02.風が運ぶもの

 90分の区切りを伝えるチャイムが鳴り響く。その音を聞くと同時に、は思わずシャープペンシルを机の上に転がしていた。
 自分で望んで通いだした進学塾。しかし学校の授業の倍に近い時間を常に集中して過ごせるかと問われれば、残念ながら話は別のようだった。

「それじゃあ、今日はここまで。次回は第14回の問題を解説します、予習してくるように」

 教壇で講師がそう呼びかけても、教室内は授業が終わった解放感に満たされていて真面目に聞いている生徒は少ない。授業中に集中している分の反動なのだろう、かくいうも第14回の内容を確認するよりも前に机の上を片付けることを選んでしまったのだが。
 氷帝学園、山吹高校、聖ルドルフ学院。その他都内でも名の知れた高校の制服を見つけることができる教室内を見渡しながら、はふと今日の別れ際の岳人を思い出した。

「は? 塾? なんだそれ、面倒くせえ。物好きだなーお前」

 部活に行く前に会った下駄箱でそう呟いた彼の顔にあったのは、心底不思議そうな表情だった。彼の生活の基本は、やはりテニスなのだろう。部活頑張ってと苦笑まじりに答えると、とても素直に笑ってみせた。

(向日くんらしいなあ。でも、確かに向日くんは塾よりテニスが似合ってる)

 ペンケースとテキスト、辞書を鞄の中にしまいながらもう少しだけ思い出す。朝倉に渡された古文のプリントを、岳人は本当に嫌そうに見つめていた。感情をそのまま顔に出す、そして受験よりもテニスを第一とすることにためらいがない岳人のその時の表情は、羨ましくも思えた。
 陽が落ちるのが随分と早くなった、初冬の夕方。
 5階に位置している今の教室からは、厚い窓の向こうに駅ビルのライトが煌々と輝いているのが見える。午後7時を回っている証だった。今日はあとひとつ授業を受ければ終了である、それが終わったら帰ることができるのだからと自分を叱咤しては席を立った。
 人気講師の英語の授業は受講生が多く、ドア付近はいまだ混雑していた。教室内にもまだかなりの人間が残っている。その中には塾に通うようになってから覚えた制服が沢山あり、岳人が大会のたびに口にしていた学校のものもある。もしかしたらテニス部の人間もいるのかもしれない、そんなことを思いながらも次の教室に移動するべくドア付近へと近づく。
 その時、集団の中に明るめの栗色の髪が見えた。遠目でも分かるほどのその髪のなめらかさに女子かと思えば、しかしその身に着けているのは黒の学生服。よくよく見れば、それは2学期になってから頻繁に見かけるようになった他校の生徒だった。

(ああ……あの人か。他の学校の子たちが騒いでた人)

 黒の学生服などというものはあまりにありふれていて、幼稚舎時代から氷帝学園にしか属したことのないからすればどの学校かすらも分からない。ただ自分と同じ授業が多いため文系の男子なのだろう、その程度の推測を抱きながら彼の後を追うようにしても教室を出ようとした、その時。

「不二」
「あれ、跡部」
「!」
「うわっ」

 突然彼が教室を出たところで足を止めた。腕時計で時間を確認しようとしたその瞬間の出来事に、は抗う暇もなくその背中にぶつかってしまったのだった。
 今日は人にぶつかってばかりだ。今この情景を岳人が見ていたら、腹を抱えて笑う姿が容易に想像できる。
 だが、その想像に文句を言いそうになるよりも、先に。

「ごめんね、大丈夫だった?」

 はぶつかった鼻を手で隠しながら、ただ自分に向けられるふたつの双眸を受け止めるしかなかった。
 ひとつは、あの学生服の男子の目。髪の毛の色のように色素の薄い瞳が覗き込むようにしての顔を見つめてくる。そしてもうひとつは、氷帝学園に通う者ならばその名を知らないはずがないあの跡部景吾のなにかを探るような目。制服から同じ学校の生徒とは分かっても、それが誰であるかまでは分からないのだろう。いまだ言葉を交わしたことのない跡部の視線に変に納得しながら、はもう一度目の前の男子を見る。
 どこか岳人の高さを思い起こさせるその視線の高さを持つ相手は、の目を見てそっと笑んだ。

「ごめんね、突然止まって。大丈夫だった?」

 そしてもう一度、ゆっくりと同じ言葉をかけてくる。その時になっては自分がまだ答えを返していなかったことにようやく気づき、慌てて首を横に振った。

「だ、大丈夫です」
「そう、よかった」

 の言葉に、相手は慌てることなく安堵の表情を浮かべてみせた。女子顔負けの柔らかい線で笑むことができるその男子には恥ずかしげもなく顔が赤くなるのを悟り、慌ててその場を離れた。
 まだ名前が思い出せないのだろう、跡部がしかめ面をしてこちらを見ているのが分かったが、はそのまま鞄片手に下り階段へと向かう。

「ごめん、跡部。それで、何だっけ……ああ、もしかして今度の練習試合の話?」
「あ? ああ、それだ。手塚に伝えてもらいたいことがあって」

 その時背中から聞こえてきた小さな会話。それだけで今は見えなくなった彼がテニス部員であることを知る。
 岳人も知り合いなんだろうか、そんなことを思いながらは小さな動揺とともに次の教室へと急いだ。





「あれ」

 だが、目指した教室前でその彼の姿を見つけてしまってはかける言葉も見つからない。一度地下の食堂まで下りて紙コップの紅茶を買ってきたのは失敗だった。
 古典の授業は英語に比べれば割と閑散としている。理系文系を問わず必須科目とされる英語と比べてしまっては当然の話かもしれないが、そうだとしてもはいまだかつてこの古典の授業で知り合いに出会ったことは一度たりとてなかったのだ。
 けれど、今目の前にいるのは確かに先ほどぶつかったばかりの少年。その顔に浮かんだ驚きの表情はまるで自分と同じに思えた。中途半端な接触をもつ自分と彼との間に流れる沈黙に対し、はただただ言葉をなくすしかない。

「君も同じだったんだね。さっきはごめんね、本当に」

 そんなの心中を察したのか、相手はさらりと笑顔とともに会話を作り上げた。が沈黙に困ることのない、答えを簡単に用意することができるその会話の振り方に、は驚きながらも咄嗟に首を横に振る。

「い、いえ。すみません、私の方こそ」
「まさか跡部とあそこで会うとは思わなかったから、僕も驚いて」
「跡部くん」
「あれ、同じ学校だよね? 跡部がものすごく必死に名前を思い出そうとしていたから」

 立ち話もなんだし、と教室内へと促される言葉そのままに、は彼の背中を追う。さきほどは他の生徒に邪魔されて見られなかった彼の背中が、顔立ちの割にはしっかりとしていることに気づくまでさほど時間は必要としなかった。
 成り行き上離れた席に座ることもおかしく、広い教室内で琴子は彼とひとつ机を挟んで隣同士に座る。その間も会話は当たり障りのない程度で進められていた。

「でも跡部くんと私、話したことないから。私の名前を思い出せなくてもおかしくないんです」
「あ、そうなんだ。でも君は跡部の名前を知っているんだね」
「うん、私の友達がテニス部   

 その時、はふと口を止める。鞄の中からさきほどしまったばかりのペンケースを取り出しながら、そっと左隣に腰掛けている相手に視線を向けた。
 跡部の言葉を思い出せば、たしか彼はフジと呼ばれて足を止めていた。どのような漢字をあてはめるかは想像できなかったが、しかしその音に聞き覚えがないわけではない。

「テニス部?」

 不自然に止まった琴子の会話に、相手も視線を右側に寄越す。さらりと前髪が揺れる様は男子にしておくにはもったいないほど綺麗だ。そんなことを思いながらは小さく頷く。

「……テニス部で、跡部くんと仲がいいから」
「へえ、そうなんだ」
「もしかして、青春学園の人?」

 の記憶の中に、岳人が話していた選手の名前が次々に浮かんでは消える。苛立ちや歓喜、それは岳人の様々な感情によって彩られた響きを持っている。
 けして試合全てを見てきたわけではない、そして中等部時代の岳人を知っているわけでもない。それでもこの2年間、テニスを軸として生活してきた彼と話すことによって自然と覚えるようになっていった都内のテニス部員たちの名前の中に、それは確かにあった。
 フジという、高校生離れした技術をもつ青春学園の生徒の名前が。

「フジくん、って。さっき、跡部くんが」
「ああ」

 するとの問いかけに、うん、そうだよと。目の前の相手   不二はあっさりと頷いてみせた。その微笑に他意はないものの、同学年のはずながらどこか近寄りがたい雰囲気をもつ人だとは思う。
 そんなの心中を知ってか知らずか、不二は丁寧に不二周助という氏名をテキストの片隅に書いて自己紹介をしてくれた。も慌てて自分の名前を告げ、儀式じみた挨拶を口にする。

さんか。そういえば授業、よくかぶってるよね。よろしくね」
「あ、うん。こちらこそ」

 その時チャイムが鳴り、絶妙のタイミングで古典の講師が入ってきた。は慌てて鞄の中から古典のテキストを取り出し、今日のページを開く。視界左隅では、不二も同じように(それでものような慌てた素振りはまったく見せなかったけれど)テキストのページをめくっていた。
 先週まではまったくの他人だったはずなのに。そんなことを思うものの、今日の授業は先週の延長という形で始まる。
 授業中、突然自分の領域にその存在を植えつけてきた不二にちらりと視線を向ければ、そこには今まで目にした時とまるで変わらない綺麗な横顔がある。ただし今は、その視線に気づいて軽く笑ってくれる関係が出来上がっていた。





さん、ひとつお願いしてもいいかな」

 延長を経て授業が終わったあと、そんな不二の言葉で会話はもう一度始まった。
 はテキストを閉じたその瞬間の言葉に顔を上げる。既に不二は大した音も立てずに机の上を片付け、席を立っていた。

「僕、先々週の授業を部活の都合で休んじゃったんだ。もしよければノートを写させてほしいんだけど、いいかな」
「あ、うん。それは全然」

 いつのまにか不二の声に慣れてしまっている自分に驚きながら、はしまいかけたノートを差し出す。不二はそれを受け取ると丁寧に礼を口にして「ロビーで待ってて」と言い残し、鞄を持って教室を出て行った。どうやら地下1階にある食堂内のコピー機のもとに行ったらしい。コピーであればそう時間はかからないだろう、そう思いも教室を後にした。
 1階エントランスは既に人気も少なく、すっかり夜の色に染まった外は見るからに寒さを増しているようだ。マフラーを持ってこればよかった、そんなことを思いながらはガラス越しに外を見つめる。せわしく行きかう車のライトと、見上げた先にある駅ビルの明かりが眩しく見えるほどに、エントランスの電気は既に若干落とされていた。
 その時、はガラスの向こうに学生服の男子を見つけた。
 誰かを待っているのだろう、口から白い息を零しながら夜の空を見つめている。校内に入ってこないところを見ると部外者のようだったが、しかしその背中はが今視界に収めている校舎のガラスに預けられており、待ち合わせの相手がこの塾と関係を持つ人間であることを想像させる。

(黒の学生服……青春学園かな)

 不二と出会ったばかりのの頭には、安易ながらもそんな考えが浮かぶ。けれどそれほどまでに、岳人や跡部ら氷帝学園のブレザーを見慣れて過ごしてきたには学生服はとても新鮮だった。
 そんなことを思っている間にも、彼の紺のマフラーは風に揺れ、そして吐く息の白さは増していく。から見えるのは目元から下の横顔だけで、表情はなにひとつ分からない。けれど目元を隠すかのように左右に流れた髪は風に遊ばれ、そして綺麗なラインをもつ顎がわずかに動いて口元から吐息が零れる。静かにその様子を見つめていた時、はまるでそれらに促されるかのように外へ出た。
 機械音とともに自動ドアが開く。もう一度。2枚のドアを隔てていた外界は予想以上に冷え込んでおり、は思わず肩をすぼめてしまった。
 けれどゆっくりと視線を右へとずらせば、そこには校内からは窺うことのできなかった横顔がある。自分を見つめる、丸い瞳がある。はその視線に一度息を飲んでから、そっと口を開いた。

「……あの、誰か待ってるんですか?」

 クラクションを鳴らしながら車が走り去っていく。そんな中で白い息と共に呟いた言葉に相手は一瞬驚き、少し目を丸くした。しかしそれが自分に向けられた言葉だということに気づき、一度だけ頷く。

「ここに通ってる人?」
「うん、そう」

 声はさほど高くなかった。女子顔負けの大きくてはっきりとした目を持つ彼から想像できるものよりはむしろ低い方かもしれない。真っ直ぐに正面からその姿を視界に映せば、遠くから見るよりも背が高めだということも分かる。
 彼は両手を制服のポケットに突っ込んで、黒のショルダーの鞄を肩からかけていた。その姿自体はさして珍しいものではない、しかしはこの暗闇の中でも分かるその濁り気のない瞳に一瞬言葉をなくし、視線を何度かずらしながらもそっと問いかけた。

「寒くないですか? 中で待っててもいいと思いますよ」
「え、でも俺部外者だし」
「もう授業終わりましたから。あとは全員帰るだけなんで、待つだけなら問題ないと思うし」

 なぜその言葉がでてきたのかは分からない。けれどその言葉に、相手はしばしを見つめて考える。大きめの黒目が一瞬伏せられ、ちらりとガラスの向こうの校内に向いた。
 沈黙の中、左右に流された前髪とマフラーがさらさらと風になびく。その様子をが静かに見つめていると、その瞬間視線がに戻った。

「じゃ、いいかな。結構寒いんだよね、ここ」

 そう呟いた彼の、落ち着いているように見えた顔に屈託のない笑みが宿る。
 感情を隠すことなく素直に頬を緩めて軽く頭を下げる相手に、は思わず苦笑してから彼を校内に招いた。

「ごめんねー、わざわざ。俺そんなに寒そうにしてた?」
「うん、ちょっと」
「あれ、おかしいな。俺結構体力には自信あるんだけど」

 隣に並ぶと存外彼の大きさがよく分かった。真っ黒の学生服がそうさせるのか、身体つきも細身のようでその実バランスのとれたたくましさを持っているように見える。

(スポーツをしていても、向日くんはもっと細身だよね)

 校内を物珍しげに見渡す彼の一歩後ろに控えながら、はふと岳人を思い出す。自分の身近に存在する異性といえば、肉親以外ではまずはなによりも岳人だった。自然と岳人と比べながらその背中を見つめていると、その瞬間あの瞳がこちらを向いた。

「……あのさあ。その制服、氷帝だよね?」
「え? う、うん」

 突然の質問には慌てて頷く。
 誰もいなくなったエントランス。見つけることができるのは最後の確認に回っている警備員だけというその空間の中で、真っ直ぐに見つめられては言葉をなくす。その瞬間。

「氷帝かあ」
「え?」
「あ、いや、うん。ごめん、なんでもないよ」
「ごめん、さん。お待たせ」

 薄暗闇のエントランスに響いたのは、濁りのない不二の声だった。
 あ、とは視線を目の前の相手の奥に向ける。地下1階へと繋がっている下り階段から不二が戻ってきたのが視界に映る。ここだと手を上げようとしたその時、しかし会話は予想外の方向に転がった。

「あっ! おせーよ不二、俺凍死するかと思ったよ!」
「うわ、英二? どうしてここに」
「『うわ』じゃねえよ、俺メールしただろ? 夜空いてないかって」

 の左斜め前に立っていたその少年が、不二に向かっていきなり声をかけたのだ。
 カウンターの事務員すらいなくなり、既に教室に残っている生徒も少ない今となってはエントランスにその声はとても響く。小さな声でもしっかりと鼓膜に響いてくるその言葉にが驚いて不二に視線を向けると、不二は「ああ」とひとりで納得していた。

「でも僕、今日は塾があるって言ったはずだけど」

 にテキストを返しながら不二が答えると、相手は至極納得がいかないというように眉根を寄せて首を振った。

「8時には終わるって言ってただろ、いつも」
「8時?」
「そう。だから俺、お前と一緒に夜間コート行こうと思って待ってたんだよ」

 はふたりのやり取りを見つめながら、そっとカウンター内の時計に目を向ける。時刻は既に9時を回っている。平日の最終授業が午後7時10分から始まるのだから、それは当然の時刻だった。
 だがその時刻に納得しているのは、ついさきほどまで授業を受けていたと不二だけである。そんなふたりを残して彼はひとりで怒る。しかし深くその先を聞かずとも、不二の困ったような表情さえ見ればにもある程度の事情は読み取れた。

(不二くんの友達、なんだよね。じゃあ私は帰った方がいいかな)

 テキストを返され、がエントランスに留まり続ける理由は既にない。愚痴とそれを優しく受け止める親友同士の会話をどこか岳人と忍足に重ねながら、は不二にそっと合図を送る。それに気づいた不二は、慌てて目の前の親友をこちらに向けさせた。

「ごめんね、待たせた挙句迷惑かけちゃって。こっちは……」
「あ、菊丸英二です。さっきはありがとう」

 不二とは系統の違う瞳の色、視線の形。はなぜかまたそれらに言葉を奪われながら、軽く頭を下げて自分も自己紹介をした。
 今日、自分の名前を名乗った2度目の今。しかし目の前にある笑みに言葉をなくす理由は、まだ分からないままだった。



>>03.不変たる定義


05/08/30