それは気づくべきだったのか気づかないでいるべきだったのか。 黒板の右隅に書かれた自分ともうひとりの名前を、は静かに見つめる。朝教室に入り、机の上に鞄を置いた姿勢そのままで視線を向けた先にあった日直の名前、それは「向日」と「」だった。 (……一緒に日直) 席に座り、ただ静かにその文字を見つめながら日直の仕事を思い出す。それは授業開始と終了の際の号令と日誌の記入にその大半を任せている。男子が号令をかけ女子が日誌を書くことが多かったが、逆に言えばそれ以外の仕事はあまりない。 そこまで思い、は自分が岳人を避けようとしていることに改めて気がつく。 (だって、あれ以上は) そっと視線を右斜め前に向ける。まだ主を迎えていないその席は緩い角度で差し込む朝陽の温もりを受けて、わずかな光の粒子をまとっている。きちんと整えられていない椅子の向こうに箱がぼろぼろになった英語の辞書が見えた。 そこにあるのは、いつもの日常。昨日までであれば、壊れるなどということは無縁だったはずの空間。 「おす、向日」 「よう」 「お前、化学の宿題やってきたか?」 「あ、やべ。まだ途中だった」 けれど、教室の後ろのドアから飛んできたクラスメイトと言葉を交わすその声にが振り返ることはない。岳人がその足でのもとに寄ってくるようなこともない。ただ徐々に増えつつある教室の喧騒に迎えられて、その身体がの視界の右隅に映る。 陽光に照らされて艶を宿すワインレッドの髪。その色が固定されたまま動かない。 鞄の中から教科書を出しながらがそっと視線を向けたその先、岳人は机の上に鞄を載せて立ち尽くしたまま、ただ黒板を見つめていた。 「じゃあ、今日の日直さんお願いしますね」 朝倉の声がこれほど無常に響いたことはない。 はノートに書き込んでいた手を止め、思わず顔を上げる。最後列のクラスメイトによって今回収された古典の文法のノートは、今となっては教壇の朝倉の手元。それを指して朝倉は岳人とにいつも通りの優しい視線を向けた。 (どうしよう) 思わず岳人に視線を向けるも、その背中はもちろんなにも語らない。が動揺を持て余したその時チャイムが鳴り響き、4時間目の古典は終わりを告げた。 はかつての日直の時を思い出す。あの時も古典の授業があり、朝倉のもとにノートを運ぶ役割が日誌以外に追加されていた。それは奇しくも同じ4時間目の授業で、は昼休みを利用してその役割を終わらせることにした。あの時はひとりだった。それは、同じ日直だった岳人が部活の都合で他の教室で昼食をとっていたからだ。そしてノートを運ぶだけならと、岳人に確認することもなくがその役を担ったからだ。 しかし、あの時と今とでは状況がまるで違う。どちらかといえば接触は避けられるものならば避けたい、そう思っていたその時、岳人の名前を呼ぶ見慣れた男子の姿が教室の前のドアに現れた。 「岳人、跡部からの呼び出しや。昼メシもって視聴覚室に集まれやて」 忍足の声に反応したのは、呼ばれた岳人だけではなかった。まるで完璧にタイミングを見計らったかのような台詞を引き連れて現れた忍足に、は目を丸くしながらも過剰反応する心臓の動きを悟られないように努める。 「なんだよ、またビデオかよ?」 「さあ、どうやろな。単に打ち合わせだけとちゃうか」 「俺まだ昼メシ買ってないんだよ、侑士先行ってていいぜ」 「あ、俺もやねん。購買部行くやろ? 俺も行くわ」 そして、あっさりとこの前の風景を目の前に再現してみせた。忍足の言葉に岳人は頷き、財布片手に席を立つ。そしてに視線を向けることもなくそのまま忍足とともに教室を出て行った。 残されたのは、教壇の上の古典のノートともうひとりの日直である。 廊下の向こうにふたりの姿が消えたことを確認してから、は親友に一言を告げてそっと教壇に近寄る。誰の手にも奪われないでその場所に残ってくれていたノートになぜか安心しながら、あの時と同じように抱えもって教室から出た。 食堂や購買部へ向かう生徒の流れと逆流しながら、明らかにクラスメイト全員分には至っていないノートを抱え持って、は職員室を目指した。 (こんな避け方をしたら、余計に関係が悪くなるって。それは分かってるんだけど) けれど今はなにを話せばいいのか分からない。 しかしその続きを言葉にすることにはためらわれた。言葉にしてしまったら最後、まるでそれは言霊の力を借りるかのように危惧が現実となり、そしてますます関係の悪化を招くような気がしてならない。 しかしそれを思えば思うほど、自分たちの関係はその程度だったのかと問いかける声に首を振りたい自分もいる。 本当は自分は、向日との間になにを見つけていたのか。 向日の感情に拒絶反応ではなく戸惑いしか生まれない自分をどう定義していいのか分からないまま、は歩きなれた廊下を渡る。1階にある職員室に向かうための下り階段は目の前だ。かつてこのノートを向日が運んでくれた階段は、もうすぐそこだ。 あの時は、不安や嫌悪などというものとは無縁の本当に恵まれた関係であったのに。 そんなことを思いながら一歩目を踏み出した、その時。 「っ!」 慣れた感覚に任せて目で確認せずに踏み出した一歩目が段を踏み外した。滑る感覚、足元が支えを失った感覚、そして視界が一瞬にしてぶれる感覚。それらをまるで組み立てられたワンシーンの連続のように身体に与えられ、思わずは目を瞑る。 しかし、聞こえてきたのは自分の悲鳴ではなくノートが落ちる音。 身体に与えられたのは、踊り場に転がり落ちる衝撃ではなく左腕をつかまれる圧迫感。 「あっぶね……なにしてんだよ、お前」 目を開けたその先にあったのは、踊り場に落ちていった古典のノートたち。 自分が腕の拘束ひとつで階段の上にまだ立っている。その事実をどう考えればいいのか分からないで絶句している時、耳元で聞き慣れた声がした。そして直後に零れたのは小さなため息。そのため息が自分の左横の髪を揺らしたことに気づき、は慌てて振り返る。 そこにいたのは、岳人だった。 「向日くん……!」 「なあ、階段ぐらい普通に歩けよ。わざわざ最初から踏み外さなくたっていいだろ」 わずかに眉間に皺を寄せながら、岳人はもう一度ため息をつく。2回目は若干安堵の色も込められているように聞こえた。が言葉を返せなくなっていると、岳人はそのまま左手で前腕を掴みながらそっとを廊下へと引き戻した。 また散らかしたか、踊り場を見ながら頭をかく。その言葉の裏には以前の日直の時の光景が含まれているのだろう、もつられて思い出したその時、岳人はなにも言わず階段を降り、そしてノートを拾い集めた。 「……向日くん、視聴覚室に行くって」 「日直だろ。思い出して戻ってきたらちょうどお前がこけそうになってた」 その背中を見ながら、そしてその言葉を頭の中で繰り返しながらは思い出す。 以前は、ぶつかってもその手が自分から伸びるようなことはなかった。忍足に促されるまでただ呆然と見つめることしかできていなかった。日直の仕事にいたっては覚えてもいなかった。 けれど今、その手はなにも言わずにを助け、そしてなにも言わずに日直の仕事に取り組んでいる。 昨日の今日。まだ沈黙に対する恐怖は取れたわけではない、なにを話せばいいのか分かっているわけではない。けれど目の前にいるのは、いつも親友でいた岳人だ。 は階段を小走りで降り、ノートを拾うのを手伝う。相変わらず岳人の手つきは大雑把だったが、ノートを集め終えた時にその手はノートをに返すことはしなかった。ただ無言で全てを自分で抱え持ち、そして職員室へと向かう。 その背中を追いながら、はそっと呟いた。 「ごめん、向日くん。ありがとう」 「なにもしてねえって」 「あと……利き手、使わせちゃって。ごめんね」 「あ? ……ああ、いいよ別に。お前軽いし」 捕まれた左腕が、まだどこか温もりを宿しているような気がする。 自分にとっても大事な左手を見つめてそっと呟けば、岳人は窓の向こうの景色を見つめながらそう答えた。 しかしいざ並んで歩いてみれば、やはりなにを話していいものかは分からない。これほどまでに職員室までの廊下が遠いものだと感じたことはないほどに沈黙が痛い。 なにかを話さなくては駄目だ、その考えひとつでは思い切って口を開いた。 「……向日くん、あの」 「昨日の話はするなよ」 しかし全てを見透かしたように岳人があっさりと言葉を遮った。表情の読めない横顔だけを見つめ、は息を飲む。その瞬間歩幅は狂い、気づけば岳人の背中が視界に入った。 2年間、傍にあったその背中。それがこれほど遠く見えたことはない。 気づけば出会った頃よりもその肩幅はしっかりとした。背も大きくなった、利き手とはいえ左腕だけでを抱え上げられるようにまでなっていた。毎日近くで見ていたその身体は、確実に成長していた。 近くにいすぎると成長が分からないという人もいるけれど、それは嘘だということには気づく。傍にいるからこそ些細なことでも変化が理解できるのだということに気づく。 ただ、それに気づくことができたのは、皮肉にもこれまでの関係の延長線上ではなかったけれど。 「ただ、正直な話を言えば」 その時ふと、岳人が小さく言葉を漏らした。 は顔を上げ、その背中を今一度見つめる。その視線にどこまで気づいてくれているだろう、本当に岳人の心情はにはなにひとつ分からなかった。 「お前が菊丸とふたりで会ってるのを見て、気分が悪かったことだけは確かだ」 けれどその言葉が全てを伝える。表情は見えなくとも、岳人の心情を全て余すことなく伝えてくれている。 息を飲み、はただ黙ってその言葉の意味を己に知らしめる。岳人が嘘を使う人間ではないことぐらい知っていた、嘘よりも飾り気のないストレートな言葉ばかりを使うことを知っていた。ゆえにその言葉は今の岳人の本音、それを知っていた。 冷めた口調に叱責の色を見つけてがさらに黙ると、しかし岳人は首を横に振った。 「でもそれはお前に関係のない話だろ、だからお前が謝ることなんかはなにもねえよ」 「ふたりって……」 文化祭の時か、そう思って尋ねようとしたその時。 「お前が通ってる塾の駅にあるコーヒー屋」 振り返ることなくその一言を呟き、岳人は先に職員室へと入った。 残されたのは、ただ立ち尽くすことしかできないだけだった。 『今不二とテニスコートにいるから。よかったらおいでよ。』 そのメールが届いたのは、学校が終わって逃げるように塾の自習室に駆け込んで2時間ほど経った頃だった。 解けない数学の問題に頭を抱えていたこと、そして心の中にある靄を今は誰にも見せたくなかったこと。断る理由はいくらでも見つけられそうだったが、それを菊丸に伝えることは憚られ結局は1時間だけと時間指定をしたメールを返信をする。難なくその言葉が携帯を通して相手に伝えられたのを確認してから、そっと自習室を出た。 冬を迎え点灯する時間が早くなった駅ビルのライトが、夕焼けの空に煌々と照り輝く。 マフラーを押さえながらその光を見上げた時、の頭の中に岳人の言葉が甦った。 『お前が通ってる塾の駅にあるコーヒー屋』 けして顔を見ず、言葉にすることだけでも気に入らないというように抑えた声で呟いたその言葉。それをもう一度頭の中で繰り返した時、はむしょうに苦しくなった。 女子の中では一番の親友だと。その感覚に驕り昂ぶっていた自分への罰なのかと思うほど、岳人を傷つけたことに対して言葉が出なかった。 あの瞬間、菊丸のことしか考えられなかったことに対する罰であるかのように。 は自分が抱いた感情は偽りではなかったと信じている。あの瞬間、菊丸に対して抱いた感情は恋愛感情として今も胸の中にあることを理解している。 けれどそれ以上に、その感情が岳人を傷つけたことに動揺している自分がいることに気づいていた。 「あ、来た。こっち、こっち」 その苦しさを無視するようにうつむきながらやってきたコートで、菊丸は笑みを浮かべて手を上げた。 今日1日、自分の顔にもましてや岳人の顔にも浮かぶことのなかった笑いの表情というものには一瞬安堵のため息を零し、そっと夜間ライトの輝くコートの中に入る。ギラギラと夜闇を無視して光り続ける照明灯に少し目を細めれば、青学のユニフォーム姿の菊丸が駆け寄って出迎えてくれた。 「大丈夫? 迷子にならなかった?」 「大丈夫。……って、迷子ってなに? 私そんなに子どもじゃないんだけどなあ……」 「いや、夕方だしさ。迎えに行ってもいいかなと思ったんだけど、さすがにこの格好だとね」 「ううん、平気。ありがとう、わざわざ」 菊丸の言葉にはいつもなぜか安堵をもらう。今日もその例に漏れず思わず苦笑を漏らせば、手元から鞄の重みがふわりと消えた。 「座ってていいよ。俺、次対戦なんだ」 菊丸はそう言って、の鞄を持ってコート内のベンチへと案内した。 色々なユニフォームを身につけたプレイヤーの姿にしばし目を奪われつつも案内された4面コートの奥のベンチには、見慣れた不二の顔があった。不二もに気づいて右手を上げ、ベンチの片隅を空ける。 「やあ、さん。こんばんは」 「こんばんは。久しぶりだね、不二くん」 「そうだね、僕も最近塾に全然行ってないし。また来週から行けるようになるから、ノートコピーさせてもらってもいいかな?」 「うん、それはもちろん」 そんなたわいない話をしていると、隣のコートから歓声が聞こえた。菊丸だった。 けして大きくはない身体ながら、コートの四隅まで素早く移動することができるそのプレイの仕方に、は一瞬目を奪われる。コートの中に立つ時の彼はの顔は真剣そのものだ。ただ、時々なにかを思い出したかのように笑い声を上げて笑みを浮かべる。その繰り返しのさなかでの歓声だった。 「菊丸くんって、テニスをする時はいつもあんな感じ?」 そっと問いかけると、横に座っていた不二は苦笑しながら頷いた。 「そうだね、基本は試合中の方が真面目なんだけど。でも最近は悩み事が吹っ切れたみたいで、その反動からかテニスの最中もあんな感じだよ」 不二の言葉を知ってか知らずか、菊丸はまた声を上げながらボールを追っていた。自分のコートの中に入ってくるボール、それらひとつひとつに対する反応がテニス素人のにも分かるほどに俊敏性に長けていて、その素早さを見てふと琴子は思い出した。 岳人と菊丸が似ていると感じたのはいつだったか。それは菊丸に出会った時から続いている感情で、けして真新しいものではない。しかし当初それは菊丸を評価するために用いられる条件であって、そこに存在する岳人は基準のひとつでしかなかった。 けれど。 (……向日くんも、いつもああして笑ってたなあ。私が褒め言葉を言うと、バカにするくせにでもちゃんと嬉しそうな顔をしてくれた) 甦ってくるのは氷帝のコートに経つ岳人の姿。菊丸よりも小さな身体でコートの中を走りぬける姿、外見からはあまり想像できない低めの声で叫ぶ姿。 2年間見つめ続けてきたそれを今更ながらも思い出し、けれど同時に今朝の出来事も思い出し、は視界から菊丸を消してそっとうつむいた。その時。 「英二!」 コートの中に響いたのは、知らない女子の声。 その声が呼んだ名前が菊丸のものであったことに驚いて顔を上げると、コートの中の菊丸も目を丸くして入り口を見つめていた。その視線の先を追っていけば、そこにあったのは青学の制服を着た女子の姿。 彼女はの視線に気づくはずもなく菊丸に手を振り、試合が中断したことを確かめてから菊丸のもとへと駆け寄った。 「うわあ、本当に部活が終わった後も練習してたんだね。噂には聞いてたけど、びっくり」 「なんでここに?」 「私の家がこの近くなの。それでたまたま通りかかったら、英二の姿が見えて。だから来ちゃった」 ふふ、と笑いながら答える彼女に菊丸は頭をかき、対戦相手に謝ってからコートの外へと出る。そしてベンチへと移動しながら、彼女の話に付き合って相槌を丁寧に打っていた。時折こちらに向ける視線には気づいていたが、しかしがなにかをできるわけでもない。 ただ心の中に、少なからず動揺の素振りを見せる嫉妬の感情があったこと。それを不二に気づかれないようにすることに精一杯だった。 「英二の友達だよ。中等部からの」 そんなの心境など見透かしていたのか、説明口調で不二が呟く。は不二に視線を戻し、その言葉に他意がないことを知って小さくため息をついた。 「……そう」 「英二、ああいう女の子からやけに人気が高いからね。邪険に扱わないでいるのがその一番の理由だと思うけど」 「ああ、それはなんとなく想像できるかも」 「英二のことが好きな子もいるよ。ただ、本人たちが言葉にしていないだけで」 でも彼女の場合は違うかな、と淡々と分析しながら不二が呟く。 その呟きに促されるようにがそっと視線を隣のコートのベンチに向けると、少なくとも初対面のの目にも友人関係には見えない距離を保ったままでその女子が菊丸に声をかけていた。 「ねえ英二、私やっぱり今度の練習試合応援しに行くことにしたから」 「え!」 「なによ、いつも行ってたじゃない? それに氷帝が相手なんだもの、青学の強さを見せつけられる時に見に行かないと絶対に損だと思って」 「あ……ああ、まあ、いいけど」 「やった! ありがとう」 それは見れば見るほど、彼女の恋愛感情を突きつけられる場面だった。 視線の向け方、言葉の作り方。菊丸の言葉に対する一喜一憂の仕方。そのどれもが、分かりやすい。ひとつの感情をもとにして今彼女の全生活が成り立っているのだということを教えられる。 しかしそのの考えを読んでいたかのように、不二が苦笑し再び会話を始めた。 「あの子はね、前から英二のことが好きだったんだ。でも英二がずっとあんな感じだったから、今はそういう感情は抱かないようにしてるみたい」 その言葉に敵意はなかったが、唐突すぎる内部事情にが目を丸くすると「本人に聞いたんだよ」と弁明の言葉が返ってきた。それを淡々と公表してしまう不二に驚きはしたが、しかしこうして赤の他人であるにもその内容を平然と言えるのを見ると、それは青学の中ではもはや公認の事実に近いのかもしれない。改めて菊丸が女子との繋がりを多くもっている事実を教えられながら、は不二の言葉に耳を傾けた。 「彼女になれなくても、友達でいられるならそれでいいって考えたみたい。まあ、あの子だけじゃないとは思うんだけどね、そんな考えになったのは」 「……そうなんだ」 「それでもああいう行動になっちゃうのは、やっぱり不安だからなんだと思うよ」 「え?」 「友達だからって、英二に彼女ができたらそのままでいられる保障はどこにもないからね」 静かに、けれど冷静に。まるで自分は無関係であるかのように。けれどう確かな確信に満ち溢れた口調で不二が呟く。 ただなぜこの場で不二がそのような台詞を口にするのか、には分からない。そして岳人という親友をもつ身としても、それがたとえ一つの論として存在しているとしても全体に通じるものではないということを、は思う。 思わず眉根が寄ってしまった自分に気づきながらも、は反論を口にした。 「……菊丸くんは、そんなことで友達を見捨てることはないと思うけど」 「うん、確かにそうだと思うよ。でも、それが無意識のうちに態度に出てしまったら話は別」 「 「それをあの子がプラスかマイナス、どちらで捉えるかでも話は別。でも僕は英二にはそんなことは気にしてもらいたくない、今度こそ」 「……不二くん?」 「だから、さんがもし英二のことを好きになってくれたんだったら」 突然の言葉に琴子が息を飲む。予想外すぎるその言葉に返すものはなにもない。 「あの子には悪いんだけど、ああしていつも他の子に気を遣わなくてもいいぐらい、英二がきみのことを好きになるようにしてやってほしい」 そしてその沈黙を見透かしていたかのように、不二は小さく。けれどが聞き逃すことなど絶対にできない強さとスピードで、そう言ったのだった。 それは、喜ぶべきなのか喜ばざるべきだったのか。には分からない。 視線を戻せば菊丸はまだ同級生の相手をしている。その視線に込めてしまう嫉妬の感情があることは、自分自身否定できない。その感情の手前、不二の言葉はなによりも強い味方となる。 けれど。 (……友達のことを気にならなくなるほど、好きになる……?) 頭の中に浮かぶ岳人の存在を否定できるほど、この2年は甘いものではなかった。 どちらの感情に比重が傾いたのか、それは分からない。むしろ双方がない交ぜになってなにもかもを見つけられなくしてしまっているという方が正しい。 はぎゅっと下唇を噛み締め、一度頭を振る。そして、小さく呟いた。 「……ごめん、不二くん。私帰るね」 「さん?」 「ごめんね、せっかく誘ってくれたのに」 不二の表情を確認せずに立ち上がったが、その動きに菊丸がすぐに気づいた。なにか一言二言を言い残して彼女のもとを去り、のもとへと駆け寄る。近づいてくる菊丸の向こうに、あからさまにこちらに嫉妬の感情を見せる姿が見えた。 (……そうだよね、私でも嫌だもの。好きな人が他の女子のもとになんか行ったら) けれど嫉妬を向けられたことに対して嫌悪感を覚えないのは、その感情ひとつのおかげ。どこか怒りよりも同情(それは彼女には失礼極まりないものでしかないとは分かっていたけれど)の念を抱き、はただ静かにその表情を見つめる。 しかし、その時。その顔がふっと寂しげな色を宿す。 はその一瞬の変化に言葉をなくした。近づいてきて申し訳なさそうな顔を浮かべる菊丸よりもその表情に目を奪われ、そして身体の中を一瞬で駆け抜けた衝動に思わず鞄の取っ手を強く握り締める。 「ごめん、せっかく来てくれたのに」 「あ……う、ううん、大丈夫」 「……駅まで送ろうか?」 「……ううん、いい。練習して、もうすぐ試合なんだし」 菊丸への挨拶もそこそこに。でもけして顔は見ないで。 は収まりきらない衝動の余波に必死に耐えながら、そのままコートをあとにした。 振り返り、菊丸の表情を確認することすらできないままに。 陽は暮れ、道路を行き交う車のライトが眩しい。駅前でありながら狭く設計されてしまったという特性のため、クラクションが鳴り止むこともない。そのように目にも耳にも痛い道路の横の歩道を、けれどそれらに気を取られることもなくは駅までの道のりを駆け抜ける。 (私は菊丸くんのことが好きだけど、でも) 思うのは、ただひとつだった。自分の焦りに問いかける言葉は、たったひとつでよかった。 今自分が感じてしまった嫉妬の感情を気づかぬうちに岳人に抱かせてしまったことか。苦しませてしまったことか。 それとも、岳人に彼女ができた場合には、その彼女に自分は邪魔な存在だと思われてしまうことか。 いや、違う。切れた息を整えることもなく、うっすらと額に宿った汗を拭うでもなく。首に巻いたマフラーを久しぶりに暑苦しいものだと感じながら、琴子は駅ビルを見上げる。 昨日までは幸せしか見つけられなかったその場所を見上げることが、苦しい。 (向日くんは、彼女ができたら私はいらなくなるのかな) 不二の言葉を、味方として捉えることのできない自分を持て余す。 しかし確実に恋愛と親友関係は別物だと感じていたからこそ立てられた仮説は崩れる。岳人が選んだ彼女は岳人が本当に大事にしたいと思う子だと、親友の立場を利用して勝手に想定していた心が揺らぐ。 親友関係に抱いてはいけない独りよがりを持ってしまったことに、言葉は消える。 (……向日くんとの間に、恋愛は関係ないって。親友関係だけだって。私、自分でも言ったはずなのに) 文化祭の時の親友の言葉を思い出しながら、そっと心の中で呟く。 岳人に彼女ができたなら。もし今それが現実のものとなったならば、冷静に対応できる自信があるとは言えなくなってしまっていることに気づいて、はただただマフラーが風に飛ばされないように首もとで押さえることしかできなかった。 |
≫12.懐古すべきか |