文化祭を終えると周囲は一気に冬本番、2学期の学業の追い込みである期末テストさえこなしてしまえばあとは冬休みを待つばかりである。
 怒涛のようにすぎたこの数週間、は塾に行くことこそあれど不二と会うことは稀だった。数日前の英語で一緒になった時に「今は部活が忙しくて」と笑顔でさらりと言っていたが、岳人の様子を知っているにはとても分かりやすい一言だった。
 けれど、不二と会わないということは必然的にもうひとつのことも意味する。

(あれから会ってない。……今日も会えないのかな)

 塾の最寄駅に降り、人通りの多いコンコースを抜ければ途端に冬の風が肌に直撃する。思わず目を閉じてマフラーの中に口元を隠せば、あとは手のひらと足、そして頬の冷たさばかりが際立って感じられて余計に寒かった。
 一度小さく息を吐き、そして見上げる。コンコースを抜けて西出口に出れば、塾の校舎はすぐに視界に飛び込んでくる。7階建ての大きな校舎まで、たった一本の道路とひとつの横断歩道を挟んでいるだけのはずなのに今日はやけに遠く見えた。
 は寒さを堪えて歩き出す。ビルの合間からやってくる風にマフラーを飛ばされないように押さえながら、早く青になれと歩行者専用の信号を見つめながら。
 ただ静かに、ひとつのことを思っていた。

(……図々しかったかもしれない、あんなの。いくら似ていたからって、全部が向日くんと同じだなんてことはないはずなのに)

 の頭の中を占めるのはそのひとつだった。あの日、自分が口にした言葉はその時こそ真実だと思ったが、しかし時間が経てば経つほど自信がなくなる。むしろ礼儀に欠けるものではなかったのかと心配することの方が簡単だ。
 そんな中でも、情けなくも思い出すのは文化祭1日目の午後、講堂前。薄暗いホールの中でジャズコンサートを堪能した後に安い紙コップのストレートティーで暖を取り、ただ静かに太陽が乳白色から茜色へと変化するのを見つめていた、あの菊丸とふたりきりの空間。
 思い出すこともそれに浸ることも簡単で、テスト勉強中も幾度それにとらわれたのか、数えることなど不可能だ。むしろ思い出すことのどれほど簡単なことか。またいつものように頬が熱くなりそうな感覚をマフラーの中に隠した下唇を噛み締めて堪えながら、信号が変わったことを確認しては横断歩道を渡りだした。
 一歩、ともに見た夕暮れ。二歩、隣に並んで聴いたジャズ。三歩テニスコートで見たテニスをする姿、四歩食堂でかわしたたわいない、けれど笑顔の絶えない会話。
 五歩、白い息を吐いて冬の夜空を見つめていた、あの横顔。
 は足を止める。既に横断歩道は渡り終えていた。五歩目で思い出した菊丸の横顔を思い描いたまま、塾の前まで足を運んでいた。身体のどこかが温かくなることに思わず頬が緩んでしまうのを堪えながら。
 そんな時だった、足を止めてしまったのは。

(うそ)

 何度も目を瞬かせる。視界の左右を見慣れた制服が通り過ぎ、傍近くまで来た校舎の中へと消えていく。その背中を見つめたまま、いや正確には見送るがまま。はいまだ自分が見ているものを信じることができないままに、その光景にそっと近づく。

「……菊丸、くん?」
「わっ!」

 そして、初めて会ったあの日と同じ横顔にそう呟けば、相手は突然の声に目を丸くした。
 小さく息を飲み、そして自分を見上げる視線を真正面から受け止める。それがであることにはすぐに気づいていたが、言葉が口をついて出てこないようだった。それは話しかけたとて同様で、しばらくは目の前の現実に不思議さを覚えながらの沈黙が続いた。

「あの……どうしたの、こんなところで? 不二くん待ち?」
「え、あ……いや、そういうわけじゃなくて」

 歯切れの悪い言葉にがわずかに首を傾げると、英二は気まずそうに一度髪をかき乱す。綺麗に左右に流されていた前髪が少し崩れ、さらりと一本、二本。額に落ちて、それをのけるために長い人差し指が伸びる。
 些細なこと。日常生活における、それは些細すぎる行為だった。けれどそれを見逃すことなく見てしまっている自分がいることに気づくと、は沈黙を埋めるための言葉を用意することができない。
 やがて、その沈黙に先に屈した英二がそっとを見つめる。

さんに聞きたいことがあって。まだ授業じゃないだろ? ちょっと、時間もらえない?」

 その一言にが頷くことは、さして難しいことではなかった。





 菊丸を連れてやってきたのは、いつもの塾の食堂ではなかった。は菊丸の了解を得た後に先ほど来た道を引き返し、駅ビルの中にあるコーヒー専門店に向かった。
 途中、見慣れた場所がいつもと違う場所に見えた。冬風の通過を許すコンコースや、遠く駅周辺を一望できるガラス張りのエレベーター、そして既に行き過ぎの域に入ってもおかしくない店。それは文化祭の時にも感じた感覚だった。そしてはその理由を知っていた。
 違う場所に見えるのは、自分よりも頭ひとつ分近く背丈の異なる人が隣にいるからだ。自分がいつも見慣れている氷帝学園とは違う、青春学園の制服に身を包んだ人が隣にいるからだ。
 ふたりで歩くことに周囲の視線を気にするのは初めてのことかもしれない、そんなことを考えてしまっていることは菊丸にはばれないようにと願いながら、は混雑する店内へと菊丸とともに入った。

「なに飲む?」
「うーん……ホットのモカかな」

 頭上にあるメニューを見つつも結局は冒険をすることもなくいつも通りのメニューを呟けば、突然両腕に知らない重みがのしかかってきた。

「!」
「あそこの席空いたから、先に行ってて」

 それが菊丸の青学の指定鞄だと気づいた時には、見上げた先には視線での後ろを指し示す表情。その視線に促されて振り返れば、窓際のテーブルがタイミングよく空いたところだった。お金、と口にするよりも早く笑顔を向けられてはに返す言葉もなく、ただうなずいて菊丸の鞄とともにその席へと向かった。
 午後5時前の店内は、少し空席が目立つ程度の混みあい具合だった。しかし左右のテーブルとの近さがかつてこれほどまで気になったことがあっただろうか。妙な気まずさを抱きながら壁側の席に腰掛け、はそっと顔を上げてカウンターを見つめる。
 あの夜、初めて菊丸を見つけた時と同じ横顔がそこにある。
 忍足を知っているからすれば、その身長はさして高くない。不二と並んでいればその差の分だけ大きくも見えるが、高校生の標準を出る域ではないだろう。そして細身だった。着やせをするとは本人が言っていた言葉だが、しかし背丈とバランスのよく取れた身体だとぼんやりと思う。
 岳人から都内のテニス選手の話を聞いていなければ、そんなことを考えることもなかったのだろう。そんなことを思った時、トレイ片手に菊丸が自分のもとへと歩み寄ってくるのに気づいては慌てて前髪を整え、居住まいを正した。

「授業何時からだっけ?」
「あ、7時過ぎ」
「分かった、じゃあそれまで。あ、お金はいいよ。俺が勝手に頼んだんだし」

 財布を取り出した瞬間に制止の言葉を受ける。はでも、と言いかけたが、それすらも右手に遮られた。

「菊丸くん、アイスなんだね」

 申し訳なさ半分な気持ちのまま目の前でストローを動かす英二を見て、は思わず呟く。自分の手のひらの中には紙コップを通してモカの高温が伝わってくる。しかしガシャガシャと音を立てて揺れる氷を見ているとその温かさもどこかに飛んでしまいそうだった。

「俺、熱いのってあんまり得意じゃないんだよね。猫舌みたい」
「え? でもこの前塾でコーヒー飲んでたよね? コーヒーが苦手なだけじゃなかったの?」
「だから、不二は性格が悪いっていうんだよ」
「……なるほど」

 菊丸の言葉に妙に納得してしまうのは、自分が語る不二よりも彼が語る不二の方がリアルな気がするからだろう。そしてそのリアルさに皮肉が込められていたとしても、けしてそれは嫌悪感からくるものではないことが読み取れてしまうふたりの言葉の交わし方に、改めてこのふたりが親友という関係で結ばれていることを知る。
 菊丸の手足は、身体つきのわりには長めなのかもしれない。モカを口に運びながらはようやくそのことに気づく。
 左手はテーブルの小ささを訴えるかのように肘だけをのせて頬杖をつき、視線を下に落とせば円卓テーブルの下から学生服のズボンがのぞく。両膝をくっつけるようにして腰掛け、テーブルの上にのせられた紙コップを両手で包み持つと比べると菊丸の身体はとても大きく見えた。

「それで、話って?」

 改めて今自分の目の前にいるのが菊丸英二という人であることを知りながら、そっと尋ねる。上からカップを掴むようにして持ちながらアイスラテを飲んでいた菊丸はその言葉に目を上げ、ああ、と相槌のような言葉を打ってようやくストローから口を離した。

「あのさ、俺。テストが最悪だったんだよね、期末テスト」
「それは……残念だったね」
「いや、別に俺は自分が理系科目は苦手だって分かってるから大して落ち込んでもいないんだけど。勉強もしてなかったし。でも、さすがにこの年になると部活だからって言っても親が許してくれるはずもなくてさ。少しだけ勉強に身を入れようと思って」
「……うん?」
「冬期講習とかでも受けてみるべきなのかな、と思った」

 その一言ともに菊丸が鞄の中から取り出したのは、見慣れた一冊の冊子だった。それが自分の通う塾の冬期講習案内であることに気づき、は思わず菊丸を見つめる。

「菊丸くん、テニス   
「だから、冬期だけ。テニスを後回しにするつもりは全然ないよ」

 菊丸はの言わんとすることに先に気づき、あっさりとその考えを否定した。自分の考えを断言したその声は、初めて聞かされた時となんら変わっていない。は内心少しほっとしながらも、けれどこれからの会話の展開に困惑   いや、妙な緊張を覚える。
 そんなの心中をどこまで見透かしているのだろうか、わずかに苦笑しながら菊丸は会話を続けた。

「でも時間も無駄にしたくないしお金も同じ問題だろ? それで、さんに聞こうと思って」
「授業のことを?」
「うん、そう。さんならちゃんと教えてくれると思ったから」

 不二が、と。言いかけてやめてしまったのは、卑怯だと言われるか。誰に責められるかも分からないままは言葉を飲む。自分を真っ直ぐに見つめる瞳に、首を振ることも否定の言葉を出すことも出来なかった。
 それは、菊丸の気持ちを慮ってか。いや違う。は紙コップに自分を支えてもらいながら思う。
 間違いなく、それは自分の意思だった。

「菊丸くん、文系だったよね? 大学は?」

 断りの言葉を入れてから冬期講習案内を受け取り、パラパラと数日前に自分も見たばかりのページを探す。その行動に移るのにそう時間は必要としなかった。

「大学?」
「国立か私立か」
「いや、まずは青学の附属へ行ければそれでいい。そういうレベルだもん、今の俺」
「附属……青春学園大学かあ、それだったら……」

 そしては、科目ごとに設けられた4段階の設定レベルについて説明した後、私立大学ならどのコースが適切で、また文系科目の中でどの講師の授業が人気があるものなのかを簡単に説明した。事前に自分で調べておいたことがこんな形で役に立つとは思ってもみなかったが。

「科目は何にする?」
「あー、科目。科目ね。ごめん、なにも考えてなかった」
「分かった、じゃあとりあえず数学はいるよね?」
「あ、うん。いるいる。あ、でも不二のやつはいいよ? あいつは嫌味なんだよ、文系しかできないから文系にいるんじゃなくて、文系も理系もどっちもできるからって仕方なく得意科目の消去法で文系を選んだやつだから」
「不二くんの数学は理系向きだよね、私もあれは絶対に無理な気がする……」
「だよな。文系は文系らしく、優しい数学にしとこう」

 そんな話題で笑いあった後、数学と英語の科目の候補を立てた。いつのまにか「参考までに」という都合のいい言葉を用いて自分が受講予定の講座まで伝えていることに、どこか厚かましさを感じながら。それでも菊丸は話を止めることなく、節々で頷きながら丁寧に聞いてくれた。
 その時、いつのまにか自分の耳に自分の声しか届かなくなっていることにふと気づく。は案内冊子に落としていた視線を上げ、正面にいる菊丸を見つめる。その目は柔らかな曲線を描いてを見つめていた。

「……どうかした?」
「いや。さん、優しいよね。いきなり頼んだのにちゃんと説明してくれて」
「……それは」

 いつも通りの表情に、ただ自分にだけ向けられる笑みがあるだけ。それとて今のこの状況ではさしておかしなものではない話。
 しかし菊丸の言葉に、は返す言葉を知らない。ただ自分に求められるものが10であったのなら最低限でも10を目指して返したい、その思いひとつがから言葉を奪う。
 菊丸の言葉に、ひとつの感情以外での解答をさせなくする。
 途端痛いほどに鳴り響く心音に気づきながら、はそっと視線を落とした。今となってはとても熱を注いで見るべきものとは思えない冬期講習の案内冊子が、ただ視界を占領する。その時。

「友達だから?」

 かしゃん、と。アイスラテの中で氷が揺れる。反射的には視線を向ける。
 菊丸の手はストローに触れたままだったが、その伏せ目がそっとを見つめようとする動きに気づいた瞬間、は言葉をなくした。
 言葉を発することのできない息苦しさは、見つめられる息苦しさにとって代わる。手のひらから伝わるモカの熱さはどこか遠いもののように、冷や汗が流れる。
 そして。テーブルの下でぎゅっとスカートを握り締めて、は自分の行動に現実を突きつけられた。

(頷けなかった)

 思えば思うほど、戸惑えば戸惑うほど。時間ばかりがふたりの間に流れていく。そしてその沈黙がひとつの答えを導き出していることに、は痛いほどに気づいている。おそらく菊丸も。
 なぜ隣の女子高生が話す会話が耳に入ってこないのか。店内の動きが目に入ってこないのか。それらの疑問をぶつけるよりも先に、は菊丸になにかを気づかれているこの空間の中で自らもひとつのことに気づく。

(……どうしてそんなことを聞くの?)

 動揺する自分も自分。けれどそれを今更聞く菊丸も菊丸。
 今改めてその言葉を確認しなければならない理由は、どこにあるのか。
 は菊丸を見つめる。沈黙の中、その視線を受けて菊丸は再び静かに言葉を繋ぎ始めた。

「……そういえばさ、この前話してたじゃない。そこそこにもてるかもしれないっていう話」

 そっと目を伏せて、カシャカシャとストローで氷をかき混ぜながらの言葉。全部は見えない彼の表情のうち、ただからでも見える口元には緩やかな笑みが浮かべられていた。
 は何も言えないままその仕草を見つめる。話の路線が変わる理由が分からない以上、それ以外に取る道はなかった。

「昨日さ、マネージャーに告白されて」
「……え?!」

 しかしその一言に、もはや変更の理由など気にしていられる余裕は簡単になくなった。
 思わず口をついて出てしまったその吃驚の声にが口を押さえそうになるよりも早く、菊丸は苦笑して顔を上げる。

「あ、断ったんだけどね。嫌いじゃないけど自分から付き合いたいと思えるほど特別な感情を持っていたわけでもないから。でもそこでさ、泣かれちゃって。どうしようかと思ったら、駄目な理由を教えてくださいって言われて」
「……付き合えない理由っていうこと?」
「そう。これからも同じ部活なのに未練が残ると駄目だからって」

 その時、どれほどの時間が流れていたのだろう。思い出そうとしてもそれは不可能なほど、自分は菊丸の次の言葉を様々な感情で待ちわびていたとは思う。
 店内の騒々しさとは真逆の空間、沈黙の中で。ようやく菊丸が口を開いた時、その顔はを真っ直ぐに見つめて、そして言った。

「自分から付き合いたいと思う子がほかにいる、って答えた」

 淀みや曇りのひとつもない瞳と、戸惑うことを知らない口から出た言葉。はそれらに身動きが取れなくなってしまったことを知る。
 そして、はやる鼓動を隠そうとしてしまったこと。熱くなる頬に気づいてくれるなと願ってしまったこと。心のとごかで、彼がその選択をしてくれて安堵してしまった感情はなんて自分勝手なんだろうと気づいてしまったこと。
 はわずかにうつむく。そして、思う。

(私は、この人のことが好きなんだ)

 その想いを初めて言葉にすることに、もはや反抗することはできなかった。
 目の前には想い人。自分の見つめるだけの視線に対して、怪訝な表情ひとつ浮かべず笑って受け止めてくれる菊丸がいる。
 そして、願いが叶うものならば。彼がそのマネージャーと付き合わないでいてくれたことに安堵した、その我がままのさらに上を行く我がままをもうひとつだけ呟いても許されるのであれば。
 今聞かされた言葉は、自分のこの想いを認めてくれるものであってほしかった。



 その時は、視界中央に菊丸を迎えるだけで精一杯だった。それだけで他にはなにもいらないと思えた、答えの出た心には素直に従いたかった。
 だから、は自分を見つめる視線に気づくことはなかった。気づけなかった。
 自分と菊丸の姿を見つけてしまった、親友の視線には。



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