01.2年目の冬

「うわっ!」
「きゃっ!」

 それは後ろを振り返って手を振った、まさにその瞬間だった。
 身体に伝わるのは鈍い衝撃。鼓膜に響くのはバサバサッとなにかが派手にばらける音。そして瞬間視界中央に映ったのは、忍足が右手を伸ばして中途半端に口を開く姿。

「あー……」

 張りも内容も微妙な声だった。我が親友ながらなんて役立たずなんだ、と激しく文句を言いたくなる。しかしその思いは、咄嗟の出来事に対する身体の反射神経の前では後手に回されてしかるべきものだった。
 岳人はなにかにぶつかりよろめいたその瞬間、階段の手摺りに手をかける。そうすることで身の安全を辛うじて保つも、しかしその衝撃は自分ひとりのものではなかったはずだ。
 そこは階段の最下段。右足はいまだ1段目にかかっていて、視界上方の3階へと繋がる踊り場では忍足がどうしたものかという顔で見守っている、その中で。岳人は我に返って慌てて振り返った。

「悪い、大丈夫か?!」
「あ、うん。私の方こそ……あれ」
「……あれ。

 視界やや下方、見事なまでに廊下に散らばったノートの中にその瞳はあった。自分を見上げる丸い瞳がますます丸くなり、廊下に座り込んでしまっている事実すら忘れてしまったかのように唖然とした表情を浮かべている。

「なにしとんねん岳人、はよ助けんかい」

 しかし唖然とした表情を浮かべていたのはどうやら相手だけではなかったらしい。自分の傍まで下りてきた忍足の言葉を受けて、岳人は慌てて手を差し出す。相手も差し伸べられた手を見てようやく事の成り行きを理解し、少し恥ずかしそうにしながら岳人の手を取った。
 細い指が手のひらに乗る。岳人はその様を静かに見つめた。
 異性であることは知っていても、その手の小ささを知っていたわけではない。その指の細さを知っていたわけではない。小さくて細い、そんな単純な形容詞で十分説明できる手を取って身体を引き起こす。たとえ立ち上がったとしても岳人より低い場所にあるその双眸は、戸惑うことなく岳人を見上げた。

「悪い、大丈夫だったか? まさかお前がいるなんて思わなかったから」
「ううん、私の方こそ。ごめんね」

 そして、その親友   は、申し訳なさそうに苦笑してから頬の横を流れる髪に触れた。
 の両足がきちんと廊下の上に立っているのを確認してから、岳人は手を離す。は「ありがとう」と礼を述べた後、スカートについた埃を両手で払った。

「なにしてたんだ、お前? こんなところで」
「え? お使いの途中」
「お使いって。もうすぐ5時間目始まるだろ、どこにだよ」

 指先でスカートのプリーツを直すをよそ目に、岳人はしゃがみこんで廊下に散らばったノートを見つめる。ぶつかった衝撃とともに聞こえた音の正体はこれだったのか、と見つめれば、それは古典の文法ノートだった。今日の3時間目の古典の授業終了後に提出していたクラスメイト分のノートが、遠慮することもなく見事に廊下に散らばってしまっていた。

「なにこれ? なんでお前が持ってんの?」

 取り扱い方も適当にまとめて拾い上げ、立ち上がるのと同時にの手元に戻す。はありがとう、とまた同じ言葉を口にした後、小さく息を吐いた。

「職員室の朝倉先生のところに持っていくところだったの。……あ!」

 素直に答えを口にしたその時、は数度瞬いてそっと岳人を見上げる。
 今までの経験上、岳人はその視線がなにを意味するのかを悟って思わず目を据えた。

「……なんだよ、その目は」
「ううん、意味はないよ? ただ向日くんは私より身長が高くて力持ちでなにより男の子だから、顔を見ようと思うとどうしてもこうなっちゃうんだよね」
「お前、それ後半関係ないし……。分かったよ、半分貸せって」
「ありがとう」

 差し出した岳人の手のひらを見て、は満面の笑みを浮かべてからノートの半分以上をその手のひらの上に載せた。それが等分の量でないことは誰の目にも明らかだ。突然渡されたノートの山に岳人は眉根を寄せてを見つめたが、返ってきたのは文句の言えない「女子の微笑み」。
 しかし本音はどうやら顔に出てしまっていたらしく、は苦笑した。

「向日くんのノートもあるんだから。無駄じゃない労働だよ?」
「ああ、そういえば俺のクラスでも集めとったな。なんや、日直なんか」
「うん、そう。向日岳人くんという人と一緒にね」
「……あ。そういえば」
「なんや岳人、お前が日直かい」

 他人に対する新設で満ち足りた忍足の冷たい視線が突き刺さる。中等部で出会った頃からまったく変わらないその上から見下ろされる視線に、岳人は黙ったままの手から残りのノートを奪った。
 はやんわりと笑む。そして臆することなく、ましてや動揺の欠片も見せることなく「ありがとう」と言い、その横で忍足が「さすが岳人やな」と得意のなにかを言い含んだような言い方で苦笑した。
 まるで自分だけが騙されたような気分だったが、と忍足を前にして口で勝てたことはないということを、他の誰でもない岳人自身が一番よく知っている。笑みを浮かべると忍足、そして自分の手元にあるクラスの古典のノートを順に見つめたあと、岳人はため息をひとつついて職員室へと向かうことにした。

をこけさせたんは俺にも責任があるからな」

 そんなわけの分かるような分からないような言葉を口にした忍足と、そしてとともに。



 視界の中を移ろっていく景色も、通り過ぎていく制服も目新しさをなくした高2の冬。
 中学の頃とデザインはまったく変わらない、あえて挙げることができるとすればズボンとネクタイの色が臙脂色から濃紺色に変わったという程度の制服姿で、岳人は廊下を歩いていく。途中すれ違った宍戸に軽く挨拶を交わす時に視界片隅に映ったに、2年の時の流れを実感しながら。
 は、岳人が高等部に入学してから初めて知った同級生だった。
 氷帝学園は幼稚舎から大学部までの一貫教育を是としていて、大多数の生徒がその方針に則って学園生活を送っている。
 しかし、その中で生まれる弊害も少なからずある。幼稚舎時代の親友が軸となり、それにクラブ活動の輪が付加されるだけで自分の周囲の人間関係が形成されてしまうことだ。また1学年に500人前後の生徒を有する以上、全同級生を認知するのも無理に等しい。現に岳人の最も親しい仲間といえば、テニス部のメンバー(それもレギュラー陣に限る)とこれまでにクラスメイトになって気の合った男子、それが基本だった。
 そんな生活の中、岳人はとは高等部に上がるまで一度も同じクラスになったことはなく、また面識を持つ機会も理由もなかった。お互いに知らなくても学生生活は十分可能、それがこの学校だった。
 しかし何の偶然か去年、今年と同じクラスになり、異性ながらも意気がよく合った。それはもはや「クラスメイト」という広義の意味を持つ言葉ではなく、その範囲を好きなレベルにまで狭めることのできる「親友」という言葉を用いてもおそらく互いに違和感のないものだ。
 今となっては岳人にとって最も気軽に話すことができる異性、それがだった。

「にしても、最近やけに先生たちはりきってんな。この前テスト終わったばっかりだっていうのに」

 職員室へと続く階段を下りながら岳人はつまらなそうに呟いた。一歩後ろを歩いていたはその呟きに苦笑する。

「私たち、もう2年生だしね。仕方ないよ」
「うわ、出たよ受験話。『もう』じゃねえよ、『まだ』2年なんだって」
「アホ。高校に上がった時から受験勉強のスタートやって校長が言うとったやないか」
「……いちいちうるせえなあ、侑士は。なんだよ、お前はどこの母親だよ」
「うるさいことあるかい、俺はいたって真面目に正論を口にしたまでやで。いつまでもお前のノートのお守りはできひんからなあ。ま、岳人も勉強せえっちゅうこっちゃな」

 家でも聞かされる言葉を学校でも聞かされてはたまったものではない。岳人は露骨に不機嫌な顔をして忍足を振り返る。いや、学校だからこそ聞かされるべき話だとしても、当分の間はその話とは無縁でいるつもりだった岳人にとってそれは不快以外のなにものでもないのだ。
 来年の夏に向けて。岳人の心を占めるのはその思いひとつである。高校最後の夏となる来年の夏に向けて、気が済むまでテニスに集中したい。そんな今の状況では、と忍足の言葉はできうるものならばむしろ耳を塞いでしまいたかった。
 しかし、その思いは独りよがりではないはずだ。その思いのもとで岳人は失笑する。

「侑士。お前、いつからそんなに勉強好きになったんだよ。嘘ばっかりつきやがって」
「嘘? ひどい言われ様やな。、お前岳人の教育足りへんのとちゃうか?」
「あー、ごめんね。ちゃんと言っておくね」
「なんだよお前まで。揃って子ども扱いするんじゃねえよ!」

 相棒たるもの、思いは同じなはず。自分の本音に気づいてくれているはず。
 だがそれは夢でしかないようだった。浮かべるその苦笑がまるでせせら笑いのようにしか見えない相棒に、岳人は古典のノートを抱え持ったまま利き足で蹴りを入れる。逃げることのできる時間がありながら、しかしわざと忍足は逃げる様子を見せないままその蹴りを受け止め、「いて」とわざとらしく呟いた。

「見たか、。反抗期やで、岳人のやつ」
「見た見た。ごめんね、本当に」
「なんでお前はいつもこいつに意見を求めるんだよ! ああ、もううるせえ。跡部の嫌味を聞く方がよっぽどマシだぜ」

 しかし、岳人はいつもそれ以上の文句は言えない。反抗もできない。なぜなら彼の言葉は正論であると、忍足の言葉は信ずるに足ると岳人自身が思っているからだ。
 パートナーを信じるということは私生活において頭が上がらなくなることと同義なのか、5年目にして改めてそんなことを思いながら階段を下り、3人は職員室へと足を運ぶ。人の出入りの激しい職員室のドア付近を視界に収めた時、が小走りで岳人の先を行きそのドアを開けた。

「朝倉の机ってどこだったっけ……?」
「あそこ。あの、奥の」
「ああ」

 が他の教師に見られないようにこっそりと窓際の席を指差す。岳人はその周辺に見覚えのある現代文の教師の姿を見つけ、頷いてから忍足を廊下に残してその場所へと向かった。魔法の力でも持っているかのように授業中に必ず眠気を引き起こさせる古典教師朝倉は、岳人との姿を見つけて今日もいつも通りの温和な笑みを浮かべて手を振った。
 その時、その手招きに促されて彼の元へと近づく途中でが後ろから「ありがとうね」と小声で囁いた。身長差がありながらその声を耳元で拾うことができたのは、おそらくが背伸びをするようにしてつま先を伸ばして囁いたからだろう。その姿が簡単に浮かんで、岳人はノートを朝倉に渡したあとで左手を軽く挙げた。

「ご苦労様、助かりました」
「あ、はい」
「これで向日くんがもっと古典を好きになってくれたら、私は言うことなしなんですがね」
「先生、きついって。この前の中間テストの話はもうやめてくださいよ」
「はは、そうですか」

 お茶を口にしながらしみじみと呟く朝倉の言葉は、それはそれで説教と同じである。岳人が慣れない敬語で話の路線変更を試みれば、朝倉は笑ってそれを受け入れた。
 化学、英語といった答えが唯一で明快な教科を得意とする岳人にとって、抽象的で(少なくとも岳人にはそう見える)曖昧さを許す国語分野はお世辞にも得意とは言えない科目だった。ふと視界の片隅に映った机の上の古典のノートも、提出はしたとはいえ本当のところは昨日の夜に答えを丸写ししただけという状態だ。もしかして気づかれているのか、とさりげなく朝倉に視線をずらしたが、その横顔からはなにもうかがい知ることはできなかった。
 これがや忍足の言う受験生のなんとやらか、と岳人は内心ため息をつきながら軽く頭を下げ、その場を去ろうとした。
 しかしその時、朝倉が小さな声を上げた。あ、というそのわずかな声に岳人とは振り返る。視線の先には、朝倉が山のように積み上げられたプリントの束の中からなにかを引っ張り出していた。

さん、私あなたに渡すものがあったんですよ」
「え?」
「たしか、この辺に……あ、あった。ほら、あなたが以前もってきてくれた問題の」
「あ! もしかして、分かったんですか?」
「はい」

 朝倉のその言葉に、は一瞬で表情を変えて岳人よりも前に出る。の後ろ姿と、そのの前に座ってプリントを差し出す朝倉を岳人は小首を傾げて見つめる。話の展開はまったく分からなかった。
 換気のために開け放たれていた窓から晩秋の風が届き、の髪の毛を揺らす。受け取ったプリントに視線を落としているの後ろからその中身を覗き見れば、そこにあったのは思わず眉根が寄ってしまうような古語ばかりの並んだ古典問題。岳人は口をついて出そうになった辟易の言葉を必死に飲み込み、そっとの様子をうかがった。

「やはり国立大学でしたよ。文学部の前期日程のものですね」
「うわあ、やっぱり。論述問題の文字数が半端じゃないから、もしかしたらと思ってたんですけど」
「さすがに少し難しめですよね。論述の解答の仕方がポイントになってくるでしょう。たとえば、この問題とか」

 朝倉は淡々とプリントの該当箇所を指差しながら説明した。けれどその朝倉とは反対に、は背後からの岳人の雰囲気に気づくこともなく熱心に言葉に耳を傾けては何度も頷く。横顔だけを見てもその真剣さは伝わってきた。
 ただ、の真剣さは理解できても岳人に事の重要性が理解できたわけではない。

(俺はテニスのことばっかりなのになあ、こいつは受験で頭がいっぱいか)

 とりあえずは受験の話題だ、岳人に分かるのはその程度だった。いつのまにやら自分とは生きる世界で軸を成すものが全然異なるものとなってしまったらしい。
 数十分前に味わった満腹感が、ここにきて眠気を促す。途中、偶然職員室にやってきていた鳳と目が合って軽く手を上げることぐらいしかすることのなかった岳人は、自分とは無縁と割り切る勉強の話に頭をかき、そして欠伸をしかけた。

「おや、退屈そうですね。向日くんも解いてみますか?」

 しかしその時、運悪く左手を口にあてた瞬間に朝倉のあの笑顔がこちらを向いてしまった。思わず息を飲んだのもつかの間、まるで教師の見本であるかのように生徒を思う心に上限を設定しない朝倉は、笑顔のままで岳人にプリントを渡す。
 それはもちろん、岳人からすれば日本語とは到底思えない古語の並んだ古典の問題。
 が右横で岳人を見上げる。その視線に気づきながら、しかし岳人は素直なままにしかめ面を浮かべた。

「先生、嫌がらせだって、これ。俺が古典苦手なこと知ってるじゃないですか」
「苦手だからでしょ?」
「苦手だからですよ?」
「……」

 だがしかめ面で愚痴を呟く岳人を待っていたのは、古典が大好きなふたりからの容赦ない一刀両断。
 あまりに見事すぎるユニゾンに、岳人はを軽く睨む。しかし自分よりも背が低くていつも見上げることしかできないはずのその親友は、まるで怯むことなくため息をつき、挙句の果てには朝倉が差し出していたプリントを恭しく受け取って深く頭を下げた。

「すみません、先生。今度のテスト、平均点以上が取れるよう頑張ってもらいますから」
「なんだよそれ。というかお前、なんで俺の古典の点数知ってんだよ」
「宿題もきちんと自分の力でやらせますから」
「おまっ……! バカヤロ、なに言ってんだよ!」
「分かりました、楽しみに待っていますね」

 岳人の抵抗むなしく、会話はの受諾の言葉と挨拶で幕を迎える。思い出したくもない点数を口にされたことと、ここにきてもの言いなりになる展開に岳人は不機嫌を消すことができない。しかしそれら全てが真実である以上、岳人にこれ以上の抵抗ができないこともまた事実だ。
 反抗が収まったのをいいことに、は笑顔で朝倉に別れを告げてから岳人の背中を押して職員室のドアへと向かう。半ば強制連行の形の中で、岳人はの手から離れて振り返り、歩を進めながらも真正面から喧嘩の口火を切った。

「なあ。お前、俺のこと絶対大事に扱ってないだろ」
「違うよ、向日くんのことを思うからこそでしょ? 親切だよ、親切」
「なにが親切だよ! つーか朝倉の前で言う必要ないだろ、答え写してることまで!」
「朝倉先生だから言えるんじゃないの」

 小声で反論をするも、相手はまったく怯むことなどない。その余裕がますます岳人に幼い口喧嘩を推し進めた。
 職員室を出るまでの短いコースを、延々と小声で言い合いながら辿る。そして最後、「お前、今度のテスト見てろよ!」と、まるで芸のない言葉で啖呵を切ろうとしたその瞬間。
 が振り返って満面の笑みを浮かべる。岳人は、その一瞬で自分の敗北に気づいた。

(こいつ……!)

 言わされたのだ。そう思った時にはドアは開き、廊下の壁にもたれて待っていた忍足が唖然とした表情とともにこちらを見つめていた。

「……お前ら、ようやるわ。職員室でまで痴話ゲンカせんでもええやろ」
「こいつが俺のこと売るから悪いんだよ!」
「売るだなんて、人聞きの悪い。宿題をまともにやらない向日くんも同罪」
「そら言えとる。よし、に一票」
「侑士の判断なんか聞いちゃいねえよ!」
「でも、宿題はちゃんとやった方が絶対にいいよ。私、古典ならきっと少しは役に立つと思うから分からないところがあったら聞いて。ね?」

 ふてくされる岳人に、は困った子どもをあやすかのような表情で言葉を向ける。
 人間の感覚とはおかしなもので、一度警戒ラインを緩めてしまったものには中々に太刀打ちできない。それは自分だけにしか通用しない理論かもしれなかったが、しかし今この現実の中、岳人はその言葉を覆すものを知らない。
 気づけば、との関係はいつもこのようなものだ。女子に対しての独特の気兼ねはいらない、その代わりに自分もに遠慮を求めない。本音同士が交わされることにまるで抵抗がない、それが現状だと気づいているこの関係の中、岳人がのこの皮肉の色ひとつもない笑みに感じるものはただひとつ。
 どうぞ、と。まるでこちらの手の内を見通しているかのように言葉を待っているに、しかめ面をしたまま頭をかいて派手なため息をひとつ。
 一度伏せた視線をに向け、岳人は真顔でこう呟いた。

「分かった、じゃあ今日から俺の宿題やって」
「残念、それは却下。じゃあね、先に教室に行ってる」

 しかし結局はの上手ばかりが目立って終わるのがいつものことだった。今日もその現実を知らしめる言葉を告げ、プリントをもっていない左手を小さく振って、は先に教室へと戻っていった。
 岳人はその後ろ姿を見送ったあと、小さく息を吐いて後ろを振り返る。忍足がいたから先に教室に戻ると言ったのだろう、の言葉にその意味を探し出して忍足を追い返すべく見上げれば、しかしそこにはさきほどの笑みはなかった。
 小さな違和感を覚え、岳人は少し首を傾げながら訝しげに忍足を見つめる。

「なにしてんだよ、侑士。お前も早く教室に戻れよ」
「あ? ああ。……なあ、岳人」
「ん?」
「俺、前から思っとったんやけど。いっこ質問してもええ?」

 しかし忍足の口から零されたのは、岳人の問いに対する答えではなかった。
 瞳を少しも揺るがすことなく、口元以外の筋肉をまるで動かさないで淡々と。唐突に忍足が向けてきたその言葉に岳人は一瞬目を見張るが、しかし考える隙もないままに忍足が次の言葉を紡ぎだす。

「なんでお前ら付き合わへんの? 仲ええのに」

 そして向けられた視線と言葉、それらに唖然とするのはとても簡単なことだった。
 予鈴のチャイムが鳴り響き、周りにいた生徒たちが慌てて教室へと戻っていく。
 忍足の見下ろす視線に威圧感はない、あるとすればそれは素直な疑問の色ばかり。岳人はその視線を受け、そしてが消えた廊下の先を見つめ。素直に首を傾げた。

「付き合う、ねえ……」

 忍足の言葉を小さく呟く。吟味する時間を自分に与えるために頭をかきながら。
 しかしその言葉の意味は知ってはいても、岳人が呟いてみてもどこか重みがない。それは現実味がないという言葉で置き換えられる、とても自分とは無縁のような響き。
 岳人はしばし沈黙してその言葉を何度も心の中で繰り返したものの、結局出てきた答えはひとつだけだった。

「そういう感覚、俺にはないからなあ。多分あいつもさ。だから付き合わないんじゃねえ?」

 呟く言葉に偽りはない。たとえ忍足の顔が複雑な色の表情を浮かべていたとしても、岳人にとってはそれこそが真実。言い換えればそれほどまでに、との関係は他人に左右されるほど簡単に揺らぐものではなかった。

「それに、そういう目で見たことないし。俺とあいつは友達ってやつだろ?」

 それはと出逢って2年目の冬。去年となんら変わらない冬の風が肌に冷たい、そんな季節だった。



>>02.風が運ぶもの


05/08/29