「向日」

 自分を呼ぶ声がする。その声の持ち主は、今まさに自分が探し求めていた人物の声だ。
 しかし岳人は立ち止まったまま動けない。混雑する店内の中で注文をするわけでもなく、ただはずそうとしたマフラーに手をかけたまま呆然とその様を見つめることしかできない自分がいた。

(なんで)

 その質問に答える人間はいない。ただ目の前にある光景、それが事実でありそれ以外のなにものでもないと教えられるかのように。
 ひとつの小さな円卓テーブルを囲み、お互いわずかに距離を近づけて。そして顔に笑みを浮かべながら、岳人の存在に気づくこともなくそのふたり   と菊丸は、ただただ言葉を交わして笑っていた。

「……なんでこんなところに呼ぶんだよ、跡部」

 苛立ちを隠すことなくぶつければ、跡部の眉間に途端皺が寄る。見覚えのある文字が並ぶプリントに書き込みをしていた右手のボールペンは動きを止め、つまらなさそうに一度だけ息を吐いた。

「俺は忙しいんだ。暇を持て余すお前らが俺に付き合った方が効率がいいだろ」
「効率とかそんなので人を呼び出すのもどうかと思うぜ、俺は」
「まあまあ。ええやろ、さっさと済ませてしまおうや」

 忍足に目で促され、岳人は渋々空いていた残りの椅子に腰掛ける。跡部と忍足の手元にはそれぞれホットと思しき紙コップが置いてあったが、たとえ手持ち無沙汰となろうとも岳人は立ち上がって注文をしにいくことなどできなかった。
 同年代の客でにぎわう店内が、やけに忌々しい。目の前で平然とコーヒーを飲む跡部の冷静さが苛立ちばかりを招く。顔をそちらに向けさえしなければあのふたりが視界に映ることはない、それだけが救いと言えるこの状況を楽しむ余裕など岳人にはどこにもない。

「今度の練習試合のことやて。俺ら引率らしいで、岳人」

 岳人の不機嫌の原因に気づいているのだろう、忍足が話を振る。
 それは慰めにすら聞こえる忍足の何気ない言葉だった。しかし、それすら岳人の耳には届かない。

(なんで。どうして)

 その言葉を繰り返すことだけが今できる精一杯だった。
 招かれた席は菊丸にとっては背後、にとっては右方の奥まったところにあった。岳人がむやみに注意を向けていなくとも、向こうからはこの席は分からない。いや、が視線を動かしさえすれば十分視界に映ることは可能な場所ではあったが、その心配がないことに岳人は気がつく。菊丸が振り返る素振りも、ましてやの視線が他所に向かう様子もまるで見られなかった。
 岳人は拗ねた子どものように頬杖をついて、視界からふたりの姿を消した。

「にしても、なんで今回は俺らが引率やねん。いつもみたいに跡部が仕切ったらええやないか」
「バーカ、何度も言わせるんじゃねえよ。俺は忙しいんだ、雑用はお前らで回せ」
「忙しい言うても、どうせ当日は一緒に行くんやろ? それやったら俺らに任せても意味ないんとちゃうか」
「俺は先に青学に行く。だからお前らでまとめてやってこいって言っているんだ」
「は? なんや、手塚と雑談かい」
「雑談としか言うことのできないお前らの頭に付き合ってやる気もさらさらねえ」
「じゃあ世間話か」
「……」

 忍足の言葉に跡部が再び不機嫌をあらわにする。岳人が話を素直に聞く素振りを見せないこともその苛立ちの手伝いをしてしまっているらしく、円卓テーブルの下で忍足に軽く足を蹴られたが、しかし岳人は頑として跡部の顔を見ようとはしなかった。その方角にはあのふたりの姿があるからだ。
 跡部の冷めたような怒ったような視線と、そして岳人の不機嫌な顔と。それらを見つめていた忍足は小さくため息をついたが、そのため息で沈黙が埋まるほど場面は忍足に優しくはなかった。

「じゃあな、伝えたぜ。しっかり働けよ」

 卓の上に出していたプリントを忍足に預けて跡部が席を立つ。声は明らかに岳人に向けられていた。しかし岳人がやはり視線を向けないので、忍足が慌てて沈黙の中に自分の言葉を投げ込む。

「無賃労働をさせるとは、俺らの部長も大したもんや」
「心外だな。減らず口をきく前に暇人に任務を与えてやったことに感謝しろ」
「なんやそれ。あ、そや。もう向こうのオーダーは決まっとんのか?」
「ああ、この前不二を通して聞いた。中学の頃と大差ねえよ」
「それやったら、俺らの相手は……」
「ダブルス1か。決まってるだろ、大石と菊丸だ」

 それじゃあな、という言葉だけを残して跡部は背中を向けた。夕方6時半を回っても混みあいの空く様子を見せない店の外に跡部の姿が消える。なんで塾なんか通っとんのやあいつ、そんな忍足の呟きに別の意味で反応して岳人はようやく顔を上げた。
 跡部の消えたその向こうに、その姿はまだあった。目の錯覚ではないかと願ってしまいたくなるほど色鮮やかにくっきりとした色彩を視覚に訴えて。
 岳人は言葉の出てこない唇をそのままに、今頃になって手持ち無沙汰が嫌になる。言葉がでてこない煩わしさを隠してくれる飲料さえ手元にあれば、不機嫌だけを跡部に拾われることもなかっただろう。しかし今更になってしかそう考えることのできない自分に、結局は瞳を伏せがちにしてため息をついた。

「跡部に悪気はないとはいえ、タイミングとしては最悪やな」

 静かに呟く忍足のその言葉に抑揚がないこと、それがせめてもの救いだった。
 岳人は再びそっと顔を上げ、誰にも見つからないように視線を右方向に運ぶ。目立つ色合いの氷帝学園の制服を着たの姿はすぐに見つけられる。しかし同じ制服を着た岳人と忍足の存在には、その瞳は気づかない。
 歯痒さか。苛立ちか。その感情に名前はつけられない。どのように定義すべきかも分からないまま、ただ目をそらしたいのにそらすことができなくなっていた、その時。

「気づくん遅すぎるで、岳人」

 コーヒーを飲みながら淡々と、忍足がそう静かに呟いたのだった。
 頬杖をついたまま、岳人は視線だけを忍足に戻す。親友はその表情ひとつ   それすら眉ひとつ   動かさないまま、なにか当たり障りのない景色を見るかのように視線を店内の窓際の席へと向けていた。言うまでもなくその先にはあのふたりの姿がある。自分はこれほどまでに苛立ちに似た感情を覚えるのになぜこの男はこれほどまでに平然とした表情を浮かべられるのか、その冷静さが逆に忌々しさすら覚えさせる。
 そんな岳人の心中など全て見透かしているだろうに、けれど忍足はその表情をまったく崩さないまま、そして本当に他人事のように淡々とした雰囲気のまま言葉を繋ぎだした。

「岳人、お前なんであん時気づかへんかったんや。お前が悪いで、これは」
「……あの時?」
「コートの裏であいつがお前に菊丸のことを知っとるかて聞いてきた時や。覚えとるやろ?」

 その言葉とともに、眼鏡越しの忍足の細目がようやくこちらを向いた。
 真っ直ぐに、けれど静かに見つめる忍足の視線をまともに受けて岳人は疑問符のついた言葉すら用意することもできず、ただ必死に「あの時」を思い出した。
 それは、冬のテニスコート。左手にラケット、右手にボール。耳には馴染んだ跡部の声、肌には誇りをくすぐる氷帝学園テニス部のユニフォーム。
 そんな中で、いつもと変わらぬ顔で出会って会話した、あの瞬間ののことを。
 岳人はそっと視線を向ける。相変わらずと菊丸がこちらに気がつく様子はない。跡部が既に塾へと向かったのに対し、は時間のことなどまるで忘れてしまっているかのように時計よりも菊丸の顔を見ては笑い、言葉を口にしていた。
 見慣れた顔が妙に知らないものに見えて、岳人は思わず下唇を噛み締める。忍足がそれを見て再びため息をついた。

「……先にあいつが会ったんは、不二やったんやろ? その意味をなんであん時考えんかったんや」
「なんだよ、それ。そんなこと今更   
「アホ、まだ言わす気か」

 言葉を遮られた瞬間、それは。
 忍足が呆れた表情よりも哀れみが見え隠れする表情を浮かべた、その一瞬。

「なんであん時、はお前に不二のことは聞かんかったんや。なんで菊丸のことを先に聞いたんや。菊丸のことだけ、聞いてきたんや」
「それは……」
「あいつにとって、その段階でもう不二と同列なんかやなかったんやろ。菊丸は」

 重くのしかかるその言葉に沈むのは、肩か心か。もはや視線を動かすことも岳人には敵わなかった。
 時間を置くこともなく言葉が胸に沈み込む。オブラードのような優しさも同情も、ましてや遠慮もしらないその言葉が真っ直ぐに心の奥底に大きな重りを伴って沈み込み、呼吸をおかしくさせる。息をつまらせていることに気づいた時、ようやく岳人は息を吸う。けれど曇った視界も思考回路も晴れることなどまるで知らない。
 なにをしたいのか。なにが言いたいのか。分からなくなる感覚に目が泳ぎかけたその時。

「で」
「……え?」
「なんで今自分がむかついとんのか。その理由は分かっとんやろな?」

 酸素をたまらず欲したその時の忍足の言葉には、もはや呼吸の仕方すら分からなくなっていた。
 普段であれば無意識のものを意識しなければならないほど、自分がなにかの感情に支配されていた。





 なるべくならば触れたくはない。あの日の感情を思い出したくない。いまだかつてに抱いたことのなかった、あの恋愛に独特の感情によく似た思いだけは。
 思い出してしまったら最後、自分がこの先も変わらぬの親友でいられる自信はない。
 しかしその直感を信じて疑わず、忌避の感情を隠せないでいる時の偶然というものほど嫌味に思えるものはない。

「あれ、向日くん。今帰り?」

 そこは昇降口。授業を終え、夕暮れを迎える寸前まで時間を潰してから自分の下駄箱の前に立ち、スニーカーに手をかけた瞬間にその声は背中から飛んできた。
 振り返らずともそれが誰なのか分かってしまった岳人は、瞬時にこの偶然をとことん呪い倒してから顔を向ける。そこにはもちろん物珍しそうな、けれどその中に小さな嬉しさを表情にしてみせるの姿があった。

「……おう」
「珍しいね。部活がなくてもいつもコートに寄ってたのに」
「……今日は、ちょっと」

 そうなんだ、とは岳人の言葉にさして疑問も抱かずに頷く。その平素の雰囲気を持ち合わせるに岳人が言葉を失った後、は戸惑いを探す一瞬すら与えずにその言葉を口にした。

「ねえ、途中まで一緒に帰らない? 駅まで」

 親友を避け続けた今日1日。自分勝手としか言いようがない感情の定義を先延ばしにし、自ら勝手すぎる距離を取ってしまった岳人を咎めるでも見捨てるでもなく、極めて普通に。いつも通りに。
 そのの言葉に頷いてしまった瞬間、岳人は自分がいかにこの日常に依存していたのかを改めて痛感させられた。

(単に貴重なだけ、それでいいはずなのに。それ以上は)

 大切なものにさらに高価な価値を必要以上に付加させていくと、結局は自分がその価値から離れられずに自滅する。それが分かっていながら、今まさにその現状に近づきつつあることを理解していながら、岳人はの言葉を否定することはできなかった。存在を拒むことはできなかった。
 雪こそ降らねど、既に季節は冬。昇降口を出た瞬間に肌を刺す北風に一瞬瞼を閉じてから岳人はと並んで正門を抜け、正門前から続いている並木道を歩く。最寄り駅からさほど離れていないこともあって、閑静な住宅街の中にある氷帝学園の生徒はその多くがこの道を通って毎日の登下校をする。電車通学の岳人ともその例に漏れず、若干寒々しくも見える枯れ木を見上げながら冬の夕焼けの空の下を歩いた。

「久しぶりだね、一緒に帰るの。夏休み明け……ううん、こうして帰るのは春以来?」

 日常を愛でるようにが笑う。その雰囲気に岳人はいつのまにか昨日、そして今日の感情を忘れていった。

「部活が忙しくない時期なんて、そんなにないもんね。それに大会とか関係なしで、向日くんはいつもテニスコートにいるイメージ」
「悪かったな、テニスバカで」

 心にもやをかけさせる原因さえ忘れてしまえば、あとは簡単だ。
 思わずいつもの調子でむっとして呟くと、風に髪を遊ばせながらくるりとは振り返る。

「そうだね。羨ましいと思えるぐらい、テニスのことが大好きな人だね」

 駄目だ、と誰かが言う。頑ななまでに今日一日という時間を抜きで過ごそうとしてきた自分の意思を、誰かがあざ笑い、そしてそんな無理は不要だと通告された気分になる。
 岳人は考える。今までの日常を形成するものに囲まれた状態で、そっと考える。

(やっぱり、こいつをなくすのは無理だ)

 昨日抱いた感情を究明することよりも、今日感じる日常がいかに大切であるかを知る。
 それに依存して今までという時間が流れてきたことを知る。

「よし、今日もおだてにのってやるよ。なんだよ、なにかおごってやろうか?」
「あれ、今日は気前がいいんだね? どうしたの?」
「バーカ、本当は俺はいつでも心の広い男なんだよ」

 その一言を用意するのはとても簡単だった。ああ、自分にはこの方が合っていると考えることも簡単だった。
 岳人のいつも通りの台詞には苦笑する。

「でも、向日くん以外にもそういう人っているんだよね。テニスで。私、びっくりした」

 しかしその時、会話は急に動いた。
 岳人ははっと息を飲む。つい先ほど感じたばかりの平穏が一気になにかに侵食されたことに気づいて。

「……菊丸?」
「そう。すごい、分かった?」

 そっと尋ねれば、は瞬時に頬を緩める。先ほど自分の目の前でしてみせたものとは種類の違う笑みを浮かべる。
 自分の知らない笑み、それは愛でるべき日常を壊すもの。
 岳人は自分の不機嫌をそう位置づけ、会話の流れにのらないことにした。

「全部が似てるわけじゃもちろんないんだけど、部分的にね。よく似てるよ、本当」
「バーカ、似てるなんて言われたこともねえよ」
「そう? あれ、テニスのプレイスタイルは似てるって言ってたの、向日くんだよ?」
「それはテニスに関してのことだろ? なんで他の部分まで似なくちゃならないんだよ」
「あ、そうか、そうだったね。でもね、他の部分でも似てるところはあったんだよ」

 ふと思い出したように、はまた柔らかい笑みを浮かべた。その目は岳人を見ない。そしてその顔に浮かべたのは、あの雪の日、岳人が初めて見たの表情とまるで同じだ。
 嫌な予感を抑えきれないまま、岳人は冷静に言葉を繋ぐ。

「……他?」
「うん、他。あの人の場合、すごく性格で損をすることがある。この前彼女の話を聞いた時にそう思った」
「彼女? あいつ彼女いんの?」

 思わずその言葉に過剰反応すると、しかしはあっさりと首を横に振る。

「ううん、今はいないって。とうか、いつもすぐ別れちゃうって」
「……あ、そう」
「でも話を聞いたら納得したよ、それは菊丸くんが悪いわけでも彼女が悪いわけでもない。なんだか、すれ違いばかりしてかわいそうだった」

 いつものように淀みなく、けれど一定のプライバシーのラインを設けてが話をする。菊丸の感情には一切触れず、ただ事実で差し障りのないものだけを言葉にして話すというそのの気配りに、今ばかりは妙な苛立ちを覚える。
 そして岳人は、静かにその話を聞いている素振りを見せながら怒りにも似た感情を持て余していた。昨日、あの店で抱いたものとなんら変わりないその感情を。

(気づけよ、菊丸がなにを考えているのかぐらい)

 苦悩を理解してくれる相手が今目の前にいて、なぜ下心がないなどと言えるのか。それではまるで、暗ににその座を渡したいと伝えているようではないか。
 真偽のほどは分からずとも、岳人は指定鞄の取っ手を掴む右手に力が入ったことに気づく。目の前にちらつくあの忌々しいまでの顔に吐き気がしそうになることに気づく。それは明らかに嫉妬の感情だった。
 ああ、と。なぜこの目の前の相手にこの感情を抱かなければならないのかと岳人は自分に呆れるのと同時に。日常にこんな感情はいらないと、十分承知しているのと同時に。
 けれど、今その感情を我慢できない自分にも気づかなければならなかった。

「……それで、お前はなんて答えたわけ?」

 嫉妬の感情を必死に堪えながら、抑揚のまるでない妙な声で尋ねる。しかしはその異変に気づく様子もなく、一度ゆっくりと瞬きをした後に答えを口にした。

「私? 今向日くんに言ったことを伝えたよ、言葉はちょっと違うけど」
「なんだよそれ、お前はなんでそれが分かったんだよ」

 問いかけに、は黙る。しばらく逡巡したのち、そっと瞳を上げて。

「向日くん」

 冬の風に消えそうな、けれど確かな響きをもってそう呟いた。
 岳人は息を飲む。やけにも近い感情でぶつけた問いかけに対する答えに、まさか自分の名前が出てこようとは思いもしなかった。
 しかしそれが喜ぶべきものなのか、迎え入れるべきものなのか。それとも拒絶すべき予兆だと感じるべきなのか、それは分からない。複雑さは度を越し、言葉を形成することを放棄させる。
 しかしそのような岳人の心境など、もちろんは知らない。そしてそのまま、頬をかすかに緩めて。

「向日くんに彼女ができたらって考えたら、それは私とは違う存在だから。だって友達を大切にする人が選んだ彼女なら、それは本当に大切で大好きな彼女でしょ?」
   
「そう思ったから。だから、菊丸くんが考えていることもすぐに分かった」

 冬の冷たさは、いずこかへ消えていた。岳人は目を見張る。
 なぜ自分のことを冷静に客観対象として分析することができながら、菊丸にはそれに同情のような感情を込めるのか。自分が嫉妬を抱くような感情を菊丸に向けるのか。
 その問いかけを本人にぶつけることができないまま心の中で反芻したその時、岳人は思い知る。
 そのことに関して、に反応する理由がないからに他ならないという事実に。
 それは自分たちの日常として、なんらおかしなことではないという事実に。


「え? なに?」

 真っ直ぐに駅の方向へと向かいながら、ただ顔だけを振り向かせて反応するに岳人は思い知らされる。そして。

「お前、菊丸のこと好きだろ」

 冬風を見送りながら尋ねたその時、の足が止まった。
 クラクションの鳴り響く音が聞こえる。街の喧騒はすぐそこだ、寒さをしのげる駅まではあと少しの距離しかない。けれど岳人とは裸の木々が寒々しい並木道の途中で足を止め、そのまま動かなかった。
 互いのマフラーが揺れる。耳を襲うのはそれがはためく乾いた音、岳人はただじっとを見つめる。
 その先の答えに、なにを求めていたのか。本当は分からないままだったにもかかわらず。いや、聞きたくないと願う心がどこにあったにもかかわらず。

「……そんなこと」
「ないって言えねえんだろ?」
「……」

 言葉を濁すをたたみかけるように、自ら答えを導かせようとする。
 そうすることで、本当は否定の言葉を自身の口から聞きたかったのかもしれない。あとから考えればそうに違いかなかったのだが、しかし。

「向日くんにそう言われちゃったら、やっぱりそうなんだよね。ううん、分かってたんだけど、でも」
「……」
「私より私のこと知ってるもんね、向日くん」

 返ってきたのは、小さなはにかみと肯定の言葉だけだった。
 そしてその肯定の答えを導き出したのは、結局は自分の態度だった。
 岳人は鞄の取っ手を強く握り締める。マフラーの中に隠れてしまった下唇を噛み締める。鉄の味がする、そんなことを気にする時間はあったはずなのに、その余裕はなかった。

「……だってなあ」

 気づけば小さく呟いていた。風にさらわれてもなんらおかしくないその小さな呟きに、恥ずかしさからか前を向いていたがそっと振り返る。その瞳に不思議の色を宿して。
 手のひらは痛く、唇は寒さか痛さからかわずかに麻痺を訴える。冬風にさらされる頬は既にその領域だ。けれど。

「俺だってなあ!」

 そう叫んだ瞬間、自分の心の中を支配していたのはたったひとつの嫉妬の感情。
 自分とてに負けることのない恋愛感情を抱いているという本音、そのもの。
 しかし沈黙の中、岳人ははっと顔を上げる。目の前のは目を丸くし、ただただ唖然としている。その表情に、自分はたった今親友関係のルールを破る一言を口にしてしまったことに岳人が気づいた時、の表情から驚きの色は消えた。
 残されたのは、全てに気づいてしまった動揺の色。

「……悪い、今の関係なし。忘れて」

 必死に自分を保ちながら、けれどその表情に勝てることなどできずに本音にもないことを口にする。
 そして岳人はそのまま、を置いて踵を返した。あとは夕闇を待つばかりとなる並木道を逆走し、人気のない学校へと戻る。たどり着いた学校、そこは自分がと出会うことができた場所であり、大切な親友を見つけられたことに感謝すべき場所でもあった。
 しかしその校舎を白い吐息とともに見上げ、岳人は心痛の表情を浮かべる。

(……俺だって、なんだよ。なんなんだよ)

 自分の方がルール違反を犯していることには気づいている。
 自分が愛でていたはずの今までの関係を、日常を壊していることにも気づいている。

(なんでお前は、俺のことは分からねえんだよ。菊丸のことは分かって、俺のことは)

 そうさせていたのが日常関係だということ。日常の中にその感情は不要だと、先に定義をしていたのは自分の方だったこと。今自分が抱く思いは、八つ当たりでしかないこと。不毛すぎる憤りでしかないこと。
 それらの事実を理解しながら、けれど岳人は。

(俺だって、好きだったんだ)

 その言葉を胸の中で呟くこと以上にできることなど、今の自分にはなにも残されていないことに一番気づいていた。



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