ理由で嫌だっていうとすぐ説教するくせに。あとな、人の話なんて聞いちゃいねえよ。ああいうのはな、単に相槌を打つのが上手いっていうんだよ」

 そんなできた人間がいるはずねえだろ、と。最後はぼやきのように呟いて向日はカフェオレを口にした。その単調な動作すら熱気から解放されているようにしか見えなくて、反論も否定もできない英二は、その瞬間においては敗北を喫していることに気づく。
 その言葉は自分に対するあてつけでしかないと、そう解することは十分に可能だった。しかしそれだけでは説明できないことにも、英二は気づかないわけにはいかなかった。
 心の中に渦巻く嫉妬、その嫉妬の原因を形成する要因に苛立ちがますます募る。

(……2年間傍にいた自分の方が、いっぱいあの子を知ってるって?)

 自分が劣る点、それは向日の勝る点。
 自分はいつのまに短気になったのか、そんなことを考える暇もなく頭は心の感情に支配され、英二は無意識のうちに表情を強張らせる。動揺を見せては駄目だ、それは分かっていながらもしかし口を止めることはできなかった。

「……お前さあ、それを今俺の前で言っても説得力ないよ? だって俺もあの子と接してるわけだし」
「ああ、まあな。どうせお前の前じゃ可愛くいたいとか思ってるんだろうし。すぐにばれるっていうのにさ」
「お前のその言い方は、さんをけなしてるっていう意味にも聞こえるんだけど」
「本人の前でも言える言葉でけなすことなんてできるわけねえだろ。疑うんなら聞いてみろよ、俺はあいつの前で綺麗な言葉なんて一度も使ったことねえから」

 そして返ってくる言葉それぞれに、2年という時の重みを実感させられる。
 しかしそれを感じると同時に、英二はひとつの疑問を抱いた。

(……でも、これって。単に友情関係の延長じゃないのか……?)

 気を遣わずに、まるで同性と接しているかのように同じ心で同じ時を過ごすことができる相手。それが向日にとってのであることはすぐに理解できる。そしてその関係を形成した2年という時は確かに存在し、関係をより強固なものにしていることも自身の経験上想像するに難くない。
 そして、その口調。態度。それら全てに、恋愛の要素を見出すよりも、大切な友人をなくすことに対する畏怖の感情を見つけることが簡単なように思えてしまうのは、自分に甘いからだけなのか。いや、と英二は心の中で首を振る。
 恋愛ではなく、親愛の情の延長ではないのか。その結論に至ることは、さして難しいことではなかった。

「……お前、あの子のこと本当に好きなのか? 友達としてじゃなく、女の子として」

 その思いを確認すべく、そっと問いかける。
 すると、向日は一瞬目を丸くしたがすぐに冷静さを取り戻した。

「2年間、一緒にいることが当たり前だし楽しかった。それだけで十分だろ」

 そして小さく、けれどけして揺らぎのない口調で呟いたその言葉。
 それは、英二の苛立ちの原因を確立させるのに十分だった。
 2年。それは言ってしまえばそれまで、けれど本当はその言葉の中にどう足掻いても否定すること、消し去ること、太刀打ちすることのできない現実があることぐらい、英二は知っている。時の流れに敵う人間などどこにも存在しないのだ。
 たとえ今から英二が2年の時をとともに過ごしたとしても、その2年分が向日との間には追加される。どれだけ時を重ねようが、その累積はけして変わることも、ましてや崩すことなどできるはずもない。変化の許されない領域、それが向日の味方であり武器でもあるこの現実に、今となっては苛立ちしか見出すことができなかった。
 自分で話を振っておきながら、与えられたのは自分の優位ではなく焦りと苛立ちだとは。おかしさも今となっては自分の機嫌を損ねるためにしか存在していないようなこの状況に、英二はもはや表情を気にする余裕すらなくなった。

「向日」
「なんだよ」
「お前、どうして今まで告白しようとしなかったんだよ。そこまで気に入ってて、どうして」

 苛立ちがようやく言葉に出始める。自分がどれほど努力をしてもけして敵うことのできないものが向日を優位に立たせ、その事実に自分が翻弄されていることを十二分に理解しながらも、勢いに負けた口は感情をそのまま言葉にのせてしまった。そうすることで自分が窮地に立たされることも予想したうえで。
 その英二の気持ちを、どこまで知っていただろう。向日はそっと英二に視線を投げかけた後、小さなため息をついて答えた。

「お前だよ」
「は?」
「お前が来なかったら、こんなことに気づくことはなかったんだ。……それがいいことなのかどうかは分かんねえけど」

 伏せた睫毛が、ゆっくりと。目には見えないものを、それでもきちんと自分の目で確認したいとでも言うかのように、瞬きとともに動く。その目に映るものは英二にはけして見ることはできない。硬直とは無縁のその向日の表情に、英二の手は思わず持っていた缶を強く握り締めていた。

「……俺は、お前のためにこういうことをしてるわけじゃないんだけど」
「俺だって頼んでねえよ、むかつくだけだ」
「お前にむかつかれる理由もないんだけど」
「そんなことでキレられる理由も俺にはねえよ」

 感情を隠すことなく言い合った後、向日は沈黙ののちにゆっくりと立ち上がって小さく伸びをした。
 お世辞にも大きいとは言えないその身体は、やはり下から見上げる形になってもどこか小ぢんまりとした雰囲気からは逃れられない。けれど、その顔に浮かべられた表情は落ち着きをもっていた。
 話し始めた時のあの動揺はどこに消えた。そう思う英二の方がおかしいとでも言うように、向日の表情は出会った時とまるで違う。もし自分との会話でそのような変化を迎えてしまったのならば、自分は一体この時間をどのように理解すればよいのか。
 焦りに負けた英二は、立ち上がることもできない。ただその身体を見上げ、そして。

「気持ちひとつで、それまでの時間なんていくらでも無視することができると思うけどな。俺は」

 立ち上がった向日に一言、そう投げかければ。

「それこそお前に言われる筋合いはねえ。に聞け、そんなことは」

 返されたのははっきりとしたその言葉。予想外なその言葉に英二は目を丸くし、思わず呼吸すら一瞬止めてしまった。
 なにを言っている、と思う心はそのまま疑問を口に運ぶ。

「聞いてもいいのか? 答えがでるんだぞ?」

 しばらくの沈黙。向日は口を緩く閉じたまま、ただじっと英二を見下ろす。
 やがて、その口から先に零れ落ちてきたのは、言葉ではなく小さなため息だった。

「……別に、出たっていい。あいつの言葉を否定する気はない。というか勘違いすんなよ」
「え?」
「俺は、の感情を無視してまで自分の感情を大事にしたいだなんて、これっぽっちも思ってねえんだよ」

 向日はそう答えた後、もう一度ため息をついて駅の壁にもたれた。段差に腰掛けたままの英二よりも高いところにある髪が風に揺れ、暗がりの中に浮かぶ表情の中に、さらに陰をつくる。けれどその目が曇っていないことは誰にも否定できなかった。
 幾度目と知れぬ上り電車が、出発のアナウンスとともに走り去っていく。小さな振動とその騒音に身体を、そして聴覚を侵されながら、英二は失笑を浮かべてしまった。

「詭弁にしか聞こえないけどな」
「……詭弁?」
「一度好きだと思ったら、普通は他のことなんてどうでもよくなるんじゃないの? 程度にもよるだろうけど、でも思えば思うほどそれが中心の考え方になってもおかしくないだろ」

 そして失笑とともに口にした言葉に、向日の眉根が綺麗に寄った。不快の感情を隠すことなく表すように。
 英二とて、自分が今口にした言葉が100パーセント正しいとは思ってはいない。それは自身がこれから相手に経験するであろうと予測しただけの言葉、不二から聞いた他人の感情の言葉でしかない。英二自身にもその言葉の真偽はまだ計りかねる。
 けれど、自分の言葉は。完璧に、そしてでき過ぎなほど綺麗に作られた向日の言葉より、自分の言葉は現実味を帯びているはずだ。その思いが失笑を生む。まるで向日を挑発するかのように。
 しかし、それでも。英二が自分の体裁を気にする暇なもくぶつけたその言葉に、向日は。

「そう思いたければ思えよ」

 一度だけ鼻で笑って、そしてすぐに真顔に戻り、呟いた。

「でもそれが、俺が2年間あいつと一緒にいて出せた答えだ。今のお前には絶対に分かんねえだろうけどな」

 それが向日の最後の一言だった。
 英二の答えを待つことも、ましてや気にすることもなく、ただその言葉を言い終えるとすぐに顔を背けた。足は駅の構内へと向かい、それが最後の言葉だったのだと英二が気づいた時に背中は駅の構内へと消えた。
 階段に腰掛けたまま、ただじっとその様子を見つめていた英二は、向日の姿が見えなくなってからようやくひとつだけ息を吐く。
 言い負かされた。その事実だけはとてもよく分かった。

「……2年、ね」

 小さく呟いた答えは、風に流されてあっさりと消え行く。英二は視界の中に映るビル群をぼんやりと見つめた。
 向日の言葉が頭の中で幾度となく反芻する。悪い夢でも見ているかのように、間違ったものでも飲んでしまったかのように延々と、意識をしないように心がければ心がけるほど幾重にもなってわんわんと響き渡る。耳の奥が麻痺してしまいそうだった。
 その時手が動いたのは、その感覚に全てをもっていかれてしまっていたからなのか。
 英二は無意識のうちに制服のズボンのポケットの中から携帯電話を取り出し、カチリと歯切れのいい音を立ててディスプレイを開く。夜闇に慣れた目には画面にともった明かりすら眩しく感じられて、思わず目を細めてしまったが、しかし親指はその反応を無視してボタンを押す。
 そして発信履歴の一番上に載っている名前を、静かに見つめた。
 その文字が意味するもの、生み出す感情は、今となってはひとつしかない。そのひとつの感情に生かされる今の生活を苦に感じることはない。いや、自分の今までの人生にない経験だからこそ苦しみにも似た思いをしたことは否定できないが、けれどその経験そのものを否定したいとは到底思えない。

(それが、今の俺の気持ちだ)

 今となっては誰もいない自分の右横をちらりと見つめ、英二はそっと睫毛を伏せる。小さくなった視界の中で、ぱっと携帯電話の画面の明かりが弱くなった。闇に優しい省エネモードの画面を再び見つめ、けれど今度は。

(俺が、特別にしたいと思った相手だ。向日の感情に合わせる理由なんか、ない)

 心の中で強くそう思い、画面を閉じた。
 立ち上がった瞬間髪の毛を撫でるようにして通り過ぎた冬の風は心地よい。寒さはどこへ行ってしまったのだろう、空腹はどこに姿を消したのだろう。それらに気づいた時には駅ビルの巨大時計が午後9時前を示していた。
 ただ、なぜだろう。英二は自分でも不思議だと思ってしまうほど、向日の言葉に動揺させられた心は落ち着いていた。
 見上げた夜空を彩る濃紺色を素直に綺麗だと思えるほど、心の靄は晴れていた。



≫14.握り締めたもの