目が覚めると、そこにはいつも通りの景色が広がっていた。 淡いグリーンのカーテンの向こうから、生地の網み目をすり抜けて入り込んでくるわずかな光に目を細め、はしばしその様子を見つめる。目の前にあった右手の五指をそっと動かせば、小さな痺れが感覚として与えられた。 (……昨日、あのまま寝ちゃったのか……) まだ気だるさから解放されない身体をそっと起こし、ゆっくりと視線を足の方に向ける。こんな時にもたくましい自分の本能のおかげで毛布こそかぶってはいたが、それで無事だったのは健康まで。嫌な予感に襲われて恐る恐る毛布をめくってみれば、そこに現れたのは見るも無残なほどに皺を残してしまった制服のプリーツスカート。その有様に、朝一番の言葉はため息にとって代わられた。 そっと絨毯の上に足を下ろした瞬間、つま先からひんやりとした空気がまるで直に血流の中に入り込むような冷たさで襲いかかってくる。冬の朝の空気に支配された部屋はとても寒く、軽く身震いをするとその反応で目が少しだけ覚めた。ようやく働き始めた思考回路の命令に従って机の上の時計に視線を向ければ、午前6時半を少し過ぎたところだった。 その時ふと、の頭の中に携帯電話の存在が浮かんだ。 昨日、駅前で岳人からの着信を受け取ってから一度も触ることのなかった携帯電話。それでも起きた早々思い出してしまう自分は、否定はしながらもやはり携帯電話依存に近づきつつある生活を送っているのかもしれない。そんなことを思いながら椅子に置いたままだった鞄の中から電話を探す。冷えた教科書やノートが行く手を何度も阻んだ。 なにを思ったわけでも、ましてやなにかを期待していたわけでもない。 けれどやっとの思いで見つけた電話の、そのサブディスプレイに映っていた不在着信のマークに、一瞬言葉をなくしてしまったのはたしか。 恐る恐るディスプレイを開いて、その相手を確認した時に、動揺してしまったのもたしか。 (11時……? そんな時間にどうして) カーテンを閉じたままの部屋の中、ただ画面から溢れ、零れ落ちてくる弱々しい光だけを見つめて考える。しかし昨日の今日、には考えることこそできても答えなど見つかるはずもない。 ただ、その沈黙の中。その先にあったもの、それは留守番電話表示。 立ちっぱなしであることも、寒さにさらされていることもまるで厭わないで、は無言のまま留守番電話の中身を確認する。 はやる心臓よ、自分の手の動きを間違えさせてくれるな。耳の働きを邪魔してくれるな。 今にも動揺に支配されてしまいそうな心の中でそう願った時、あの声は聞こえてきた。 「 時間にすればどのくらいか。確認する余裕のなかったに、それを知る術はない。 ただ何度も何度も、限られた時間の中で聞こえてくる言葉を聞き返すために再生の操作を繰り返す。その言葉の意義を見つけることは、たとえ朝の頭でも可能だった。自分の心の感情がそれを可能にしてくれていた。 何度聞いただろう、分からなくなるほどに親指に再生の操作を繰り返させてから、ようやくは携帯電話を閉じる。カーテンの向こうの光は徐々に白みを増し、冬の夜空を西へと追いやっていく。 は小さく息を吸い、そしてそっと吐く。冷たい空気がからからの喉奥へと流れ込み、そしてふわりと白い息になった。 その様子を静かに見つめた後、はすぐにクローゼットに手を伸ばした。 冬の冷たさは、時には味方にもなりうる。 沈黙の中でボールを空高く投げ、風に邪魔されることなく落ちてきたそれを思い切り振りぬいたラケットで打つ。空気を切って相手コートへと真っ直ぐに飛び込んでいったボールは勢いよくコートの上をはね、フェンスにぶつかった。 全ての音が心地よい。耳に優しく、そしてまた心を大いに刺激する。 岳人は左手に持つラケットをぎゅっと強く握り締め、さらりと風に遊ばれた前髪を軽く右手でのける。ようやくうっすらと滲み始めた汗に自慢の髪の清涼さは失われかけていたが、そんなものは厭わなかった。グリップを握るその左手が、ボールをつかむその右手が熱くなればなるほど、自分の心は躍った。 『お前、どうして今まで告白しようとしなかったんだよ。そこまで気に入ってて、どうして』 菊丸の言葉が甦っても、たとえその言葉に昨日という日を思い出して動揺しようとも。ボールを空に投げれば高揚に取って代わる。 『聞いてもいいのか? 答えがでるんだぞ?』 その言葉に一種の恐怖にも似た感覚を思い出そうとも、ラケットを振れば興奮にあっさりとかき消される。 再び相手コートに沈んだボールは、ころころと。ダブルスであれば前衛のすぐ横を通り、後衛の足元に強く跳ね返って、やがて静かに転がった。 (……構わねえよ。全部正しい答えになるんだから、どんな結果になっても) それを敗者の言い訳と言われても否定はできない。全て受け止められるなどという言葉は、自分の最も望んだ道を手にすることのできなかった人間が自分を粉飾するために用いるものだ。そして今の自分は、まさにその状態だ。岳人は悲しいことながら、その現実をよく知っていた。 つまり、自分はこの先の展開をある程度描けているのではないか。 そして描いたその内容は、自分の敗北を意味しているものではないのか。 「……」 その問いかけに答える人間は、自分の中にもいない。いくらコートに立ち、ボールを見つめたとしても、誰かが救いの手を差し伸べてくれるわけでもない。 本当は誰の意見も聞きたくないくせに。その答えを出すことの方がよほど簡単だった。 岳人はポケットの中から取り出したボールに苦笑を見せて、一度だけ強く握り締める。手によく馴染んだ感覚に心の騒がしさを引き取ってもらってから、大きく息を吐いて再びそのボールを天に向かって真っ直ぐに投げた。 照り始めた冬の朝陽が眩しい、そんな思いにとらわれて目を細めた、その一瞬。 「向日くん」 コートの中に響いたその声は、とてもすんなりと耳に入ってきた。 軽く弾む音を立てて、ボールがコートの上に落ちる。そして今まさに力を込めようとしていた左手は、その力の放出先を見失った。 左手を下ろして、振り返ったその先。コートの入り口に、その声の持ち主の姿はあった。 黒いコートの裾が風になびく。いつも見慣れた制服姿ではなかったけれど、それが誰であるかを見間違えることなどない。だった。 「……どうして」 「ものすごく気合の入った試合の日、向日くんはいつも集合時間の前に学校に来て、ひとりで練習する。それを私が知らないとでも思ったの?」 岳人の驚きに少しだけ笑ってから、は小さな手で足元を指差す。なにかと思えばその先には学校では見ることのない黒のブーツがあり、その指差しがコート内への入場を許可するかどうかの問いかけであることに岳人はようやく気づいた。岳人は慌てて首を振り、ボールを拾った右手で左手側にあった観客席を指す。言葉はひとつもなかったが、その態度には緩い笑みを浮かべて頷き、フェンス際から観客席の中へと入った。 なんで、どうして。そんな疑問符はいくらでも用意することができたが、岳人はその疑問をにぶつけるよりも、ましてや自分でその答えを考えることよりも先に、自分の足でのもとへと近づく。観客席とコートを隔てる胸の高さほどの仕切りを挟み、冬の朝陽のもとで岳人はを真っ直ぐに見つめた。 いつも見続けてきた顔なのに、自分の視界の中に独占することができる今の瞬間を心のどこかで喜びながら。 「……昨日、菊丸くんから電話があったよ」 「え?!」 その時、唐突に切り出されたの言葉に、岳人は思わず素っ頓狂な声を上げる。そのいつもと変わらない声と態度に、もいつも通りの苦笑を浮かべてそっと口を開いた。 「今日の練習試合、嫌じゃなければ見にきてほしいって」 黒髪がさらさらと風に吹かれる。寒さに負けた息が白く姿を変えるのと同様、冷たさに負けた頬がやや赤みを帯びているその様を隠すように。制服を着ていないの姿に、雰囲気に目を奪われていた岳人に、時間は常に流れ続けているのだと教えるかのように。 はそれ以上の言葉を用意しなかった。自分の答えが求められていることに気づくにはそれで十分だ。 なぜここで自分の意見を求められるのか。都合のいい解釈以外、一体自分はなにを思えばいいのか。問いかけてもやはり誰も答えを用意してくれない沈黙の中で、岳人はそっとを見つめて尋ねた。 「……行くのか?」 「……」 しかし、返ってきたのは沈黙のみ。視線こそ泳ぐことなく岳人を真っ直ぐに見つめていたが、その口から否定の言葉は出てくる気配を見せなかった。 けれどその沈黙が答えとなりうることぐらい、岳人でも分かる。しばらくを見つめた後、岳人は背中を向けて視線をコートに戻した。 「……なにしにきたんだよ、わざわざこんな時間に」 仕切りの壁にもたれて小さく尋ねる。その先に待つ答えなど、本当は分かっていたはずなのに。沈黙が成す意味など、理解していたはずなのに。 それとも、の口からその言葉を言わせたかったのか。自分の感情に対する抑止効果となるその言葉をもって、自分の暴走しかける感情を止めたかったのか。そんな考えが頭の中を容赦なく駆け巡った。 これではまるで自分の敗北は既に決しているようではないかと、自嘲の思いに岳人が思わず失笑しそうになった時、が口を開いた。 「私の気持ちをまだ言ってなかったと思って」 予想すらしていなかった言葉の羅列に、岳人は沈黙したまま振り返る。よほど驚いた顔をしていたのか、はまた苦笑してそっと視線をコートへと向けた。 「昨日、向日くんは私にきちんと言ってくれたのに、私はまだなにも言えていないと思って」 「……」 「そんな不公平なこと、私向日くんとの間に持ちたくないの」 霞みも淀みも、ましてや戸惑いの欠片すらもまったく見当たらない、それはあまりに透き通った声。冬の澄んだ空気が、馴染むことをまるで厭わないような声によって作られたその言葉。 (それは) 沈黙をしたまま、岳人はゆっくりと瞬きをしての顔を見つめる。壁に自分の身体を預けて、ただ目にだけ自分の意識を集中させて。 それは、自分たちの関係だからこそ成り立つ言葉。自分がけしてなくしたくないと思った言葉。恋愛よりも優先したいと、詭弁と言われながらもそう願ってしまった言葉。 岳人は視線をコートに戻す。それ以上の顔を見ていると、口が嬉しさを伝えるよりも早く目が余計なものを流してしまいそうで怖かった。 自分は、本当はこれだけでも幸せなのではないか。そう思えてしまう自分を、やけに素直で好きだと思えた。 「……正直、私は向日くんに彼女ができても平気だと思った。ううん、彼女ができたらどうなるかなんて、考えたことがなかった」 その岳人の心境をどこまで理解していたのか、それは分からない。 ただ岳人が視線をずらしてもさしたる動揺をせず、は誰もいないコートに向かって言葉を投げかけ続ける。たとえ目を合わせていなくても、自分の左横から聞こえてくるその声に、岳人が反応しないはずはなかった。 「でも、改めて考えてみてね。私と仲良くしてくれた向日くんが彼女にする子っていうのは、私より大事な子で。……その時、私はどうなるのかって考えたら、ものすごく動揺した」 その言葉に、反応しないわけにはいかなかった。 振り返ることはできない。今ここで振り返れば、まるでその言葉を待ち望んでいたかのよう。実はその言葉を期待していたという感情を、今この期に及んでもとても強く胸に宿していると言うも同じ。昨日の決意は嘘であったと認めるも同然。 そんな今更ながらの体裁に振り回され、岳人は言葉を挟むことはできず、ただの声に耳を傾けることしかできなかった。この先に用意された結論はなんであるのか、その想像がまるでできないままに。 「それがどういう感情なのか、正直なことを言えば私にはまだ分からない」 風が吹く。少しばかり大きな音を立ててコートの上を流れていったその冷たさに、身体が一瞬硬直する。 心臓の働きを痛いとまで思ってしまうほど、ラケットをもつ手のひらにじわりと汗が浮かんだのが分かった。 「友達をとられるのを嫌だと思う感覚だけなのかもしれないし、それとも友達感覚なんてもう超えてしまっている……そういう、感覚なのかもしれないし」 「……」 「……どっちも含まれているような、そんな我がままな自分を見つけることもできるような気もするし」 そこでの言葉は終わった。流れてくる沈黙が琴子の迷いの感情を余すことなく伝えてくる。岳人はコートを見つめたまま、ただ黙ってその沈黙の意味を考えた。 に嫌な思いをさせたくないと願って、優先すべきものは今の関係によって生まれる日常の幸福だと理解して、ようやく出すことができた自分の答え。その岳人の答えに対するの、この沈黙。岳人は緩く下唇を噛んでから、そっと呟いた。 「……この2年は、お前には重かったか?」 「え?」 「俺たち、最初から友達じゃない方がよかったのか? 友達でいすぎたから、今こんなことになってるんだろ?」 「……」 自分が大事にしたいと願った関係そのものが、既に驕りの域だとしたら。そうすればこの沈黙の意味は簡単に理解できてしまう今この現実に、岳人はそう尋ねるだけで精一杯だった。 本当はなくしたくない。その思いはけれど、口にすることはできない。の感情を第一とした時、自分の感情は二の次にするのだということを自分で決めたばかりなのだ。岳人は自分にそう言い聞かせる。 けれど、の心情を慮った言葉を口にすることはできても、振り返ってその表情を確認することだけはできない。自分はどこまで弱くて甘いんだ、そう思ったその時。 「でも、友達にならなかったら。私は向日くんのことを大切に思うことはなかった。他人のまま終わってたよ」 小さく呟かれたの言葉は、まるで岳人の本音を慰めるかのように、認めるかのようにそっと。優しく耳に流れ込んできた。 「……」 岳人は思わず振り返り、の目を見つめる。わずかに伏せられていたの目がそっと前を向き、長い睫毛が瞳に陰を作る。それは、素直に綺麗だと思えるものだった。 今までそんな気持ちで見つめたことはなかった。そう思う自分の心の変化を今更ながらにかみしめて、岳人は自然と緩む頬もそのままにそっと口を開く。 「俺は、お前と友達でよかったと思ってる。本当に思ってる」 隠すことのない精一杯の本音を、その言葉にのせて。 繰り返すことしかできないその言葉を、今日もまた黙って聞いてくれるに嬉しさすら覚えながら。 「好きになれたことも、こういう話ができることも、全部ひっくるめて。お前と友達でよかったって、本当に思ってる。だから、お前が嫌がることはしたくない。迷惑な感情は抑える……努力をする」 「……」 「でも、……って、ここから先は俺の勝手な考えだけど!」 けれど、やはり自分の本音はまだ綺麗な形成などされていなかった。 を見つめたまま、コートと観客席の段差によって作られた同じ視線の高さの中で、岳人はそっと。 「お前も一緒の気持ちになってくれたら、友達関係からそういう関係になったって、全然構わないと……思う」 友人関係を大事にしたいという本音の、その奥にどうしても隠れきることができなかったもうひとつの本音を言葉にしてしまった。 の目が一瞬で丸くなる。その黒目に岳人の姿を目一杯に映して、何度も瞬きをした。 今自分の周りにあるもの、それはの驚きの表情と沈黙ばかり。返す言葉を探すことすらできないというようなその表情を見て、岳人は自分の言葉が走り抜けすぎたことにようやく気づく。あ、と小さく声を漏らし、そしてふるふると慌てて首を横に振った。 「……重い、よな。ごめん、全然抑えてないわ、俺。今のなし!」 「……」 「試合は10時からだぞ。青学の行き方はあいつに教えてもらえよ、その方が分かりやすいと思うから」 精一杯平静を装った口から出てきた最後の言葉。その言葉の反応を見ないまま、岳人はに背を向けてそっと観客席から離れた。 欲張りな自分は、一体なにをもってしたら大人しく引き下がることができるのか。どれだけ念じても自制することのできない自分に、苛立ちすら生まれそうになって岳人は心の中で舌打ちをする。 この2年間の存在をは是とした。そのことにもっと幸福を見つけろと、そう念じて瞳を閉じかけた、その時。 「許せるの?」 揺らぐことを厭わない声。細く、風にかき消されそうになる声。 その声によってもたらされた、音にしてたった5文字のその言葉に、岳人は瞳を開ける。 「私、菊丸くんのこといいなって思ったこと、何度もあるよ。それは向日くんも知ってるでしょ? というか、今の私、きっとその状態だよ?」 人工コートの青緑色。フェンスの向こうに並ぶ落ち着いた配色の家の屋根、その上に掲げられた薄水色の冬の空。 視界の中に映る様々な色に、けれど心は動かない。ただ映しているだけになってしまうほど、意識が目に向くことはなかった。向けられていたもの、それは耳と、あとひとつ。 「それなのに、『本当は向日くんのことが好き』とか言うことなんて。……この先どうなるかは別としても、そんなこと」 心に浮かぶ感情に従えと命令する、自分の本音そのもの。 岳人はもう一度振り返る。そして離れかけていた足を一歩、また一歩観客席へ 「あのなあ。お前、俺とどれだけ友達でいるんだよ」 「……え?」 「俺は女と友達だっていうことがどれぐらいすごいことだったのか、身に染みて分かったの。その相手はお前。お前がどんなに化学のことをバカにしても、人の話を適当に聞き流すことが上手くても、日直の仕事を俺に押し付けてきても」 「……ちょっと、向日くん。それ全然褒めてな……」 「そんなの全部ひっくるめて、俺はお前が好きなんだよ。友達としても、女としても」 なぜ観客席はコートよりも高く設置されているのか。なぜ今自分たちの視線は同じ高さになってしまっているのか、優しく見下ろすことのできる男の特権を使わせてくれないのか。 そんなことを恨みながら、岳人はの顔を覗き込んで嘘偽りのない言葉を口にする。見つめたその先にあったの顔が一瞬驚きに負けて、そして至近距離で見せ付けられた岳人の怒り顔に思わず肩をすぼめてみせた。 そんな反応は、本当は全て見透かしていただなんて。今に告げたら、この驚きの顔は一体なにに取って代わられるだろう。 けして消えてはいない自分とのこれまでの2年間という時間の思い出に、心をくすぐられながら岳人は言葉を続ける。 「それに、お前がきちんと考えることのできるやつだって言うことは、悪いけど菊丸よりも俺の方が知ってる」 「……向日、くん」 「そんなお前が俺のことを好きになるっていうのに、なんで嫌いにならなきゃ駄目なんだよ。バーカ、もっと考えろよ」 仕切り塀に頬杖をつき、ようやく目を逸らす。それが本音という感情が生み出す恥ずかしさからくる可愛くない行為だとは百も承知だったが、立派な男であるよりも前に今はまだ恥ずかしさの方が先行してしまう。それが友達関係でいつづけた仇であるというのなら、なんて自分は回りくどい生き方しかできないのだろうと岳人は思う。 しかし、しばらくの沈黙がゆっくりとその恥ずかしさを取り払っていく。 遠く、雀の鳴き声が冬の風にのって運ばれてくる。その音に気づいて、岳人はそっと視線をに戻す。 「……向日くん、私に甘いね」 そこには、目を伏せた親友の姿。けれどそれは同時に、口元に柔らかな笑みを浮かべた恋しい人の姿。 岳人はその声と笑みに一瞬言葉をなくす。今まで経験したことがない自分の反応に、今この沈黙を埋めるための手段としてなにが一番適切なのかがまるで分からなくなる。 静かに流れ行く沈黙の中、けれど岳人はきまりが悪そうに頭をかいて呟いた。 「……それは……古典の宿題を写させてもらうためだよ」 「古典?」 「そう、古典。知ってるだろ、俺の古典の成績はお前にかかってるんだからな」 「それだけ?」 それは最後に残った恥ずかしさが生み出した言い訳だった。けれどその言い訳を、自身があっさりと過小評価する。わずかに岳人の顔を覗き込むようにして、その動揺の欠片をなにか違うものに置き換えんと企む笑みを浮かべて。 何度見てきただろう。岳人は思う。この2年の間に、そのなにかを企んだような笑みを何度見てきたことだろう。なにかを企んでいながら、けれどその感情はなにひとつ裏表のないということを何度理解してきたことだろう。その関係に心地よさを感じてきたことだろう。 目の前にある光景。それはたしかにいつもと変わらない。 けれど、確実に今までとは違うものがあることを岳人は知っている。 (俺の気持ちを知ってて、それでもこうしていてくれるんだ) その思いに、言葉では表すことなどできない嬉しさに心が満たされる感覚も知っている。 岳人はに生意気そうだといわれ続けた笑みをふっと浮かべて、右手で頬杖をつきながらもう一度その顔を見つめる。 「……なんだよ、それ以上もいいのかよ?」 「それ以上というより、それ以外にしてよ。それだけだと私、ただの便利な……」 「以外? 今の俺にそんなこと言っていいの? お前」 「!」 そしてが気を抜いたその瞬間、右手でその細い左手首を掴み取った。 ふわりと空気の中にとけこんでくるのは、シャンプーの香りか。左腕を引っ張ったと同時になびいたの髪が、音を立てる代わりにその香りを岳人へと運ぶ。 からむことを知らない髪が頬を撫でていくほどの至近距離。岳人は引き寄せたの耳元で必死に笑いをこらえながら、そっと呟いた。 「身長は平均でも、俺だって男なんだからな」 「……向日くん!」 「俺にだってこれぐらいの力はあるんだよ。お前に甘いっていっても、単に優しいだけでいられる自信なんてどこにもないんだからな」 その言葉に、けれど反論はおろか怒声のひとつも飛んでくることはなかった。 岳人はそっとの手を離す。心なしか頬が赤らんでいるように見えるを見つめても、友人関係を行き過ぎた行為をする岳人に対して怒りの表情は見えてこない。それどころか耳に届いてきたのは、小さなため息ひとつ。 風が運ぶそのため息の柔らかさに、結局苦笑を浮かべるのは岳人の方だった。 「お前の方が俺に甘い」 けれど、そんなことを呟きながら。 恋愛感情の生存を認めてくれる沈黙の中の笑みに、岳人はに対する心温かくなる感情を大事にしたいと強く願う。 そして、親友としても、恋しい人としても。大切という言葉ひとつで言い換えられると同時に、それ以外の言葉を用いることなど不要としか思えないこの沈黙の優しさの中で、ただ笑い返す。 それが新しい日常となることに、幸福以外見つけることなどできなかった。 「随分と綺麗さっぱりした顔やなあ」 「なにそれ。というかどっちに対して言ってるの?」 「うちの子? いや、お前さんのところの子?」 「うーん、まあ両方というところなのか。なにをしたんだよ、忍足は」 「それを言うなら不二の方やろ。俺は岳人の尻を叩いてやっただけやで」 「僕だって英二の支離滅裂な言葉をきちんとした文章に並べ替えてあげただけだよ」 「世話が焼けるなあ、お互い」 「本当にね」 明らかに自分の耳にも、そしてある人の耳にも届く声。いつでもどこでも、まるで自分の悩みを話の種としか考えていないような親友(たち)のその声に、しかし岳人は怒声をぶつけることはなかった。 今、このコートに。迷いのひとつもない心でラケットを持って立つことができているのは、その親友の力があってこそ。その事実を否定する気持ちなどさらさら起きなかった。 そんな苛立ちの代わりに、自分の心を満たしているものは。 「よお、菊丸。昨日ぶり」 「……なんだかすっげーむかつくんだけど、お前のそのつくり笑顔」 ネットを挟んだその向こうに立つ、様々な意味で自分にとってライバル関係の男。 その男を、いつも通りの生意気な笑みとともに迎え入れられる余裕と清々しさ。そればかりだった。 右手を上げてすかした声で挨拶をすると、菊丸はあきらさまに眉間に皺を寄せた。けれどその苛立ちも、昨日のものと比べれば随分と素直な色をしている。本当であれば気を向けるべきではない相手なのだろうが、岳人は冷静にそう観察してわざとらしく鼻で笑った。 素直な心の色で感情をぶつけることができる、その清々しさには敵うはずがなかった。 「昨日のお前の方がよっぽどむかついたんだ、これぐらい我慢しやがれ」 「……ああ、そう。そういう言い方でくる、ふうん。よく分かった、絶対容赦しないからな」 「え、なに。お前容赦なんかする余裕あるの? 無理するなって、本気で来いよ」 「……!」 岳人が怯むことなく挑発すれば、菊丸も遠慮することなく不機嫌をあらわにする。 隠すものがなく、相手の出方を推し量る必要すらない関係はなんと居心地のいいものか。そんな悠長なことを考えている場合ではないと分かっていながら、岳人は今朝のを思い出してはすぐに口元が緩んでしまう。それがますます菊丸の神経を逆撫ですると分かっていながら。 そんなふたりのやり取りを見つめていた大石は、しばらく両者の顔を交互に見つめていたが、菊丸の不機嫌がピークに達しているのを悟ってそっと声をかけた。 「英二、どうした? なにがあったんだ?」 「あかん、大石。それ以上は聞かん方がええで。テニスの試合ができひん」 「なんだって? それはどういう……」 「テニスやのうて、青少年の戦いになってしまう。実はなあ……」 「うるせーよ、侑士は!」 隣で飄々と解説をし始める相方に、軽く蹴りを一発。忍足がわざとらしく痛がるので大石が慌てて声をかけ、岳人の視界の中にはたったひとりだけが残される。 ネットを挟んで、ふたりきり。今朝の氷帝のコートと同様心地よい冬の風が抜きぬけるその場所で、岳人はじっと菊丸を見つめた後、ラケットを肩に預けながら口角を緩めた。 「とりあえず、今日はテニスだ。中3の関東大会の続きだ。今度は絶対負けねえからな」 「俺だって。だてにゴールデンペアって言われてるわけじゃないんだからな」 この場所に立てば、それ以上の言葉はいらない。恋愛感情もさることながら、目の前にいる人物は自分にとってはこのテニスにおいても倒さなければならない相手なのだ。自分が絶対に手に入れたいものふたつにおいて、共通している敵。目標は明確だ。 岳人は唇を生意気に歪める。その態度に菊丸がむっとするのを見つめてから、戸惑うことなく口を開き、そして言葉を投げかけた。 「それと、前哨戦ってところか?」 「……いいよ、のってやるよ」 口元が皮肉と、そして心地よさによって綺麗に緩む。その菊丸の表情を見つめてから、岳人も鼻で笑い返してくるりと踵を返した。 かすかに吹く風が心地よい。見上げた空には雲ひとつなく、薄水色の東京の空がどこまでも続いている。いい天気になった、そう思いながら忍足からボールを受け取り、岳人は後衛の位置につく。 「最初のサーブを譲ってやったんや、きちんと男前にせえよ?」 相方の言葉にボールをもった右手を上げて、コートの白いラインを見つめて。 そしてボールを投げた天は、どこまでも本当に清々しかった。 視界の片隅に黒のコートが映る。向けられる視線に新たな決意を胸に宿し、思い切り振りぬいたラケットによって放たれたサーブは、見事相手コートの中に沈んで青空を求めるかのように大きく跳ね返った。 |
end. |