気まぐれのような雪に振り回されたのは1日だけだった。アスファルトを黒光りさせる水溜りだけを残し、気づけば白い雪などとは無縁のような灰褐色の冬の空がそこにある。 「文化祭? ああ、氷帝も11月にやるんだね。青学もこの前終わったところだよ」 「へー、氷帝の文化祭ねえ。面白そう。なに、どんなことするの? やっぱり豪華?」 いつからか、塾の食堂は食事を取る場所ではなく憩いを求める場所となっていた。 黒の学生服は、見慣れない他校の制服ではなく青春学園の制服だと認識されるようになっていた。 そんな中、は少しだけ予想外の不二と菊丸の言葉にわずかに目を丸くする。鞄の中に2枚の紙切れを用意しておきながら驚くというのも自分に都合のいい話ではあったが、ここまでストレートに話がまとまると思っていなかったのもまた事実。 「じゃあ、来る?」 「え?」 「あのね、一般公開日とは別に入場券を持っていないと入れない日があるの。その入場券は3枚までなら他の人にあげることができるんだ。もしよかったら」 そして差し出した2枚のチケットは、さしたる疑問もなくふたりの手のひらに収まった。 当日案内しようか、その一言を口にすることは緊張したけれどそれでも勇気を振り絞って言葉にする。笑顔で快諾されたあの瞬間、自分の視界の中心に映っていたのは菊丸であったことに、は気づいていた。そして。 気になるのか。雪の降ったあの日、岳人に言われた言葉が甦る。 それがどのような感情であれ、否定できないことに気づかざるをえなかった。 それは一目で分かった。 万一のために交換しておいた電話番号からの1回きりの着信。それが菊丸のものからであることに気づいて顔を上げた時、視界はすぐにあのふたりの姿を捕らえた。 は携帯電話を握り締め、急いで正門へと向かう。前もって約束していた午後1時よりも10分ほど早かったが、靴は既に校内用の上履きではなく革靴に履き替えられていた。 「菊丸くん、不二くん!」 「あ」 「おっす」 ふたりに声をかけると、その視線がの姿を見つけて軽く手を上げた。いつも塾で見慣れている学生服ではない私服姿はどこか雰囲気が違う、そんなことに顔を合わせた瞬間に気づきつつも、はいつも通りを装ってふたりに歩み寄る。 ふたりは似たような薄手のハーフコートを着ていた。不二はベージュ、菊丸は黒。しかし不二がコートのボタンをきちんと留め、着やせする身体のラインが分かるようにベルトもつけ、首周りを黒色のマフラーに形良く巻かせていたのに対し、菊丸はマフラーもつけずボタンも適当、ベルトは緩く金具を通したという程度の不二とは対照的なスタイルだった。制服を着ている時となんら変わらないその雰囲気に、自分の見せ方が分かっているふたりだとは改めて思う。 「さすがだね、氷帝は。大学祭みたいだよ」 「本当。やっぱり金持ちの学校は違うんだなー、青学がものすごい貧相に見えてくる」 「英二、うちも一応私立だから。そして貧相って言うと僕たち全員貧相になるから」 「あ、そっか。いやでも、氷帝と比べると全然だよなー。いいところに通ってるよね」 「え? あ、う、うん」 話を振られ、は慌てて頷く。その時になってようやくふたりの姿に目を奪われていることに気づいた。 飛びぬけて背が高いわけでもない。特別身体が大きいわけでもない。けれど、目立つ。なぜだか分からなかったが、の目にはそう映った。 ふたりには今日は1日付き合うことができることを告げ、氷帝の生徒らしく文化祭パンフレットを渡す。フルカラーだよ、紙が分厚いよ。パンフレットを開きながらそんな台詞を真顔で呟く菊丸に、不二とともに苦笑しながらはふたりの希望を尋ねる。 「どこか行きたいところがあれば、案内できるよ」 「どこか? うーん……不二、どこかある?」 「とりあえず、校内探検も兼ねて校舎の中に入ってみたいな。僕も少し興味あるし」 その不二の一言に菊丸が同意したのを受け、は昇降口から校内へと案内する。 なにか物珍しいものでもあるのだろうか、そう思いながらふたりの様子を見つめていたが、もし自分が青学の文化祭に行ったら確かにこんな反応をしてしまうのかもしれない。見るものすべてを青学と比べてはため息をつく菊丸を笑ってははいけないと思いつつ、それでも笑ってしまうのをさらに不二に笑われながら、たちは氷帝の校舎を回った。 そして、出店のフランクフルトを食べて渇いた喉を潤すためにサロンに向かい、そこで紙コップのドリンクを手にして再び校舎内に戻ったその時。ふと不二が呟いた。 「あ、そうだ。僕跡部と会う約束してたんだ。さん、跡部の教室ってどこかな」 「跡部くん? 跡部くんなら、たしかここの2階にあるI組だったと思うけど……」 「そう、ありがとう。長引くと思うからふたりで見て回っていて、また連絡するから」 隙がないとはまさにこのこと。絵に描いたかのように完璧に不二は滑らかに言葉を口にした後、声をかける暇もなく背中を向けて階段へと向かっていった。 廊下の中央、氷帝の生徒や他校生の姿が行きかう中に残されたのは、と菊丸のふたり。あまりの身のこなしの早さにが呆然としているその横で、菊丸は眉根を寄せて頭をかく。赤茶の髪が揺れる様に気づいてがそっと視線を上げれば、その口から小さなため息が零れた。 「……あの野郎」 「え?」 「あ、ごめん。なんでもない、こっちの話」 の疑問の視線に菊丸は苦笑いを浮かべて首を振る。もそれ以上は聞くことができなかった。 ただ、気づくものはある。さすがに気づかざるをえないものもある。 (……どうしよう、ふたりきりになるなんて思ってなかった) は左半身が急速に硬直していくことに気づき、思わず手にしていた紙コップを両手で包み込む。目の前にはいつも通りの学校の景色、そして途中すれ違う中には見慣れた同級生の姿もあったが、自分だけが別世界にいるような感覚だった。 そっと菊丸を見ると、彼も同じ心境なのか気まずそうに頭をかいていた。沈黙を埋めるために視線を窓の向こうへとずらしたり、残り少なくなってきたカフェオレを口にする。時折たわいない会話を交わすことはできても、廊下中央に立ち尽くすのは邪魔だと気づいて窓際に寄ること以外の動作はとることができなかった。 ただ、自分の心臓はとても正直だった。 (どうして緊張するんだろう、今までだってふたりきりになったことはあるのに) 喉元まで揺さぶるように心音が身体中に響く。この至近距離ではもしかしたら菊丸にも聞こえてしまうのではないか、そんな普段であれば絶対に考えることなどないようなありえないことまで気を揉んでしまう。 菊丸と接するようになって、菊丸の名前を口にするようになって。菊丸のことを考えるようになって。そんな最近の楽しく満たされた生活の結果がこれであるというのなら、一体自分はどうすればよいのか。 答えをどう出していいのか分からない疑問に思考回路が占領されかけた、その時。 「……どっか、行く?」 菊丸が小さく呟く。は返事をする代わりにそっと顔を上げれば、菊丸が紙コップを口に運びながら他の教室の様子を見つめていた。 横顔からはなにを考えているのか分からない。今までこんな不安な感情になったことはあっただろうか、そんなことを思いながらはなにが一番適切な答えなのかを考えた。 「!」 その時、後ろから聞き慣れた声が飛んだ。 は視線を後方に移す。それに気づいて隣の菊丸も視線をの後ろへと向けた。 見つめた先にあったのは、クラスメイトふたりの姿だった。しかし声をかけた張本人たちの方が、その目に驚きの色を宿していた。 誰、と菊丸が小声で尋ねる。クラスメイトであることを視線を上げて答えると、自分に視線が集まっていることに気づいていたのだろう、菊丸は納得して軽く頭を下げる。その挨拶に向こうの方が慌てて頭を下げ返した。 「どうしたの? 私、今日は当番じゃないはずだけど……」 「あ、ううん。違うの、目に入ったから思わず」 の言葉にふたりは慌てて両手を振る。しかししばらくの沈黙の後、その手はそっとだけを招いた。 なに、と尋ねる間もなくひとりがこちらに近づいてきたかと思った途端にその手が伸び、の手首を握って菊丸との距離を取る。突然の衝撃にが目を丸くすると、見上げた先には親友の好奇の瞳が輝いていた。 「……ちょっと、! 誰よ、あれ」 「え? 塾の友達だけど」 「なによ、彼氏?」 「え?! ち、違うよ!」 予想だにしなかった言葉に今度はが慌てて両手を振る。しかし口ごもりながらのその言い訳はまるで真実味を帯びているように聞こえなかったらしく、また親友たちの興味はの答えにあったわけでもなかったらしく、その瞳から興味の色はまるで消えてくれそうにない。 「……へえ? ふーん。別に隠さなくてもいいんじゃないのかなあ」 「本当だってば……! 本当に、塾の友達!」 「またまた」 軽く言葉を交わしては、覗き込むようにして何度もの背後に視線を向ける。その視線があまりにも物珍しさを訴えていて、我が親友のことながら菊丸に対する申し訳なさでは振り返る。ごめん、そう呟こうとしたその時、菊丸はただ苦笑して右手を上げてくれた。きちんと分かってくれているその態度に、は一応の安堵のため息をつく。 しかしもちろん、親友たちの攻撃の手は休むことなどまるで知らない。 「でもね、。できちゃったら仕方ないと思うし、嬉しくってここに彼氏を連れてくるのも別に問題はないと思うんだけどね」 「だから、彼氏じゃないって何度言ったら……」 「向日に見られちゃ駄目だよ? 可哀相だから」 そっと耳元で囁かれた言葉。けれどそれは明らかに、菊丸にも聞こえてしまいそうな透明感のある声。 まるでこの前の食堂の時のようだ、そんなことを思いながらは数度目を瞬かせた後、小さくため息をついて肩をすくめた。 「……やだな、またその話? だから、向日くんは友達だって」 「と、聞かされてはきたものの。ねえ?」 「ねえ。あーあ、やっぱり向日が可哀相。身長じゃあ……負けてるね、これは」 「だから。そういうこと言わないの、向日くんにも失礼でしょ?」 反論はしてみても、親友ふたりは顔を見合わせて意味深に笑う。その笑みがなにを伝えようとしているのかを分からないではなかったが、これは何度数えればいいのか分からないほどに繰り返された出来事すぎた。 なぜいまだに岳人と自分の間にはなにかがあると、そう思われることがあるのか。そんな思いをため息に変えて、は慣れた手つきでふたりの背中を押す。ちょっと、とまだ菊丸を見ていたかった視線はに反抗しかけたが、追い返し作戦は見事成功した。 「ごめんね、菊丸くん。待たせちゃって」 ふたりがもう戻ってこないことを確認しながら、菊丸のもとに寄って謝る。 しかしその言葉に対し、返事はなかなか返ってこなかった。は顔を上げ、そっと菊丸の様子をうかがう。 「菊丸くん?」 「……あ、ううん。なんでもない。そっちこそいいの?」 その時、の視線に気づいて慌てて菊丸が言葉を振る。その意味が分からず、は首を傾げた。 「なにが?」 「……」 「……菊丸くん?」 しばらくの沈黙の後、菊丸はふるふると首を横に振った。 それはまるで、初めて出会ったあの時のような。あの寒い夜、冬風に遊ばせていた髪がさらさらと流れる様子にが目を奪われたあの夜のように、の視界に焼きつく。 「……ごめん、今のなし」 その時、小さく。が懐かしくもどこか心が締め付けられる感覚に襲われかけた、その時小さく。 菊丸はそう呟いた後、いつも通りの人懐こい表情を浮かべて顔を上げた。 「俺さ、行きたいところあったんだ! 連れていってくれない?」 「行きたいところ? なに?」 「パンフレットに書いてあったじゃん、今日ってプロを呼んでジャズコンサートなんだろ? せっかくただで見られるんだから見なきゃ損だよ」 「損、って……菊丸くん、面白いね」 「末っ子だからかなー、結構ちゃっかりしてるよ、俺」 「あはは!」 まるで完璧に使い分けられた二面性のような、寸前の沈黙と今の笑顔との間になにがあるのかは分からない。けれどはその言葉ひとつひとつに素直な反応をしてしまう自分を否定できない。 そして、それらの反応の結果がどのようなものであるのかにようやくこの時気づく。 「行こう?」 柔らかい曲線を描いて生まれた笑みに、素直に頷く。自然に零れる笑みもそのままに。 そして、隣に並ぶことを許してくれた自分に合わせた歩幅で歩いてくれる、この親友と似ていると思っていた人に。は確かに、親友に対するものとは異なる感情を抱いていた。 隣に並ぶだけで嬉しく思い、頬が緩む。そんな感情を。 「なんだか、新鮮だよ。女の子とこういうことをするのってさ」 口元に柔らかい笑みを浮かべながら菊丸が呟いたのは、ジャズコンサートが終わって文化祭1日目が終了しようとする、その間際のことだった。 辺りの人気は随分と少なくなっていた。コンサートが終われば会場となる講堂もあとは閑散とするのを待つのみである。その講堂の前、石階段の最上段にと菊丸は腰掛けていた。 菊丸がぽつりと呟いたのは、まさにその時だった。新しく買った今日ふたつめのストレートティーの入った紙コップを両手で包みながら、は笑う。不二と別れた直後のような気まずさはもはや探すことの方が難しかった。 「またまた。菊丸くん、もてるでしょ? 青学でレギュラーはってるならなおさら」 「うん、それは否定しない」 「……否定されないのも困るな、私の立場がないんですけど」 「なんだよ、否定したら『謙遜』とかって言うんだろ?」 「……それもそうですけど」 がそう言って複雑そうに顔をしかめると、菊丸は声を上げて笑った。素直に感情をその表情に乗せてくる菊丸の笑い声は不思議との心を落ち着かせた。 菊丸と出会って、そう長い時間が流れたわけではない。 始まりは些細な出来事で、もしあの夜が声をかけなければこの関係は成り立たなかった。そもそも仲良くなる必然性は皆無に近かったのだ、それを思うとは今こうしてふたりきりで話すことができるのはなんとも不思議な感じがした。 けれど、今の本音は逆だ。 不思議という言葉だけで片付けることは嫌だとはっきりと思う。 さきほど向けてくれた笑みを、独占したいと思う。深読みしたいと思ってしまう。 それがどのような感情からくるものなのか、は気づいていた。けれどあえて気づかないふりをした。気づいたその後、どうなるのか。それすらも分からないほどにまだ不透明さは自分たちの周りを包んでいたし、それになにより。 (知り合ってまだちょっとなのに、そんな感情になるなんてきっとおかしい) たとえ時間に濃度があるとしても、こうして自制の思いが働くことに抵抗はない。しかし我がままなことに、この空気を手放したいとも思えなかった。 だからこそ、今はこのままでいい。なにかに甘えたような、依存したような、自分に都合のいい解釈を抱きながらも、けれどそれを一切言葉としないことで規制線を引く。言葉を飲み込むように紙コップを口元へと運べば、少し冷めた紅茶がすっと喉に落ちていった。 若干寒さが身にしみる時間帯。名残惜しくはあったが、そろそろ不二と連絡を取らなければならないのではないか、そう思ったその時。 「……でも、俺はさ」 紙コップの中のカフェオレを見つめながら、菊丸がもう一度呟いた。 「付き合っても、いつも『いい友達』で終わるんだよね。特別扱いっていうのが苦手だから」 「……そうなんだ?」 「それでいつも怒られる。俺は女心が分からない駄目な男だって」 恋愛話をするとは思いもしなかったは、突然の会話路線の変更に目を丸くする。話をあわせるのがやっとで、その話を止める権利も理由も見当たらない。ただ静かに話を聞くという道は彼にとって正攻法だったらしく、言葉を思案する様子に焦りは見えなかった。 内心、恋愛話に動揺している人間がここにいるなどということは。その動揺が限りなく知られないように、そんなことに緊張している人間が横にいるとは思いもせずに。 「まあ、俺としてはきちんと友達と彼女の差はつけてたつもりなんだけど、一般的にはそうじゃないみたい。難しいよな、こういうの。俺いまだによく分かんねえもん」 けれどその時、は菊丸のその言葉にふと岳人を思い出した。 自分とだけではなく、全般的に男女関係なく良好な関係を築くことができる岳人。その中では確かに自分が異性としては一番話す存在であり、自身もそれを理解してはいたが、それはあくまで友情関係という中での話だ。岳人が友人として接する態度、それの延長線として築かれた関係だ。だからそこに特別な意味はない。 けれど、もし岳人に彼女ができたとしたならば。 (……それは私とは違う関係の人で、向日くんが私と話すこととは意味が違う) たとえば視線の向け方。話し方。それらだけではなく、恋人関係にしか許されないものは全てではなくその相手にだけ向けられる。それらが自分に向けられることがあるとは、は到底思えない。なぜなら自分たちは親友関係だからだ。 (でも、女子と親友関係でいられる向日くんが彼女に選んだ人なら。それは本当に、向日くんが本当に好きな人だ。友達じゃ満足できないぐらいに好きになってしまった人だ) 見たことも聞いたこともない架空の存在なれど、想像することはたやすい。 薄い涙色を東へと追いやり、西から夕暮れの準備をしていく冬の空を見上げながらそう思う。自分でもまったく違和感のないその考えを心の中で言葉にした後、は菊丸に視線を戻して呟いた。 「でも、女子と仲良くできる人が好きになる人って、すごく強い意味があるように思えるよ」 「え?」 「皆と仲がいい菊丸くんだからこそ、付き合うっていうこと自体にもう意味があって」 「……」 「それがきちんと、特別な意味をもっているんだって……私は、そう思う」 呟いて、菊丸を見上げ。その大きな黒目の中に自分の姿を見つめてそっと最後に問う。 「……違った?」 だから、自分と岳人の関係は友達としての意味を出るものではないのだと。岳人が彼女を作ったその時、その子はが今の岳人との関係で享受することができている幸せのさらに上をいく幸福を感じられるのに違いないのだと。おそらく岳人もそのような態度で接するに違いないのだと。そう思う自分の心に、は自信があった。 冬の風が吹く。太陽の色が白色から夕陽の茜色へと変色し始めた頃、斜め右からのその光を受けて菊丸はただじっと前を見つめていた。すっと通った顔のラインが柔らかな暖色に染められる。 なにかを吹っ切るかのように首を振ったのは、それからしばらくのこと。無表情に近いその横顔に、ふと苦笑のような笑みが零れる。そして。 「そうやって言ってもらえたの、初めてだよ。どうして分かるの?」 その笑みとともに呟かれた言葉に、は息を飲んだ。 不二よりも感情の吐露の仕方が素直だと思ったのはそう昔の話ではない。出会った初期から既に感じていたこととはいえ、菊丸との間に流れた時間は極めて少ない。それこそ、岳人との間に流れた時間を思えば。 けれど今、は自分の考えが的を射ていなかったことに気づく。 流れた時間は関係ない。関係なく、感情は勝手に動くことに気づく。 「ごめんね、突然変な話して。でもありがとう、なんだかすっきりした」 「……ううん、全然」 菊丸の顔には既にいつもの色が戻っている。人懐こい色だ。しかしそのあまりの変わりようにの方が視線を伏せた。なぜ冬なのに頬が熱くなるのか、その感覚に心の底から戸惑いながら。 「……気づいてくれる人が見つかるといいよね」 「そうだね。そうしたら、俺ももっと分かるかもしれない。……付き合い方とか」 菊丸が視線を上に向ける。さらりと頬の横を流れる髪が夕陽を受けてオレンジ色に輝いて見えた。 素直に綺麗な色だと、いつのまにかまた顔を上げてしまっていたがそう思った心は見透かされていたのか。 「彼女を特別に、大切にしたい気持ちとかね。その伝え方がちゃんと分かるかもしれない」 合わないと思っていたはずの視線が合い、今度こそは言葉をなくす以外の方法を取ることができなかった。 その一言を口にした顔には、いつも通りの菊丸の笑みがある。 は返す言葉を知らない。けれどその沈黙を優しく埋めるかのように、菊丸の横顔を彩る柔らかい茜色の夕陽の明かりが寒さを忘れさせてくれた。 |
≫08.理性と感情 |