開いては閉じる、その繰り返し。

「なにしてんだ、あいつ」
「ああ、今日の向日先輩ずっとあんな調子なんですよ。さっき俺が声をかけても普通に無視されましたし」
「なんだそれ。お前がまた頭の上から声かけたんじゃねえのか?」
「え! そ、そんなことは……!」

 遠くで宍戸と鳳が自分を揶揄する声が聞こえたが、岳人は視線を向けることはない。
 空調のきいた部室の中で、もう一度。壁際に設置されたベンチに腰掛けて、左足を抱えて右手で携帯電話を持つ。折りたたみ式のそれを開けばディスプレイに柔らかい光がほのかに宿り、閉じればサブディスプレイに現在時刻が表示される。時刻は午後7時を回ったところだった。

(本当は言うべきじゃなかった気がする)

 なにかに集中していない時、他になにも考えることがない時、頭にふと戻ってくるのはだった。
 昨日の並木道でのあの驚いた顔、今日の職員室前での気まずそうな顔。それらは今までの関係からはけしてあってはならないものに他ならなかった。いや、むしろ生まれるはずもなかったというべきか。しかし、にそのような表情をさせてしまったのは全部、自分の言動が原因であったことに岳人はもちろん気づいている。
 自分が、今までの関係とは無縁だったはずの感情を抱いてしまったからだということに気づいている。

(……でも、隠していたからって今までと全く変わらない関係でいられる自信はねえ)

 それとも、その我慢をすることが唯一残された、いや許された最後の道だというのであれば話は別だ。自分は、単に欲しいおもちゃを買ってもらえずに駄々をこねる子どもとなんの変わりもない。しかしかといって、我慢することが今の己の力量で可能な選択であったかと問われても頷ける自信はない。
 自分は、なにがしたかったのか。携帯電話を見つめながら岳人は考える。
 と付き合いたいと思ったのか。それとも今までどおりの関係を維持したかったのか。
 恋愛に転ぶのか、親友にとどまり続けるのか。

(違う)

 パチン、と。携帯電話を閉じた瞬間、岳人は心の中で呟く。真っ直ぐに前を見据えて。

(そんなことじゃない)

 そして立ち上がり、突然の動きにぎょっとする忍足らの視線を無視して着替え始めた。夏であればシャツだけで済む制服がこんな時ばかりは煩わしい。シャツもセーターもジャケットも着るというよりは身につける感覚に任せ、岳人は荷物をまとめて部室を出ようとする。

「岳人、ネクタイ!」
「あ、悪い!」

 途中忍足の声にドアノブに手をかけたまま振り返り、飛んできたネクタイを一掴み。えんじ色のそれを受け取った後、岳人は慣れた手つきでそれを結びながら学校を飛び出した。
 昨日のような夕焼けの色はどこにも残されていない並木道を通り抜け、駅まであと少しというところで携帯電話を取り出す。そしてリダイヤル履歴の中から目当ての名前を探し出し、戸惑う暇もなく発信ボタンを押した。
 1回、2回。いつもは短く感じるコール音がやけに長く感じる。もう少しで並木道は終わってしまうというのに。
 3回。駅と並木道を挟む片側一車線の道路を視界に収めた時に、4回。横断歩道の前にたどり着いた時、5回目。
 その途中、ついにコール音は途切れた。

「今どこにいる?」

 機械越しに聞こえたその声の弱々しさに気づきながらも、開口一番の言葉は居場所を尋ねるものだった。
 電話の向こうから流れてきたしばらくの沈黙の後、相手はただ静かに「駅」と答えた。
 岳人は顔を上げる。行き交う車の向こうに既に氷帝学園の最寄の駅は見えていたが、学園のために設置されたと言っても過言ではないその駅前に、この時間において生徒の姿を探すことは難しい。むしろ誰もいないことを確認することによって、岳人はその答えが違う意味を成していることに気づくことができた。

「塾の駅だよな? もう帰るのか?」

 しかしその問いかけに返ってきたのは沈黙のみ。横断歩道の信号が青に変わったことを確認してから小走りで渡り、鞄の中から定期券を出して岳人は最後の言葉を口にした。

「話したいことがあるから、そこにいろ。今から行く」

 改札口の前についたと同時に電源ボタンを押して会話を終了させると、同時に上り電車がホームに入ってくるところだった。





 昨日の話をするなと先に言ったのは自分だった。まだ自分でもなにが正しいのか分からなかったからだ。逃げだと言われることを否定する気もさらさらないが、しかし答えが出てしまえば話は別だ。
 岳人ははやる鼓動を抑えながら、使い慣れない駅の改札口を抜けて目当ての姿を探す。商業ビルの多いこの駅はこの時間になってもいまだ人通りが絶えることなく、色様々なものが視界の中に映っては消えた。

(……もしかして、外なのか?)

 冬風の通り抜けるコンコースの中に氷帝の制服が見つからない。一通り視力のいい自分の瞳で確認したあとに浮上した次の答えに岳人は一瞬顔をしかめるが、首を傾げるよりも早くその足は答えの場所、西出口を目指した。西と東、コンコースを突き抜ける形で駅の出口は設置されていたが、東には目もくれなかった。
 なぜなら、西出口には塾がある。その感覚だけでコンコースの中を渡りきり、夜空を拝む西出口へとたどり着いて一歩外へと踏み出したその時、視界右横に突然見慣れた色が飛び込んできた。

「……なにしてんだ、こんなところで」

 自分の目に映っているものながら、岳人自身が驚きを隠せないままに呟く。
 視線の先にあったのは、この冬風にさらされた西出口の壁にもたれかかったままのの姿だった。マフラーを風に遊ばせながら、ただぼんやりと塾の方角を見つめているだけだったは岳人の言葉にようやくその顔に表情を宿す。表情とは言っても、無論頬の筋肉を動かす程度のものでしかなかったけれど。

「……うん、ちょっと」
「塾は」
「今日はないよ」
「じゃあ、なんでこんなところに」
「自習室。勉強しにきてた」

 しかし受け答えはしっかりしていた。表情とはバランスのとれないその口調に岳人はまた目を丸くしたが、はその反応に目を向けることはない。
 ただじっと、濃紺へと姿を変えたビルの向こうの空を見つめていた。
 何を考えているのか、疑問符を用意しても口には出せない以上答えは分からない。そもそもなぜ今ここで会っているのか、あまり見慣れない景色に周囲を囲まれながらその疑問を自分へと向けた時、岳人は思いだす。

(そうだ。こいつに言わねえと)

 ぐっとテニスバッグをもつ手に力を込め、はやる心臓を宥めながら心の中で呟く。それがスタートの合図だった。
 今日の授業中も、部活の時も。一緒に日直だと知ってしまった朝も、職員室前まで共に歩いて言葉を交わした昼も、そして今もずっと。自分の中でめぐっていたに対するひとつの感情は今も消えることはない。気づいてしまったら最後、喜怒哀楽と好き嫌いの激しい自分にはそんな融通のきくことはできるはずがないことを、誰よりも岳人自身が一番よく知っていた。
 しかし改めてを目の前にして、岳人は自分が間違っていなかったことに気づく。今胸に宿る自分の思いは絶対に間違っていないと、小さな自信を勝ち取る。自信を持っていいと他の誰でもない自分自身がそう言っている。
 岳人は一度小さく息を吐く。そして心の中に頭の中に、見えない口の中に。ひとつの言葉を用意する。
 それは、自分が一番なにを大事にしたいのかという疑問の先にあった答え。

「……。あのな、俺」
「向日くん、私の話を聞いてくれる?」

 しかしその瞬間、の言葉が岳人の声を遮った。
 もうあとは声に出して言葉とするだけだった思いが、再び喉の奥へと消えていく。岳人は目を丸くし、突然遮られた自分の感情をどこに溜めておけばいいのか分からず一気に言葉を見失った。

「私、向日くんのことはすごく大事な人だと思ってる。本当に、すごく」

 そんな岳人にとって、その言葉は他意の付随を許さなかった。
 の声は、ストレートにその言葉のまま頭の中に飛び込んできた。

「こんなに気が合う人を女子じゃなくて男子に見つけることができるなんて、本当にすごいことだと思ってた。だから向日くんと友達でいられることは、私にとってはすごく大切なことだった。すごく嬉しかった」

 その言葉に、岳人はわずかに視線を落とす。けしてこちらに視線を寄越さないの真意がどこにあるのか、それはまるで分からないままだったけれど、その言葉の力は痛いほどに理解していた。
 自分は、を追い込んだ。その答えを見つけることに抵抗はなかった。
 けれど岳人は、その答えに対する次の態度を既に決めていた。寒さを厭うこともしないまま、ただ冬風にさらされるがままで岳人はもう一度視線をに向ける。
 2年の間に、気づけば随分と顔立ちから幼さが消えた。そんなことを思いながら。

「……俺は」

 しかし自分がと仲がいいのは、もちろん外見が理由なのではない。
 2年間友達でいつづけることができたのは、自分の居心地がよかったからだけではない。
 昔を懐かしむなんて性に合わない。縁起でもない。しかしふと身体がこれまでのことを思い出す感覚を岳人が止めることはなかった。
 自分の言うべき言葉は決まっていた。それさえあれば今身体がどのような反応をしようとも、平気だった。

「お前と友達でよかったと思ってる、今でももちろん」
「……」
「だから、今一番壊したくないのは自分のことじゃないんだよ。お前なんだよ。都合がいいって思うかもしんねえけど、でも本当にそうなんだ」

 はまだ顔を向けることはなかった。ただかすかにその横顔に焦りが見える。目が一瞬、空を愛でるのをやめた。ただ色を感じ取るだけの機能に成り下がった。
 その反応の意味は、正か負か。つい数時間前までならその疑問に簡単にとらわれたはずだ。それほどまでに岳人は自分自身でもなにが最良の道なのか分からなかった。
 分からないまま、それでも近くにいたいという感情を持て余して掴んだ左手。
 昼休み、階段から落ちかけたを助けたあの瞬間の自分の感情の名前は、確実に恋愛感情のそれであったことを自覚しながら、しかし岳人は次の言葉を口にした。

「お前を苦しめるだけなら、もうそんな態度は取らない。絶対、取らない」

 瞬間、の目が動く。それはわずかに揺れたあと、そっと岳人に向けられた。

「嘘っぽいかもしれないけど……でも、付き合いたいとか今までのままでいたいとか、そんなんじゃない。そんなのじゃないんだ」

 その視線を受けながら、岳人はけして瞳を逸らさずにそのまま。

が嫌がることを、俺はしたくない。だから」

 2年目にして、一番大事にしたいと思った感情を口にした。
 その感情の前では、自分の恋愛感情は後手に回すことなどいくらでもできる。自分の性格上殺すことはできないが、けれど自分の理念として最優先感情としないことはできる。
 沈黙の中、空気にその思いをしみこませる。がその沈黙の意味に気づかないはずはなかった。今更言葉と表情で確認しなければならないほど、そんな安易な人間関係でしかなかったなどとは微塵も思っていない。そして岳人自身、自分の答えに迷いはない。沈黙でも十分にその中身は伝わったはずだった。
 しかし、問題は残る。それをがどう受け止めるかだ。

「向日くんは……」
「え?」

 その不安を察知したかのようにが口を開く。小さな口はしかしそれ以上の言葉を発することはなく、岳人の視線にさらされてただ呼吸の役割だけを果たすばかり。
 唇と、そして目と。慣れたはずの自分を見上げるその表情を見つめると、押し込めたはずの恋愛感情が表に出たがる。しかし岳人が必死の思いでそれを押しとどめた、その時。

「……ごめん、なんでもない。帰る、ごめんね」

 はそっと視線を伏せて小さく呟き、岳人の横をすり抜けた。
 既に自分の視界には誰もいないのに、それでも数度瞬く。しかしその数秒でようやく言葉が頭の中に全部溶け込み、岳人は慌てて振り返ったがしかしの背中は既にコンコース内の人込みの中に消えていた。

(今、なにを言おうとした?)

 答えが見つからない。ただが去った駅のコンコースを見つめしかない。
 ただ、ひとつだけ分かっていることがある。岳人は立ちすくんだままじっと照明の眩しい構内を見つめ、そのひとつを確信する。が言葉にすることを躊躇うほどのことはひとつしかない。親友関係の頃であれば絶対にみせることのなかったあの躊躇は、逆を言えば今だからこそ見せられるもの。
 もしかして、などという自分に甘い言葉は使いたくない。それではまるでこの先の幸運を期待しているかのよう。けれど無視することができるほど、自分の感情を制御できる自信ももとからない。
 しばらく街の喧騒に耳を傾けていたが、岳人は小さなため息を零す。そして一度頭をかき、じっとコンコースの中を見つめた後、足をその光の中に踏み出そうとした。 
 けれど、その時。

「向日?」

 足は止まった。背中に投げかけられた自分の名前を呼ぶ声に。
 そして、だけを追っていたはずの目が動く。駅の明かりから外の闇の色へとその視界に映るものを変え、そして視界中央に映ったものに口は一瞬息を飲んだ。
 そこにあったのは、ふたつの学生服。氷帝との共通点はなにもないその制服に身を包んだふたりの男子高校生は、しかしその顔に驚きにも似た表情を浮かべていた。自分もおそらく同じ顔をしていたのだろう、岳人がそのことに気づいたのは、ふたりのうちのひとりが軽く手を上げて先に駅の中へと姿を消した時だった。
 視界に残ったのは、ただひとりの相手。
 久しぶりだと岳人は思う。このように互いに向かい合うのは、本当に。
 しかしその邂逅に喜びを見出すことができないのは、彼が自分よりも背が高かったからか。テニスにおけるライバルであるからか。劣等感か、同属嫌悪か。
 いや、と岳人は心の中で頭を振る。随分と冷静な自分に驚いた。しかしその冷静さはけして作り物ではない。強がりでもない。心はおかしなほどに静かで、口に運ぶ言葉に動揺の欠片を追従させることはなかった。

「菊丸」

 夜闇に静かに呟く自分の声が澄んでいることに気づけば、確信は自信に取って代わる。

「……なに?」
「少し、話したいことがあるんだけど」

 そして瞳を逸らさずにそう尋ねた時、相手   菊丸もまた岳人同様に、しばらくの沈黙の後慌てることなくただ静かに頷いてみせた。





「なんでお前がこんなところまで来てるんだよ、青学からは遠いだろ」
「不二があの塾に通ってるからさ。それに近くに夜間コートもあるし、別に」

 この駅は、コンコースを抜けると数段の階段を経て地面へと降り立つことができる。
 その段差を椅子として活用することにしたのは、周りが夜闇に包まれてくれていたからだった。煌々と眩しいほどの明かりを宿す駅構内や、ましてや駅ビルの中にあるコーヒー屋になどけして行きたいとは思わなかった岳人は、菊丸の出した案にすんなり賛成した。
 寒さ対策のために、互いに自動販売機で購入したホットの缶を持つ。示し合わせたわけではないのに同じカフェオレになってしまったのは何の因果かと、少しおかしくもあった。
 自分に似ている、何度もそう繰り返したの言葉が、今は少し痛かった。

「……いつ知り合った?」
「え?」
と」
「ああ……」

 緩く巻いていた紺のマフラーの中からそっと口を出し、菊丸は首を傾げて考える。さらりと髪が風になびくのを視界片隅に見つけた時、その口が動いた。

「1ヶ月ぐらい前か? 多分。氷帝との練習試合が決まった頃だから、それぐらいだよ」

 1ヶ月、という言葉に岳人は息を飲む。
 1ヶ月、それはたかが30日前後。その間に変化してしまった自分との関係を思い出して、思わず缶を握る手に力が入ったのが分かった。
 自分の勝手な恋愛感情は二の次、そう決めたはずの心が簡単に苛立ちに食われそうになるのに気づいて、岳人は軽く頭を振った。

「友達なんだってな、あの子と」

 その時、菊丸が淡々と会話を繋げる言葉を口にした。自分に戻された質問に、今更なにを聞くのかと思いながらも岳人は菊丸から視線をずらし、色気のないアスファルトを見つめてそっと口を開いた。

「俺があいつを知ったのは、2年前だ。去年の話だ」

 ただ前を行き交う人々やロータリーの中をめぐっていく車、道路の向こうにそびえ立つ多くのビルの明かりだけを見つめながら呟く。

「それからは、ずっと仲のいい友達としてやってきた。2年間クラスが一緒だったし、なにより気が合った。俺のことを叱るのも褒めるのも、認めるのもが一番上手かった」
「知ってるよ」
「……え?」

 岳人の言葉を黙って聞いていた菊丸がふと呟く。そのあまりに淡々とした声に岳人が思わず視線を向けると、その横顔は先ほどまでの岳人と同様ただじっと前を見つめていた。
 2年前に関東大会で対戦した時よりも、幾分か大きくなったその身体。丸みが子どもらしさではなく落ち着きの雰囲気を示すようになったその瞳。それらに改めて気づかされるような沈黙のあと、菊丸は少しうつむいて髪をいじりながら再び口を開いた。

「よく喋ってたから、あの子。お前が思ってるよりも絶対にもっとお前との関係を大事にしてた。それぐらい話を聞いていれば分かるって」

 予想外の言葉に岳人は口をつぐむ。菊丸が淡々とその事実を述べたこともさることながら、その内容に今更ながらの嬉しさを感じてしまう自分はなんてげんきんなのだろう。その思いを菊丸に悟られるのが癪で、視線はそらしてしまったけれど。しかし。

「でも、だからこそお前とはなにもないんだっていうことがよく分かった」

 その言葉に、先ほど以上の反応をしないわけにはいかなかった。
 顔を動かさず、目だけをちらりと左に向けて菊丸を盗み見れば、その顔は動揺を隠せない岳人とはまるで正反対だとでも言うかのように数秒前とまるで変わっていなかった。
 その言葉の真意は、と口が尋ねるよりも先に過剰反応してしまった心臓に、身体中のリズムをかき乱される。もはや自分で制御できるというレベルではない。動揺に飲み込まれそうになるのを必死に隠しながら、岳人は沈黙をして相槌の代わりとする。
 聞いていいのか。聞いてしまっても、自分は焦ることなく次を考えることができるのか。
 そう問いかけることで、岳人は無意識のうちに自分を落ち着かせようとしていたけれど。

「じゃなきゃ、俺の前であんな態度は取らない。そう思った」
「……なんだよ、それ」
「よく笑うよな、あの子。人の話を聞く時の態度がすごく好感がもてる」

 菊丸の言葉に相槌も反論もできない瞬間が、ついに訪れた。
 岳人の頭の中には瞬時に思い出が甦る。
 テニスコートの裏。教室。廊下、昇降口前、運動場。職員室前。
 あとから思えば、が人の話をきちんと聞くことができること、どんなに長い話でも自己満足な話でも嫌な顔ひとつせずに相槌を打ってくれること、笑みを浮かべてくれることなどということは、今に始まったことではない。そんなことは2年間最上の親友として付き合ってきた岳人とて、自分に対する態度の中にも幾度となく確認することができたの特性だ。しかし。

(……なんでこいつは、今更そんなことを)

 疑問の色を隠せずに、眉根を寄せて岳人は考える。しかししばらくの沈黙が、表情をまるで変えない菊丸が。それらが示す意図に気づくことは、さほど困難なことではなかった。
 宣戦布告。
 岳人は息を飲む。つい先ほど自分の頭の中に連想することができたのは「菊丸のことを話す」の笑みに他ならなかったことに気づいて、自分が菊丸の言葉に自分たちの3人の現状を教えられたことを理解してしまった。
 もしかしたら。はやる心臓に急かされるようにして、岳人はひとつの仮説を立てる。

「テニスをきちんと知ろうとしてくれる。基本的なことは向日が教えたんだろ?」
「……それは……」
「ボレーヤーの特徴もものすごくよく理解してた。当たってる、って褒めたらすぐに照れた」
   
「からかって俺が笑うと怒るけど、でも」

 いつの間に自分の心は読まれるようになってしまったのか。いつの間にこの男は人の心を読むことに長けてしまったのか。
 その問いに答える人間などどこにもいないまま、岳人が言葉を飲み続けていたその瞬間、菊丸はふっと口元を緩めた。

「顔を覗き込むと、怒るんじゃなくてうつむくんだ。顔を真っ赤にして」

 それは、自分は見たことのない反応だと。口にすることなどできなかった。
 岳人は自分の仮説が時間を置かず正解とされたことを知る。菊丸の言葉によって。
 淀みの欠片も見つからない漆黒の瞳が、真っ直ぐに正面を見つめている。表情そのものは今までとなんら変わっていなかったが、その瞳に確固たる意思が宿っていることに気づかないわけにはいかなかった。
 季節は冬だ。そして今は夜だ、この季節にわずかながらの温もりを与えてくれる太陽は既に西の彼方だ。
 けれど缶を握る手の内には汗が生まれ、心臓が痛みを感じさせるほどの役割を果たしている。そして身体中を駆け巡る血流は、まるで冬の寒さなど無視してひとつのことに集中しろとでも言うかのように足の指先の麻痺を忘れさせる。
 ただ、顔だけは。顔だけはそうはいかなかった。
 強張った頬も言葉を出せない口も、ただ静かに冬風にさらされる。そして動揺をうまく他のものに還元して飲み込むことのできない頭は、それを逆流させてしまった。
 聞いてはいけない。聞いてしまったら、自分は勝てない。
 何度も心は叫ぶ。しかし、その声はあっさりと。

「……菊丸」
「なに?」
「お前、のことどう思ってるんだよ」

 消え去ることもできず戻ってきてしまった動揺に敗北し、仮説を裏付けるための決定打を言葉にしてしまった。
 岳人の問いかけに、菊丸は視線を寄越して一瞬硬直の様相を見せる。

「好きだって言ったら?」

 しかし、問いかけに対する問いかけに言葉をなくすのは、岳人の方だった。
 に口にしたばかりの決意が消え去りそうになるのが悔しいほどに、冷静に返す言葉が見つからなかった。



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