18.夏空に誓う

 晴れた空のあることが、一体どれほど恵まれたことであるのかを知る。
 少しだけ埃の舞う、屋上へと続く人気のない階段を上る。重い鉄の扉を開けることでようやく手に入れた真っ直ぐ突き刺さるような初夏の日差しに目を細めれば、階段を上りきった褒美かのように風が頬を撫でた。
 岳人はしばらくの間天と、そして高いフェンスの向こうに広がる雲たちを見つめていたが、やがて昇降口の壁にもたれて腰を下ろす。
 頭の中は、随分と晴れやかだった。夏空を写し取ったかのように。





 それは、長い目で見れば小さくも、この1ヶ月、いや1年という世界の中ではとても大きな意味をもつ沈黙の期間だった。
 息苦しく、もどかしい。平穏だ、安寧だ、これが幸福だという上辺を装った言葉を並べ連ねる代償として失った高揚を、けれどどこかで求めるような衝動を、抑えようとしていた1ヶ月。
 手を伸ばせば手中に、いや腕の中に胸の中にすら収めることができそうにも思えた、あの笑み。息苦しさともどかしさだけが残る距離。それらに平静であるべきと願ったのは嘘ではない。けれど、それを欲したのも嘘ではない。
 どうすればいい、と。背中に問いかけても、答えは返ってこない。

「そろそろ決心ついたか」

 けれど、親友だけはいつになっても「瞬間」というものを見逃すことがなかった。
 振り返った先にあった笑みと、その言葉。
 球技大会を抜け出してコンビニで手に入れたばかりのペットボトルから水滴が滴り、運動靴の上に落ちた時、忍足はわざとらしく大きなため息をついてみせた。

「我慢のしすぎは身体によくないで、岳人」
「……我慢じゃねえ、我慢じゃなくて」
「ここは素直に頷いとき。素直になるタイミングぐらい作ったれや、自分のために」

 忍足の視線は岳人に向けられてはいなかった。こちらを見ているようで見ていない、その視線の先を追うように岳人は再び視線を元に戻す。再び視界に戻ってきたグラウンドには、球技大会を楽しむ学園の生徒たちの中にと桃子の後ろ姿があった。
 一瞬、喉が言葉を紡ごうとした衝動を、岳人はペットボトルを握り締めて気づかないふりをする。
 けれど、呼べば振り返る距離。走れば待ってくれる距離。いや、その関係。
 胸の中にはその確信がある。その確信を、つい数分前のが与えてくれていた。

「好きなら好きって、言わな始まらんで。特にお前らの場合は」

 岳人の反応を見届けて、聞き分けのない子どもをあやすような表情で笑う。岳人に返す言葉はなかった。

「……言えるんやったら言うとけ。言わんと後悔されても、誰も救われへんで。俺もお前も、あいつも」

 返す言葉がなくなるその一瞬を知ること。それこそが相手の狙いだと気づいた時には、もはや自分がいったい今まで何に悩んでいたのかすら分からなくなっていた。
 仰いだ天は、去年と同じ。眩しい太陽とともに自分を見守っているようだった。



 詩歩の存在を忘れたことはない。詩歩に言われた言葉も、詩歩に返した言葉も忘れるはずがない。誓約にも似たそれがある以上、自分が今から起こす行動は裏切りでしかないことは分かっている。

『私の前では、さんと付き合わないで』

 今でも響くのその声に返した言葉に、嘘はなかったと思っている。思っていた。けれど思う頭と感じる心はまったくの別物で、制御のできない自分の身体が恨めしく、止められない自分が情けなく、忌々しくすら感じた。

「もう一度私の前に来るとしたら、それはあの人と付き合う時だって。予想してたよ」

 だって岳人、嘘つけないから。そう返した元恋人は、最初は涙を流さず笑った。
 そうなること、最初から分かってたよ。そう呟いた詩歩は、その後必死に涙を堪えていた。
 人を傷つけてまで手に入れようとする自分の幸福に、いや自分の我がままに嫌悪する。けれど詩歩と表裏の存在で、詩歩の延長線上にがいるわけではないと、結びつける必要はないと、むしろそんなことをされたら私の意味がないと、詩歩が「私はさんの代わりに恋人になったんじゃない」と返して「くれた」ことに、岳人は自分にもそう言い聞かせる。
 何度と繰り返してきた言葉を口にするのではなく、頭を下げて岳人は詩歩の前を去った。
 そして向かった先は屋上。春を見送り、初夏の空に支配された場所。

(もし「その時」が来たのなら、それは俺から始めなきゃ駄目だ)

 跡部あたりは鼻で笑いそうな決意であったが、忍足だけは笑って見逃してくれるという確信があった。そして忍足が認めてくれるのであれば、止めようとしないのであれば、それは絶対に間違っていないという未来図であることがさらに自信をくれた。

(始めるきっかけを、作ってもらうような男にはなりたくない)

 やがて、静かに階段を上る足音が響いてくる。
 一歩、一歩それは自分の方に近づいてくる。視線ひとつを動かすこともなく、まるで子守歌かなにかのような感覚でそれを受け入れて数秒。重苦しい音を立てて、屋上の扉が開いた。風が動く。

「……よう」

 自分を見つめるしかないに、岳人は小さく利き手を上げる。来たはいいがこの先の展開をどのようにすればいいのか見当もついていないのだろう、は挨拶の言葉すら上手く発することのできないもどかしさにわずかに顔をしかめた。
 その表情を見て、やはり自分は間違っていなかったと岳人は思う。

「お前、なにも言わなくていいから。まず俺の話を聞け、で、それから返事しろ」

 きっかけは自分で作る。判断だけをに任せる。決めれば後は簡単なことだった。
 内容の分かっている会話というものは味気ないものだと思っていた。だが自分の今の状況はどうだ、と岳人は内心自分の鼓動の速さに笑いそうになる。
 は拒絶することもなく、ただ沈黙を返す。その反応にある種感謝にも似た感情を抱きながら、岳人は柵越しの空を見つめて口を開いた。

「最初、俺。……御影と別れた後。お前がいなくてもちゃんと自分のことは自分でできるように、お前に甘えることがないように、自分でやれることはやろうって思った。お前から離れるために」

 折った膝の上に両腕を預け、喉が開くままの大きさの声で呟く。まるで覚えた歌でも歌うかのように言葉は素直に零れ落ちた。

「離れるっていうか、忘れるっていうか、そういうふうになることが一番いい道だと思ってた」

 が息を飲んだ。けれど岳人はそのまま言葉を紡ぐ。

「だから正直な話、こうやってお前とまた話せるように……普通に話せるようになったのは、もうすごいことだと思った。これだけで幸せだと思った。これ以上望んだら罰でも当たるんじゃないかと思った」

 数日前までは心の核ともなっていた考えを呟く。実際は今もそう思っているが、そして言葉にすればなおさらその事実にひれ伏したくなるのだが、しかし今日はいつもとは違う。
 しばらくの沈黙の後、岳人はそっとに視線を戻す。突然視界に入れられたことにあからさまにその肩が震える。昨日までは普通だった、「普通」に戻すことができた行為の中で、が怯えているようにすら見えた。
 細い肩だ。見つめて思う。見れば腕も足も細く、昔は自分の方が低かったはずの身長も今ではふたり並んでしまっている。自分とは異なる構造のその身体はとてももろく儚きものにすら見え、単純な思考回路はそれを愛しいと思う。
 恵まれている、と。そう思える相手が今、自分の話を聞いていることに、恵まれていると思う。口元がふいに緩む感覚はもう止められなかった。

「でも俺、頭悪いから。それで納得できなかった。この前のお前の言葉っていうか……あの時の顔を見て、ああもう駄目だと思った」

 ゆっくりと呟く。風が背中を後押しする。
 改めてを視界に収めているこの事実に酔う。そして、

「俺、お前と一緒にいたい。友達なんかじゃなくて、お前に彼女になってほしいし俺が彼氏になりたい。そうじゃなきゃ嫌だ、もう」

 好きなのはこの人でしかないと、心の底からそう思った。
 見上げる視線は、どこまで本物だと信じてもらえるだろうか。自分の言葉は一体どこまで信じるに値するものだと、最も信じてもらいたいこの相手に思ってもらえるだろうか。
 型どおりの不安を感じたところで、岳人は失笑の代わりに息を飲む。
 かつての不安を引きずるために、この青空を選んだのではないのだと言い聞かせれば、口はやがて。手はやがて。

「……つーか、つーかさあ!」
「え、ちょ……岳人!」
「好きなんだよ、悪いかよ! ああそうだよ、俺お前が好きだよ悪いかよ! だから」

 細い手首を掴み、ぐいと引けば身体はあっさりと岳人の隣に落ちてくる。逃げないように枷をはめてから思いのたけを叫ぶことに抵抗はない。息を飲み、一瞬手をひこうとするに既に遠慮などない。

「俺がこれだけ折れて、認めて、好きだって言ってんだから、お前だって認めろ! ていうか好きじゃなきゃここに来るはずないし、だったら今認めとけばいいじゃねえか!」
「な……!」
「これ以上ややこしくすんな、1ヶ月無駄にすんな! もう腹くくれよお前も!」

 目を丸め、唖然として返す言葉もない想い人を慮るほどの余裕など当然ない。
 けれど岳人はその手を離さなかった。ふたりきりの屋上で響く自分だけの声、けれど手のひらにはその人だけの温もり。今まで無理をしてでも培ってきた孤独が、今まで願ってやまなかった温もりの前に呆気なく崩壊する。

「……お前が認めるまで、帰さないからな」

 呟いた一言は、まるで自分に言い聞かせているかのようだった。
 ようやく手にすることができたその手をけして離すなと、命じているかのようだった。



 握り締められた手首は、痛みよりも熱を伝えた。熱は、恐怖よりも飲み込まれそうな衝撃ただひとつを伝えてきた。縋るべきか拒絶するべきか、それを悩む余裕などなきに等しいと断言するかのような勢いをもって。

「素直になることと、気持ちを殺すことと、どっちが悪いことだと思う?」

 そらお前、愚問やろ。桃子の問いかけに忍足が笑ったのはそう遠い記憶ではない。あの偶然出会った昼の食堂、委員会の都合で先に席を立った岳人の背中を見つめながら呟いたふたりの言葉は、まだ色褪せてはいない。

「公立じゃない、私立っていう特別な場所で、氷帝っていう人数の多い学校で、男子テニス部っていう氷帝の中でも特別な部活の人と知り合って、特別な感情を持てて好き同士になって、なのにそれを無視しないと手に入らない『平穏』ってどうなの」
「『つまらん』の一言やな」

 冷静に分析する、冷静に現状を否定する、冷静に―――岳人とのこの先を認めてくれるその声に、一度は忘れたはずのあの指を伸ばしたくなる感覚が簡単に甦る。
 素直になる勇気なら、いくらでもあげるのにと。呟いた桃子の言葉は、まるで浄化機能を備えているのかとすら思えた。

『あの時の続きは、まだ言えるんだ。……お前が認めてくれるなら』

 太陽が照りつけるアスファルトの上で聞いた言葉は、夢としたくはない。

『放課後屋上で待ってる』

 唐突に訪れたメールの文言に、飾り気がないからこそ本物の岳人だと手が震えた感覚は、もうお預けにはしたくない。
 そして今。目の前の岳人は、浄化を飛び越えた衝動的ななにかで自分の蓋を取り払ってくれたのではないかとすら思えた。
 鼓膜が揺れる感覚に、頭の芯が痺れる感覚にしばし酔う。目はいまだ唖然と見開くことでしか機能していなかったが、身体の感覚は異様なほど敏感だった。そしてそれらに、自分の本能は異様なほど貪欲だった。
 握り締められる熱。見つめられる熱。

「……が、岳人」

 誰もいない屋上で、たったひとりの人だけに呟くたったひとつの愛しい名前は、たとえ小さくとも風にかき消えそうになっても、その人の手により一層の強さを与えるだけの力はある。

「……答え」
「……うん」
「言えって、早く」
「……う、うん」
「うんじゃなくて」

 なんの問答か、と。後から思い返せばそれは忍足たちが口をあけて呆然としてしまうほどとても滑稽な時間の使い方でしかなかったけれど、自分ひとりだけを見つめ、待ち、温もりを与えてくれるその手の力強さのかけがえのなさを実感するにはそれ以上の方法はなかったように思う。
 ただじっと、手首を握り締めて言葉を待つ岳人に、は限界の言葉の意味を知った。
 初夏の空の下、1年経って初めて枷が外れる。それは瞳からだった。

「岳人」

 ぱたぱたと雫になって零れ落ちていく涙の跡が、アスファルトの上にスカートの上に、岳人の手の甲に落ちていく。もはや呟くことですら胸が熱くなる愛しい人の名前を口にすれば、喉はもうつっかえることを嫌ってしまった。

「離してほしくない」

 涙ながらにようやく呟いたようやくの一言目に、

「やだ、嫌だ。岳人の傍にいたい。彼女になりたい」

 付け加えられる言葉はそれが限界で、綺麗な言葉も情熱的な言葉もなにひとつ出てこなかったけれど、

「……お前、勘違いしてる」

 相手は一言。優しくそう呟く。

「誰が離すもんか。離したくないのは俺の方だ」

 困った表情はそのままに、まるで泣き止まない赤ん坊の扱い方に困り果てた少年かのように、岳人は眉尻を下げたまま呟く。
 だから頼むと。泣き止んでくれないと困ると。小さく吐いたその言葉に、は涙を堪える努力をしながら思わず口元を緩め、笑う。
 それでも涙は止まることはなかった。いつのまにレールが敷かれていたのだろう、涙は素直に重力に従う道を選び、何度も何度も頬の同じ場所を通って落ちていく。

「遅くなってごめん。……待たせてごめん」

 ただ一言、大きくも強くもない声で。けれどが聞き届け、心に響かせるには十分な、ひとりだけの専用の独占の響きを伴った言葉が届く。
 首を振れば握り返してくれる手がある。顔を上げれば申し訳なさそうに眉を下げた想い人の顔がある。
 小さく笑えば、出会ってからいままで見たことないほどの嬉しそうな笑みを見せてくれる恋人が、そこにいた。



>>19.エピローグ


08/02/01