| 03.不変たる定義 |
「あ、うわ!」 声を上げた時には既に、ボールは観戦席の高さすらも越えていた。 黄色く丸い物体が、我ながら惚れ惚れするほどに綺麗な放物線を描いて場外へと飛び出していく。ネットを挟んだ向こう側で、そのボールの行方を静かに追っていた忍足が呆れ顔でため息をついた。 「アホ、なにしとんねん」 「うるせー、俺はやる気に満ち溢れてるんだよ」 「やる気があるんやったらきちっとコートに返さんかい、なんのスポーツやねん」 本格的な冬を迎える前の昼間は、さすがにまだ秋の温もりを残している。 久しぶりにジャージを脱いだウェアだけの姿でコートに立つと、まるで試合の時のように腕が喜んで仕方がなかった。加減がきかない腕はそのまま胸を打つ熱の勢いに負けてラケットを強く振りぬき、そして。 「岳人くん、取っていらっしゃい」 「うっわ、気持ち悪い。なんだお前、そのキャラ」 「アホか。誰かさんのせいで暇すぎるんや、もっと楽しませてくれな困るわ」 「……」 ボールは見事、観戦席の向こうに姿を消してしまったのだった。 悠然と手を振る忍足に文句も言えないまま、岳人はラケット片手にコートを去る。ベンチ前を通り過ぎる時、跡部に「なんとかしろ、その体質」とあからさまな嫌味を言われたが、跡部の方こそその体質をなんとかしろとはさすがに言えなかった。 中等部の頃となんら変わらない4面のハードコートをもつ練習場から一歩外に出れば、そこには既に熱気など存在しない。ただ静かに冬を受け入れる準備をしている風ばかりが頬を撫でていく。熱した身体には心地よくもあった。 岳人はラケットを小脇に抱えたまま、観戦席の裏側へと回る。遠く跡部の指示をする声が響き、再び彼が部長となり自分たちをまとめる時期が来たのだということを改めて知る。 高2の冬。それは3年生が事実上の引退を迎え、岳人ら2年生がテニス部の主役となることができるはじまりの季節。 (まあ、メンツは中等部の頃と全然変わってないんだから、新鮮味なんてあったもんじゃねえけどよ) それでも、跡部が指示する雰囲気に安堵感を覚えることまでは否定できない。高揚の気分を見つけられることも否定できない。 自分はいつまでたっても、あのメンバーとテニスをすることができるということに他ならぬ幸福を感じてしまうのだろう。そう思うには十分だった。 「お、あった」 しばらく観戦席裏を進んだところで、岳人は地面の上で風に揺れるボールを見つける。少しだけくすんだ黄色のそのボールを片手で拾い上げ、一度軽く投げてからもう一度手のひらに収めた。慣れ親しんだ感触に自然と頬が緩む。 「向日くん」 その時、背後から声が飛んだ。 聞き覚えのある声。いやむしろ、それは耳が安堵という感情とイコールであると認めている声だ。岳人は振り返り、視界の中にその姿を探す。目的の人物を探すまでそう時間は必要としなかった。 氷帝学園高等部の冬服に黒の指定鞄、そして遠く背後に広がっているグラウンドに対して映える黒い髪。それは見慣れた、けれどいつになっても飽きの感情を抱かせない色。 それがの色だといつのまにインプットされていたのかは、既に分からない過去となってはいたが。岳人は幾度か瞬きをしたあと、目の前の光景に対して呟いた。 「なにしてんだ、お前。こんなところで」 「帰るところだったんだけどね、コートから声が聞こえてきたから。ちょっと寄ってみたの」 ちゃんと部活をやってるかどうかを見てた、と柔らかさを含むからかい口調で笑うに、岳人は呆れてため息をつく。 「バーカ。俺はお前ほど暇人じゃないんだよ」 「なによ、暇人って」 「塾なんか行く暇があったらテニスをするってことだよ」 岳人は右手にもっていたテニスボールをふわりと宙に投げる。左手に握り締めていたラケットを地面と平行に構え、1回、2回と同じリズムで落ちてくるボールをすくい上げれば、視界の中でが笑うのが見えた。 「なんだよ」 重力に従うボールを、今度はそのまま手でつかみとる。手のひらに戻ってきた独特の感覚に捕らわれるよりも前に、岳人はを見て怪訝な表情を浮かべると、は今度は小さく首を横に振った。 「うまいなあと思って」 「は? バカにしてんのか?」 「バカになんて。だって向日くん、知ってるでしょ? 私のテニスの腕」 「ああ、あれは酷いと思った。心底酷いと思った。コートの中にぐらい返せよ、ボール」 「そう断言する向日くんの方が酷い気がするんだけどなあ」 それでも落ち込む様子もなく、は苦笑して。 「でも、素人だからこそ私の感動は嘘はついていないと思うんだけど」 「……」 「駄目?」 瞳と口に綺麗な弧を描いて、そう答えた。岳人は、受け止めて黙った。 上手いという言葉、それは聞きなれたものだ。氷帝のレギュラーを張っている以上、その言葉に免疫がないといえばそれは嘘になる。だがその言葉に満足できるほど自分でも納得できるなにかをつかみとれていないからこそ、今もユニフォームを着て氷帝の一員としてテニスをしている。それも間違いではない。だから、その努力を認めてくれるような言葉は言われて嬉しくないものではない。 だが、に対してはこと返せる言葉を持っていなかったのもまた事実だ。岳人は口を閉ざしたまま考える。 (今更気恥ずかしいんだよな、こいつにそういうことを言われるのって) もしこれが彼女なら、と思わないこともない。言葉を返さない岳人に首を傾げるを見つめたまま、岳人はボールを左手に預けて頭をかく。ストレートが自慢の髪が幾分か乱れることも気に留めずに。 忍足や跡部、そしていつのまにか宍戸。同級生の仲間は大概が彼女と言われる存在と関わり、岳人の目から見ても彼女たちが仲間のテニスを一番理解してくれているのがよく分かる。 それらを少しばかり羨ましいと思い、ではそれは自分の場合では誰になるのかと自問した時、たしかに岳人の頭の中にはまずが思い浮かぶのだけれども。 (でも、違うよな。単に仲がいいっていうだけだし) 否定の言葉を用意することは簡単だった。岳人自身もすぐに納得ができるほど、それはあっさりと生まれ落ちる。やはりはそのような対象ではないのだ。 ただ、気心の知れている相手であることには違いない。その相手に嬉しくも恥ずかしい、そんな感情を隠すことには少しばかり限界がある。 「しょうがねえなあ。今日だけはおだてに乗ってやるよ」 岳人は笑ってを見つめる。その笑みにはわずかに目を丸くしたものの、すぐに眉尻を下げた。 「のってやる、って。なにそれ、すごくえらそう」 「えらいんだよ、俺は。テニスに関してはな。だってお前がそう言ったじゃねえか、だろ?」 「うん、まあね。そうだね」 そこでは言葉を切り、高くそびえるテニスコートの観戦席を見上げる。小さな顎に黒髪が触れ、肌の白さが一瞬際立つ。 「私が他の友達に、一番自慢できるぐらい。……かな?」 岳人がその横顔を見つめた時、なびく髪を押さえながらはそう答えたのだった。 見慣れた景色。見慣れた姿。見慣れたはずの、その表情。 柔らかさから生まれる温もりを隠すことも惜しむこともなく自分に向けるに、岳人はその時初めて言葉をなくした。目を奪われるという行動によって。 (こいつでも、こういうふうに笑うことがあるんだな) やがて驚きは新鮮味に取って代わる。岳人は無意識のうちに右手に持っていたボールを握り締めていた。馴染んだ感覚が身体中を駆け抜け、その時ようやく自分がまだ言葉を返していないことに気がつく。 「バーカ。お世辞を言ってもなにもおごってやんねえよ」 「あ、そういうことを言う。ふうん。安心してください、向日くんの財布をあてになんてしたことありませんから」 「あ。あー、お前。今のは駄目だな、そんなことを言うやつだとは思わなかった。失望」 「あ、そう。そんなことで怒る向日くんだとも思わなかった」 「……」 「……自分で振っておいて、そんな嫌そうな顔をしないでよ」 は口元を押さえて苦笑した。その一瞬で、岳人との周りを流れていた空気はいつものものに戻る。いつも教室で過ごしている、あのたわいない空間と同じものになる。 少しだけ名残惜しさを感じながらも、しかしその空気の居心地の良さは自分が一番よく知っている。苦笑するにつられて、結局岳人もまるで教室で話している時と同じように肩の力を抜いて笑った。 「あ、そういえば」 「ん?」 「菊丸英二くんっていう人、知ってる?」 しかしその時、会話は想像だにしない方向へと転がった。 唐突に振られたその言葉に目を丸くするも、岳人の頭の中には一瞬である記憶が甦る。 あれは中学最後の夏、関東大会1回戦。うだる暑さや鼓膜を破る勢いで響き渡っていた声援、そして頭痛を促すかのような荒い呼吸と、揺れる視界の中、ネットの向こうで自分を真っ直ぐに見据えていた赤茶色の髪の男。 それはまるでつい今しがたかのような、そんな鮮やかな色彩と感覚とを伴って岳人の頭の中に戻ってきた。幾分かの悔しさとともに。 「……ああ」 岳人は小さく声を漏らす。肯定でも否定でもないような響きの音だけを。そして思い出す。 関東大会1回戦、対青春学園。ダブルス2、対菊丸英二・桃城武のあの試合を。 すべての意味で敗北を喫したあの試合を、覚えていないはずがなかった。屈辱を与えられたとともに更なる成長を義務とすることができたあの試合を、忘れることなどできるはずもなかった。 時間が経ち、敗北の屈辱そのものは向上心と引き換えにすることはできていたが、しかしそうすればそうするほど彼に対する印象がライバルたるものにならざるをえなくなる。そのような意味では、今でもテニス中心の生活を送っている岳人にとっては親しい名前だった。 けれど、それがテニス部員以外から聞かされるとなると話は別だ。岳人は一瞬で与えられた驚きを言葉にこそ出さなかったが、一度だけゆっくりと頷いた。 「知ってるには知ってるな、試合をしたこともあるし。それに俺と似たプレイスタイルだし、向こうも覚えてるんじゃねえ?」 「あ、そうなんだ」 「まあな。というか、覚えてないとおかしい。それは俺が気に入らねえ」 思えばは中等部時代の自分を知らない。素直に納得して頷くを前に、岳人は当たり障りのない程度に過去の話を語った。 あの日、自分と忍足は久しぶりの公式戦に高揚していたこと。相手は急造ペアで、少しではあっても油断をしてしまったこと。自分の計算違いで忍足に迷惑をかけ、試合を壊したこと。そして、負けたこと。 今となっては淡々と語ることのできる2年前の記憶を、は真剣に聞いていた。そして聞き終わった後、どこか合点がいったかのように何度か頷いてみせる。 「そっか。たしかに、向日くんに似てたかも」 「俺に? なんだよそれ。あれ、ちょっと待て。お前もしかして」 「うん、会った。菊丸くんに」 岳人はその言葉に息を飲む。予想すらしたことのなかった人間関係の成立に、純粋に驚き以外の感情は出てこなかった。 そんな岳人をよそに、はなにかを思い出しながらもう一度頷く。 「そっかあ、向日くんが自分のプレイスタイルを壊したくなかったのもなんだか納得がいっちゃうな。似てるよ、ふたり」 ひとりで納得するの意図が分からず、岳人はしかめ面をする。それに気づいたは、一言謝りの言葉を述べてからなにかをかみしめるかのようにゆっくりと話し出した。 「なんとなくだけどね、テニスが好きでたまらないって顔をする時の雰囲気がね。ちょっと似てるなあって思ったの」 「テニス? なんの話したんだ、お前ら。どこで会ったんだよ」 「塾だよ。偶然青学の不二くんっていう人と知り合いになって、それで。最近よく話すから」 「不二にも?」 うん、とはあっさり頷いた。 自分の知らないところでが自分の世界を形成する人間に会う。狭くとも多くの人間がひしめきあっているこの東京都内で、それはなんという偶然だろう。偶然という言葉以外になにも用意できない頭をかくしか、岳人は術がなかったけれど。 「まあ、変なやつらじゃないし……仲良くなっても大丈夫だとは思うけど」 正直なところ、岳人にはがあのふたりと話す姿もその内容も想像だにできない。しかしどこか嬉しげ、楽しげに話すの手前そんな素直な感情を口にだすことは憚られる。そのような気持ちで岳人がそう言うと、はただ笑った。 「じゃあ、そろそろ帰るね」 「なんだ、今日も塾かよ」 「うん、そう。今日は数学。向日くんも行く? 結構氷帝の子も見かけるよ」 「絶対嫌だ。あのなあ、俺は今テニスなの。テニスのことだけ考えてテニスのことだけできればそれでいいんだよ、それぐらい知ってるだろお前」 呆れて言い返したその時、は笑って頷いた。 その瞬間、頷くだけという言葉要らずの態度にこの関係の安定感を悟る。それは親友という関係の中において少し気恥ずかしいような、けれどやはり嬉しさが先行するような、そんな関係。岳人はその笑みに返す言葉を持ち合わせておらず、ただ見つめるしかなかったのだけれど。 「……ま、適当に頑張れよ」 「うん。向日くんもね」 菊丸に会ったらよろしく言っておいてくれ、とあまり本心にもないことを返して手を振れば、「嫌そうに言わないでよ」とすべて見透かされた答えとともに苦笑を返された。そして正門に向かって小さくなっていく背中を静かに見送った。 けれどその時、岳人はふとひとつの事実に気づいてわずかに目を丸くする。 さきほどは菊丸英二の名前に自分の頭が振り回されて気が回らなかったが、そこには小さいながらもひとつの異変があったのだということに。 (そういえば、初めてじゃないか? あいつが男の話をするなんて) それほどまでに菊丸との出会いが衝撃的だったのか、それとも自分に伝えたいと思ってくれたのか。背中が消え、ただ野球部と陸上部の練習の声ばかりが響くグラウンドの中では、もはやの本心は分からなかったが。 (テニスに反応するようになったこと自体、俺と話し始めてからだからな。……ああ、あれか。子どもと一緒だ、褒めてもらいたくて100点のテストを親にもっていく子どもと) そのように納得するまで、そう時間は必要としなかった。 岳人は一度小さく息を吐き、くるりと踵を返す。そろそろコートに戻らなければ跡部の冷たい視線にさらされる、慣れていないわけではないが喜んで迎えたい状況でもない。早くボールをコートの中で打とう、そう思い一歩を踏み出した時。 「遅いと思ったら、密会かい。部活中やで岳人」 岳人の思考回路に突然頭上からの声が割り込んだ。 冬の時期ゆえ既に西へと傾きかけている太陽に手をかざしながら顔を上げると、コートの観戦席から忍足がこちらを見下ろしているのが見えた。 「侑士」 「がここを出て行きよったから、まさかと思って来てみれば。お熱いことで」 「密会って。お前じゃあるまいし、一緒にすんじゃねえよ」 「アホ言うな、俺は密会するならもっと上手くやるっちゅうねん」 「自慢されても悔しくもなんともねえよ」 相変わらずの飄々とした態度の忍足に岳人はため息をついてから、ラケットと一緒に持っていたボールを軽く空に向かって打つ。たいしたコントロールも必要としないままにボールは冬の宙を横切り、弧を描いて忍足の右手に収まった。 「にしても、菊丸と不二とはなあ。うちにとって因縁のあるやつらに会うとは、も不思議な縁を持っとるやっちゃな」 ボールを手にした忍足は、その感触を確かめながら淡々と呟く。しかしそれは岳人とがたった今、ふたりきりで交わした会話である。どこから聞いていた、と尋ねるまでもなく明らかとなった忍足の盗み聞きに、それこそため息どころか怒声を突きつけてやりたくなりながら岳人はもう一度。今度こそコートの中へと戻るべく、足の向きを変えた。 「岳人、ええんか?」 しかし一歩目は、その言葉に遮られた。 その静かな問いかけの意味が分からず、岳人はラケットを小脇に抱えた姿勢のまま振り返って仰ぎ見る。 「ええんかって……なにが」 「と菊丸が仲良うなっても」 「は? なんで?」 視線の先には忍足が手摺りに両腕を預け、黙って正門の方を見つめる横顔だけがある。しかしその目はしばらくの沈黙をおいて、こちらを向いた。そして。 「気づかんかったんか? あいつの顔、いつもお前の前でする顔と一緒やったで」 風にかき消されそうな、けれど岳人にはしっかりと届けられる大きさの言葉を口にした。 岳人は見上げたまま、その言葉を反芻する。しっかりと、ゆっくりと。 ただしそれはその意味が重かったからではない。むしろ分からなかったからだ。けれどしっかりと受け止めろと身体の中の誰かが言っている、コートから自分たちを呼ぶ跡部の怒声が響き渡っても、耳こそ反応すれど足が動かないほどに。 岳人は静かに自分の答えを待つ忍足の顔と、そしてが消えた正門とを見つめる。 (……俺の前にいたんだから、いつもと同じ顔して当たり前じゃねえか) そして見つめた先にあった答えは、それだった。岳人は肩をすくめる。 「別にいいんじゃねえ? おかしなことしようっていうわけじゃねえし」 「……」 「ま、あいつが男の話をするのには驚いたけどな。今までそんな素振りなんて、まるで見せなかったくせに」 何かを言いたそうな忍足の顔には気づいていた。しかし岳人は跡部の声を理由に会話を終わらせ、忍足に背を向けてコートへと戻る。 (でも、他の男の話をする時にも同じ顔なんて。……まああいつだしな、それも当然か) コートに入る直前、岳人はフェンスに囲われていない空を見上げる。 そこにはまるで岳人の考えを認めているかのように、小さい頃からなんら変わらない東京の薄水色の空が延々と広がっていた。 |
| >>04.真っ直ぐな瞳 05/08/31 |